新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ゆるキャン△』総評―「一人で過ごす尊い時間」と「みんなと過ごす尊い時間」

ゆるキャン△』、本当に、良かった。圧倒的な今期No.1のアニメだった。

ゆるキャン△』には2つの時間が流れている。「一人で過ごす尊い時間」と「みんなと過ごす尊い時間」だ。そして、この2つを相反するものとして描くのではなく、見事に両立させ、時には同時に描きさえした。

一人で過ごす尊い時間

ゆるキャン△』の特徴として、リンのソロキャンに代表されるような、一人で過ごす時間をしっかりと描いている、という点がよく挙げられるが、実はこれは、完成度の高い日常系アニメに共通する特徴だったりする。『けいおん!』も、『Aチャンネル』も、『ゆゆ式』も、一人の時間をわりと丁寧に描いている。しかし、そうは言ってもやはり、それらの作品のメインは友達と過ごす楽しい時間を描くという点になってしまうのだが、『ゆるキャン△』の場合は半分が「一人で過ごす尊い時間」で構成されていると言っても過言ではないだろう。

「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで…」(『孤独のグルメ』第1巻より)

そう言う井之頭五郎にとっては、一人で食事をしている時が最も豊かで尊い時間なのだろう。私にもそのような時間がある。仕事帰りに立ち寄った居酒屋で静かにお酒を飲んでいる時、家でお酒を飲みながらアニメを見てる時、休日に何となく訪れた町を散策する時。きっと誰もがそういう時間を持っている。家でゆっくりお風呂に入る時間が好きだという人もいれば、一人で映画を観たり音楽を聴いたりするのが好きな人も、なかには、一人で黙々と仕事をするのが好きという人もいるだろう。

その一人の時間は、誰かと過ごす時間とはまったく別物の尊さを持っている。その2つは対立するものではないし、どちらがより優れているとか優劣を決められるようなものでもない。けれども、それを描くアニメは本当に少ない。一人で過ごす時間の素晴らしさを価値観の異なる他人に説明することが極めて難しいからだ。

本作はその難しいことを見事にやってのける。リンが黙々とテントを組み立て、薪を割り、火をおこし、静かに本を読む、その一連の所作。キャンプ場を散策している時のモノローグ。温かい食事をとっている時の表情。その全てが、我々一人ひとりの心の中にある「一人で過ごす尊い時間」を思い起こさせてくれる。

誰にも邪魔されることのない、独りで、静かで、豊かな冬の旅。リンにとってはこのソロキャンこそが、何物にも代えがたい尊い時間なのだ、ということが画面全体から伝わってくる。その旅には、明確な目的も計画もない。ただ、感情の赴くままに、好きなところに行き、好きなことをする。おそらくリンは、旅先で起こる予想外のトラブルや失敗でさえもひっくるめて、その旅全てを全身で楽しんでいるのだ。

そしてまた、そういう予想外のトラブルに見舞われた時のシマリンが最高に可愛いのだ!

カイロを使っても全然温まらなかった時の「思ったより効かん」。苦労して辿り着いた温泉が閉店だった時の「おい、マジか」。その声、表情、もう最高である。なんというか、特に感情的になるわけでもなく、いつもと変わらないテンション低めな感じだが、言葉の端々から伝わってくる「やっちゃった」感、みたいなものが伝わってくるのがなんかもう最高に萌えるのだ。

みんなと過ごす尊い時間

さて、上で見たように「一人で過ごす尊い時間」をきちんと描いて見せた上で、そこからさらに「みんなと過ごす尊い時間」をも見事に描いていくのが、本作の驚くべき点だろう。しかし、みんなと過ごすと言ってもそれは、みんなが同じ方向を向いて何か同じことをするという描写とは少し異なる。

この「相手の一人時間を大事にする」が如実に表れているのは、四尾連湖でリンとなでしこがキャンプをする回だろう。いっしょにキャンプはしてるけど、テントは別々だし、ボートに乗るのもなでしこだけ。リンとなでしこは一緒に行動はするが、いわゆる一蓮托生という関係ではない。その点が『メイドインアビス』や『少女終末旅行』とは大きく異なる。

そのあたりの距離感については、スタッフ側もかなり意識しているようである。

関連記事:「ゆるキャン△」京極監督に聴く「作り手の頭の中だけで作られたキャラクターではない」 - エキレビ!(1/3)

リンやなでしこにとっては、相手と一緒だから「楽しい」のではなく、自分が「楽しい」と思えるものを相手と共有する、という感覚なのだろう。

だからこそ、彼女たちにとっては、物理的な距離は関係ない。遠く離れていてもLINEで心を通わせることができる。誰にも縛られない単独行動が大好きだけど、そうやって感じた喜びや幸せはやっぱり誰かと共有したいと思うシマリン。うきうきしながらLINEで写真を送ったり、定点カメラに向かって手を振ったりするシマリンの、なんと愛おしく可愛いことか!

そして、自分が「楽しい」だけでは駄目で、相手もまた「楽しい」と感じていなければ意味がない、そんなふうに考えるからこそ、相手を尊重し、相手のために出来る限りのことをしたいと願う。でも、相手に踏み込んでいくべきか、踏みとどまるべきか、その見極めは難しい。

第10話、的確なアドバイスをくれた千明に、リンが少し気恥ずかしそうな緊張した声色で「とにかく助かった、ありがとう」とお礼を言う。「あ、あのさ、今度、野クルでクリスマスキャンプするんだけど…」と言ってリンを誘う千明の声と表情もまた、どことなく緊張しているように感じられる。

そうか。そうだったんだ。千明もまた、リンとの距離感を測りかねて、悩んでいたんだ…。なんて繊細で、人間味に満ちた描写だろう。

一人で過ごす時間の尊さも、それをみんなと共有することの素晴らしさも、他者とかかわることで生じる緊張も、相手を思いやる配慮も、それらすべてがあったからこそ、最終回のクリスマスキャンプが最高に輝いて見えるのだ。

みんなと食べた食事の美味しさ、吹きすさぶ風の冷たさ、たき火や温泉の暖かさ、夜空や富士山の美しさ、朝日の眩しさ、となりにいる友達の笑顔と笑い声、そのすべてを5人が共有する。そして、我々視聴者もまた、彼女たちが感じた感動や幸福感を画面を通じて感じ取る。

心温まるとはこういう体験のことを言うのだろう。数年に一度と言われる寒波の中で、一人静かに『ゆるキャン△』を見るという体験は、私にとってもまさに「一人で過ごす尊い時間」となったのである。

『からかい上手の高木さん』の素晴らしさ―微妙なラインを突く表情、ギャップ萌えに頼らない構造、可愛い男性主人公

この作品の素晴らしいところは次の3点に集約される。第一に、西片をからかう時の高木さんの表情や声が、過度なデフォルメ化やカリカチュアライズを使うことなく、一定の抑制のきいた形で表現されている点である。艦これに敷波という子がいる。その子についてのニコニコ大百科の記述はまさに正鵠を射ている。

そんなどうにも目立たないポジションにあることはキャラ付けにも反映されているのか、ややツンデレっぽいところがあるが目立つほどではなく、控えめで自己評価が低そうなところもあるが名取や羽黒ほど極端なわけでもなく・・・とたいへん微妙なラインの性格付けが為されている。が、そういった微妙なラインをつく台詞が意外な破壊力を発揮し、実際に使っている提督の間でひそかに「実はすごくかわいい照れ屋さん」として知られている。
敷波(艦これ)とは (シキナミとは) [単語記事] - ニコニコ大百科より引用)

高木さんにもこの「微妙なラインをつく」魅力がある。このすばのアクア様のようにドヤ顔で「プークスクス!」と煽ったりしない。あくまでも冷静に、的確に西片をからかっていく。それが他の作品にない独特の味となっている。

第二に、安易なギャップ萌えを一切利用していない。例えば他の作品の場合、

  • 主人公より優位に立とうとして背伸びする→失敗して赤っ恥をかく→ギャップ萌え
  • いつも冷静でクール→好きな人のことになると途端に慌てふためき出す→ギャップ萌え
  • いつもは本心を見せず素直じゃない→特別な日で珍しくデレてる→ギャップ萌え

という図式で成り立っている。その最たるものが『かぐや様は告らせたい』だと思う。一方、高木さんにはそうしたギャップ萌え要素がほとんど存在せず、西片の前で普段と違う姿を見せることはない。高木さんは高木さんのままで高木さんとして純然と西片の前に現れ続ける。何故そのような構成にすることが可能なのかというと、それは高木さんが西片に好意を持っていることが読者から丸分かりだからだ。いちいちギャップ萌え要素を入れて読者を萌えさせる必要すらない。高木さんは決して本心は見せないが、内心では実は大好きな人と一緒に過ごすのが嬉しくて舞い上がってるんだ、ということを読者が想像するだけでもう一種の「ギャップ萌え」として成立してしまうのが、本作のすごいところである。

第三に、高木さんにからかわれる西片がとにかく可愛い。本作を見ているのは主に男性だと思われるので、男性キャラの可愛さと作品の魅力には何の関係もないのでは、と思うかもしれないが、それは大間違いである。例えば、往年の萌えアニメ、『ゼロの使い魔』『ハヤテのごとく!』『かんなぎ』『バカテス』、みんな男性主人公が可愛い。『たまこまーけっと』『中二病でも恋がしたい』『氷菓』『GOSICK』『SAO』『ニャル子さん』『この美術部には問題がある』『だがしかし』、ヒロインだけでなく主人公も可愛い作品というのは枚挙に暇がないのである。近年では『メイドインアビス』や『ゲーマーズ!』等がそうである。『からかい上手の高木さん』もそういった作品群に連なる作品である。

起こり得たかもしれない愛の形―『さよならの朝に約束の花をかざろう』感想

人間のグループ間には遺伝的差異が注目に値するほど無いということ (中略) は、ア・プリオリな、あるいは必然的真理ではなく、進化史における偶然の事実である。世界はもっと違った形で秩序づけられたかもしれないのである。例えば我々の祖先であるアウストラロピテクスの一種または数種が生き残った場合を考えてみよう―― (中略) 我々ホモ・サピエンスは、知的能力がはっきり劣った人間種を相手にした時、道徳的ジレンマに直面したに違いない。彼らを我々はどのように遇したであろうか――奴隷? 撲滅? 共存? 召使としての労働力? 居留地? 動物園?
(S・J・グールド著『人間の測りまちがい 下』233ページ)

さよならの朝に約束の花をかざろう』と『アンドリューNDR114

人間よりはるかに長い時を生きるイオルフの民は、人間から「別れの一族」と呼ばれ、人里離れた村で布を織り静かに暮らしていた。彼らの力を利用しようとして侵略してきた人間によって土地を追われ、独りぼっちになったイオルフの少女マキアは、偶然、両親に先立たれた小さな赤ちゃんを見つけエリアルと名付ける。すくすくと成長していく子・エリアルと、見た目はずっと少女のままの母・マキア、2人は共に苦労を重ねながら激動の時代を生きてゆく…。

この映画を見て『アンドリューNDR114』を思い出した人もいるだろう。人型家事ロボットのアンドリューはマーティン家に買われ、そこで人間に匹敵する創造性を発揮し木工職人として成功する。ロボットなので寿命もないアンドリューは、アーティン夫妻に先立たれ、さらにその娘アマンダも亡くなり孤独を味わう。アマンダの孫ポーシャと結婚したアンドリューは、やがて人間になりたいと願うようになり、科学者の協力を得て人間と同じような寿命を得る。ベッドの上で最愛の妻とともにこの世を去ることで、ようやくアンドリューの願いは叶えられる…。

結末はまったく異なるが、この2つの映画は人間より長い寿命を持った者が宿命として背負う別れの苦しみを描いている。人間のように思考し恋もするが寿命がないロボット、見た目は人間と同じだが何百年もの時を生きるイオルフ…。

起こり得たかもしれない人類の姿

SFが「起こり得るかもしれない人類の未来」を見せてくれるものだとしたら、ファンタジーは「起こり得たかもしれない人類の姿」を見せてくれる。

現在の人類が当たり前と感じている特徴、様々な倫理観、恋愛観、生死観はどのようにして生まれたのだろう。なぜ人は我が子に愛情を注ぎ守ろうとするのか、なぜ人は結婚という制度を持つのか、そして、なぜ人はせいぜい100年くらいしか生きられないのか。生物学、進化生物学、文化人類学など様々な観点からそれらの疑問を説明することができるだろう。しかし、私たち人類の持つ特徴や価値観は、突き詰めて考えれば、地球環境の変化や文明の発達した場所といった、本当にささいな偶然によって誕生し発達したものとしか言いようがない。

そういった偶然の最たるものは、この地球上に人類がホモ・サピエンスただ一種しか生存していないという事実だろう。そもそも種というのはどうやって分かれるのかと言うと、元々1つの種だった生物群が高い山脈や海などによって2つ以上のグループに分かれて、遺伝子にそれぞれ異なる変異が蓄積することで、やがて各グループが別々の種へと変わるのである。だから、大陸の形や気象条件などが少し変わっていたら、ホモ・サピエンスとは異なる別の人類が今も生きていたかもしれないのだ。

さよならの朝に約束の花をかざろう』は、まさにそういう「起こり得たかもしれない人類の姿」「複数種の人間が共存する世界の姿」を描いて見せた。そして、種*1の違いという取り払うことのできない大きな壁に阻まれてもなお消えることのない愛の形があることを示してくれた。

そのような愛の形があるという事実は、我々人類に困惑をもたらすかもしれない。それは、現実世界の同性愛のように差別と偏見に晒されるかもしれない。それでも、マキアとエリアルとの間にあるものが愛でなくてなんであろう。寿命という大きな壁をもってしてもなお消えることのないものが愛でなくてなんであろう。我々観客の心をこれほどまでに揺さぶるものが、現実にありふれている異性愛や同性愛や親子愛や兄弟愛とまったく変わらない普遍的な愛でなくて一体なんだというのだろう。

まとめ

もし地球上に複数種の人類がいたら、という我々の想像力を掻き立ててくれる見事なファンタジー作品で驚いた。岡田麿里氏の初監督作品ということは勿論知っていたが、それ以外の情報は一切入れずに先入観なしで見れたのも良かったのだろう。

問題点を挙げるとすれば、ストーリーが全く奇をてらう事もなく単調で、マキアとエリアルが出会った瞬間からもうラストが想像できた点だろう。

だが、一つ一つの場面は見ごたえがあるものばかりで、特に、初めてお酒を飲んでベロベロに酔っぱらったエリアルが家に帰ってくるシーンが本当に素晴らしかった。足元がおぼつかずに家の物を壊してしまうエリアル、ランプから燃え移った火を必死に消そうとするエリアルエリアルを引っぱたくマキア、そのどれもが、これまで普通の親子として暮らしてきた2人の関係が不可逆的に変わってしまった事を物語っていて、観客は何とも言えない悲しみを覚える。

これまでの岡田磨理作品と言えば、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『ブラック★ロックシューター』『心が叫びたがってるんだ。』に代表されるように、「傷付け合う事を過度に怖れるのはやめよう」「まずは自分の気持ちをはっきりと相手に伝える事が大事」的なテーマの作品が多かったように思う。それらの作品は、物語が進むにつれて登場人物が自分の気持ちを積極的に相手に伝えるようになっていき、複雑に絡み合ったディスコミュニケーションの糸が解かれることでカタルシスが得られるという構造になっている。一方で『キズナイーバー』や『迷家-マヨイガ-』はそこからさらに一歩踏み込んだテーマ性が付与されていたように感じるが、アニメの出来は2つともお世辞にも良いとは言えず、興行的にも振るわない結果となってしまった。

関連記事:『キズナイーバー』と『異能バトルは日常系のなかで』の共通点 - 新・怖いくらいに青い空

さよならの朝に約束の花をかざろう』は、上で述べたような作品群とは全く異なる系統の作品であり、岡田磨理氏の新たな可能性を垣間見たような気がした。

*1:ここでいう種とは、白人・黒人などという場合に使う現実世界のいわゆる人種ではなく、純粋に生物種という意味。

『スロウスタート』第7話―ムキになって勝負を仕掛けにいく栄依子と、それを余裕で受け流す榎並先生、その関係性が素晴らしい!

アニメ『スロウスタート』、第7話が最高だった。

なんというか、栄依子は自信に満ち溢れていて、花名とは対極に位置するキャラとして描かれている。栄依子は「自分には人を引き付ける魅力がある」ということをかなり明確に自覚していて、その状況をやはり自覚的に楽しんでいるようなフシがある。実際、栄依子はクラスメイトの懐にぐいぐい入り込んで、彼女たちを自分の虜にしてしまう。

f:id:kyuusyuuzinn:20180218223035p:plain

ところが榎並先生には、栄依子の作戦がまったく通用しない。栄依子がぐいぐい突っ込んでいっても暖簾に腕押し。まるで柳の枝のように、大人の余裕でひらりとかわしていく。それどころか、スカートの件で一度はメンタルゲージ劇下げされたりもしてる。栄依子にとってはそれがたまらなく悔しい。だからますます先生にちょっかいを出したいと思うようになる。隙あらば先生に突っかかっていく栄依子は、表情は余裕しゃくしゃくという感じではあるが、内心はかなりムキになってたと思う。

だから、栄依子の榎並先生への感情は単なる恋愛感情とは違う。常に自分の優位を保っていたいというプライド、大人をからかって遊びたいという子どもっぽい感情、先生の事を深く知りたいという好奇心、そういったものの延長線だと思う。

そして第7話でついに、栄依子に反撃のチャンスがおとずれる。べろべろに酔っぱらって栄依子を家に上げてしまった先生が、栄依子の前で初めて動揺した様子を見せる。しおらしくなった先生を見て笑う栄依子のなんと嬉しそうなことか。この時、栄依子は初めて先生に「勝った」と思ったであろう。ところが、この優位は長くは続かない。ナチュラルに顔を近づけてきた先生にドキドキしてしまい逃げるように部屋から立ち去る栄依子。彼女自身が言っているように、まさに「勝ち試合だと思ったら最終回で逆転食らった」状態。

f:id:kyuusyuuzinn:20180218223105p:plain

そもそも榎並先生は一連のやり取りを「勝負」だと考えてすらいない。ムキになって勝負を仕掛けに行ってるのは栄依子だけ。いつも落ち着いていて大人びた印象の栄依子だが、実は主要キャラの中で一番子どもっぽいのかもしれない。

だがしかし、自分の作ったネックレスを先生が付けているのを見て、栄依子の感情はより一段上のものへと変容する。まさにOP曲の歌詞にあるように、ポップコーンのように目覚めてしまう。この気持ちをどうしても誰かに伝えたくて、花名に秘密を打ち明ける。心の中で「いつか私も話せるかな、自分の秘密を」とつぶやく花名を見て、彼女の抱える不安や恐怖の大きさが再認識され、視聴者は突如現れた百合空間から解放され、本作の主題へと帰ってゆく。

f:id:kyuusyuuzinn:20180218222932p:plain

本当に素晴らしかった。日常系アニメでこれほどの神回は数年に一度あるかどうかっていうレベルだと思う。第3話も素晴らしかったが、第7話はそれをはるかに凌駕している。

話にならない下町ボブスレー側の言い訳

おもに東京都大田区にある町工場が立ち上げた下町ボブスレーネットワークプロジェクトの作製したソリが、五輪ジャマイカ代表に採用されていたのに、急遽ラトビア製の別のソリを利用することになり、下町ボブスレー側が契約違反だとしてジャマイカに違約金の支払いを求める事態に発展しています。

「遅い、安全でない、検査不合格」ジャマイカ側の言い分 - 2018平昌オリンピック(ピョンチャンオリンピック)- 五輪特集:朝日新聞デジタル

朝日新聞はこの件に関してジャマイカ側の言い分を載せており、それによると、(1)下町ボブスレーのソリはラトビアBTC製のソリよりも2秒以上遅かった、(2)下町ボブスレーのソリはレギュレーションチェックでたびたびNGとなることがあり五輪本番もNGとなる危険性があった、(3)下町ボブスレーのソリは安全性に問題があった、という理由を挙げています。

これに対して、下町ボブスレー側が公式ホームページで反論をしています。

ジャマイカ連盟との交渉について | 下町ボブスレーネットワークプロジェクト公式サイト

本来は下町の小さな町工場だったはずなのに、随分とご立派なホームページをお持ちなようで…。自分たちの正当性を訴えようと、情に訴える文章や写真まで多用して、重要個所は太文字で強調…。実に高い情報発信力がお有りのようですね。バックにいるのは広告代理店?それとも政府?

…という第一印象はさておき、とにかくこの反論がまるで反論になってない、苦しい言い訳のオンパレードで、「あ、駄目だ、この人たち…」となってしまい、こんな人たちにソリを押し付けられるジャマイカが本当に可哀想、ジャマイカには是非ともラトビアのソリを使ってメダルを取ってほしいと心から思いました。

スピードについて

事の発端は、輸送時のトラブルにより下町ボブスレーが会場に届かず、ジャマイカ側が急遽BTC製のソリで大会に出場したことでした。下町ボブスレーよりもBTC製のソリの方が性能が良いということが発覚し、結局ジャマイカ側はオリンピックでもBTC製を使うことに決めたようです。しかし、下町ボブスレー側は納得行かず、自分たちのソリが決して遅いわけではないと主張しています。そして、実際にテスト走行をして下町ボブスレーはBTCより速いという結論が出ている、などという主張を展開しています。

しかし、彼らの主張するテストというのが、どうも怪しい。先のホームページには次のような記述が。

このドイツでのワールドカップで7位に上位入賞したことにより、ジャマイカ連盟は下町ボブスレーのさらなる改良の要望などが始まりました。我々としては即対応しオーストリアへ飛び対策を開始しました。ジャマイカ連盟が指名したオーストリア人技術者と共に改良し、オーストリア代表女子選手で12/9のワールドカップにて5位獲得のBEIERL Kartin選手がテスト滑走しました。

テストを行ったのはジャマイカの代表選手ではなく、オーストリアの選手って…。もうこの時点でテストの意味無くないか?*1と思うんですが、さらに呆れ返る内容が続きます。

ジャマイカチームがBTCを持ち去ってしまったため、比較対象はドイツのワルナーというソリにしました。このソリはテストを開催したインスブルックのコースで最速と評価されており、そのソリとリザルトタイムのデータにおいても滑走評価でも同等でした。

は? え? 何言ってんのコイツ? 本来であれば、ジャマイカチームが使いたいと言っているBTCのソリと下町ボブスレーとを比較すべきところを、BTCが無かったから別のソリと比較しましたって…。確かに「このソリはテストを開催したインスブルックのコースで最速」なのかもしれないが、それは理由にならないでしょうが。

下記数値データを参照ください。*2Japanが下町ボブスレー10号機です。この数字・データによりジャマイカ連盟が指名したオーストリア人技術者は「下町ボブスレーはBTCより速く、ワルナーと同等」と評価しました。

こんな比較にもなってないバカなやり方で「下町ボブスレーはBTCより速く」なんて評価出せるわけねえだろ。ちゃんとジャマイカの選手が同じ条件でBTCと下町ボブスレーに乗ってみないと、下町の方が速いなんて言えないだろ。これは例えるなら、「この薬はサルを使った実験で効果が確認された。だから同じ哺乳類である人間でも効果がある」という乱暴な主張をしてるのと同じことですよね。

科学論の世界でも「何故、本来ならこういう比較実験をすべきなのに、それをしてないの?」と言いたくなるような論文は山ほどありますが、その理由はたいてい、(1)そういう比較をすることが技術的・時間的・金銭的に難しいからか、(2)比較はしたが思うような結果が得られなかったのであえて論文では触れていないか、どちらかです。もし前者なら、その理由をちゃんと明記すべきなのにそうしないのは何故?となるし*3、後者だったら、もう彼らの主張は全く聞く価値のない信用できないものということになります。

でも、もっと許せないのはその後の発言。

BEIERL Kartin選手の滑走後のコメントでは「下町の方がハンドルが繊細など操作の特性はそれぞれ特徴があるが、性能は同レベルで、振動も気にならない。」と言っております。我々もこのデータを根拠としてジャマイカ連盟に伝えています。

「下町の方がハンドルが繊細」…。なんか、スゲー重要そうなことがしれっと書かれてるんですけど…。

ただ、ジャマイカ連盟とは下町ボブスレー採用の契約を結んでいるのであり、本来なら他のソリとテストをして”比較”するという事自体受け入れがたいのですが、選手のため、下町ボブスレーをさらに速くするために全力を挙げました。以後スピードについてはジャマイカ連盟より言及されていません。

ちょっとこれはもう信じられない主張ですよね。「比較するという事自体受け入れがたい」って、お前ら何様のつもりなの? というか、すでにある高性能のものと比較しないで、それよりも良いものを作ることなんて出来るんでしょうかね? どんな企業であっても、他社の製品を取り寄せて自社製品と比較することは当たり前に行っているはず。市場で売られている他社の製品を買ってきて、分解して、徹底的に調べて、自分たちの製品との比較をする。そうでなければ、他社のものと比べて自分たちの方が優れているなんてことは証明できないでしょう。他との比較をせず、それでも自分たちの製品の方が優れていると言い張るのは、もう、自分たちの製品を使えと無理やり脅してるのと同じではないでしょうか。

はっきり言って下町ボブスレーは、技術者なら絶対に守るべき最低限の科学的態度すらも放棄して、ひたすら自分たちが正しいという理屈を捏ね繰り回してるだけです。

その他の問題点

レギュレーションチェックで不合格になったことについても、下町側は次のように主張して問題はなかったと言い張っています。

レギュレーションチェックを短期間の中で3回にわたり行いました。1回目に受けた指摘はすべて対応済みで、2回目は審判員から「ソリは問題ない」とスムーズに合格しました。合格したレギュレーションの証明証の書類を請求し、揃い次第送ってもらえる手配となっています。3回目は2点の軽微な修正を指導されました。パンバーの厚みがわずかに足らないという指摘にはCFRPシートを貼ればOKといった軽微なもので対応は万全です。

「パンバーの厚みがわずかに足らない」って本当に「軽微な修正」なのかなあ? CFRPシート、つまりカーボン製のシートを貼って厚みを増せばOKってことらしいけど、そのシートを貼ることでソリの形も変わるし重量も重くなるわけでしょう…。あと、「2点の軽微な修正」のもう1点はどこ行った?

また、安全性についても次のように述べています。

契約の第4条にあるのですが、ソリ引き渡し後の責任はジャマイカ連盟にあり、またジャマイカスペシャルと呼ばれている女子選手用の9号機と10号機に関してはジャマイカ連盟の要望どおりに製作した形状であります。男子用の6号機と8号機は下町モデルです。9号機のジャマイカモデル製作後に、2017年にもジャマイカ選手の要望を反映して再度10号機を製作しました。だからといってただソリを製作しハイどうぞということではなく、協力を表明し最大限対応してきました。

わざわざ向こうから「だからといってただソリを製作しハイどうぞということではなく」とか言って読者からの反論を予想したかのような記述をしてるのは何か笑えるけど、そもそも、ジャマイカ側の要望に合わせて作ったソリなんだからこっちは悪くないという主張も苦しいと思うんですけどねえ。この書き方だと、ジャマイカ側が要望していたものと違うものを作製して引き渡してる可能性を排除できないですよね。

まとめ

正直、レギュレーションと安全性だけなら下町ボブスレーの言い分にも多少は納得していたかもしれない*4。でもこの人たちは、スピードの比較という点で、明らかにトンチンカンなことを言っている。

本来であればBTC製のソリと比較すべきなのに、それをせずに別のソリと下町ボブスレーを比較している。しかも、そのテストに参加したのはジャマイカの選手ではない。にもかかわらず、この無意味なテストの結果から「下町ボブスレーはBTCより速い」という自分たちに都合のいい結論を導き出している。そして、「比較するという事自体受け入れがたい」などという、ものづくりに携わってるものなら絶対言わないような発言をして、BTC製のソリと下町ボブスレーとを比較する作業ですら放棄しようとしている。

その上、下町の町工場が作った事になってるけど実際は大企業もプロジェクトに参加している、公式Twitterアカウントが五輪開催国である韓国を揶揄するような発言をしている、という事実も明らかになって、「あ、こいつらの言ってる事は全く信用できないんだな」って思うようになりました。

残念だけど、下町ボブスレーはマーケティング的な失敗だと思う
道徳の教科書に載った「下町ボブスレー」が公式ツイッターで保守速報を拡散&他国チームを「笑い者」呼ばわり | BUZZAP!(バザップ!)

下町ボブスレーの関係者も、おそらく自分たちのソリの性能が他社製よりも劣る(劣るは言い過ぎとしても不利になる要素はいくつかある)ということを理解しているんじゃないでしょうか。それでもなお、自分達の正当性を必死にアピールする。それは企業の営業担当者であれば求められるスキルなのかもしれません。しかし、技術者であれば、それはちょっと違うんじゃないの?と言いたくなります。

下町ボブスレーは、ジャマイカ側の不義理を並べ立て、自分たちがいかに酷い目にあってるかを必死にアピールしていますが、そもそも、自分たちが本当に納得できる高性能なソリを開発できたのであれば、今こんなことにもならなかったでしょうし、ジャマイカ以外の国も下町のソリを採用していたでしょう。下町ボブスレーの関係者には、利根川進博士の「自分を本当に納得させることができれば、人を納得させることは簡単である」という言葉を送りたい。

*1:しかも、ジャマイカが出場するのって、女子2人乗りじゃなかったっけ? なんでテストをするのがBEIERL Kartin選手一人だけ?

*2:上記HPでは、ワルナー製と下町ボブスレー製のタイムが書かれた紙の写真が添付されている。

*3:一応言っておくと、「ジャマイカチームがBTCを持ち去ってしまったため」は全く理由にならない。後述するように、ソリの研究開発をするのであれば、当然、他社のソリを手に入れて、自社製と比較したデータを取っておくのが当たり前だから。

*4:そもそも私はボブスレーの関係者じゃないので、パンバーの厚みが足らないのが本当に軽微な修正で済むのかも分からないし、ジャマイカ側が言っている危険性がどれほどのものなのかも分からない。