新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

2017年上半期アニメ総評

3月のライオン

3月のライオン』という作品の中には実にたくさんの要素がある。家族とは何か、仲間とは何か、たった一つのことに人生を捧げるとはどういうことか。大人になるとはどういうことか。孤独と絶望、勝利と敗北、才能と努力。一つの作品の中に色々なテーマを詰め込み過ぎじゃないだろうか。しかし、そのことが本作の魅力を損ねているとは思わない。

また、毎回異なる言葉にし難い読後感を得られるのも、本作の魅力の一つだろう。人生の全てを将棋に捧げてきた松永の壮絶な人生を描いた第9話と、そこから一転して実に後味の悪い安井戦を描いた第10話。階段で泣きながら昼食を食べる零のもとにハイテンションな林田先生が登場して場の雰囲気が一変した第14話。壮絶な覚悟で獅子王戦に臨む島田八段が掴みかけていた勝利が、あまりにも残酷な形でこぼれ落ちていく第20話。各話それぞれに異なる良さがあった。

この素晴らしい世界に祝福を!2

以前述べたように、第1期は本当に面白かったのに、第2期の凋落ぶりは一体何だ! スタジオディーン、完全にやらかしちゃいましたね、これ。

主に2つ不満点がある。第一に、アンデッドのウィズがカズマ達と行動を共にしている理由が全く描かれていない。第1期では、尺の都合もあったのか、ウィズの初登場時のエピソードが省かれて、第9話でさらっと説明がされるだけで終わった。なので、第2期かOVAか何かで改めてそのエピソードをやるのかと思いきや、その辺は完全スルー。こういう原作未読者に対して極めて不親切なアニメの作り方をするのは、非常に違和感があるんですけどねえ…。

第二に、後半が切望的につまらなさ過ぎる。後半はカズマ一行が温泉の町・アルカンレティアに向かう話なのだが、これを4話分も使ってやる意味が分からない。パーティーメンバーのせいでトラブルに巻き込まれ、それをマッチポンプ的に解決するというお馴染みの展開と、アクシズ教徒のマジキチっぷりをウザいくらい執拗に描写しただけで、後半が終わってしまった。この話をやるにしても流石に4話は使い過ぎだろう。そのせいで『このすば』の魅力の一つであったテンポの良さも半減してしまった。スタッフは一体何を考えてこんなバカな構成にしたのだろう。

原作ではまだまだ面白い話があると聞いているので、第3期もやってほしい。それが実現したならば第2期は、蛇足、失敗作、黒歴史として記憶されることだろう。

うらら迷路帖

第5話で、神様を見ることのできる千矢の才能に嫉妬し、自分の負けず嫌いな性格を自覚する紺。そんな彼女に、その感情は何ら恥じることではない、今はただ未来の可能性を信じて頑張るしかない、と説くニナ先生。本作の白眉となるシーンだと思う。女の子どうしの楽しい空間を描くのがいわゆる日常系アニメのお決まりのパターンだが、本作で一緒に修行している彼女たちは、大切な親友であると同時に、お互いに切磋琢磨するライバルでもあるのだ。

でも、紺が千矢と並び立つためには、一体どのような修行というか努力をするべきなのだろう。それがいまいち見えてこない。千矢の力というのは、はっきり言ってしまえば、生まれた環境によって引き出された「才能」によるところが大きい。才能のない者が才能のある者に勝とうとするなら、足りないものを努力によって補うしかないのだが、紺がこれから進むべき努力の方向性はとても漠然としており、彼女はこれからも(エンディング曲の歌詞にあるとおり)迷い悩みながら日々を過ごしていくのだろう、と思うと少し心がざわつく。

本作では、そのあたりのテーマが話の中心になることが巧妙に避けられているように感じたし、昇格試験も4人一緒のチーム戦となっており、ご都合主義的だなあと思わざるを得なかったが、一方で、他の日常系アニメには見られないタイプの良さが随所に見られたのもまた事実。今後の展開に期待したい。

政宗くんのリベンジ

やはり、昔振られた女の子に復讐しようという動機だけで物語を動かすのは無理があるのでは? 最初は楽しみに見ていたが、そのうちどうでもよくなり途中で見るのを止めてしまった。

小林さんちのメイドラゴン

人智を超えた侵略者的存在が何故か人間の家に居候し異文化交流する作品は『侵略!イカ娘』など枚挙に暇がないが、それを京アニが本気を出してアニメ化したのが『小林さんちのメイドラゴン』だと言える。このタイプの作品の魅力は主人公であるイカ娘やトールのキャラクターによるところが大きいのだが、本作では何といっても小林さんの淡々としたキャラが実に良かった。小林さんは『イカ娘』で言うところの栄子に相当するポジションであり、彼女らが侵略者やドラゴンの手綱をしっかりと握っているからこそ、物語は上手く駆動していくのであろう。

しかし、キャラクターはともかく、ストーリーの方はいたって普通であり、可もなく不可もなくという感じ。『日常』のようなシュールギャグ路線にも、『たまこまーけっと』のような心温まる日常ものの路線にも合致せず、中途半端な印象だけが残った。しかし、最終回については、さすが京アニという感じで光るものがあったと思う。

亜人ちゃんは語りたい

オープニング曲の歌詞が明らかに学校での「いじめ」や「差別」のことを言っていた(関連記事)ので、そういった問題に切り込んでいく作品なのだと思いきや、本編で描かれるのは各ヒロインが個人的に抱える問題についてばかりで少し拍子抜け。かといって、亜人ちゃん達のキャラクター性に特段魅力があるというわけでもなく、いまいち面白みに欠ける内容だった。

クズの本懐

本作で最も重要なキーワードとなったのが「代替可能性」であり、本作はまさに、各登場人物がその「代替可能性」とどう向き合っていくかを描いた作品だったと言える。そのあたりのことはtentofourさんの記事(『クズの本懐』感想:代替可能な恋愛関係 - ねざめ堂)ですでに指摘されているので、ここで改めて何か言う必要はないだろう。

声優について言えば、花火役の安済知佳さんの演技が素晴らしいとしか言いようがない。常にアンニュイでダウナー系の雰囲気を纏いつつも、隠しきれずに様々な感情が滲み出てくる安良岡花火という難しい役を見事に演じていた。

けものフレンズ

以前の記事でも書いたように、ツチノコ役の小林ゆうの演技は最早反則レベルの面白さだと思う。話数で言えばツチノコが登場した第4話がやはり一番面白かった。時点でトキとアルパカが出てきた第3話。

第5話以降についても決して詰まらないわけではないが、個人的に言えば、第4話を超える衝撃は無かった。まあ、小林ゆうレベルの珍獣はそうそう見つからないので、仕方のないことではあるのだが。

リトルウィッチアカデミア

リトルウィッチアカデミアというアニメは、時代の最先端を行くTRIGGERという製作会社が私たちに見せてくれた魔法に他ならない。ブログ・物語る亀でも、作中における魔法界とはまさしくアニメ業界のメタファーである、と述べられている。

誰かの願いがやがて一人の少女を変え、少女の周りの人達を変え、やがて世界を変えていく感動。アニメという表現が持つ素晴らしさ、偉大さ。そして、それらの背後にある怖ろしさ、輝かしいものの背後に潜む矛盾。才能と努力、伝統と革新技術の対立、多様性の意味。この作品は、魔法=アニメというものを通して現代社会のありとあらゆるテーマを描こうとしていたように思う。

今年上半期の中でも一二を争う名作だった。強いて不満点を挙げるなら、後半になるにつれてスーシィとロッテの出番が少なくなってしまった事くらいか。

冴えない彼女の育てかた♭

冴えない彼女の育てかた』は、『俺妹』や『さくら荘』のようなクリエイター系学園ラブコメの極致に達した作品だと思う。要するにこの作品は、新しいものを生み出す作業とは「狂気」に他ならないと言っているのである。何度も血反吐を吐き、命を削っていく覚悟と狂気がなければ、人々を魅了する新しいものを創造することはできないと言っているのである。歴史を振り返ってみても、世の中にない全く新しい価値を生み出した人はたいてい狂人である。

その理屈で言えば、プロデューサーやディレクターと呼ばれる人達もまた狂気を孕んでいなければならない。クリエイターに問答無用で高いレベルの仕事を要求し、この作品のために命を捧げろと言うことのできる狂気を孕んだ修羅でなければならない。だが、倫也は最後まで修羅になることができなかった。倫也にとって彼女達はどこまで行っても一緒に楽しくゲームを作る「仲間」という認識だから、倫也は彼女達に無茶をさせるような厳しさを持つ事ができないのだ。そして何より、英梨々や詩羽のような優れたクリエイターが命を懸けるに値するものが、自分の中にあるという確信を、彼は最後まで持つ事ができなかった。だからこそ、英梨々も詩羽も、倫也のもとを離れるという決断を下した。

そんな中、ただ一人倫也のもとを離れなかったのが加藤なのだ。二人の間に狂気は存在しない。あくまでもフラットな日常の関係性が続いている。そんなフラットな関係性の中で生まれる何気ない仕草や感情の動き、緩やかな心境の変化といったものに、倫也は「萌え」を見出し、新しいものを生み出す活路を見出したのだ。上で述べたように、英梨々や詩羽の物語は非常にロジカルで分かりやすい。だが、加藤と倫也の関係性となると、途端に言葉で説明することが難しくなる。彼らの関係性はこれからどうなるのだろう? 大きく変わっていくのか、それとも、何も変わらないのか、全く予想がつかない。しかし、この「分からなさ」「先の見えなさ」こそがこの作品の魅力の一つだろう。

第1期では正直あまり面白いとは思えなかったが、第2期に入ってようやくこの作品の真髄を理解できたように感じる。

武装少女マキャヴェリズム

チョロイン(最初は主人公と敵対してたのに優しくされるとあっという間にデレるチョロいヒロイン)という言葉がこれほど一般的にならなければ、この作品は生まれなかっただろう。鬼瓦輪をはじめとする各ヒロインが納村に好意を持つまでの過程があまりにも短絡的で、「こいつらチョロすぎだろwww」とツッコミを入れざるを得ないが、おそらく作者もそういったツッコミが入ることは想定していて、それを上手くギャグに落とし込み、それを含めて作品として成立させてるようなフシがある。

本作に限れば、ストーリーや作画について語ることは無意味で、各ヒロインのチョロくて最高に可愛い姿をただただニヤニヤしながら眺めることに特化したアニメだった。作画が微妙なことになってる戦闘描写やご都合主義なお話、その他あらゆる不満点も、ヒロインの可愛さの前では全く気にならなくなる。それくらいに、鬼瓦輪さんが最高に可愛くて、上半期No.1の萌え力を発揮していた。

クロックワーク・プラネット

マリーちゃんが愛おしくて仕方がない。いつも元気で、正義感が強くて、努力家で、でも、本当は恥ずかしがり屋で、真面目さゆえに何かあるとすぐに落ち込んじゃうのが、もう最高に愛おしくて、毎週ストーリーとかどうでもよくて、マリーちゃんだけを見てました。

リューズ? アンクル? 知らない子ですね…。

『けいおん!』第2期、第25~27話感想

BSプレミアムで去年『けいおん!』の再放送をやってて、良い機会だったので各話の感想を書いたのですが、

第2期の第25~27話については、感想をupするのを忘れてたので、upしました。映画版はだいぶ前に1度見たきりで、内容もあまり覚えてないので、また別の機会に感想を書くかもしれません。

第25話(番外編)「企画会議!」

マックで梓・憂と話している時の純ちゃんが可愛い。軽音部の勧誘ビデオなのに「私は関係ないけど」とか言っちゃういちごちゃん凄い。あと、その後ろにちょっとだけ映ってる木下さんもクッソ可愛いので要チェックです。同じく、勧誘ビデオで「それは軽四」ってツッコミ入れてる子がメッチャ可愛い(調べたところ、太田潮ちゃんという名前らしいです)。

第26話(番外編)「訪問!」

先生の部屋に行く時のテンション高いムギちゃん可愛い。「ダッシュダッシュ!」とか、かわいすぎやろ。間違えて別の部屋のインターホン押してすぐ逃げようとするりっちゃん最高に愛おしい。その後の心霊写真のくだりもホントかわいいですね。第1期と同様にふわふわタイムで締めるラストは見事。

第27話(番外編)「計画!」

マチュピチュをうまく言えない梓、すばらしいとしか言いようがないですね。あと、護身術の練習で梓に抱き着きながら「金よこせ~」とか言ってるムギちゃんが最高すぎた。夏期講習の頃と言えば、第14話でもあったように、ムギさんがスキンシップに飢えていた時期。そう考えると実に感慨深い描写ですね。

『ヤマノススメ』から溢れ出す阿澄力

阿澄力とは、阿澄佳奈さんが演じているキャラクターに宿る力のことです。具体的に言えば、

といったキャラクターに宿る不思議な力です。阿澄力のあるキャラクターには、身長が低い、性格が明るい、表情が豊か、騒がしい、ちょこまか動き回る、といった特徴がありますが、それが全てのキャラに当てはまるわけではありません。もちろん、阿澄佳奈さんが演じていても、阿澄力の低いキャラもいますし、逆に、他の声優さんが演じていても「あ、このキャラ、阿澄力が高いなあ」と思うキャラクターもいます。

要するに、阿澄力とはいったい何なのか? 残念ながら、それを言葉で上手く説明することは難しいと言わざるを得ません。ただ、上記のキャラクターを見て「こういうものだ」と感じてもらうしかありません。

以上のような観点から『ヤマノススメ』を見てみると興味深いことが分かります。実は、『ヤマノススメ』の倉上ひなたって、史上最も阿澄力の高いキャラクターなのです! 特に、ひなたが笑顔で「あおいーっ!」って呼んでる時の阿澄力は、エベレストをはるかに凌駕しています。なぜ、これほど強力な阿澄力が観測されるのかと言えば、それはもう雪村あおいから放たれる井口力との相乗効果によるものと考える他ありません。

アニメ『ヤマノススメ』の魅力の大部分は、この圧倒的な阿澄力にあると言っても過言ではありません。先日放送が決まったアニメ第3期も、阿澄力に満ち溢れた素晴らしい作品になるだろうと確信しています。

『ななしのアステリズム』第5巻感想―仕分けされる苦しみ、そして、私たちを形作る名前のない星々

『ななしのアステリズム』第5巻読んだ。前巻の衝撃を軽々と超えてくる怒涛の最終巻だった。第1~4巻までの感想は以下の記事を参照。

第21話、早朝の河川敷で司に扮した昴が、朝倉に自分の気持ちを打ち明ける。小学5年生の時、女子から告白されて昴は次のように感じる。

テレビや本の中の物語に出てくるだけで今まで何も感じた事はなかったけど
昴はその時初めて感じたんだ “仕分け”された
…うまく言えないけど 女子から告白されたから男に? 恋愛のイメージから大人に?
昴自身は変わらないハズなのに ついさっきまでの自分とは違うものにされた気がした。
望んでないのに勝手に 知らない所に連れていかれた気がした*1

それは何の前触れもなく、突然にやってくる。誰もがその当時に「仕分け」されたと言語化できるわけではないが、後から振り返ってみて、ああ、あの時に自分は「仕分け」されたんだと気付く瞬間がある。それを当然のこととして喜んで受け入れる者もいれば、自分が「仕分け」されたことに気付かない人もいるだろう。そして昴のように、それに対して「気持ち悪い」と嫌悪感を覚える者もいるだろう。いずれにせよ私たちは、ある時を境にして、自分の望む望まないにかかわらず「仕分け」される。

では、仕分けされることによって私たちは一体何に「なる」のか。それは、異性を好きになることが「自然」で、異性と付き合うことを楽しいと思うことが「当たり前」だと感じる、「普通」の人間に「なる」、いや、「させられる」のだ。それをおかしいと思っても口にできない、恋愛とは「そういうもの」だという枠組み、男とは、女とは、人間とは「そういうもの」だという空気の中に、無理やりに押し込められ、その枠組みや空気を形作る一員となることを強制されるのである。

繰り返しになるが、それを祝福として受け入れて生活している人も勿論いる。しかし、それをどうしても受け入れられない、その空気にどうしても馴染めないという人もいて、それが昴をはじめとする本作の登場人物だったのだと思う。最終巻にしてようやく、昴という名前の意味が明かされる。

なんで僕はこうなの?って 理由も特にないのに
今まで感じた自分への違和感 まわりへの疑問
一つ一つは小さいけれど たくさん増えていって
やがてそれは一つの集団になり 今の“昴”を形づくる*2

すばる(プレアデス星団)を形作る大小の星々。その星の数だけ昴は傷付き、悩み、苦しみ抜いて、どうする事もできない気持ちを胸に秘めて、それらの名前のない星々の集まりが今日の昴を構成しているのだ。それは昴だけではなく、琴岡も、おそらく司や撫子もまた、「仕分け」されたがゆえに何度も傷付き、辛い思いをしてきたのだ。世間一般のマジョリティとは恋愛に関する考え方が違うというただそれだけの理由で、全く無自覚な他人の言動が彼女たちの心をえぐるように傷付けてきたのだ。なんて悲しい物語だろう。

しかし、彼女たちの歩む道が悲しみばかりで満ちているのかと言えば、そうとは限らない。たとえ想いは伝わらなくても、たとえお互いを完璧に理解できなかったとしても、愛する人と過ごすかけがえのない時間。それは決して悲しいだけではない、喜びや感動に満ち溢れた大切な時間となり、やがて、未来の彼女たちを形作る名前のない星となるのだ。

…というわけで、『ななしのアステリズム』、堂々完結である。事実上の打ち切りだが、これはもう「堂々」と言って差し支えないだろう。おそらく作者にとっても不本意な終わり方だったであろうが、違和感を覚えない程度に軌道修正し話を上手く着地させる作者の技量、これはもう新人の域を超えているように思う。

百合でもBLでも何でもいいので、小林キナ先生の次回作が早く見たい。

*1:第5巻、96~97頁

*2:第5巻、107頁

『博多弁の女の子はかわいいと思いませんか?』第2巻―この漫画バリ凄いっちゃが!

第1巻の時も思ったけど、やはりこの漫画、福岡に住んでた人が読むと面白さが倍増しますね。私も今は別の県に住んでますが、高校まで福岡に住んでたので、作中の描写の“分かりみ”が半端ないんですよ。

福岡県民はよく使う「なん?」とか「なんなん?」とかいう言葉の話を使いますが、どん子ちゃん曰く「けど…共通して博多の人間が『なあん』って言うときがあるんよ」「姿が見えんとこからお母さんにしつこく呼ばれたとき…!!」

これ、最初に読んだ時、本の前で思わず拍手しちゃいましたね。とにかくもう凄いとしか言いようがないんですが、自分の心の奥底に染みついた「なあん」の使い方と、どん子ちゃんが例として挙げた「お母さんにしつこく呼ばれたとき」っていうのがもう、寸分の狂いもなくピッタリと当てはまってるんですよ。

あと、「からう」の共通語を聞かれて一瞬分からなくなるのも、ホントその通りとしか言いようがない。とにかく、「そうそう、まさにその通り!」「あー、あるある!」と、読んでいて凄い頻度で唸らされるんですよね。

一方で、博多弁に関するまた新しい発見もありました。例えば、「しかぶる」は熊本県南部出身の祖母が使っていましたが福岡では聞いた記憶がないので熊本だけで使われてる方言だと思っていたのですが、どうやら九州のかなり広い範囲で使われているようです。

こんな風に、福岡あるあるネタ漫画として他に類を見ない魅力のある本作ではありますが、どん子、町子、京の高校生3人が仲良く青春を過ごしている描写だけでもスゲー面白い!って思えるくらいポテンシャルの高い漫画でもあります。第3巻以降も博多通りもんのように変わらずに3人の楽しい高校生活を描いてくれることでしょう。