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最近読んだ本まとめ

CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見

CRISPR (クリスパー)  究極の遺伝子編集技術の発見

CRISPR (クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見

CRISPRを用いたゲノム編集技術の開発によって今や最もノーベル賞に近い学者となったジェニファー・ダウドナ氏による自叙伝。見どころは何といっても、著者がCRISPRの研究に参入し、CRISPR関連タンパク質であるCas9の機能を解明し、そしてそれがゲノム編集に応用できることを示すまでの軌跡だろう。しかし、その内容は悪く言ってしまえば面白みのない、勝つべき人が順当に勝ったというだけの物語に思えた。

ゲノム編集の研究によって世界的名声を得る前から、彼女はカリフォルニア大学バークレー校で自分の研究室を持ち、潤沢な資金と人材を駆使して研究を推し進めることができる立場にあった。そこには、ドラマチックなエピソードもなければ、一発逆転の大博打もない。豊富な人材と資金を駆使した横綱相撲によって、彼女は手に入れるべくして栄光を手に入れた。

ただ、彼女にとって幸運だったのは、共同研究者の話を聞くなどしてかなり早い段階でCRISPRの研究をスタートできたこと、そして、ゲノム編集に応用可能なII型と呼ばれるCRISPR機構の研究に偶然も重なって着手することができたことだった。それゆえに、彼女は誰よりも早く複雑なCRISPR機構の全体像を把握することができ、それがゲノム編集にも応用できるのではないかという着想につながった。まさに、圧倒的な実力と資金力に加えて、運も味方につけて掴み取った栄光と言えるだろう。

本書の後半は、CRISPRの応用面、そして倫理的な懸念についての記述になる。ゲノム編集が持つ負の側面について、その開発者自らがどう考えているのかを語ることはとても意義があることだと思うが、内容はニュースや一般向け解説書などで書かれていることと大差ない。

個人的なことを言えば、ダウドナ氏は当分、伝記や一般向け書籍は書かないでほしい。ノーベル賞学者が小学校で算数を教えているようなものだからだ。彼女はこれからもしばらくは(ノーベル賞を取った後も)科学の最前線で研究を続けるべき人だろう。そうしないのだとしたら人類にとってとてつもない損失である。

ミトコンドリア・ミステリー

ミトコンドリア・ミステリー―驚くべき細胞小器官の働き (ブルーバックス)

ミトコンドリア・ミステリー―驚くべき細胞小器官の働き (ブルーバックス)

2002年の本なので読む前は内容が古すぎるかと思ったが、そんなことはない。文字通り、まるでミステリー小説を読んでいるかのようにページをめくる手が止まらなくなる良質なブルーバックスだった。

著者の専門であるミトコンドリア研究の分野では、ミトコンドリアDNAの変異がガンを誘発する、父親のミトコンドリアも一部は子に受け継がれる、ミトコンドリアは老化現象に関与している、といったセンセーショナルな仮説が一時期もてはやされた。著者は、コツコツとデータを積み上げ、一歩一歩着実に真実を明らかにして、それらの仮説が間違いであることを示した。そのような研究は、なかなかスポットライトが当たらない地味な研究になりがちだ。だが、科学という営みにおいて、そのような地味で日の当たらない研究こそが何よりも大事なのだということを本書は教えてくれる。

世の中には、わずかばかりの実験データを都合のいいように解釈して、自説が正しいと吹聴して回り、独りよがりでセンセーショナルな仮説を立てて世間の注目を集めることばかりに熱心な研究者も多い。しかし、客観的なデータを時間をかけて積み上げ、一点の曇りもない公平な目でそのデータを分析することこそが、本来の科学者のあるべき姿だと思う。そして、このような本当に大切で価値のある研究をする土壌が、今の日本に果たしてあるだろうかと不安になってくる。

予想どおりに不合理

本著を含む一連の行動経済学の本で著者が明らかにしてきたのは、人間という生き物がいかに不合理であるかということだ。そして、その不合理さに人種や国籍による差はほとんどなく、驚くほど世界共通である。どの国においても、履歴書にはありもしない功績と美辞麗句が並び立てられ、役所のする仕事は融通が利かず、レポートの提出期限が近づくと学生の家族の葬式が増える。だが、このどうしようもない人間の性質を知っているか否かによって、社会のあらゆる問題に対する見方が変わってくる。

例えば、会社の同僚から「荷物を運ぶんで手伝ってほしい」と言われたらたいていの人が快く協力してくれるだろうが、それに加えて「運んでくれたら10円あげる」と言って来たら言われた側は良い気がしないだろう。私たち社会人は、自分の損得とは無関係に善意や正義感によって動く世界(社会規範の世界)と、労働に見合う対価をもらうことで動く世界(市場規範の世界)の両方を行き来している、と著者は言う。私が思うに、近年の日本における教職員の過重負担やブラック企業でのサービス残業の問題も、ここに問題の根源があるのではないだろうか。日本の企業や教育機関はずっと、社会規範の世界(つまり労働者個人の善意による無償労働)によって支えられてきた。本来であれば市場規範の論理で運営されるべき組織が社会規範の論理によって無理やり動いていたため、その歪みが今になって表面化してきているのだ。

また、古典的な経済学では市場における価格は需要と供給のバランスによって決まるとされているが、実際には様々な要因により消費者の価格に対する印象はガラリと変わってしまう。例えば、以前書いた記事でも紹介したアンカリング効果はその代表例だろう。価格決定の不合理性をより確かに実感したいのであれば、日本各地にある飲食チェーン店の求人広告を見ればいい。自己開発セミナーか新興宗教の勧誘かと見間違うかのような綺麗事と美辞麗句のオンパレードで、まるでここでしか体験できない貴重な経験をさせてやってるとでも言いたげな広告ばかり。そうやってここで働くことがとても価値のあることのように錯覚させ、低い時給のままで人材を確保したいという企業側の思惑が透けて見える。

本著の面白いところは、一回読んだだけで世の中の理不尽な制度や問題点が何故なくならないのかが、具体的に見えるようになるところだ。ニュートン力学を知ることで物体の運動を説明できるようになるのと同じように、行動経済学を知ることで現在進行形で起こっている社会問題の構造が見えてくる。日本人が書いた同じようなテーマの本も何冊か読んだが、こちらの方が断然面白く、あっと言う間に読み終えてしまう。著者の文才も凄いのだろうが、翻訳もまた素晴らしいのであろう。

なぜカントリーマアムのサイズは小さくなってしまうのか

食品会社が原料費の高騰などの要因によって従来の価格で商品を売ることが難しくなった場合、まず最初に原材料や製造方法を見直し製造コストを削減しようとする。それでもどうしようもなくなった場合、食品会社が取り得る選択肢は2つしかない。

「食品の内容量をそのままにして価格を上げる」か「価格をそのままにして食品の内容量を減らす」かである。しかし、実際には多くの企業が後者を選択している。それは何故か。その理由は行動経済学でいうところのアンカリング効果で説明できると思う。

例えば、あるお菓子を最初から300円で販売した場合より、最初200円だったのが後から300円に値上げされた場合の方が、どこか割高な印象を覚えないだろうか。消費者は長年200円という価格で慣れ親しんでいる状況で、いきなり300円に値上げしますと言ったら、「え?この前までは200円で買えたのにどうして?」という心理からその商品にかなりのマイナスイメージがついてしまう。まるで船を係留する錨(アンカー)のように、まるで生まれて最初に見たものを親と思い込むひな鳥のように、消費者は最初に提示された200円という価格に引きずられて、300円を実際のお財布へのダメージ以上に「高い」と感じてしまう。

それゆえに、「食品の内容量をそのままにして価格を上げる」という選択をすると、値上げによる需要の減少分に加えて、アンカリング効果による買い控えも重なり、企業は二重のダメージを受けてしまうと考えられる。であるからこそ、ポテトチップス1袋のグラム数は減り、チョコパイ1パックに含まれるパイの個数は少なくなり、カントリーマアムのサイズは小さくなるのだ。

このアンカリング効果を最も効果的に利用している日本企業は間違いなくジャパネットたかたである。

「はい、今日ご紹介するのは、この最新型掃除機! お値段なんと5万円! 5万円ですよ皆さん! 見てくださいこの吸引力! 今なら専用ノズルと専用ブラシもお付けして、さらに今回に限り、通常5万円のところを、先着1000名様に限り3万円でご奉仕いたします! こんなチャンス、二度とありませんよ! 今すぐお電話を!」

一方、アンカリング効果が悪い方向に働く場合もある。アニメの製作費が低く抑えられている(そのせいでアニメーターの給与が低くなっている)のは、手塚治虫が最初に著しく安い価格でアニメを制作してしまったためだという話がある。もしこれが事実なら、アンカリング効果によって価格が不当に低く抑えられている一例と言えるだろう。

また、アンカリング効果を利用しようとして失敗してしまうケースも存在する。鳴り物入りで名古屋にオープンしたレゴランドの評判がいまいち良くない理由の一つに、大人6900円という高い入場料が挙げられている。東京ディズニーランドの7400円や、ユニバーサルスタジオ・ジャパンの7600円に比べたら割安だが、客はそれでは満足しなかったようだ。運営会社としては「TDRUSJのような本格的テーマパークが格安の値段で楽しめる!」と宣伝したかったのかもしれないが、「TDRUSJに比べて規模がかなり小さいのに入場料だけは同じくらい取られる」というマイナスイメージの方が上回ってしまったのだろう。

参考著書: 予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

『少女終末旅行』―終末と救済と孤独にまつわる物語

少女終末旅行 1巻 (バンチコミックス)

少女終末旅行 1巻 (バンチコミックス)

少女終末旅行』総評

終末もの(ポスト・アポカリプス)によくある反戦反核の思想、行き過ぎた科学技術への警鐘、荒廃した土地で力強く生きる人間への賛歌等のメッセージを排し、生き物が死に絶えた世界で2人の少女が旅をする様子をただあるがままに描くことで、文明社会に生きる我々が抱える「終末」への恐怖を浮き上がらせて見せた。

「終末」とは何か。それは、全てのものが忘れ去られ、無に帰るということである。人類が積み上げてきた科学技術や文化や芸術が、すべて破壊されて再現不可能となり、かつてそういうものがあったという事実すら忘れ去られて、もちろん、私たちが生きた証も、生まれてきた意味すらも、文字通り全てのものが消えて無くなるということである。人類にとってこれ以上の恐怖が果たしてあるだろうか。

にもかかわらず、作中の世界はどこまでも穏やかで優しい時間が流れている。なぜ、終末の恐怖に満ち溢れた世界で、チトとユーリはこんなにも穏やかでいられるのだろう。それは、人間にとって「終末」が恐怖であると同時に、救済でもあるからだ。作者もあとがきで次のように書いている。

生命も文明も宇宙も、ちゃんとどこかで終わっていてほしい。終わりがあるというのはとても優しいことだと思います。(第3巻あとがきより)

人間は不変や永遠に憧れる一方で、忘れることに癒されていると思います。(第5巻あとがきより)

少女終末旅行』に存在しないのは、他者を殺し他者のものを奪うことでしか生きることのできないという「人間に科せられた業」ではないだろうか。限られた資源を奪い合い、他者を傷付けて、強い者だけが子孫を残すという生存競争をずっと死ぬまで続ける。そんな業を背負って生きていかなければならないのが、人間、そして全ての生物の定めなのだ。文明が存続する限り、「生物に科せられた業」から解放されることは決してないだろう。なぜならば、より強く、より多くの子孫を残せるように、という競争本能は何十億年という時間の中で遺伝子レベルで刻まれているものだからだ。人間が「生物に科せられた業」から解放される時、それはすなわち、技術文明が滅び終末を迎える時に他ならない。

少女終末旅行』は、人間の消え去った世界、人間が「生物に科せられた業」から解き放たれた世界がこんなにも美しいものであるという事を明らかにし、同時に、この地球にとって人間とは何なのかという究極の問いを浮き上がらせて見せたのだ。

しかしそれでも、終末が救済につながると知っていてもなお、それを受け入れることができない、そんなある種の本能がチトとユーリを旅に向かわせるのかもしれない。そして、現実世界の人類もまた、チトとユーリのように、あてもなく旅を続けている存在なのではないだろうか。

ドレイクの方程式

話は脱線するが、ドレイクの方程式というものをご存じだろうか。これは天文学者フランク・ドレイクが1960年代に提唱した方程式である。「銀河系に存在する地球と交信可能な地球外文明の数」をNとおいたとき、その値は以下の式で表されるという。

N = R・Fp・Ne・Fl・Fi・Fc・L

右辺に並ぶ記号の意味はそれぞれ以下の通りである。

  • R: 銀河系の中で1年間に誕生する恒星の数
  • Fp: 恒星が惑星を持つ確率
  • Ne: 一つの恒星系が持つ生命誕生の可能性のある惑星の数
  • Fl: 生命誕生の可能性のある惑星で実際に生命が誕生する確率
  • Fi: 誕生した生命が知的生命へと進化する確率
  • Fc: 知的生命による技術文明が星間通信を行う確率
  • L: 技術文明の存続期間(年)

では、各変数に妥当な値を入力してNを割り出してみよう。

  • R: 銀河系の研究により、銀河系の中で1年間に誕生する恒星の数はおよそ10個程度とされているので、R=10とする。
  • Fp: 太陽系外惑星の研究により、多くの恒星が惑星を持つということが明らかになってきているため、ここはFp=0.5としておこう。
  • Ne: 「生命誕生の可能性のある」という言葉の定義が曖昧で、なかなか決められない数字。太陽系の場合で言えば、かつての金星や火星でも生命誕生が有り得たかもしれないと言われているし、エウロパなどの衛星でも生命がいるんじゃないかと期待されている。ここは期待をこめてNe=2としておこう。
  • Fl: 地球で生命が誕生したのは38億年前とされている。当時は地球ができてまだ10億年も経ってない頃でオゾン層も酸素もない環境だったという事を考えると、生命の誕生自体は割と頻繁に起こっているのではないかと期待できる。ここはFl=0.1としておく。
  • Fi: 実はこれが一番難しいのではないか。生命が誕生したとしてもすぐに滅んでしまったり、細菌レベルのものしか生まれなかったりする星がほとんどなのではという気がする。なので、Fi=0.001としておく。
  • Fc: 少なくとも地球くらいにまで発達した文明なら、何らかの方法で宇宙生命を探そうと試みるのではないか。なのでここはFc=1とする。

ここまででL以外の全ての変数が求まった。それをまとめると、

R・Fp・Ne・Fl・Fi・Fc = 0.001

となる。つまり、「銀河系で1年間に誕生する地球と交信可能な文明の数」が0.001個ということだ。念のために言っておくが、これはあくまでも私が考える値であって、実際に合っているかどうかも確かめようがないので、その点は頭の片隅においた上で読んでほしい。さて、これを最初の式に入れると、以下の式が成り立つ。

N = 0.001×L

お分かりだろうか。結局のところ「銀河系に存在する地球と交信可能な地球外文明の数(N)」は、「文明の存続期間(L)」にどういう値を入れるかによって大きく変わってくる。そして、Lを考える場合には、私たちが知っている唯一の文明である地球文明を参考にする他ない。

まず、極端な例を考えてみよう。地球文明はこれからも様々な困難に見舞われるだろうが、科学技術の発展によってそれらを全て克服し、太陽が消滅するまで続く。地球に住めなくなった後も他の惑星に移住してずっと文明を維持し続ける。そう仮定するならば、文明の存続期間(L)は10億年以上ということになり、この銀河系は何百万、何千万という文明の光に満ち溢れているということになる。

我々は孤独のうちに終末を迎える存在か

しかし、そんな明るい未来は有り得るだろうか。地球文明が宇宙と交信可能な技術(電波望遠鏡など)を持ち始めてまだせいぜい100年だ。その間にも大きな戦争が繰り返され、核戦争の危機が何度もあった。そして21世紀、間違いなく地球環境の破壊と人口爆発によって文明は大打撃を受けるだろう。私には、この文明があと1000年続けば良い方なんじゃないかと思う*1。そして、それは他の惑星であっても同じではないだろうか。何故ならば、生物が宇宙と交信できるくらいにまで高度に進化した時期と、生物が自らの星を滅ぼしかねない強大な力を手にする時期は、ほぼ同時に訪れるからだ。

さて、L=1000を上の式に代入するのなら、N=1、つまり、この銀河系で存続している技術文明は地球だけということになる。いや、それは有り得ない、我々の文明は何万年という単位で続くはずだ、と考えたとしても、Nの値は10か100くらいにしかならない。この広い銀河系で10か100というのは、もう地球外文明を見つけるのは不可能と言ってるのに等しい。砂漠の砂の中から1粒の砂金を見つけるようなものだからだ。このまま行けば我々は、孤独のうちに生まれ、孤独のうちに終末を迎えることになる可能性が高い。

このまま観測技術が向上して地球以外にも文明が存在する、我々は孤独ではないという事実が分かった時*2、人類は大きな安心感に包まれるだろう。その安心を得たいがために血眼になって宇宙を探索する時代がいずれやってくるに違いない。しかし、我々が孤独な存在ではないと知るために最も重要なことは、何といっても我々自身が長生きすること、地球文明の寿命を少しでも長引かせることなのだ。

チトとユーリもきっと同じだ。「生物に科せられた業」から解き放たれた世界は、遠くない未来に滅ぶことが決まっている終末の世界。宇宙の年齢と比べればほんの一瞬でしかない彼女たちの人生の中で、自分たちが孤独ではないと知ることができるなら、それはこの上ない救済だと思う。

少しでも遠くへ、上へ、少しでも長く…。彼女たちが旅を続けているのは、自分たちが孤独ではないと知りたいからではないだろうか。

*1:ここでいう存続期間とは人類そのものの存続期間ではなく、人類が宇宙と交信可能なレベルの技術力を保持し続ける期間であることに注意してほしい。

*2:直接宇宙人と交信できた時、もしくは望遠鏡等の発達により太陽系外惑星に文明の証拠を発見した時

青春の「光」と「闇」―『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章』

低音パートに巻き起こる波乱

凄い小説でした。何が一番凄いって、前編188ページの夏紀先輩と久美子の会話ですよ。後輩との接し方に悩む後藤を夏紀が次のように評します。

「後藤ってさ、ああいうところあんねんなー。人間関係下手というかなんというか、言葉が足りてへんねん。もっと素直になればええのに」
「それ、夏紀先輩もですよね?」(前編188ページ)

ええええええええ!!!??? こいつ、マジかよ…。久美子さんもう毒舌ってレベルじゃねーぞ…。

こんな感じで久美子は2年生になっても相変わらず一言多くて、夏紀先輩は大天使なんですが、それに輪をかけて強烈なキャラクターとして新1年生が登場してきます。特に、久美子・夏紀と同じくユーフォニアムの久石奏っていう子がもうヤバ過ぎるんですよ。彼女は中学時代からユーフォをやってたので、ぶっちゃげ夏紀先輩より演奏が上手いんですが…。例えば、奏が久美子に相談しにきたシーン。

奏は他者を頼るのが上手く、わからないことがあればすぐに久美子に相談してきた。二人のやり取りはすべて、すぐ前の席に座っていた夏紀には筒抜けだっただろう。そしてこのときには、夏紀はすでに気づいていたに違いない。
入部して以降、奏は一度として夏紀に助言を請うたことがなかった。(前編132ページ)

さらに、サンフェスの練習で夏紀がうまく演奏できず、梨子に怒られるシーンでは…

三年生二人のやり取りを、一年生部員たちが見守っている。奏は普段どおりの人当たりのいい笑顔で、そして美鈴は無表情のまま。彼女たちが内心で夏紀にどんな印象を抱いているかはわからない。だが、それがあまり芳しいものではないことだけは、端から見ている久美子にも容易に察せられた。(前編177ページ)

あ、ヤバい…。これ、去年のトランペットと同じや。後輩が先輩より上手いせいで部内ギスギスしちゃうパターンやん…。こんな感じで、夏紀と奏の関係が上手くいってない感じが、久美子視点で何度も書かれているので、読者ももういたたまれないし、これからどうなるんや…という恐怖でページをめくる手が震えます。

でも、こういった事件が起こるのは読者も何となく分かっていたことでしょう。高校からユーフォを始めた夏紀は正直言って実力的には久美子やあすか先輩より下です。しかし去年北宇治が全国大会に行ったことで、今年は優秀な1年生が大勢入部してくるということは容易に想像できます。

さて、奏と同じく1年生でチューバ担当の鈴木美鈴という子がいるんですが、その子も中学時代から吹奏楽をやっててプライドが高くて、自分より下手くそな子が先輩からちやほやされてるのが許せないみたいな感じでついにキレて練習を抜け出してしまいます。久美子は「美鈴ちゃんの言ってる事も分かるけど自分から歩み寄ることも大事」みたいなアドバイスをして、そのおかげで美鈴も徐々に部内で居場所を見つけていきます。ところが奏は、「美鈴の方が正しい」「美鈴は変わる必要なんてない」と久美子に食ってかかり、自分の経験を語り出します。中学時代、短時間だけど効率的な練習方法を実践し、学年で1番ユーフォが上手くなったこと。ところが、より長時間練習している子の方が先輩から可愛がられ、コンクールでもAに選ばれたこと。

「頑張るって何ですか? 先輩たちに向かって、居残りして練習している姿をアピールすることですか。私は、美鈴は美鈴のままでいいと思っています。美鈴がほかのやつらのために変わる必要なんてない。美鈴は正しいんだから!」
しんとした音楽室に、奏の叫び声が響く。叫ばれた台詞に、久美子は初めて彼女の本音に触れたような気がした。(前編204ページ)

このように、学校や部活における美談を描くだけでなく、その背後にある闇をきちんと描いているのが、『響け! ユーフォニアム』の特徴だと思います。

青春エンタメ小説の王道と青春の闇

『ユーフォ』のような青春エンタメ小説で軸となるのは、結局のところ「努力」「友情」「勝利」なのです。かけがえのない仲間とともに必死に努力を重ねて勝利を目指すというその営みを肯定的に描く。このような輝かしい青春の光を描くのが青春エンタメ小説の醍醐味と言ってもいいでしょう。

しかし、その光はあくまでも幻想であり、建前であり、綺麗事なのです。青春に光があるというのなら、その背後には必ず「闇」が存在します。それは「努力」「友情」「勝利」の価値を徹底的に揺さぶる世界、例えば、努力したって無理なものは無理だよ、勝利にこだわらない生き方があってもいいんじゃないの?という世界です。この青春の闇をきちんと描写した作品は、名作となることが多いと思います。古典部シリーズとか『桐島、部活やめるってよ』も、ちゃんとそれを描いていますよね。

『ユーフォ』のキャラクターはほぼ全員、「光の世界」と「闇の世界」を行ったり来たりしている人物として描かれます。ずっと光の世界にいるのは麗奈くらいじゃないでしょうか。では、この『ユーフォ 第二楽章』では、どのような闇がクローズアップされたのかと言えば、主に「友情」に関連しています。それは「友情は時に人間の客観的な判断能力を奪う」という闇です。

夏紀が他の部員と友情を築けば築くほど、皆が夏紀先輩に今年こそはAチームに入ってほしいと強く願ってゆく。これは読者も同じです。何故ならば、端的に言って、夏紀先輩って大天使じゃないですか。性格悪いパッと出の1年生なんかより夏紀先輩にAに行ってほしいと思うのは、人間として当たり前じゃないですか。でも、その人間として当たり前の感情が、どうしようもなく誰かを傷付けることもあるのです。

部内オーディションの日、奏はわざと手を抜いてオーディションに落ちようと試みます。それに気付いた夏紀が珍しくブチ切れると、奏はようやく自分の心情を話し始めます。

「あなたがいい人なことぐらい知ってます。副部長で、人望があることも、練習だって真面目にやってる。あなたを見て、皆が頑張ってると評価する。そして、あなたがオーディションに落ちたら、声をそろえて言うでしょう。『あんなに頑張ってたのに、どうしてあの子がAじゃないんだろう』って。努力してた三年生が落ちたのに、どうして何食わぬ顔で一年生なんかがAにいるんだろうって。声に出さなくたって、そう心のどこかで思うに決まってます。私は、周りから疎まれたくない。敵を作りたくないんです。オーディションでミスしたのは、あなたのためなんかじゃない。私自身の身を守るためですよ」(前編367ページ)

どれだけ努力しても、どれだけ上手くなっても、自分が上に行くことは望まれていない、みんな夏紀先輩がAに行くことを望んでいるに違いない…。そんなふうに思い詰めてしまったからこそ、奏は今まで夏紀先輩に心を閉ざし続けていたのです。

なんというか、これはチューバの美鈴ちゃんにも言えることなのですが、奏の心の底にあるのは「私の方が努力してるし実力もあるのに何で誰も評価してくれないの、ムキーッ!」みたいな感情なんですよね。確かに自分は夏紀先輩と違って誰からも好かれるような性格ではない。愛想はないし、生意気だし、性格ひねくれてるし。でもそんな性格でも、いや、そんな性格だからこそ、他人から好かれたい!もっと自分を評価してほしい!先輩に可愛がられたい!

でも、周りは誰も自分を評価してくれない。やはり人間っていうのは感情で動く生き物ですから、どうしても明るくて、誰とでも仲良くできて、性格も良い人のほうが評価されやすい。自分みたいな奴が上に行くことを望んでる先輩なんてどこにもいない…。これが、奏の抱える「闇」の正体だったのです。

「光の世界」へと戻っていくカタルシス

奏の本音を聞いた久美子は、奏ちゃんが手を抜いたところで夏紀先輩のオーディション結果が変わるわけではないと告げ、続けて語り掛けます。

「みんなが上を目指している。そりゃあもちろん、夏紀先輩と一緒にコンクールに出たいってみんな思ってるよ。でも、だからといって奏ちゃんが落ちろって思う人間は絶対にいないよ。毎日練習で顔を合わせて、毎日演奏する音を聞いて。そうやって過ごしてきて、奏ちゃんのことを頑張ってないって言う人なんているわけがない」(前編370ページ)

それを聞いて泣き崩れる奏。その後、夏紀先輩に謝罪した奏は、オーディションに全力で臨みます。オーディションには3人とも合格し、奏も夏紀先輩と普通に話せるようになっていきました。

久美子の言葉を聞いてようやく奏は「闇の世界」から「光の世界」へと舞い戻ることができました。これは大事なポイントなので強調しておきますが、「闇」が完全に消えてなくなったわけではありませんそれはまだ純然と心の中に存在し続けています。それでもなお、奏は前を向いて「光の世界」を歩み始めます。自分の努力は必ず報われると信じて。

ずっと闇の中を進む物語というものもあることはあるのですが、やはりそれは万人に受け入れられる「王道」の物語にはなり得ないと思います。逆に、光の中を突き進むだけの物語というのも、陳腐で空虚なものになるでしょう。『ユーフォ』のように、登場人物が思い悩みながら「光」と「闇」を行き来するからこそ、物語に厚みが生まれ、クライマックスで「光の世界」へ戻る登場人物を見て我々もカタルシスを得るわけです。

みぞれと希美の抱える闇

読んだ方ならお分かりだと思いますが、驚くべきことに、上で語ったことは『ユーフォ 第二楽章』のごく一部でしかありません。本作のメインディッシュは何と言っても、みぞれと希美、リズと青い鳥の物語なのです! でも、こちらについては来年公開の映画を見た後でじっくり語りたいと思いますので、今回は要点だけを簡潔にまとめたいと思います。

これまでのエピソードでは、どちらかと言えばみぞれの抱える闇の方がクローズアップされることが多かったと思います。希美さえ居てくれればいいと願うみぞれ。でも、希美にとってみぞれは沢山いる友達の中の一人でしかない。その事実を突きつけられるのがたまらなく辛い。そんなみぞれの闇を振り払い、光の世界へと導いたのが優子でした。

一方、『ユーフォ 第二楽章』では、希美の抱える闇の方に焦点が当てられたように思います。それは、みぞれの才能への嫉妬という予想外の形ではありましたが、これによって、みぞれと希美との間にあった互いを思う気持ちの温度差は少しずつ解消されていきます。

そして、関西大会の直前、2人が自分の気持ちを相手に伝えて抱き合い、長年積もり積もったディスコミュニケーションがようやく解消されるシーンが、本編の百合的クライマックスとなっています。しかし、希美がみぞれに対して抱いている複雑な感情を目の当たりにすると、果たしてこれが完全なるハッピーエンドと言っていいのか、一抹の不安がよぎるシーンでもあります。

しかし、しんみりしてる空気を一変させるようなシーンがすぐ後にやってきます。

「もしかしてアンタ、さっきの見てうらやましくなった?」
「は? うらやましいって何が?」
「しゃあないなあ。センチメンタルな部長さんにうちがハグしたろか?」
揶揄めいた言葉に、優子が頬を膨らませる。肩に置かれた腕を振り払い、そのまま彼女は飛びかからんばかりに無防備な夏紀の背中に抱きついた。衝撃で、夏紀の身体が前方に傾く。うおっ、と珍しく焦った声が夏紀の口から飛び出した。ハグというより、もはやタックルだ。眺めていたみぞれと希美が、呆気に取られた顔をしている。
「センチメンタルな副部長さんを、慰めてやろうと思って」
「あらあら、それはご丁寧にどうも。うちもお返しにハグしてあげるな」
「うぎゃっ。痛いんですけど!」
「鍛え方が足りひんとちゃう?」
「はぁ? 言うたな?」
どうしてそうなったのか、優子と夏紀はにらみ合いながら抱きしめ合っている。ギリギリと力の込められた腕が、互いの背中を拘束していた。一般的な友好的行為からはかけ離れているが、これこそが二人の親愛の形なのかもしれない。(後編307~308ページ)

結論

優子先輩と夏紀先輩はもう、結婚すれば良いんじゃないかな?

『メイドインアビス』のレグ君の可愛いシーン・ベスト10

第10位 ハボさんにセクハラされて恥ずかしがり暴れるレグ君

ちっこい体で一生懸命暴れてるのがもう可愛すぎる。はあ…、レグきゅん飼いたい…。

視聴負荷は、軽いめまいと口元の緩み。

第9位 オーゼンにボコボコにされて涙目になるレグ君

特に、震え声で「今までのあれが演技だとでも…!」って言うシーンが良いですね。

視聴負荷は、軽いめまいと口元の緩み。

第8位 治療のため裸にしたリコが目覚めて慌てるレグ君

「いや…なかなか目覚めないからっ…」のところの上ずった声色、マジで伊瀬さんグッジョブとしか言いようがない。

視聴負荷は、軽いめまいと口元の緩み。

第7位 ナナチに言い包められてすぐに謝るチョロいレグ君

ホント、第11話以降は、ナナチとレグの絡みが最高に可愛いかったです。レグきゅん純粋すぎていつもナナチに振り回されてるけど、ナナチに抱き着こうとする時だけナナチが押され気味になるのがまた良いんですよ。

視聴負荷は、頭痛、手足の震え、顔のニヤニヤが止まらなくなる。

第6位 肌が触れるほど近づいてくるリコに照れて赤くなるレグ君

この後、リコに抱き着かれて照れてるレグ君も最高でしたね。レグに近づいても一切気にしてないリコと、思いっきり意識しちゃってるレグという対比がまた素晴らしい。

視聴負荷は、頭痛、手足の震え、顔のニヤニヤが止まらなくなる。

第5位 泣きながらミーティを殺す決心をするレグ君

ミーティを解放してやりたいというナナチの思い、人としての倫理、ミーティがいなくなった後ナナチはどうなるのかという不安、様々な思いが胸に去来して思い悩むレグ。火葬の後、抱き合って泣くことしかできないレグとナナチの姿は悲壮感に満ちていますが、どこまでも穏やかな自然の風景は、その出来事が単なる悲劇ではなく救済でもあったのだということを静かに物語っているようです。

視聴負荷は、平衡感覚に異常をきたし、レグ君の幻覚や幻聴を見る。

第4位 ガイコツにびっくりしてナットに抱き着くレグ君

「なんだ!なんだ!」の言い方がもう最高に可愛いと思いませんか。はあ…、レグきゅんと真夜中に怪談話をして怖がる様子を一晩中観察したい…。

視聴負荷は、全身の穴という穴から「ああ~~~萌え死ぬんじゃ~~~」という声が漏れ、日常生活がままならなくなる。

第3位 温泉でリコとイチャイチャするレグ君

リコの裸を見て勃起しちゃうレグきゅんと、それを見つめるリコ、2人をどんどん煽りに行くナナチ。お前らもう可愛すぎんだろ…。よくぞ、このシーンをアニメ化してくれた。ありがとう!

視聴負荷は、全感覚の喪失と、それに伴ってレグ君のことしか考えられなくなる。

第2位 ナナチにからかわれて涙目になるレグ君

ナナチに「リコ~~~置いてかないで~~~」と物真似されて、自分の情けない姿を見られて恥ずかしいのか、あるいは、その時のことを思い出しちゃったのか、今にも泣き出しそうな顔になるレグきゅん。かわいい子ほどからかって泣かせたくなるという人間の潜在的な嗜虐心をくすぐる素晴らしい表情です。

視聴負荷は、人間性の喪失もしくは萌え死。

第1位 死にそうになってるリコを見て泣き叫ぶレグ君

このシーンを可愛いとか萌えとかで捉えることはできないと分かってはいても、やっぱりこれを1位にせざるを得ない。考えてみれば、親も兄弟もいないレグにとって、リコは共に旅をする仲間という以上の特別な存在、それこそ生きる意味そのものと言ってもいいくらいなのです。そのリコが、さっきまであんなに元気だったリコが、突然の事故に襲われ、七転八倒の苦しみの中で命尽きようとしている…。そんな光景を目の当たりにしたレグの気持ちを想像すると、もう、可哀想で、可哀想で…。でも、「おいてかないでリコ!」と泣き叫ぶ姿を、たまらなく可愛いと感じてしまう自分がいる…。声優陣の名演技が光る本作で一番印象的なシーンでした。

視聴負荷は、確実な萌え死。

まとめ

というわけで、アニメ『メイドインアビス』はレグ君、本当に可愛いとしか言いようがなかったですね。レグ単体でも可愛いのに、リコやナナチに振り回され、焦り、赤くなり、泣くレグきゅんはもうあまりにも可愛すぎて、何度も視聴負荷で死にそうになりました。

そして何より、レグを演じた伊瀬茉莉也さんの演技力。もし、日本アカデミー賞に最優秀主演男子キャラクター賞があったなら、確実にレグ君と伊瀬茉莉也さんが受賞したことでしょう。