新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

科学技術関連で最近気になった記事など(その2)

飛べる生き物

なんで空飛べる生き物って虫か鳥だけなん? > おんJ > まとめ太郎!

この記事を見て気になったので、ちょっと調べてみました。ムササビやトビウオ、植物の花粉のように、風の力で空を滑空したり浮き上がったりするだけの生物はここでは置いといて、羽などを使ってある程度自由に空を飛べる生き物について考えてみたいと思います。ウィキペディアの記事によると、地球上の生物の中で空を飛ぶことのできる系統は、

しかおらず、このうち翼竜は絶滅しているので、現在は3系統しかないということになります。また、昆虫には様々なタイプが存在しますが、それらは全て、カゲロウやトンボといった原始的な羽を持つ昆虫から分岐していったものと考えられています(その過程で、ダニやノミなど、一部の昆虫は羽を退化させた)。

ということは、約40億年前に地球上で生物が誕生してから、進化の過程で飛行能力を獲得したイベントは4回起こったということになります。これを多いと見るか少ないと見るかは議論が分かれますが、個人的には、これだけ多様な生物がいて4回しかないというのは非常に少ないように思います。それだけ、生物にとって大空を飛ぶ能力を獲得するのは難しいのでしょう。

オリンピックにおける性別の定義

キャスター・セメンヤは、オリンピックに出場する (そして優勝する) 資格がある | Silvia Camporesi
女を否定され、競技人生を絶たれたアスリート 性を決めるのは性器かホルモンか?

なんというか、血中テストステロン濃度を理由にしてセメンヤ選手らの大会出場を認めてこなかったIAAFは、公平さを求めるあまりとんでもない袋小路に陥っているように感じます。

X線天文衛星「ひとみ」

税金310億円で「ひとみ」失敗…虫が良すぎるJAXAの後継機要求 | デイリー新潮

う~ん、JAXAが再チャレンジを申請するのは当然のことだし、これを「虫が良すぎる」とか言って批判するのは、ちょっと「はやぶさ」「あかつき」の成功ばかりを見て感覚が麻痺してる人だと思いますよ。もちろん、昔のソ連みたいに衛星をぽんぽん打ち上げることは出来ないし、きちんと失敗の原因を究明すべきだとも思いますが、何が何でも1回のチャンスで成功させるべきなんて思ってるのだとしたら、それこそ「虫が良すぎる」でしょう。

それと、今回の衛星打ち上げは日本だけの問題じゃなく、完全に国際共同プロジェクトになっているということも念頭に入れるべきでしょう。世界中の研究者が注目しているところなので、やはり、なるべく早い段階で「次」を打ち上げるべきかと。

最近読んだ本

ゲノム編集の現状について非常によくまとめられているのでオススメです。CRISPRに関する歴史だけでなく、他のゲノム編集法や応用例、特許論争などについても詳しく書かれているのが良いですね。ただ、私のように既に論文をいくつか読んでる人なら、何が書かれているのかすぐに分かるのですが、まったくの素人がCRISPRの説明を読んで一回で完璧に理解できるかというと、ちょっと微妙かもしれません。CRISPRとは細菌ゲノム中に等間隔で並んでいる回文配列のことである、この回文配列の間にはウィルス由来の配列が挿入されていて云々、と文字だけで説明されて果たして理解できるのかどうか。適切な図表などを入れて説明してあれば、なお良かったかもしれません。

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)

以前の記事でも書きましたが、この本、すごくオススメです。がんという怪物と人類との壮絶な闘いの歴史。まさに、事実は小説より奇なりです。

抗がん剤治療をしないという選択

抗がん剤治療に入ります。と主治医に言われました。。。胞状奇胎→掻爬手術→その後|ヒプノバーシング(催眠出産)HypnoBirthing・ライアー(竪琴)and beyond!
②抗がん剤治療に入ります。と主治医に言われました。。。胞状奇胎→掻爬手術→その後|ヒプノバーシング(催眠出産)HypnoBirthing・ライアー(竪琴)and beyond!

う~ん、このブログのコメント欄やらブクマやらで何べんも言われてることですが、どのような治療を選択するかどうかは結局のところ患者本人が決めることですし、それについて他人がとやかく言う必要はないと思います。けど、患者が「子宮を摘出したくない」「死にたくない」と考えているのなら、変な民間療法なんかに頼らずに、最も確率の高い方法を選択するのが賢明だと思うんですけどね(患者が「別に長生きしたくない」と言うのなら話は別)。

上で紹介した『がん 4000年の歴史』を読めば分かることですが、抗がん剤治療の歴史は失敗の連続と言って過言じゃありません。多かれ少なかれ副作用はあるだろうし、服用すれば100%完治できるという保証もない。けれども、がん治療の長い歴史の中で、あらゆる治療法がふるいにかけられ、効果のない手法が淘汰され、効率良くがんを治せる手法だけが生き残る、ということを繰り返してきて今の治療法があるわけですよね。だからこそ、自分がもしがんになったとしたら、効果のはっきりしない民間療法なんかより、長い歴史の積み重ねの方に命を預けたいと思いますけどね。

航空科学博物館のジャンク市

9月10日に、航空科学博物館で開催されたジャンク市で旅客機模型を買ってきました。6個合わせて8500円くらい。それを組み立てたのがこちら。

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航空会社と機種は以下の通りです。

築地市場の移転問題

結局この問題は、盛り土をするっていう約束だったのに独断でそれをやらないと決めた奴らが一番悪いのは言うまでもないことなんですが……。う~ん……。

  1. 汚染土壌の除去作業で除去しきれなかった有害物質の割合
  2. それらの有害物質が地下水に溶け出して流動的になる確率
  3. その地下水が盛り土やコンクリをすり抜けて地表に出てくる確率
  4. 地表に出てきた地下水が食品などと接触する確率
  5. 食品中の有害物質が人体に健康被害をもたらす確率

こういった何重もの希釈・遮断をすり抜けて健康被害が発生する確率なんて、相当低いんじゃないかと思うんですけどね。建物もほぼ完成しているこの状況で移転の白紙撤回なんてことは不可能に近いので、遅かれ早かれ豊洲に移転することは確定だと思いますけど、まあ納得いくまで調査してみれば良いと思います(建物の地下にアルカリ性の水が溜まってるなんて報道もあるので、徹底的に調べてみたらいいと思います)。個人的に東京五輪は返上すべきという考えなので、「道路工事が五輪に間に合わなくなる」なんて反対意見は心の底からどうでもいいので。

もんじゅ廃炉

もんじゅ廃炉の可能性も、核燃料サイクル岐路 News i - TBSの動画ニュースサイト

この問題はまだ情報が錯綜しててどうなるか分かりませんが、ひとまず廃炉という方向で話が進みそうなので良かったと思います。福井県知事も存続を要望するんじゃなくて、廃炉までの30年の間にもんじゅ以外の地域振興策を考え出す方がよほど前向きだと思うんですけどねぇ。これで本当に廃炉なんてことになったら、各地の原発においてある燃料はどうなるんだって話になるし、何より六ヶ所村もマジギレ状態になると思うので、これからが正念場ですね。

ノーベル賞予想

今年もやります!2016年どうなる?ノーベル賞! | 科学コミュニケーターブログ

ここは毎年ノーベル賞受賞者の予想をしているんですが、今年もやっているようです。まあ当たるかどうかは置いとくとしても、色んな分野の発見・発明について分かりやすく解説されているので、見て損はないと思います。

『がん‐4000年の歴史‐』―失敗と成功、絶望と希望、その全てが詰まった傑作ノンフィクション

神話の世界に登場する邪悪な神々や怪物たち、地球に突然飛来してきた謎の宇宙人、核実験の影響を受けて突然変異した巨大怪獣、突如人類に対して反乱を開始した人型ロボット。人類が強大な敵と戦う物語は、いつの時代も人々を魅了してきた。ここで今日紹介する本も、とある怖ろしい怪物と人類との4000年にもわたる戦いの物語である。しかしそれは、単なる神話やSF作品ではなく、紛れもないノンフィクションである。

その敵とは、“がん”という怪物である。

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)

人類4000年のがん研究史

他のあらゆる科学がそうであるように、がん研究もまた、周辺分野と密接な関わりを持ちながら発展していった。公衆衛生の向上や感染症の撲滅によって人類の平均寿命が延びたことで、がんは多くの人にとって身近な脅威と見なされるようになった。麻酔や消毒法の発展により、腫瘍を取り除く外科手術が発達した。毒ガスや化学工業の研究を発展させることで、いくつかの有用な抗がん剤が誕生した。分子生物学の飛躍的進歩によって、科学者はがんの発生メカニズムを次々に解き明かしていった。また、がんとの戦いの中で、その周辺の科学技術、我々の生命観、医師と患者との関係などが大きく変わっていった。例えば、治療の効果を正しく判定するために、あるいは、発がん性が疑われる物質とがんとの関連性を証明するために、統計学やその他の分析手法がより洗練されていった。抗がん剤の副作用や不適切な治療によって苦しむ患者が声を上げたことで、患者の権利は拡充され、ホスピスターミナルケアといった概念が発展していった。

しかし、がんという強大な敵に挑む人間の陣営は、常に一枚岩とは限らなかった。いつの時代でも、古い学説に固執する保守的な学者と、新しい仮説を唱える若い学者との間で、激しい内戦が繰り広げられた。多くの学者や活動家が、がん治療のための莫大な研究費を得ようとして、大衆を扇動し、ロビー活動に邁進した。患者にとってほとんど「毒」と言っていい程に危険な薬を多量に投与しようとする医師と、いやそれは倫理的に許されないと考える医師との間で、激しい論争が巻き起こった。がんと煙草との因果関係を立証しようとした統計学者は、煙草メーカーとその御用学者から激しい攻撃を受けた。

対立を乗り越えて新しい戦略を作り上げることに成功したケースもあった。例えば、外科医と内科医は治療方針をめぐって長年対立していたが、今日では両者が手を組み、外科医による手術と内科医の処方する薬(それに放射線治療など)を上手く組み合わせて、より効果的に敵を弱体化できる道が開けた。

しかし、この本を読むと、いつの時代でもがんとの戦いの最前線にいる「主人公」は、医師でも科学者でも政治家でもなく、がん患者自身なのだと痛感させられる。医師や科学者が、がんを倒すための作戦を立案する指揮官だとするならば、患者は、がんという強大な敵の住む城にろくな武器も持たされないまま突入させられる憐れな歩兵であり、ひとたび城に向かった患者が生きて帰ってくることは非常にまれだった。多くの外科医が、乳がんの再発を防ぐためには乳房だけでなく周りの筋肉やリンパ節まで根こそぎに切除すべきだという学説(根治的乳房切除術)を盲信し、患者のQOLを著しく下げた。多くの内科医が、複数の抗がん剤を一度に大量投与する治療法(超大量化学療法)を試し、患者は重い副作用に苦しめられた。

根治的乳房切除術が主流だった一八九一年から一九八一年までの一〇〇年近くのあいだに、約五〇万人の女性ががんを「根治する」ためにこの手術を受けた。自ら望んだ者も多かったが、無理矢理受けさせられた者も多かった。そして、自分には選択の自由があることすら知らない者も多かった。多くが永久に外見を損ねられ、多くが手術を祝福として受け容れ、多くがその責め苦を勇敢に耐えた。がんを可能な限り攻撃的かつ徹底的に治療したのだと信じて。
(上巻、365頁)

『前線からの風景』というエッセイのなかでジェンクスは自らのかんの経験を、真夜中にジャンボジェット機の機内で起こされ、パラシュートをつけさせられ、地図も持たずに見知らぬ風景のなかへ放り出されるようなもの、と表現している。
(中略)
そのイメージは時代の孤独と絶望をとらえていた。徹底的で攻撃的な治療法に取り憑かれていた腫瘍医は、より新しいパラシュートを次々と発明した。だが、沼地を歩く患者や医師を導く系統立った地図を、彼らは持ってはいなかった。
(下巻、178~179頁)

それらの医師の姿は、私には、実験室でマウスやモルモットを扱う動物学者や、怪しげな人体実験を繰り返すマッドサイエンティストとほとんど変わらないようにすら思えた。

もちろん当時の医師たちは「目の前にいる患者を救いたい、がんを根治する治療法を確立したい」という医師として至極真っ当な使命感からこのような処置を行っていたのだろうし、その当時はまだ患者を救う手段も非常に限られていたのだから、当時の判断が間違いだったと結論付ける事はできない。しかし、それを差し引いたとしても、身の毛もよだつような怖ろしい治療・実験が当たり前に行われ、それによって多くの患者が犠牲になったという事実は記憶にとどめておいて良いだろう。

がん研究史における失敗と挫折

人類とがんとの戦いの歴史、それは、数えきれないほど多くの死と苦しみの上に築かれた歴史であり、人類の失敗と挫折の物語に他ならない。新しい学説や治療法が次々に生まれ、そのたびに人々は未来を明るく照らし出す輝かしい光を見たが、その光はすぐに幻のように消えて見えなくなった。血のにじむような努力の末に人々が掴み取った希望は、次の瞬間にはもう砂のようにサラサラと掌からこぼれ落ちて消えていった。

古代エジプトの医師は、乳癌の病態を克明に記録し「治療法はない」と述べた。古代ローマの医師は、黒胆汁という体液の過剰生産ががんの原因だと考え、何世紀もの間、その間違った仮説が信じられてきた。20世紀初頭、白血病の子どもに様々な化合物を投与し、一時的に症状を緩和させることに成功したが、すぐに白血病が再発し子どもたちは次々に死んでいった。ある種のがんで効果のあった超大量化学療法も、別のがんでは全く使い物にならない場合があった。長年効果があると信じられてきた根治的乳房切除術に、実はほとんど効果がないことが分かった。ある検査技術の有用性を確かめるための「完璧」な臨床試験に致命的な欠陥が見つかり、統計学者や医師は、何が正解で何が間違ってるかも分からない袋小路の中に落ちていった。レトロウィルスがあらゆるがんの原因であるという学説を否定するのに、何十年もの時間が費やされた。

そんな絶望の中で、ある者は、経過を克明に記録し論文にすることで、将来の医学の発展に希望を託した。ある者は、自分たちの間違いを頑なに認めようとせず、古い学説に固執して真実を見誤った。ある者は、失意のうちに研究の現場から去った。ある者は、その失敗から「次」に繋がるヒントを得ようと奮闘した。そして、ある者は、がんの発生メカニズムという根本を解明しなければならないと強く思うようになった。

一九四七年から一九四八年にかけての半年間のあいだに、ファーバーは、ドアが開き――ほんのつかのま、彼を誘惑するかのように開き――そしてまたしっかりと閉まるのを見た。そしてその開かれたドアの向こうに、彼は光り輝く可能性を垣間見たのだ。
(上巻、86頁)

ハルステッドやブルンシュウィクやパックは、大規模な手術にあくまでも固執した。だが、その有効性を証明するはっきりとした証拠はなく、自分たちの信念という孤立した岬に向かって彼らがどこまでも進んでゆくにつれ、証拠などますます見当違いのものに、臨床試験をおこなうことなどますます不可能になっていった。
(上巻、144頁)

そして20世紀後半、人類はついに、論理的かつ包括的ながんの発生メカニズムを解明するに至る。それはすなわち、人間が本来持っている遺伝子の機能が、様々な要因*1によって失われたり、暴走したりすることで、異常な体細胞増殖がスタートしがんになるというものだった。

巻末の解説でも述べられている通り、この物語は「未完」なのだ。人類とがんとの戦いは、これからもずっと続いていく。そしておそらくこの戦いは、人類が存在し続ける限り、終わることはないだろう。しかし、4000年にわたる戦いの中で人類は、知識と経験を積み上げ、勝率の高い方法を選択することができるようになった。戦い方は一つではなく、化学療法や手術や放射線などの多くの選択肢があり、それらを組み合わせることでより効果的に敵を倒せるようになることを学んだ。一言で「がん」と言っても、固形ガンから白血病まで様々なタイプがあり、それらに応じて戦い方を変えなければならないことを学んだ。がんの発生メカニズムを知り、分子標的薬という概念を生み出すことで、がんとの戦いは決して負け戦ではない、戦い方次第でいくらでも希望は見出せる、という確信を得た。*2

それらの知識や経験、失敗や成功の中で、無意味なものなど何一つとして存在しない。本文中にも書かれている通り、「何一つ、無駄な努力はなかった」。これらの全てが、人類にとってかけがえのない財産となり、今日そして将来の人類を支えていくのだ。

われわれが五〇年後にがんとの闘いで使っている道具はがらりと変わっているはずであり、がんの予防と治療の地形も大きく様変わりしているはずだ。 (中略) しかしこの闘いの多くは今と変わっていないはずだ。執拗な努力も、創意も、立ち直りも、敗北主義と希望とのあいだで揺れ動く不安な心も、普遍的な解決策を求める強い衝動も、敗北がもたらす失望も、傲慢とうぬぼれも。
(下巻、402~403頁)

化学史書・生物学史書としてみる本作

本作は、がん研究史・医学史の本であり、フィクションに勝るとも劣らない壮大な戦記でもある。

しかし同時に、がんという一つのキーワードを軸にして、現代化学や分子生物学の歴史を見渡せる画期的な本でもある。

例えば、化学という観点から見たとすると、本文中には無数の化合物が登場してくる。初期の化学療法を支えたが副作用も凄まじかったアミノプテリン、6-メルカプトプリン、シスプラチン。乳がん治療におけるホルモン療法という新しい可能性を切り開いたタモキシフェン。分子標的薬という全く新しい手法によってがん治療の世界に革命をもたらしたハーセプチングリベック。それらは、構造も分子量も性質も全く異なる多様な化合物だ。化学に興味のある学生なら、ここに書かれてある内容を足がかりにして、自分の知識を広げていくことができるだろう。

もちろん、「いや、そんなこと既に知ってる」という人であっても十分に読みごたえがあると思う。例えば、がん遺伝子とかがん抑制遺伝子については教科書で習った、SrcやRasやRbやp53の名前も機能も全部知ってる、という人であっても、それらの「常識」がどのようにして発見・解明されてきたのかを知ることは、とても重要なことだと私は思う。

なので、大学や大学院で化学・生物学・医学を専攻している、もしくは、これから専攻しようとしている学生さんは、是非この『がん 4000年の歴史』を読んでみることをお勧めします。もちろん、全く専門外の人が読んでも良いけれど、ある程度の前提知識*3があった方が、より楽しめると思います。

*1:それには、タバコの煙、アスベスト、ウィルス、ピロリ菌、食生活、紫外線、など様々なものが考えられる。

*2:事実、様々な治療法の普及、予防の徹底、診断技術の向上などによって、アメリカ国内でのがんによる死亡率が徐々に低下して行ってることが統計学的にも確認されている。

*3:例えば、分子生物学・遺伝学・免疫学などに関する基礎知識

映画『聲の形』を見る前に『たまこラブストーリー』を見直してみた

山田尚子監督の最新作である映画『聲の形』がもうすぐ公開ということで、過去の作品である『たまこラブストーリー』を見直して改めて記事を書いてみますよ~。

公開当時に書いた記事はこちら→『たまこラブストーリー』ネタバレ有り感想―変化を受け入れ、想いを伝えるまでの物語 - 新・怖いくらいに青い空

序盤

アニメ版の『たまこまーけっと』の方は、昔ながらの商店街という「日本的」な空間の中にしゃべる鳥という「非日常」的要素が混在しているというお話で、構造としては『少年アシベ』とか『オバケのQ太郎』にも似てるのかなぁなんて思っていたのですが、映画版では純粋な「ラブストーリー」となっており、デラやチョイちゃんとかの出番が冒頭くらいしか無くて少し寂しかったのですが、まあこれは致し方ないと思います。そんな中でも、冒頭、デラとチョイちゃんによる寸劇とか、下ネタ耐性のないチョイちゃんの圧倒的可愛さとか、色々見所はあったのですが、全部語ってたら話が長くなるので省略します。

場面が変わって、もち蔵が自室からたまこの部屋に向かって糸電話を投げるけど、たまこがそれを上手くキャッチできないという場面。たまこが「相手の気持ちを受け止められずに悩む」という今後のストーリーを暗示させる場面ですが、この映画は小道具を使った象徴的なシーンが随所に登場してくるので、2回3回と見直すと映画館で見ただけでは分からなかった部分がどんどん明らかになっていくので何度見ても飽きないのが良いですね。

その後、「KOI NO UTA」っていうオープニング曲が流れるわけですが、それはたまこの父・豆大さんが高校時代にたまこの母親に贈った曲で、しかも、OP後すぐのシーンでもたまこがその歌を口ずさみながらバトン部の練習をやっていて、もうやめて~お父さんのライフはゼロよ! 黒歴史を蒸し返して来ないで~! って心の中で叫びたくなりました。さて、そのたまこが頭上に投げたバトンをキャッチしようとしますが、やはりさっきの糸電話と同じく上手くいかなくて、みどりちゃんが「必死でつかみに行けばとれるよ」とかアドバイスしていて、これもまさに今後の伏線となる重要な台詞となるわけですね。

そうこうしてる内にかんなちゃんが登場してくるんですが、とにかくこの後の一連のシーンはかんなちゃんの言動がいちいち可愛くて、体育館を黒タイツで滑りながらスススススス~って登場してくるところとか、ステージに上がって高所恐怖症でクラクラしてるのとか、史織に英語で話しかけてスルーされたりとか、階段に座りながらこぶしトントンとか、色々と語りたいのですが語り出したら時間がいくらあっても足りないのでこの辺でとどめておきますね。

そんなこんなで、たまこが皆から留学、建築学科に進学、地元の大学に進学といった進路を聞いて、「みんな色々考えてるんだな」なんて思うシーン。ここでたまこは「自分はこのままでいいのだろうか」みたいな漠然とした不安を抱くわけですが、商店街で会話しながら歩くうちにこうしたアンニュイな気持ちが薄れて笑顔が戻っていく、というのもまた印象的なシーンです。ここから分かるように、たまこにとって商店街とは「変わらない日常」を象徴するものなわけですね。しかし、レコード屋でコーヒーを飲む時に、いつもと違って牛乳を入れずに「苦っ!」ってなってることからも分かるように、変わらないと思っていた日常は少しずつ変化していて、たまこは大人になっていってるのです。

一方、もち蔵の方も、東京の大学に行く事とたまこへの想いを伝えようとして悶々としていて、「たまこが糸電話をキャッチできたら想いを伝えよう」みたいな自分ルール作って糸電話を投げて、本当にキャッチに成功して、うおー!マジかよ!ってなった瞬間、部屋にある鉄道模型が動き出したのは、もう完全にあのラストへの伏線でしたね。でも結局、キャッチしたのは実は妹のあんこでした~ってオチで、「明日の朝、伝えよう」とか考えながら銭湯に行ったらたまこが居て「明日から朝練あるから~」「え?てことは一緒に登校できんやん」みたいな感じで心を折られるのがなんとも不憫ですな。あ、あと、どうでもいいけど、この銭湯での着替えシーンは怖ろしいほどディテールに凝っていて、これぞ京アニの真骨頂と思ったのと、銭湯の前でたまこがもち蔵と会話する時に、私服の襟元から覗く鎖骨はすごくエロかったです。

中盤

そんで、次の日の掃除時間にもち蔵さん、たまこの事メッチャ見てる。それをみどりに指摘されてメッチャ焦ってる。そんなもち蔵の背中を押すようなことをやってしまい「あーあ」と自己嫌悪に陥るみどりちゃんホント素晴らしい。下手なアニメの場合こういうシーンでは、しゃがみ込んで頭を抱えながら「う~わ~やってしまった~」みたいなオーバーリアクションな演出をやってしまうところですが、みどりちゃんの場合は、あくまでも感情を徹底的に自分の中に押し込めたまま、それでも滲み出てきてしまったどうしても口にせずにはいられない思いが、あの「あーあ」という一言に凝縮されていて、本当にもう素晴らしいとしか言いようがないシーンです。

そして、たまこに気持ちを伝える決心がついたもち蔵が、映研メンバーと決起集会、というかただのじゃれ合いやってるシーン、ここもなかなか破壊力大きいですね~。やっぱりですね、男の子っていうのは、こんな風に同性どうしではしゃいでる時が一番居心地がいいんですよ。彼女欲しいしセックスしたい、けれども、同性の友達とくだらない会話してる時間も大好き、っていう面倒臭い生き物なんです。これまでもち蔵はずっと「たまこに恋心を寄せる男の子」としてしか描かれてこなかったんですが、ここに来て、ああ、もち蔵にもこういう素敵な居場所があったんだなあと思ってほっこりします。そんな空間に、幼なじみの女の子が迎えに来るとか、なんというかもう、青春してるなぁ、お前ら…。

さあ、ここから超重要なシーンですよ~。河川敷で餅みたいな石を拾ってもち蔵に見せるたまこ。この餅も「変わらない日常」を象徴する小道具ですね。足を滑らせたたまこがその石を川に落とすことで、これまでの「日常」は終わり、この瞬間に空気がガラっと変わって、もち蔵の告白タイムへと移る、という見事な演出です。そして、驚いたたまこが川に落ち、ここからみんな大好き「かたじけねぇ」の時間です。「かたじけねぇ」「先に失礼するでござんす」からの~、河川敷シャカシャカ走りからの~、光の中を必死に駆け抜けるたまこさんの可愛さといったら、京アニヒロインの中でも一二を争うレベルだと思います。また、たまこさんの可愛さに隠れてしまってますが、夕日に照らされた水面とか、小石やたまこが落ちた時の水の質感とか、水に濡れた制服の感じとか、京アニ特有の優れた水の表現が堪能できる名シーンでもありますね。

で、家に帰り着いたたまこですが…、あんこに話しかけられても「かたじけねぇ」、急に思い出したかのように顔を赤くしカーテンを閉める、「もち」が全部「もちぞう」になってる、バトンについてるボールが餅に見えて上手く受け取れない、教室ではもち蔵と顔を合わせないようにじっと椅子に座ったままで、……本当に…もうねぇ……何?この可愛い生き物!? もち蔵の言葉を受け止められなくてテンパりまくってる状態のことを、私は勝手に「かたじけねぇ状態」と呼んでるんですが、かたじけねぇ状態のたまこは本当にもう奇跡の可愛さですよね。

そんで、昼休みにかんなちゃんから苦手なものは「心を強く持って克服」するんだとアドバイスを受けた後、帰り道にばったり遭遇したもち蔵と話をしようとしますが…。「オウ、ワルイナ、モチゾウ!アリガトヨ」って、全然克服できてないじゃないですか(笑)。銭湯で会った時も「ゲンキカモチゾウ、ワタシハゲンキダ、ジャアナ」って、まだ「かたじけねぇ状態」継続してる(笑)。翌日、仕事を休んで朝の商店街を散歩したたまこは「みんないつも通りだ」と思って一旦安心するわけですが、学校では史織さんから「留学するか悩むより、行ってみちゃおうかなって」と決意を聞かされ、再び商店街を歩いた後には「みんなにもいろんな事があったのかなあ」なんて考えるようになるたまこ。そして、そこで再び登場する親父の黒歴史カセット! たまこが徐々に変化を受け入れていく過程の描き方が実に丁寧で良いですね。

だがしかし、その後、爺ちゃんが餅を詰まらせて病院へ運ばれ、そこでヘタレもち蔵が告白を「無かったことにしてくれていい」とか言い出したせいで、たまこの心はまた掻き乱されてしまうのでした。もち蔵との事を皆に相談し、母親が死んだ時に餅を使って励ましてくれたのが実はもち蔵だったということも分かり、さあいよいよ返事をしなければとなるわけですが、ここでまた例の「かたじけねぇ」状態が再発動ですよ! かんなちゃん主導で、廊下でばったり作戦とか、メールで返事作戦とか、家の前で返事作戦とか、いろいろやるわけですが、たまこが完全にテンパっちゃってことごとく失敗。もう、かわいいのうwwwかわいいのうwww

そんな中、みどりがもち蔵に向かって「見直した」と言う名シーン。あのトイレの前の会話で、みどりちゃんはもち蔵を試していたんです。気持ちを伝えるなんて私にはできないけど、アンタはできるの?どうせできないだろ? けど、もち蔵はみどりを乗り越えてたまこに気持ちを伝えてしまった。ゆえにこの台詞は、「(私にはできないことをやってのけたから)見直した」という意味であり、みどりのもち蔵に対する事実上の敗北宣言でもあるのです。嗚呼、なんて切ないんだ……

一方たまこは黒歴史カセットを聞きながら、あんこに中学の制服を着せたりしてて、制服あんこちゃんが可愛すぎて観客全員ニヤニヤしている中、カセットのB面に続きがあることが発覚。そうか、お母さんもかつて勇気を出して相手に気持ちを伝えたんだ。お母さんだけでなく、お父さんも、商店街の皆も、こうやって誰かに気持ちを伝えてきたからこそ、今があるんだ。その事に気付いたたまこは、ついにもち蔵の気持ちを受け止め、返事をする決心を固めるわけです。

終盤

そしてフェスティバルの本番。「上を向いて歩こう」の曲に合わせて踊りながら、たまことみどりがお互いに目配せするところとか、バトンをキャッチした瞬間たまこが一瞬だけ驚きと喜びの混じった良い表情になるところとか、さすが京アニという感じの素晴らしい演出でした。こうして、バトンをキャッチすることに成功したたまこは、わざと休校の連絡をもち蔵に回さないようにして、自分の気持ちを伝えようと心に決めます。

そして当日、みどりちゃんが京都駅で2人が会うという最高の舞台を演出してくれます。それは、新たな世界へと旅立つ2人を見送ると同時に、みどり自身もまた未来に向けて大きく飛翔する再スタートの瞬間でもあったのです。だからこそ、そんなみどりちゃんを見てかんなちゃんは「今、ちょっと良い顔してますよ」と言うのです。かんなちゃんもまた、高所恐怖症を克服しようと木に登ることで、新しい一歩を踏み出すのです。史織もチョイちゃんもまた、同様でしょう。みんな、たまこともち蔵に寄り添ってくれてありがとう。2人の背中を押してくれてありがとう。幸せになれよ…。

そしてついにクライマックス! 新幹線に乗る寸前でもち蔵を捕まえたたまこは、相変わらずたどたどしいけれども、今度はきちんと自分の気持ちを伝えます。もち蔵が投げた糸電話をちゃんとキャッチして、ようやく「大好き」と伝えることに成功します! 長かった…。自分の気持ちを伝えるというただそれだけのことを、これほどまでに丁寧に、時間をかけて描き切ったアニメ作品というのは、他に例がないのではないでしょうか。

そしてそして、2人にとっての新しい人生の1ページが始まった瞬間、聴こえてくるエンディング曲「KOI NO UTA」のなんとカッコいいことか! お父さん、ごめんなさい! 黒歴史とか言って散々バカにしてごめんなさい! 自分の気持ちを歌にして伝えたお父さんはすげえよ。それに歌で返事したお母さんもすげえよ。勇気を振り絞ってたまこに好きだと伝えたもち蔵もすげえよ。それに対してずっとずっと葛藤しながら最後にようやく大好きと伝え返したたまこもすげえよ。なんかもう見てるこっちが赤面するくらいこっぱずかしい事だけど、でも黒歴史なんかじゃねえよ。みんなすげーカッコいいよ。相手に気持ちを伝えるって素晴らしいことだよ! そう心の底から叫びたくなるような素晴らしいエンディングでした。

2人がこれからどうなるのか、それは映画の中では描かれません。でもきっとこの2人は、デート、キス、セックスと段階を経ていくたびに、ヘタレもち蔵が周囲から背中を押されて、たまこが「かたじけねぇ、かたじけねぇ」言ってるんだと思うと、もう可愛すぎて、可愛すぎて……

爆発しろ!

原子レベルまで粉々に砕け散って餅の上に蒸着しろ!

はぁ……

………

…たまこ、

…もち蔵、

……幸福に暮らせよ。

そして、『聲の形』へ。

と、まあ、こんな感じで、見終わった後に幸せな気持ちになるのが『たまこラブストーリー』という作品なわけですが、さあ、次は『聲の形』ですね。僕が考えるに、『聲の形』もまた、伝えるということ、そして「黒歴史」と向き合うということが大きなテーマとなっている作品で、特に後半部分は、自分の過去と向き合うことの辛さ、苦しさを徹底的に描きつくした作品です。

自分の過去と向き合うってスゲー苦しいよ? お前が思ってるよりはるかにしんどいよ? 世間の目って物凄く冷たいよ? 誰も理解してくれないよ? 死にたくなるくらい辛い事これから沢山あるよ? それでもお前は過去と向き合える? 目の前にある扉を開けることができる?

そう突きつけられた主人公たちが、それでも自分の思いは必ず誰かに届く、そうすれば必ず道は開けると信じて、胸を張って扉を開けるまでを描いた物語です。

でも実際のところ、京アニ山田尚子監督がこの作品をどう描くのかは分からないし、原作漫画と映画とではやはり雰囲気が違ってくると思いますので、映画館でそれをしっかり見届けたいと思います。

アニメ・マイベストエピソード5選

このたび、ブログ「物理的領域の因果的閉包性」で行われているマイベストエピソード企画に参加させていただきました。今回は、私が今まで見てきた中で特に印象に残っているアニメのベストエピソードを5つ紹介したいと思います。

クレヨンしんちゃん』、「赤ちゃんが生まれそうだゾ」「赤ちゃんが生まれるゾ」「赤ちゃんが生まれたゾ」

上の3話は、1996年9月放送の『クレヨンしんちゃんスペシャルの中で放送されたお話で、「クレヨンしんちゃん みんなで選ぶ名作エピソード ひまわり&シロ誕生編」というDVDにも収録されている。TV放送当時の私はまだ小学校低学年。おそらく私は、ひまわりの誕生をリアルタイムで見た記憶を鮮明に覚えている最後の世代だろう。

ある平日の昼下がり、急に産気づいたみさえは、さすがに2人目の出産だけあって実に手際よく各方面に連絡を入れ、産婦人科へと向かう。会社を早退したひろしと、幼稚園から帰ってきたしんのすけも、遅れて産婦人科へ向かうのだが、その道中で埼玉紅さそり隊、園長先生、よしなが先生、まつざか先生、ネネちゃんのママ、オカマのセールスレディーなど、お馴染みのゲストキャラが次々に登場してきて、まさにオールスター勢揃いといった感じである(当時はまだオカマという言葉がごく当たり前に子供向けアニメでも使われていたのだ。良くも悪くも自由で規制の緩やかな時代だった)。

病院の屋上で、ひろしとしんのすけが2人だけで話をするシーンは今見ても感慨深い。少し前まで降っていた雨は完全に止んで、頭上には美しい星空と大きな満月。しんのすけが生まれたのも満月の夜だった、あの時は仕事で遅くなって後で母ちゃんに恨まれたっけ、と語り始めるひろし。そんな矢先、赤ちゃんの泣き声が聞こえ、大急ぎで分娩室に駆けつけた二人は、そこでようやく、生まれてきた新しい命と感動の対面を果たす。

子ども向けアニメであるにも関わらず、一人の人間の誕生という出来事をこれほどまでに丁寧に描き切ったアニメは、他に類を見ないのではないだろうか。世間では『オトナ帝国』とか『暗黒タマタマ』といった、野原一家の絆を描く劇場版エピソードが有名だが、それも全て、この感動的な誕生のエピソードがあったからこそ輝くものだと思う。

天元突破グレンラガン』、第27話、「天の光は全て星」

グレンラガン』とは、人類が暗黒の時代から抜け出し、近代そして現代へと大きく飛躍していく壮大な物語である。今どきそんな単純な進歩主義など誰も信じていないけれども、せめてアニメの中でだけは、どこまででも進歩し続けることのできる輝かしい人間の姿を見ていたいのである。

もちろん人類の進む未来は決して明るいばかりではなく、際限のない進化の先にはスパイラル・メネシスという破滅が待ち受けている。それでも人類は、自らの意志によってこの茨の道を選択し、知恵と勇気によって輝かしい未来を切り開くことができるはずだ。そんな希望に満ちた人間賛歌を謳い上げてこのアニメは幕を閉じる。見終わった後、これほどまでに深い喪失感に襲われる作品は、今後二度と出てこないかもしれない。

ゼロの使い魔~双月の騎士~』、第12話、「さよならの結婚式」

ゼロの使い魔』とは、自己犠牲の物語だと思う。自分の命を賭けてでも「やるべきこと」が果たして存在するか、なんてこと考えたこともないであろう現代日本に住む普通の高校生が、異世界に行き、異なる価値観の中で生活し、戦争を経験していく中で、大切な人と出会い、愛し合い、その人のために命を賭ける。この第12話は、愛と成長と自己犠牲の物語としての『ゼロの使い魔』を最も良く体現した話であり、才人とルイズの関係が決定的に変わるターニングポイントとなった話でもある。

と同時に、この第12話は、漫画やラノベをアニメに起こし直す難しさがよく現れている回であるとも言える。放送後、ネット上では「酷い原作改変」「30分の間に話を詰め込みすぎ」「2人の再会が唐突過ぎて感動が半減している」といった意見が飛び交っていた。私は、そういった意見を見て原作に興味を持つようになり、書店で『ゼロの使い魔』を第1巻から購入した。これが、私が生まれて初めて読んだライトノベルになった。ゆえに、このお話は、作中における重要なターニングポイントであると同時に、私個人にとっても極めて重要なターニングポイントだったと言えるだろう。

ゼロの使い魔』と故ヤマグチノボル先生については、原作小説が完結した後にまた記事を書く予定です。

けいおん!』、第11話、「ピンチ!」

こちらも、上の『ゼロ魔』と同じく、ネット上で賛否両論となった話だった。卒業式や文化祭を除けば『けいおん!』の中で最もシリアスなエピソードであり、また、キャラクター間の感情のすれ違いを最も鮮明な形で描いてみせた回だったので、賛否両方の意見が出てくるのはある意味仕方のないことかもしれない。けれども、私はこの第11話が大好きなのだ。

だって、我らが田井中りっちゃんが可愛すぎるのだから! 普段は明るくていつも笑顔で満ち溢れている律が、この日だけは不安と嫉妬の入り混じる悲しげな表情をしているわけですよ! そして後日風邪をひいて澪に甘える時の「寝るまでそばに居てよ~」という声のなんと可愛いことか!

りっちゃんは今も昔も地上に舞い降りた天使そのものであり、律澪は圧倒的正義である。振り返ってみれば、私に百合の素晴らしさを知らしめてくれたのは、このエピソードだった。

とらドラ!』、第9話、「海にいこうと君は」

僕は生粋のみのりん派です。やっぱり、みのりん派にとってこの第9話は外せないと思うんですよね。

亜美の別荘で夏を満喫なんていう素敵イベントを前に、テレビの前のみのりん派の諸兄はもうテンションMAXで、完全に竜児に感情移入して画面を見つめてるわけです。で、電車の中で幽霊を怖がる姿とか、別荘に着いてテンション高めな感じとか、もう、みのりんの一挙手一投足が可愛くて仕方ないわけです。そんな中で、夜、2人きりで良い雰囲気になって、「高須君、抹茶おいしい?」「小豆はイマイチだ」から始まる竜児とみのりんの会話! 絶妙なタイミングで流れる美しいBGM!

もう、こんな可愛い彼女が欲しくて仕方がなくなるわけです。いや、彼女なんて贅沢な事は言わないから、みのりんと同じクラスになって、ひと夏の思い出を作りたい! そんな気持ちにさせてくれる素晴らしいエピソードで、その後も第16話とか19話とか21話とか、名作と言われてる回が数多く存在する作品ではありますが、やっぱり第9話は本当に素晴らしいと思うのです。

天皇陛下が生前退位について言及するのは「天皇の政治介入だ」とか言ってる人って何なの?

天皇陛下が生前退位のご意向を示されているという最初の報道があった後、宮内庁は、陛下が政治的な発言をしたと疑われるのを怖れて、「そのような事実はない」と否定していた。そして、そのような宮内庁の対応を「適切だ」と言ってる専門家やコメンテーターもたくさんいた。8日のお気持ち表明では、天皇ご自身も「退位」について直接言及するのを避けられ、安倍総理もその後の会見で「ご発言を重く受け止める」と言葉を濁した発言をしている。こんな感じで奥歯に物がはさまったような言い方をしてる人達が気にしているのは、憲法第4条にある天皇は「国政に関する権能を有しない」という文言だと思う。要は、陛下のご意向に沿って皇室典範という法律が変更されたりしたら、憲法違反になる可能性があるということなんだろう。

でも私はあえて言いたいんだけど、じゃあ仮に、陛下のご意見を聞いて国会とかが「はい、分かりました。皇室典範を変えます」ってなった時に、「これは天皇の政治介入だ!」って問題にする人って誰? そもそも、天皇のあり方みたいなものに陛下が言及されることは、本当に政治介入に当たるのか? 私は、皇室のこれからの姿みたいな課題について陛下自らがご意見を述べることは何ら問題ないことだし、たとえそのご意向を踏まえて法律が改正されたとしても、憲法違反でも何でもないと思ってます。

まず第一に、天皇はそもそも国会で議決権も持たないし選挙権・被選挙権すら無いのにどうやって政治介入なんかするの? 天皇陛下や皇族の方々が何かご意見を言った場合でも、じゃあそれに沿って法律を変えましょうって実際に決めるのは、国民の代表である国会議員なわけですよね。極端な話、一般国民が議員に陳情に行くのとかと同じですよね。そういうのって、本当に政治介入って言えるのか?

もちろん私も、天皇が「日本国憲法を変えるべき」とか「あの人を総理大臣にしてほしい」とか言ってたら、ちょっと不味いと思いますよ。でも、天皇の退位という、ご自身やご家族の今後に関わる重要な案件については、むしろ何か言わない方が不自然だし、それを政治介入とか言うのはなんか無理があるんじゃないですかね。陛下のご意見を伺いつつ、国民の代表者たる国会議員が粛々と手続きを進める、ということで何ら問題はないと思います。

それと、今回の件が政治介入と受け取られるなら、極端な話、被災者に「がんばってください」とお声をかけられるのも、政治介入と受け取られる可能性がありますよね。だって、国会議員が「陛下もそうおっしゃているのだから、もっと被災地を助ける法律を整備しないといけない」とか思って新法ができる可能性もありますよ。被災地を訪問するのも、相撲を観戦するのも、病気の治療を受けるのも、外国の要人と面会するのも、熊本に行ってくまモン体操を見るのも、全部が全部、天皇の政治介入だと受け取られる可能性があります。私は、天皇陛下がご自身の退位について言及されるのがダメで、ハゼ科の魚についてご発言されるのはOK、ということに対する納得のいく説明を今まで一度も見たことがありません。

ここからは完全に個人的な想像ですが、今回の件で天皇の政治介入云々言ってる人って、要するに、天皇陛下に退位してほしくないんでしょ? 未だに天皇は神様だと考えているから、最期まで天皇であってほしいとか思ってるんでしょ? もし、陛下が退位について言及されたら、さすがに国会もその意向を無視するわけにはいかないから、退位が認められる可能性が高い。だから、そうならないように政治介入なんて理由を付けて、陛下の真意が表に出てくるのを何とか回避したいんでしょ?って思います。