新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

〈古典部〉シリーズ『いまさら翼といわれても』各話感想

『箱の中の欠落』

『箱の中の欠落』*1は今回初めて読みました。『箱』とそれに続く『鏡には映らない』*2そして『連峰は晴れているか』*3は一繋がりの物語と捉えていいと思います。それはこの3作全てが、登場人物が心の中にある「気になる!」に徹底的にこだわり、真実を解き明かそうとするという構造になっているからです。

福部里志は中学時代までは世の中の色々なものに「こだわる」生活をしていたが、そういった生活を次第につまらないと感じるようになり「こだわる」ことを止めてしまう、という話は『手作りチョコレート事件』などで語られてきた通り。それを象徴するような「データベースは結論を出せない」という言葉からは、すでに自分の能力の限界を痛感している者が持つある種の諦めのようなものが見て取れます。

ところが、『箱』における里志は、普段では考えられない強い「こだわり」を見せることになります。横柄な態度の選管委員長が無実の1年生に濡れ衣を着せようとしている。そんな横暴は許せない、それはおかしい、間違っている! そう思う感情が、心の底から沸々と、どうしようもなく溢れ出してきていることに、里志本人より先に折木が気付きつつある。ゆえに折木は「僕はどうなろうかねえ」という里志の呟きに「弁護士なんかどうだ」*4と答え、それを聞いた里志も自分の中にある感情への「気付き」を得るわけです。

物語のラストで里志は「箱の中ばかりを見過ぎた。……なにか、欠けていたな」*5と意味深に呟きます。「箱の中」とは要するに「現在」の神山高校という意味でしょう。でも、過去に目を向けてみれば、今よりもクラス数が多い(現在よりも箱の数が多い)時代もあったじゃないか。お前だって、過去には色んなことにこだわっていたし、卒業制作の時も折木と一緒に奔走してたじゃないか。そして何より、文化祭で折木に対抗心を燃やしていたお前は何だ。「こだわる」ことを止めたなんて大嘘じゃねえか。このように「過去」を振り返った時、里志はようやく自分の中に眠る熱い衝動に気付き、そこからさらに弁護士という具体的な「未来」までも思い浮かべるようになったわけです。

これはまさに、福部里志という人間に訪れた「長い休日の終わり」だったのではないでしょうか。

『鏡には映らない』

『鏡』については、雑誌掲載時後にも記事を書いていますが、

ここでは再度読んで感じたことについて書いていきます。

まず『鏡』を読んで皆が率直に思う事は摩耶花さん可愛すぎじゃね?ということですよね。卒業制作の作業分担が不公平だと文句をたれる男子に向かって、我らが摩耶花様は毅然とこう言ってのけます。

「別に最初から公平に分配するなんて話は出てなかったでしょ?」
という反論も成り立つ。というか、わたしがそう言った。
「どうせあんたたちは彫らないんだから黙っててよ」*6

素晴らしい。もう最初から飛ばしまくりです。あの茅野愛衣の声&ジト目で罵倒されるとか、男子生徒にとってはご褒美以外の何物でもないですよね。もう土下座して「ははーっ!摩耶花様!ぐうの音も出ないほどその通りでございますー!」って言うしかないですよね。それでも文句言ってくる男子には「ばかじゃないの?」*7という、さらなるご褒美が待っているわけですが、もう…本当にね…中学時代の摩耶花様が可愛すぎるんですよ!

男子には大変厳しい摩耶花ですが、女子どうしの会話は全然違います。卒業制作を通して三島というクラスメイトと仲良くなった摩耶花。鳥の彫刻を掘りながら2人が「スズメじゃない?」「スズメかな?」「じゃ、スズメで」*8とか会話してるのがもう可愛すぎて…。ああ、鏑矢中の女子生徒になって摩耶花と一緒に「これスズメかな?」「いやどう見てもハチドリでしょ」「え~絶対スズメだよ~」なんてキャッキャ、キャッキャおしゃべりしながら彫刻を彫りたいだけの人生だった…。

こんな感じで中学3年生の摩耶花さんの可愛さに打ち震えていたら、さらに衝撃的な台詞がやってきます。文集『氷菓』の原稿をなかなか提出してこない里志を正座させて…

「だからふくちゃん、最初に言ったじゃない。ちゃんと聞いてた? わたしちゃんと、『何か面白いこと書いてやろう』だけじゃ完成しないよって言ったでしょ? 計画性の話じゃないの。もちろんそれもあるけど、それだけじゃないの。こういうのはね、面白くも何ともないところも歯を食いしばって書かないと完成しないっていう話なのよ。それを人の言うことをちゃんと聞かないから、こんなにぎりぎりになるんでしょ。反省しなさい。反省した? 反省したよね。じゃあわたしもいっしょに考えるから、隣に座って!」*9

あかん…。可愛すぎる…。最高すぎるやろ…。畜生!俺も摩耶花様に正座させられてお説教されたい!

とにかくもう、ふくちゃんと一緒にいる時、あるいは、ふくちゃんの事を考えてる時の摩耶花さんが可愛すぎてニヤニヤが止まりません。

せっかく卒業アルバムを出してきたのだ。ふくちゃんを見ない手はない。ページをめくる。
探し当てた中学三年の「福部里志」を見て、わたしはにんまりと笑ってしまった。
「わあ……。子供だ!」*10

かわいい…。クッソかわいい。これはたまらんですな。

昼休みになったら、何はなくともお弁当。といっても、わたしはあんまりお昼におなかが空かない。ふくちゃん曰く「そりゃ、朝に食べ過ぎだよ」ということらしいので、なるほどと思いながら足を踏んでやったことがあった。*11

お前ら何イチャイチャしてんねん! 可愛すぎる。素晴らしい。

「ふくちゃん、写真部の部長とも知り合いなの?」
『委員会のおかげでね』
「ふうん……」
わたしの知らない人とふくちゃんが知り合いだと、ちょっと胸が重くなる。やだなあ、こんなわたし。*12

ぐおおおおお!!!かわいいいいいいいい!!!萌え死ぬーーー!!!

とまあ、こんな感じで摩耶花さんの一挙一動がもう可愛すぎて萌え死にそうになるのですが、この他にも、「さすがにちーちゃんの前で、折木の『彼女』の話は出せない」*13とか、古典部の関係に関する興味深い台詞も出てきます。

あと、中学に入るのが気まずくて「いったん帰って、中学の制服に着替えてこようか」と考えるもすぐに「何を考えているんだ、わたしは。それじゃまるでコスプレだ」*14と思い直す摩耶花さんが超可愛かったなど、萌えポイントはまだまだ沢山ありますが、細かい点を挙げればキリがないのでこの辺で止めておきましょう。

あと『鏡』の見所はなんと言っても、鳥羽麻美さんのキャラクターでしょう。結末を知らずに登場シーンを読むと「人間関係こじらせちゃってる人かな?」くらいの感想しか湧きませんが、結末を知ってから再度読むともう言葉に出来ないほど悲しい気持ちになるのです。あらゆる人を拒絶して一人で居ようとする姿、他者の存在にわずかの興味も示すことなくカメラの世界に没頭する姿、折木のことを「ヒーロー」とまで言うにも関わらず頑なに会おうとしない姿、それらは全て、彼女が中学時代に受けたいじめの重たい衝撃を物語っています。それでもいつか、写真部が彼女にとって掛け替えのない居場所になることを願わずにはいられません。

そして、卒業制作に関する誤解が解消され、摩耶花が折木に謝ったところで物語は幕を閉じます。その時の折木の反応がまた最高でした。

「折木、ごめん。あんたがこんなこと考えてるなんて思いもしないで、軽蔑してた。本当に、ごめん」
折木はきょろきょろと左右を見て、机の端に伏せた文庫本を見つけると、ほっとしたようにそれを引き寄せる。それが魔除けのお札だとでもいうように文庫本に手をおき、折木はそっぽを向いてこう言った。
「わかったから写真を片づけてくれ。……ちょうどいま、いいところだったんだよ」*15

かくして、古典部の中で一番可愛いのは折木きゅんであることが証明されたのである。

『連峰は晴れているか』

『連峰』については、アニメ版*16はもちろん見てましたが、原作小説は今回初めて読みました。上でも述べた通り、『連峰』を含む前半3作は同様の構造を有しています。それは、各登場人物が感じた「私、気になります!」ということに対して徹底的に「こだわる」という描写を通じて、その登場人物の本来の姿が明らかになるというものです。私が好きな言葉で「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」*17というものがあります。今回の話はまさに、里志や摩耶花や折木がいったい何に対してこだわっているのかを書くことで、彼らの真の内面を解き明かそうとするものでした。

『箱』において里志を突き動かしていたものは、身の回りにある理不尽なことを許せないと思う怒りや正義感でした。そしてその感情は、どうやら規則や法律を破るという行為そのものではなく、目の前で他者が酷い目にあっているのを何とかして救いたいという思いによって支えられているようです。その証拠に里志は、濡れ衣を着せられた1年生の疑いを晴らすために奔走していましたが、投票で不正を行った犯人については全く興味が無いようでした。

一方、『鏡』で摩耶花が中学時代の卒業制作にこだわっていたのは、これまで軽蔑していた折木のかつての行動にも何か重要な事情が隠されていたのではないだろうか、そうだとしたらその止むを得ない事情を知った上で折木に謝りたい、という切実な気持ちからでした。これは、生真面目で、自分に厳しく、曲がったことが嫌いな彼女の性格をよく表しています。また、『大罪を犯す』の中で数学教師の間違いに怒った千反田さんが、その間違いにも三分の理があると考えて間違えた理由を知りたがったのとよく似ています。安楽椅子探偵である折木とは対照的に、自分の足でコツコツと関係者に話を聞きに行くという摩耶花の捜査スタイルもまた、彼女の性格をよく反映していますよね。

そして、『連峰』で折木がずっと気になっていたこと、それは教師であり登山家でもある小木が発した不思議な言葉でした。もし、何か深刻な事情があったのなら、安易に「小木はヘリが好きだった」などとは言えない。そういった他者を思う配慮から、折木はあの日小木の身に起こった真実を解き明かそうとします。何故、折木はその事にこれほどまでの執着を見せるのか。千反田もその理由を上手く言葉にすることはできません*18

しかし、同じ単行本に収録されている『長い休日』と一緒に読むと、その理由がなんとなく見えてきます。折木はきっと、他人の無理解や無配慮、すなわち「傲慢」という大罪によって、これまで何度も傷付けられてきたのでしょう。それは、折木に対して向けられた明確な悪意によるものもあったでしょうし、全く無自覚な何気ない言動が折木を傷付けたことも多かったでしょう。折木の側にも何らかの非があった場合もあったででしょうし、何の非もなく理不尽に傷付けられた場合も多かったでしょう。いずれにせよ、そうした小さな出来事が積み重なって、今の折木の人格はできあがっている。自分がこれまで傷付けられてきたからこそ、自分の無理解や誤解によって他人を傷付けるようなことはしたくない、そんな思いが彼を図書館へと向かわせるのです。

要するに、何か気になることがあるのは千反田さんだけじゃないということ。古典部の部員は皆、繊細で優しく、誠実であるからこそ、他者を傷付けたくないと願い、人間関係に苦しんでいる。そして、自分は何か間違いを犯したのではないか、誰かを傷付けてしまったのではないか、だとしたら自分はこれからどうすればいいのか、そういった疑問に対する答えを必死に知ろうとしているのです。

『わたしたちの伝説の一冊』(感想その1)

『わたしたちの伝説の一冊』*19についても、今回初めて読みました。『伝説』と、その後に続く『長い休日』*20、『いまさら翼といわれても』*21は、やはり同じテーマ性を持っているように思います。それについては後の方でじっくり述べるとして、まずは『伝説』の内容について感想を書きたいと思います。

さて、本作は摩耶花が漫研を退部するに至ったエピソードが書かれ、『クドリャフカの順番』で出てきた河内亜也子先輩が再登場します。彼女については以前の記事でボロクソに批判していますが、

私は、その当時の認識が間違いであったことを認め、河内先輩に謝罪しなければなりません。

そうか、そうだったんだ…。河内先輩は、誰よりも漫画に対して真摯な人だったのです。キャラクターとしては『ガールズ&パンツァー』の逸見エリカや『ステラ女学院高等科C3部』の榛名凛に近いです。彼女たちは口は悪いし、性格も悪いかもしれない。でも、戦車道やサバゲーに対して誰よりも真摯なのです。そして、その自分の信念を貫くために他人とぶつかることを怖れない心の強さを持っています。河内先輩もまた、漫画に対して真摯に向き合っているからこそ、彼女は自らの才能の無さに気付き、挫折と絶望を味わってきたのです。それゆえに、このまま漫研に居てはいけない、自分が成長できる環境に身を置き、自分の才能に仕えなければならない、と決心することができたのでしょう。

一方、河内先輩と久しぶりに対峙することになる摩耶花は、退部するという決心ができずにいます。河内先輩が漫画に対して真摯な人だとしたら、摩耶花は他者に対して真摯な人です。自分の気持ちとか本心よりも、周りの人との関係性を優先して考えてしまうような子です。志の高さは人それぞれだけども一緒に漫画を描こうと頑張ってる部員がいるから、やっぱりその人たちを置いて退部するなんてできない、とか考えちゃう子です。そんな摩耶花を見て、河内先輩はかつての自分、他人を振り払うことができずただ漫然と部室で過ごしていた頃の自分の姿を重ね合わせたことでしょう。

河内先輩は立て続けに摩耶花に語り掛けます。摩耶花が漫研に留まることは双方にとって良くないということ。この世にはどんなに努力しても変えることの出来ないものがあるということ。そして、摩耶花の人生において何の価値も持たない無意味なものが存在するということ。

「後悔してる。三年の高校生活のうち二年も、あんなところで使ってしまったこと」
無言のうちに、あんたももう一年使ったんだよ、と突きつけられる。*22

人は無意識のうちに今置かれている状況に価値を見出そうとします。そうしないと今まで自分のやってきたことが全て無駄になってしまうからです。でも、一歩引いたところから冷静に物事を見ることのできる人だけが、それは無意味だよ、何の価値も持たないよ、君の人生において何の役にも立たない無駄なことなんだよ、という真実を告げることができるのです。

この真実を知らされ漫研を退部したことで、摩耶花は変わることができるでしょうか。これは『伝説』だけに限りませんが、これまでの摩耶花は漫画を描いているところを誰かに見られるのを嫌がっているように見えます。もちろんそれが悪いというわけではありませんが、これからは漫画家を目指していることを隠さず堂々とできるようになるでしょう。あるいは、漫画を描く上で他人とぶつかるということを怖れないようになるかもしれません。

そうやって摩耶花が本当に変われたのだとしたら、彼女はその時はじめて、漫研にいた「無意味」な1年について心の中で整理をつけることができるのでしょう。

『わたしたちの伝説の一冊』(感想その2)

上の感想その1とは全く関係ないんだけど、河内先輩と羽仁さんの関係性について「これだけは言っておきたい」と思ったことについて書きます。要するに、河内先輩の幼なじみで摩耶花のクラスメイトでもある羽仁さんから、強い百合の波動を感じるのです。端的に言って、この人、河内先輩のこと好き過ぎて頭おかしいことになっちゃってますよね。

古典部シリーズで一番の百合カップルと言えば(というか、私が勝手にそう思ってるだけなんですが)、『愚者のエンドロール』の江波さんと本郷さんですよね。同作では、死人が出ないミステリーの脚本を本郷さんが書こうとしてるのに、クラスメイトが暴走してお話がしっちゃかめっちゃかな状態になっちゃって、ついに本郷さんは脚本から降りてしまいます。しかも入須さんは古典部のメンバーに嘘をついて新たなシナリオを作ろうとしている。本郷さんの大親友である江波さんからしたら、もうブチギレものです。「本郷の真意が反映されない映画なんて作らない方がマシだ」くらいは思ったでしょう。でも、映画が完成しないとなったら本郷が「悪者」にされてしまうかもしれないし、クラスメイトから非難されて本当にショックで寝込んでしまうかもしれない。だからこそ江波さんは、愛する親友を守るために、たとえ彼女の真意を捻じ曲げることになったとしても映画を完成させようとして、泣く泣く入須に協力しているのです! この繊細な心の動きを百合と言わずして何と言うのでしょう。

閑話休題。今回、羽仁さんと河内先輩からも、江波さん本郷さんと同様に、強い百合の波動を感じずにはいられないわけですが、私がどうしてそう感じるのか、順序立てて説明していきますね。

まず、羽仁さんは河内先輩の幼なじみで学校でもすごく仲良くしてることが見て取れます。

……実は羽仁さんについては、ひとつだけ気になることがある。
このあいだ退部した河内先輩と、個人的に仲がよかったのだ。単に部活の先輩後輩というだけではなく、友達のように親しげに馴染んで話しているところを何度か見た。河内先輩にはファンの女子が多かったので、その子たちの間であれはなんだと話題になっていたことも知っている。漏れ聞いた話だと家が近所で、小さな頃はいっしょによく遊んでいたらしい。*23

こんな感じで、小さい頃から二人は知り合いで、河内先輩のファンが嫉妬するくらい仲良くしてることが分かります。「亜也子ちゃ~ん」「ちょっとあんまりくっつかないでよ!ていうか学校では河内先輩って呼べって言ってるでしょ!」「は~い!河内せんぱ~い!」みたいな感じでイチャイチャしているわけですよね、たぶん。ていうか、これは完全に推測ですが、羽仁さんが漫研に入ったのもおそらく河内先輩がいたからだよね。「見るだけ派」に所属しつつも自分で漫画も描いている河内先輩と違って、羽仁さんはただ先輩を慕って漫研に入っただけなので、コスプレはするけれども漫画は描かないという立ち位置になっているんだろうなと思われます。

で、そんな羽仁さんに河内先輩は「伊原が同人誌描くって約束しちゃったらまずいから金曜日まで時間稼ぎしといて!」とか無茶ぶりしてくるわけです。たぶん羽仁さんは焦ったことでしょう。摩耶花とは同じクラスってだけであんま接点ないし、そんな方法思いつかねえよ。そして、羽仁さんは困り果てた末に、摩耶花のノートを盗むという強硬手段に出ちゃうのです。

里志が『走れメロス』の感想文を例に出して説明したように*24、羽仁さんがノートを盗んで部内の対立を引っ掻き回すメリットは何一つ無いわけです。ましてや、他人の物を盗むなんて、下手したら停学とかになるかもしれない。古典部からノートを持ち出す時に里志から咎められるかもしれないし、最悪、怒り狂った摩耶花から「ノート返せオラァァァ!」と言われぶん殴られる危険性もあります。そんな危険を冒してまでノートを盗んだのは、大好きな河内先輩の頼みをどうしても断れなかったからだと考えられますよね。

それなのに、河内先輩ときたら「あいつがこういう手に出るとは思ってなかった」*25って、おいおい、それはちょっとないんじゃねえの? 羽仁さんはこんなにも河内先輩に尽くしているのに…。河内先輩、天然のドSじゃねえか! 河内先輩が突然部をやめると言い出した時の羽仁さんの気持ち、羽仁さんが新しく部長になった部の和を乱すようなことを河内先輩がやり始めて、しかもそれに協力させられる羽仁さんの気持ち、それを考えるともう、たまらんよね。

というわけで、『伝説』は河内先輩と羽仁さんの関係性に萌えました。

『長い休日』

『休日』については、雑誌掲載時にも考察を書いているので、詳しいことはそちらを見てもらえばいいと思います。

『伝説』と『休日』そして『翼』で書かれるテーマは同じと言っていいでしょう。この3作は、人生における絶望的な「無駄」についてのお話です。

「辛い経験を乗り越えたことが今後の人生において財産になる」とか「どんな辛い経験でもいつか必ず無駄ではなかったと思える日が来る」とか簡単に言う人がいますが、はっきり言ってそれは嘘だと思います。人生において明らかに価値を持たない無駄な経験というものは、確実に存在しています。もっと分かりやすく言えば「これさえなければ俺の人生はもっと有意義で豊かなものになっていたはずなのに!」と後悔するような体験です。

『伝説』において河内先輩は、摩耶花が漫研に留まることは「無駄」でしかないと断言し、自分がその部に2年も留まってしまったことを後悔しています。それを聞いた摩耶花もまた、自分が部で「無駄」な1年を過ごしてしまったのだと痛感し、ついに退部することを決心します。

では、『休日』における折木についてはどうでしょう。小学6年生の折木は、善意に付け込まれて面倒ごとを押し付けられる経験をして、この世の「真実」に気付きます。

あの一件以降、俺は同じクラスの中に、要領よく立ちまわって面倒ごとを他人に押しつける人間と、気持ちよくそれを引き受ける人間がいることに気づいた。そして六年生になってから、いや物心ついてから、自分がだいたい後者だったことに気づいた。いったん気づくと、あのときも、あのときも、そういうことだったのかと次々に思い当たった。*26

そして、「本当は他の人がやらなきゃいけないことで、ぼくがやらなきゃいけないことじゃなかったら、もうやらない。絶対に」*27と固く誓います。つまり折木少年は、他人の為に献身するということの本質的な無意味さに、小学6年生という若さで気付いてしまったのです。これまで自分がやってきたことは「やらなくてもいいこと」であり、その「やらなくてもいいこと」のために膨大な自分の時間が「無駄」になったのだと、心の底から理解してしまったのです。

その気付きのことを、折木の姉は「長い休日に入る」*28と表現しました。そして、その休日をいつか誰かが終わらせるだろうとも述べています。事実、千反田に出会ってからの折木は、他者のために「やらなくてもいいこと」をやっているように見えます。何故、千反田には折木を変える力があるのか。その理由について私は以前、次のように述べました。

千反田は良い意味で「子どもの心」を持った人間だ。それは、自分の中の善意や正義感を動機として行動するということに対して何の疑いをも持たない純粋な心という意味だ。ゆえに、彼女が奉太郎に向ける眼差しには打算や狡猾さが存在しない(あるとすればそれは、「知りたい」という好奇心だろう)。だからこそ、奉太郎は千反田のためなら「やらなくてもいい努力」でもやってしまう。*29

それに対して、次のような反論が寄せられました。

さて、ただひとつ千反田えるに対することに対してだけは、筆者様と異なる感想を持っています。
彼女がもし単に『自分の中の善意や正義感を動機として行動するということに対して何の疑いをも持たない純粋な心』を持った『純粋な人』ならば折木にとって【長い休日】を終わらせる人にはならなかったであろうし、牽かれていかなかったであろうからです。
彼女は折木と同じような絶望を経験し、諦感を持ち続けてなおあのように振る舞える(自分は休日に止まっているのに)からこそだと思うのです。
それは失踪した叔父への思いであったり、何処へ行っても"何もないここ"へ戻って来ざるを得ない将来への諦めであると。*30

私はこれを読んで目から鱗が落ちたような気持ちになりました。そうか、千反田さんもまた、自分の将来への絶望を経験し、長い休日に入っていたのか…。それでもなお、彼女は人の善意を信じ、人のために尽くすことの正しさや尊さを信じている…。いや、信じられないという気持ちを押し殺しながら、必死に信じようともがいている…。

そのように考えると、これまでの彼女の行動もまた違って見えてくることでしょう。そして、この次にある『翼』における描写の意味合いもまた大きく変わってきます。

『いまさら翼といわれても』

さあ、いよいよ『翼』です。雑誌掲載時の感想でも書いた通り、これはシリーズ屈指の苦いラストになっています。これを単行本のラストに持ってくるところがまた凄いというか、何というか…。

前の2作はまだ救いのある終わり方をしています。確かに、摩耶花さんが1年間漫研で過ごしたことは「無駄」だったかもしれないけれど、ようやく退部してこれからは河内先輩と一緒に漫画を描き始めて、未来に向かって進んでいくという明るい場面で『伝説』は終わってます。『休日』にしても、君が無駄だと思っていることは実は無駄ではないかもしれないよ、いつか誰かが君を長い休日から引きずりだしてくれるかもしれないよ、という明るい可能性を提示して終わっているわけです。

ところが、『翼』では一切救いが用意されていません。千反田が家を継ぐためにしてきた努力は「無駄」だったんだよ、という絶望だけが残ります。私は将来この家を継ぐことになるだろう、そしたら商品価値の高い作物を作って家と地域を守っていかなければならない、なので大学では農学を学ばないといけない、そのためには高校で理系を選択しといた方がいい、良い高校に入って1年の時から勉学に励むべきだ、そのために中学時代も頑張って勉強して……という風に、将来の姿から逆算して自分のすべき選択をしてきた千反田さんの努力が、全てとは言わないまでもかなりの部分「無駄」になってしまったのです。

もちろん、千反田さんはまだ高校生なので、今から別の道に進んでも全く遅くはありません。最初の夢を諦めて別の道に進んだ人なんか、この世の中に腐るほどいます。けれども…、特に美しくもない何もない自分の故郷を守ろうと決めた彼女の覚悟は、一体何だったのでしょう。一時は将来のために生徒会長になろうとしていたように*31、家を継ぐために自分は何をすればいいのかを真剣に考え行動してきた彼女の努力は、一体何だったのでしょう。「仮に家を継がなくても、それらの経験が必ず何かの役に立つ」なんていう安易な慰めの言葉は存在しません。それらの全てが無駄になったとは言いませんが、何割かは確実に無駄になる、ただそれだけです。

何よりも辛いのは、ここに明確な悪意を持った敵が存在しないことです。千反田さんのお父さんが「家を継がなくてもいい」と言ったのは、間違いなく彼女のことを思ってのことです。親として何一つ間違ったことは言っていない、でも、その「正しさ」が千反田さんを深く傷つけることになるのです。物語前半にあったコーヒーの話のように、子どもと大人との間には決して埋めることのできない大きな「認識のズレ」が存在しています。

だからこそ、同じ高校生である折木の存在は大きいのですね。蔵に籠ってしまった千反田さんの気持ちを真に理解できるのは折木だけです。でも、折木は決して理解できるとは言わないでしょう。相手の気持ちを分かった気になるのは「大罪」だからです。だから、折木は千反田さんのことを肯定も否定もしないし、蔵から出てこいと言うことも一緒に蔵に入ることもしないのです。折木に出来ることは、ただ蔵の外で彼女に寄り添うことだけです。でも、千反田さんにとって、そんな折木の存在はどれほど心強かったことでしょう。

……ようやく全ての感想を書き終えました。こうして各話を見ていくと、本書は前半3作と後半3作とでテーマが異なっているということがはっきり分かると思います。しかし、前半と後半が完全に別々というわけではなく、両者は所々でゆるくリンクしています。そして最後の『翼』を見せるために、他の話が効果的に配置されていることに気づくでしょう。改めて、米澤穂信という作家の底力を見せつけられたような気持ちです。

*1:以下『箱』と略す。

*2:以下『鏡』と略す。

*3:以下『連峰』と略す。

*4:43ページ

*5:53ページ

*6:65ページ

*7:67ページ

*8:66ページ

*9:75ページ

*10:83ページ

*11:83ページ

*12:93ページ

*13:91ページ

*14:105ページ

*15:116ページ

*16:アニメ『氷菓』、第18話、「連峰は晴れているか」

*17:HUNTER×HUNTER』、第1巻、54ページ

*18:138~139ページ

*19:以下『伝説』と略す。

*20:以下『休日』と略す。

*21:以下『翼』と略す。

*22:215ページ

*23:167ページ

*24:192~195ページ

*25:220ページ

*26:264ページ

*27:265ページ

*28:265ページ

*29:(ネタバレ注意)〈古典部〉シリーズ『長い休日』考察―努力と友情、そして信仰の危機 - 新・怖いくらいに青い空

*30:同記事、り~くん氏のコメントより

*31:42ページ

『けものフレンズ』と動物のボディプランについて

サーバル、カワウソ、トキ、ビーバー、プレーリードッグ、ライオン、ヘラジカ、そしてヒト。地球上の動物の色、形、生態、習性は、多様性に満ちている。もちろんこれは全くその通りなのだが、体を形作る「ボディプラン」は、実はすべての動物で共通なのである。ボディプランとは、生物の器官の配置、胚の発生の形態、を示す言葉である。

まず第一に、動物(特に脊椎動物)の受精卵が分化していく課程は、全動物とも驚くほどよく似ている。陥入と呼ばれる過程を経て口・肛門・消化器官の元となる部位が作られる。その後脊索が作られ、それを元にして脳や脊髄が発生していく。胚の中で脳がある側には、目や口や鼻が作られ、体には4本の手足がある(たとえクジラやヘビのような動物であっても、必ず手足の痕跡器官がある)。そもそも、遺伝情報としてDNAを使い、それを複製することで子孫を残したり、転写・翻訳してタンパク質を作ったりする、という基本的なボディプランは、脊椎動物に限らず地球上の全ての生命について共通しているのである。

何故、これほど多様な動物が存在するにも関わらず、ボディプランは全て共通なのだろうか。『入門! 進化生物学』(小原嘉明著、中公新書)によると、ボディプランとは、車のエンジン、車軸、その他の基本部品を内蔵した「車台」のようなものであり、容易に変更はできないのである。生物は時と場合に応じて、車の塗装や内装、ミラーやライトの種類を変更することはできるし、やろうと思えば車体を全部取っ払って軽トラに改造することもできる。しかし、車を動かすうえで必要不可欠な「車台」を丸ごと変えてしまうのは、やはり難しいのである。

生物は様々な環境に適応して多種多様に進化していった。しかし、耳の大きさや、手足の長さ、足の速さ、体の色や硬さ、頭の良さ、そういった違いは結局のところ些末なものでしかない。ヒトとそれ以外の動物との差は、せいぜい車体の色とかバックミラーの形が違う程度の差しかない。そのように考えると、サーバルとヒトは間違いなく、同じボディプランを共有する「フレンズ」なのだ。『けものフレンズ』が描く世界は決して不自然なものではない。

ノーベル賞と基礎研究・応用研究について

はじめに

ここ1~2年、CRISPR-Cas9技術によるゲノム編集が注目されるようになってきています。関連特許をめぐる研究者間の争いなどのニュースもよく耳にします。

CRISPR-Cas9は、従来法に比べてはるかに低コスト・短時間で簡単にゲノムを改変できる技術であり、開発者が将来ノーベル賞を受賞するのは間違いないと見られています。それと関連して、CRISPRの発見者である九州大学の石野良純教授もノーベル賞を貰えるんじゃないかという声も聞かれるようになりました。例えば、以下のような記事です。

要するに、GFPの発見で下村脩さんがノーベル賞を貰ったのと同じように、第一発見者である石野さんもノーベル賞を貰えるんじゃないか、ということらしいです。じゃあ実際にこの分野の研究者にノーベル賞が贈られるとなった時に、石野さんが同時受賞の上限である3人までの中に入る可能性はあるのか? という話になるわけですが、それについて個人的な印象を述べると、これはもう「ノーベル賞の選考委員がCRISPR-Cas9技術のどの部分を評価するか」によって決まるとしか言いようがないわけです。

CRISPR-Cas9研究の流れ

そもそも研究の流れをざっと整理すると、次のようになります。

  • まず1986年、石野氏らが大腸菌のゲノム中に奇妙な回文配列を発見します。その後、他の細菌にも似たような配列が次々に見つかり、これが後にCRISPR(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeat)と呼ばれるようになります。
  • 次に、CRISPRの近傍にCRISPRと関連する遺伝子が複数見つかり、そこから発現するタンパクはCasと呼ばれるようになります。この段階ではまだ、CRISPRやCasが一体何のために存在するのか不明でした。(今日ゲノム編集で一番よく使われているCas9はCasタンパク質の一つです。)
  • そして2007年になってようやく、Horvath氏らが、CRISPRやCasは細菌が持つ免疫機構であると証明します。(人間などと同じく細菌もウイルスに感染することがあります。その時、細菌はウイルスのDNAの一部を切り取ってCRISPR領域に挿入します。次に同じウイルスに感染した時は、挿入しておいたDNAを足がかりにしてウイルスのDNAを切断します。この切断などに関わる一連のタンパク質がCasであるわけです。)
  • その後、さらに研究が進んで、CRISPRによる免疫機構にはいくつかの種類があることも分かりました。
  • そのうちのタイプIIと呼ばれる機構を利用して、任意の配列を切断できる技術を開発したのが、Doudna氏、Charpentier氏らのグループ。それを改良してヒトの細胞などに適用したのがZhang氏らのグループ。現在、この2つのグループが関連特許について裁判所で争っている状況です。

こんな感じで、CRISPRが発見されてから今日に至るまで、かなりたくさんの研究者が関わっているわけですね。じゃあその中で誰がノーベル賞を取るのか? それは、選考委員が「細菌が持つ免疫機構の解明という基礎研究」を評価するのか、それとも「CRISPRを用いたゲノム編集技術の開発という応用研究」を評価するのか、にかかっているわけです。

ノーベル賞と基礎研究・応用研究

例えば、山中伸弥さんがノーベル賞を受賞したのは、iPS細胞の開発によって医学研究や再生医療に革命をもたらしたからではありません。「体細胞に4つの遺伝子を挿入するだけでその細胞が様々な組織へと分化できる能力(pluripotency)を獲得する」という発見自体が生物学の歴史上極めて重要であったからこそ、彼にノーベル賞が贈られたわけです。その証拠に、山中氏とほぼ同時にヒトのiPS細胞作製に成功した研究者はノーベル賞を貰っていません。同じようなことは、リボザイムやRNA干渉の発見についても言えます。リボザイムやRNA干渉は今でこそ医療分野に応用できるんじゃないかと散々言われていますが、「触媒機能を有するRNA(リボザイム)の発見」「siRNAによるRNA切断(RNA干渉)の発見」そのものに多大な価値があるからこそ、ノーベル賞が贈られているのです。昨年受賞した大隅先生とかも、基礎研究が評価されて受賞となった典型的な例ですね。

一方で、緑色蛍光タンパク質GFP)の発見で下村脩さんがノーベル賞を貰った事例は、ちょっと性質が異なります。彼の場合、GFPを生物学の研究に応用したChalfie氏およびTsien氏と同時に受賞しています。つまり、「GFPを利用することで生物学の研究が飛躍的に進歩したこと」まで評価の対象に含まれているんですね。オワンクラゲの研究とGFPの発見そのものも十分に凄い業績ですが、その後のGFPの応用がなければノーベル賞は難しかったでしょう。この他、DNAシークエンサーの原理の発見、PCRの発明、ノックアウトマウスの作製なども、明らかに「応用」的な面が評価されたノーベル賞だと言っていいでしょう。

CRISPRの発見者はノーベル賞をとれるか?

閑話休題。CRISPR-Cas9技術でノーベル賞を貰うのは誰かという話ですが、「CRISPRのゲノム編集への応用」という部分に焦点を当てた場合は、ノーベル賞を取るのは確実にDoudna氏とCharpentier氏です。3人目にZhang氏が入るかどうか、という感じでしょう。GFPの場合と同様に、基礎と応用の複合型だったとしたら、Doudna、Charpentier、Horvathの3人が受賞ということになるかもしれません。あるいは、CRISPR-Cas9より以前から使われていたゲノム編集技術(TALENとかZFNとか)の開発者と共同受賞とか。いずれにせよ石野氏の受賞は、難しいでしょう。

一方、ノーベル賞の選考委員が「細菌が持つ免疫機構の解明」という基礎研究に焦点を当てる可能性はあるでしょうか? 私は大いにあり得ると思います。「これまで知られていた獲得免疫や自然免疫などとは全く異なる免疫系が存在する、しかもそれは、ウイルスDNAを自身のゲノムに取り込んで記憶しておくという驚くべきシステムである」という事実それ自体にノーベル賞級の価値があると思うからです。選考委員が同じことを考えたのなら、ノーベル賞を貰う第一候補はHorvath氏ということになりますし、CRISPRの第一発見者である石野氏も受賞しても何らおかしくありません。しかし、その場合でも、石野氏はあくまでもCRISPRの発見者というだけであり、実際にそれが免疫システムとして使われているという事実を発見したわけではないので、受賞するかどうかは微妙なところでしょう。

『亜人ちゃんは語りたい』のOPにこの作品のテーマが全て詰まっている

アニメ『亜人ちゃんは語りたい』およびそのエンディング曲『フェアリーテイル』について、次のような考察をしている記事があります。

亜人デミヒューマンを題材に扱う作品の目的は、主に3つ。
「1:異世界ファンタジーらしさを出すため」「2:萌えキャラクターとして」「3:種の生態の表現・文化論」
(中略)
亜人ちゃん~』はというと、2と3の間。
4人の亜人女子の悩みや考え事を描くことで、現実の「マイノリティ」「バリアフリー」問題を間接的に考える作品だ。
エンディングで多様性を表すレインボーカラーのクレヨンを出しているあたり、意気込みが見える。
「亜人ちゃんは語りたい」が描くバリアフリー。バンパイアに国が月1で血液パックを支給 - エキレビ!(1/2)より引用)

しかしオープニング曲『オリジナル。』の方も、エンディングに負けず劣らず、意気込みが感じられて意味深な歌詞になっています。

語りたいよ 君の素敵 オリジナル
ざわめいた教室 浮きたくないみんな 愛想笑い
負けん気な瞳の君だけが 唇強く噛みしめていた
君は言ったね 誰かの目気にして 他の誰かを傷付けたくないよ
(『オリジナル。』、作詞:岡田麿里、作曲編曲:ミト、歌:TrySail*1

歌詞を見てもらえば分かると思うのですが、これ、明らかに学校での「いじめ」や「差別」のことを言ってる曲ですよね。

教室がざわめいているのは、そこで誰かがいじめられているからです。あるいは教室の中でマイノリティとなった生徒が、身体的特徴とか趣味嗜好とか家系とかをバカにされて笑われている。いじめは駄目だと分かっていても、みんな教室の中で「浮きたくない」ので、ただ流されるままに「愛想笑い」を浮かべている。そんな中で、「負けん気な瞳の君」=小鳥遊ひかりちゃんだけが、唇をギュッと噛みしめていたたまれない気持ちになっているわけです。「誰かの目」を気にするということは、すなわち、教室内で浮いてしまわないように空気を読みながら過ごすということ。でもそれは「他の誰か」、すなわち、「普通じゃない」というレッテルを貼られて差別されている人(それは亜人・障害者・LGBTの人など、色々な場合が考えられる)を傷付けることにもなる。そんなことはしたくない、間違っているものにはっきり「ノー」と言うことのできる自分でありたい、という風にひかりちゃんは強く決意する。

多数派によって形成された空気の中で、人々は同質化・規格化されていく。男は女を、女は男を好きになるのが普通、いつも五体満足でいるのが当たり前、共通の話題で盛り上がれるのが当然、という空気ができあがっていく。でも、人間とは本来、もっと多様性があるはずなんだ。障害者もいる、同性愛者もいる、血を吸いたくなる人もいるし、頭と体が分離してる人もいる。彼ら一人ひとりが掛け替えのない「オリジナル」な人間だ。その「オリジナル」をもっと知りたい、もっと語りたい、と高らかに謳い上げているのが、このOP曲なのです。

これはまさに、本作のテーマそのものと言えるんじゃないでしょうか。

*1:耳コピなので、間違っていたらごめんなさい。

『かぐや様は告らせたい』における四宮かぐや様の可愛さの指数関数的増大について

『かぐや様は告らせたい』第4巻読みました。もうね…本当にね…今回も我らがかぐや様が、

おかわわわわわわわわわわわわわわわわわあああああああ!!!!!!!

という感じで、相変わらず四宮かぐや様が異次元の可愛さで、読んでる間ずっと笑いが止まりません。いや、もう、とにかく凄いとしか言いようがないんですよ。話が進むにつれてかぐや様の可愛さが指数関数的に増大しています。エクスポネンシャルです。可愛さのハイパーインフレーションです。

普通のキャラの場合、可愛さが増していくということはありません。初登場時と同じレベルを最後までキープしていくというのが基本です。しかし、まれに、話が進むにつれて可愛さがどんどん増していくキャラクターもいます。しかし、この場合でも、可愛さの増大はリニア(一次関数的)な増え方しかしません。また、その増大もいずれは飽和に達し、最終的にはある一定の可愛さラインのところに落ち着くのです。ところが、かぐや様の可愛さだけは、エクスポネンシャルな増大を見せるのです。要するに、普通のキャラの可愛さは2倍、3倍、4倍…という増え方をするのですが、かぐや様の場合は10倍、100倍、1000倍…というケタ違いの増え方をしているのです! これは、宇宙の加速的膨張の発見(この功績により、Perlmutter氏、Schmidt氏、Riess氏が2011年ノーベル物理学賞を受賞)にも匹敵する、歴史的な大事件と言えるでしょう。

では何故、かぐや様の可愛さだけが、リニアではなくエクスポネンシャルな増え方をしているのでしょうか? それは、かぐや様の中で、生徒会長・白銀御行への恋心がどんどん増大していることと関連しています。もう巻数が増えるにしたがって、かぐや様がどんどん「恋する乙女」になって行ってるんですね。かぐや様はとにかく御行のことが大好きなのです。御行といっしょに居たい、デートしたい、手をつなぎたい、抱かれたい、キスしたい、私だけを見ていてほしい、ああもう大好きだあああああああああああああ!!!!!って叫びたくなるくらい、御行のことが大好きなのです。(それと同じくらいに、御行もまた、かぐや様のことが大好きでたまらないのだということは、もはや言うまでもないでしょう。)

でも、この作品特有の上手い設定によって、自分の感情を素直に受け入れることができない状況が生まれているのです。皆さんご存知の通り、かぐや様は超エリートでプライドが高くて、自分から告白するなんて恥だと思ってるわけですね。また、同様の理由から、相手に自分の弱みを見せられない、子どもっぽいところを見せられないと考えてしまって、いつも自分の感情に蓋をして平静を装っているわけです。しかも、自分の中の恋心が日に日に増大していくのを意識すればするほど、ますますその感情を隠そうという気持ちも強くなっていってるんです。(まあ、ぶっちゃげ、2人とも自分から告白するのが恥ずかしいから、もっともらしい理由を付けて告白できない言い訳にしてるだけ説もあるんですけどね。)

さて、上で見てきたように、現状のかぐや様は、大好きな人に近づきたいという引力と、自分の弱みを見せたくないという斥力が、どちらも日に日に増大しているような状態です。こうなると、自分の頭の中で相反する感情がせめぎ合い、感情が右へ左へ揺れ動き、脳内がもうしっちゃかめっちゃかになっていきます。このカオス状態こそが、強力な可愛さのビックバンを生み出し、指数関数的な可愛さの増大という現象を引き起こすのですね。

もうこれは、2017年の日本において、最も面白いラブコメと言っても過言ではないでしょう。早くアニメ化しろって思います。