新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

アニメ版『ゴールデンカムイ』第2話を見て感じた事

捕まった白石が「そのアイヌはお前さんの飼い犬か?」と言った後に、杉元が白石のあごを掴むシーン。杉元の顔にまったく迫力が無くて一気に残念度が増した。あそこは、最大限の怒りをこめた修羅の形相でなければならないのに…。ギャグで白石が調子乗って怒られてるのとはわけが違うのに…。

そもそも原作ではこの後に杉元の回想が始まって、とある理由によりほとんど追放同然で生まれ故郷を出る羽目になり、恋心を抱いていた幼馴染とも別れざるを得なかったという過去が語られる。このように突然差別される立場に置かれた経験があったからこそ、杉元は、アイヌ民族への差別や偏見が色濃く残っていた当時であっても、アシリパを一人の人間として尊重するし、彼女を「犬」呼ばわりした白石に激怒するのである。

この物語の根幹にかかわる重要な描写をまともに表現できないのって、アニメ製作者としてダメダメすぎると思うんだけど…。

顔芸がいまいちだった件については、回を重ねるごとに良くなってきてるので、今は心配していない。

『かぐや様は告らせたい』―世界に絶望した人が世界は「いい奴ばかりじゃないけど悪い奴ばかりでもない」と気づくまでの物語

石上優の物語

かぐや様は告らせたい』単行本第9巻で、この作品は単なる名作というだけでなく、ついに漫画史に残る伝説となった。

体育祭で何故かリア充ウェイ系たちの巣窟である応援団に入ることになった石上。リレー本番に起きたある出来事によって、過去のトラウマが蘇る。ある少女を守るためにとった石上の行動を、クラスメイトも大人も誰も理解してくれず、石上は世界に絶望する。真相に気付き石上を絶望の淵から救い出した白銀会長が、体育祭当日もまた石上に声をかけ、石上はようやく冷静さを取り戻す。レースに負けたにもかかわらず石上のことを気遣う応援団の面々を見て、石上は思った。

あぁ そうか この人たち 良い人だ
見ようとしてなかったのは僕だ
ちゃんと見るだけで こんなに風景は変わるのか
(第9巻、第90話より)

自分のことなんかまったく見向きもしてくれないと思っていた人たちが、石上に優しい言葉をかけてゆく。石上のことを毛嫌いしていたクラスメイトの小野寺さん*1ですら、彼を励ます言葉をかける。

一度は世界から見放され絶望した人が、誰かに救われて、少し見方を変えてみると、実は世界はそんなに悪いところじゃないんだと気づく。このタイプの作品には名作が多い。

例えば、古典部シリーズ。小学6年生の折木奉太郎は、とある出来事をきっかけにして「やらなくてもいいことはやらない」をモットーに生きるようになる。

あの一件以降、俺は同じクラスの中に、要領よく立ちまわって面倒ごとを他人に押しつける人間と、気持ちよくそれを引き受ける人間がいることに気づいた。そして六年生になってから、いや物心ついてから、自分がだいたい後者だったことに気づいた。いったん気づくと、あのときも、あのときも、そういうことだったのかと次々に思い当たった。
(『いまさら翼といわれても』、264ページより)

奉太郎の場合は、石上のように何か特別大きなトラウマがあって世界に絶望したというわけではない。本当に些細な出来事が積み重なってそれらが奉太郎の頭の中で結び付けられて「そういうことだったのか」と気づいた瞬間に、彼は「長い休日」に入るのである。

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しかし奉太郎の姉・供恵は、奉太郎の休日を終わらせてくれる人がいつか現れるだろうという事を示唆している。その人とは言うまでもなく千反田えるのことだ。まさに古典部シリーズとは、奉太郎が古典部メンバーとの交流を通じて世界に対する信頼を取り戻していく物語なのだ。

聲の形』もそういう作品である。今まで応援団メンバーの顔を見ようともしなかった石上が「ちゃんと見る」ことで世界が変わって見えた、それと非常によく似た表現が『聲の形』にもある。それは下記参考記事でもすでに指摘されている。

参考記事:「かぐや様は告らせたい」9巻 ※今だとkindle unlimited読み放題対象になってるゾ - この夜が明けるまであと百万の祈り

ここで間違えてはいけないのは、石上や奉太郎や石田将也が完璧に世界に対する信頼を取り戻したというわけではない、という点だろう。彼らの目には世界は依然として醜く理不尽なものとして見えている。それでも、自分のことを見ていてくれる人、自分のことを理解してくれる人もいる。自分が彼らに呼びかければ、彼らもきっと呼び返してくれる。彼らは、『TRAIN-TRAIN』(THE BLUE HEARTS)の歌詞にあるように、世界は「いい奴ばかりじゃないけど悪い奴ばかりでもない」ということに気付いたのだ。

そのことが最もよく表現されているのが『ココロコネクト』である。文研部と対峙することになった宇和千尋もまた、ある意味世界に対して絶望している人物として描かれる。しかし、千尋のことを責めずに接してくれる文研部の面々を見て、千尋は考えを改めていく。

自分は世界の見方が間違っている?
自分は世界に見放されていると思っていたけれど。
でも本当は。
そうじゃなく、自分は世界に愛されているんじゃないのか?
(『ココロコネクト ニセランダム』、235ページより)

しかし、文研部はいつでも千尋を優しく迎え入れてくれるわけではない。千尋が何もしなかったら冷たくあしらわれるが、千尋が進んで行動を起こせば文研部もちゃんとついてきてくれる。それを見て、千尋はようやく気付いた。

世界は自分のことを見放して、厳しく当たりなんかしない。
かといって優しくて、自分に楽で簡単な人生を歩ませてくれる訳でもない。
世界はあるがままに、いつだって誰にだって平等に存在する。
(『ココロコネクト ニセランダム』、254ページより)

世界に絶望した人間が、いったん世界全肯定!まで行って、そこから「世界はあるがまま」まで戻ってくるという、2段構えの変化をやってのけたのは私の知る限り『ココロコネクト』だけなので、この作品は他に類を見ない名作なのだ。

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ココロコネクト』は分かりやすい例だが、上で挙げた他作品もすべてそうである。石上や奉太郎や将也もまた、世界は光輝く素晴らしい場所だと思い直したわけではなくて、「世界はあるがままに、いつだって誰にだって平等」だと気付いただけなのだ。結局、身に起こる出来事は確率の問題であり、ものすごく理不尽な経験をすることもあれば、逆に自分だけものすごく良い思いをすることも時にはある。でも、全体的に見れば、世界はだいたい「平等」にできている。

そして、ここからが重要なところなのだが、他人は自分に手を差し伸べてくれるかもしれないが、そこで救われるかどうかは結局自分次第なのである。他人は優しい言葉をかけてくれるし、適切な助言をしてくれる。でも、そこから一歩踏み出して、自分が変わろうとしなければ、結局救われることはない。彼らはそういう事実に気付いたのだ。

とらドラ!』もそういう物語である。

3月のライオン』も典型的なそういう物語である。

響け!ユーフォニアム』にも、一部似たようなテーマがある。

最近で言えば『宇宙よりも遠い場所』もそういうお話である。

かぐや様は告らせたい』もまた、世界に絶望した石上優という青年が、白銀に手を差し伸べられて、勇気を出して一歩前に踏み出すことで、ようやく世の中は「いい奴ばかりじゃないけど悪い奴ばかりでもない」と気づく物語だったのだ。

四宮かぐやの物語

そしてもちろん、白銀に救われたのは石上だけじゃない。

かぐや様は告らせたい』の登場人物は大まかに2通りに分けられる。世界をポジティブに捉えているのが白銀や藤原であり、世界に対してネガティブなのが石上やかぐや様だ。(伊井野ミコについてはちょっと話が複雑になるので後述する。)

そう。かぐやと石上は同じタイプの人間なのだ。かぐやも、両親の愛情をあまり受けずに育ち、幼い頃から大人達の醜い姿をずっと見続けてきて、世界に対して絶望していた人なのだ。そこから救い出した人というのが、他でもない白銀なのである。

私 この世に良い人なんていないと思っていたんです
だから会長が良い人ぶる度に その分心の奥底には醜い企てがあるのだと思い込んで
醜い部分をあぶりだしてやろうなんて思っていたんです
でもそれは何時までたっても見つけられなくて
そのうち根負けして 会長みたいなタイプも世の中には居るんだと認めたんです
そしたら 世の中意外と打算無しに動いてる事も多いと気づき始めて
見える景色が 少しだけ変わったんです
(第9巻、第86話より)

同じ人に救われた者どうしとして、かぐやと石上との接点はこれからますます増えるだろう。本誌掲載の最新話、石上の前でジタバタしながら子どものように悔しがるかぐや様を見て、ああ、この2人は本当に良い関係になったな、と思った。あれだけ白銀の前では本心を隠して、決して弱みを見せないようにしている人が、石上の前ではあんなにも感情を爆発させて喚き散らすなんて…、ああ、本当に素晴らしい関係だなあと思う。

それは、単なる先輩後輩の関係でもなく、もちろん恋愛関係でもない。同じ人に救われた者どうしだからこそ分かり合える「同志」のような関係だろう。これからは、かぐやと石上の絡みにも注目して見ていきたい。

伊井野ミコの物語

上では登場人物が大まかに2通りに分けられると言ったが、では、伊井野ミコの場合はどうだろうか。彼女の場合はまた少し特殊で、世界は公平であり平等であると信じたがっている人だと思う。普遍的な正義や人類の英知としての法律といったものの中に自分と両親との繋がりを見出し、それに従って生きることが自分の使命なのだと妄信している。そして、自らも正しくあろうと行動しているので、どんなに罵倒され傷付いても、いつか必ず報われる日が来ると信じている。

よく言えば真っ直ぐで芯の強い人であり、悪く言えば「幼い」ということである。作者もあとがきの人物評で結構辛辣なことを書いている。

孤独心から両親との繋がりを「正義」の中に見出し、以降正しさに固執する。
だが、それは「正義の為の正義」であり、それは「幼い」と言って差し支えない未熟なものである。
(第8巻、巻末より)

この書き方から察するに、ミコはこれから、自分の中の正義を否定され、自分の信念や価値観がボロボロに崩れ去るような経験をするのではないだろうか。

白銀たちと出会ったミコは、現在のところずっと、自分が貫いてきた正義が報われる経験をしている。生徒会長選挙の壇上で堂々と論戦できたことをきっかけとして、実は多くの人が自分のことを応援してくれていたのだと気づき、揺らぎかけていた世界への信頼を取り戻している。

だとすれば赤坂アカという作家は、ミコの成長を描くために、これからミコの正義が一度完全に否定されるような話を描くだろう。それは、彼女が周りから全否定されるだけでなく、ミコ自身も自身の正義の正しさを信じられなくなるような、大きな転換点として描かれるだろう。

その時、ミコを絶望の淵から救い出すのは、会長ではなく、石上だろう。石上が傷付いて立ち上がれなくなった時に白銀から受け取ったものを、今度は石上がミコへと渡すのだ。

かぐや様は告らせたい』という作品は、円環の物語でもある。誰かにしてあげたことは、巡り巡って自分に帰ってくる。誰かから発せられたSOSはきっと誰かに届く。そうして救われた人が、今度は別の誰かのSOSを聞いて助ける側に回る。そういうふうにして世界が回っているということを描く優しい物語なのだ。

これからますます『かぐや様は告らせたい』の展開に目が離せなくなるに違いない。

*1:というか、それは単に石上の視点から見た小野寺さんの印象であって、本当はちょっと言い方がキツイだけで普通に良い人なのかもしれない。

『リズと青い鳥』は傘木希美の嫉妬と敗北と諦めの物語である

映画冒頭、学校の階段や廊下を一緒に歩く希美とみぞれ。2人は決して並ぶことはなく、常に希美が前を行く。朝の音楽室、みぞれが希美に寄りかかろうとする瞬間に、希美は席を離れて行ってしまう。みぞれが一人で希美の方を見ている時も、希美の周りにはいつも仲のいい後輩や友達が集まっている。希美が声をかけてきただけで頬が紅潮し嬉しそうにするみぞれ。それらの描写をこれでもかと入れてくることで、原作やTVアニメ版を見てない人でも、みぞれと希美との間にある温度差、感情の一方通行性が手に取るように分かる作りになっている。原作で言われているように「互いに対する熱量が、みぞれと希美ではまったく違う」(『響け! ユーフォニアム 2 北宇治高校吹奏楽部のいちばん熱い夏』、267ページより)ということを、観客に見せつけてくる。

冒頭に出てくる「disjoint」の文字。これは数学でにおける「互いに素」の意味であり、「disjoint sets」となると、重なり合う部分のない、つまりA∩Bとなる部分がない2つの集合のことを指す。映画の前半は、希美とみぞれの、常に近くにいるようでなかなか重なり合わないdisjointな関係を描き出している。

しかし、北宇治高校吹奏楽部のコンクールでの自由曲『リズと青い鳥』をめぐって、2人の関係は緩やかに変わっていく。

リズが青い鳥を鳥籠から解き放つ理由が分からない、鎧塚みぞれはそう語った。しかしそれは当たり前なのだ。みぞれがリズなのではなく、実は青い鳥で、傘木希美こそがリズなのである。リズには羽がなくて、大空を自由に飛び回ることなど夢のまた夢で、町の外れの小さな家で、地べたに這いつくばって生きていくことしか出来ない、ちっぽけな存在。だからこそ、自分が望んで止まなかった羽と自由を持つ青い鳥に、自分とは違う幸せを掴んでほしいと願い、リズは鳥籠を開けるのである。それは単に、青い鳥のことを思ってそうしたという以上に、青い鳥に対する嫉妬や羨望や、籠に閉じ込めておきたいという黒い願望、そして、自らの境遇に対する嘆きと悲しみ、その先にある諦め、そういったものを全て乗り越えた先に、青い鳥を解き放つという行動があるのである。

みぞれがリズの気持ちを理解できないのは、みぞれには羽があるからである。希美とは違い、音楽を駆使して遠くの世界まで飛び立つことのできる天賦の才能があるからである。しかし、これは希美にとっては、とてつもない痛みと苦しみをともなう残酷な事実である。

進路を決めかねていたみぞれに新山先生が音大への進学を進めてくる。みぞれが持っていた音大のパンフレットを見て、一気に表情が曇り、とっさに自分も音大に行くと言ってしまう希美。新山先生も酷いものである。みぞれには自分から音大行きを進めたくせに、希美が音大行きたいと言ってきても塩対応。まあ、担任でもないのに生徒からいきなりそんなこと言われても困るだろうけど。とにかく、そんな事を通じて希美はみぞれとの才能の差をまざまざと見せつけられていきます。

新山先生との面談を通してようやく自分の演奏を確立したみぞれは、全体練習でその才能を希美に見せつける。今までとは別人のように堂々と感情豊かにオーボエを吹くみぞれと対照的に、希美のフルートはみぞれの迫力に押され気味で今にも消え入りそうな弱々しい音。演奏後、部屋を飛び出して一人で泣く希美。この瞬間こそが、彼女にとっての決定的な敗北の瞬間であり、同時に彼女は、みぞれと並び立つという夢を諦め、みぞれを籠から解き放つと決めたのだ。

希美にハグしながら好きなところを次々に語っていくみぞれ。一方の希美は、喉の奥から絞り出すように一言だけ「みぞれのオーボエが好き」と答える。毎日一番近くで聞いていた音、でもそれは、どんなに手を伸ばしても届かない、聞くたびに自分の才能の無さを思い知らされる残酷なオーボエの音。それでも希美は、自分の中にある嫉妬や、無力感や、焦りや苛立ちや、挫折感や絶望感や、その他あらゆる感情を心の中にしまい込んで、その音を「好き」だと言うのである。

映画の前半で希美は吹奏楽部の練習が好きだと言っていたが、おそらく彼女は、吹奏楽部での部活動、そして音楽そのものを嫌いになってしまう瀬戸際まで来てしまったのだろう。もちろん希美も演奏が下手なわけではないが、みぞれと比べれば差は歴然であり、音大からのスカウトとかも箸にも棒にも掛からない状況。みぞれには、希美にはない天賦の才能があり、おまけに、音楽のために他のすべてを犠牲にする覚悟がある。そしておそらく、原作でも映画でも詳しくは触れられていないが、みぞれは家族や周りから期待され十分な経済的援助を受けて音大に行けるのに対して、希美の家は娘を音大に送り出すのは少し厳しいかもという感じだろう。このまま神経をすり減らしながら希美がみぞれと同じ道に進んでいたら、希美は遠くない未来に音楽が嫌いになっていただろう。だからこそ、希美はここで諦めて、大空に別れを告げ、別の道に進むことを決意したのだ。それは、後ろ向きな理由ではなく、この大地の上に堂々と立って、未来に向かって歩いていくために諦めたのである。

一方のみぞれもまた、希美とは異なる道を歩み始める。剣崎梨々花をはじめとする同パートの後輩と仲良くなったのが、その端緒だろう。クライマックス、図書館で本を借り、みぞれは音楽室へ、希美は図書館の机へと、別々の道に進み始めたのが、2人の関係性の変化を最もよく表しているシーンだろう。

一連の出来事を通じて絆を深めた2人は、「disjoint」ではない、A∩Bとなる部分を持つ「joint」な関係になったのだ。だが、それは2人が完全に重なり合っているという意味ではなく、多くの重なり合わない部分も当然存在しているのだ。みぞれが希美に向ける感情と、希美がみぞれに向ける感情には違いがある。みぞれは大空を自由に飛べるが、希美は飛べない。みぞれには才能があるが、希美には無い。2人はこれから、別々の大学に進み、別々の人生を歩みだす。

だが、それでも、2人の人生は時々重なり合う。エンディング曲を聞きながら、私はそう確信していた。

最近読んだ本まとめ(3)―『がん消滅の罠 完全寛解の謎』『人間の測りまちがい 差別の科学史』『真実の一〇メートル手前』

※本の内容に関するネタバレがありますのでご注意ください。

がん消滅の罠 完全寛解の謎

がん消滅の罠 完全寛解の謎 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)

がん消滅の罠 完全寛解の謎 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)

まさか一般向けのミステリー小説でがんの術中散布説が出てくるとは思わなかった。これは、腫瘍を外科手術で除去する際に一部のガン細胞が血中に流れ出てしまい転移を引き起こすことがあるのではないかという説で、現在はあくまでも仮説にすぎないものである。しかし、がんの転移という現象が外科手術という人為的な操作によって引き起こされるかもしれないという情報を冒頭に入れることで、がんの進行を自由自在にコントロールするトリックの存在を読者に示唆している。

さて、ストーリーはこのがんの進行をコントロールするトリックの解明に焦点が移っていくわけだが、その一つは、免疫抑制剤を利用したものだった。ある患者に他人由来のガン細胞を注射すると、通常は免疫系が働いてそのガン細胞は増殖しないが、同時に強力な免疫抑制剤を投与すると、免疫系が働かなくなり全身にがんが転移したように見える。その後、免疫抑制剤の投与を止めればがんは免疫系によって除去されていくという仕組みだ。なるほど筋は通っている*1。 しかも、やはり作品冒頭に、マウスを使ったがん研究の方法に関する説明がなされており*2、トリック解明に必要な情報はあらかじめ読者に提示するという推理小説の原則もきちんと守られている。

また、作中で示されるがんの進行をコントロールする方法がもう一つあって、そちらもなかなかに考え抜かれた驚くべきトリックであった。この作品の真に驚くべきところは、そういったトリックが何ら荒唐無稽なものではなく、現在の科学技術を駆使すれば十分に実行可能であるという事だろう。しかし、すでに医療関係者がブログで述べているように(例えば、岩木一麻「がん消滅の罠 完全寛解の謎」(ネタバレ注意):北品川藤クリニック院長のブログ:So-netブログ)、「他人由来のガン細胞が生着するほど強力な免疫抑制剤を利用してそれがばれないというのは不自然」「がん細胞を注射しただけで通常のがん転移と同じような広がりでガン細胞が見えるようになるのか疑問」といった指摘もされており、ツッコミどころが全くないというわけではない、という事は公平のために記載しておく。

作中では最後に、さらに研究を進めてこのトリックを応用すれば、任意の人の任意の臓器にがんを発生させることも、それを増殖させたり寛解させたりすることも、自由自在に行えるようになるだろうと示唆されている。これは考えてみれば実に怖ろしいことである。ある生物学者は著書の中で「我々は結局、生命の有り様をただ記述する事しかできないのだ」という趣旨のことを述べているが、そんなナイーブな認識が許される時代はもう過ぎた。私たちはすでに、生命現象をコントロールし、他の生物や人体を改変することができる、使い方によってはとても怖ろしい力を手にしている。その力は我々人類が制御することのできない、まさに「がん」のようなものだ。

そして、その力は人の心でさえも変えてしまう。作中のトリックを考案した全ての元凶である西條先生の当初の目的は、娘を殺した犯人を見つけ出し復讐する、そのために政府や警察に影響力を及ぼしたい、というものであった。しかし、困窮した患者にガン細胞を注射し生命保険に加入させることで結果的にその患者を経済的に救うような活動をしていたり、日本の薬事行政や労働政策にまで口出ししたりする姿は、やはり復讐という当初の目的を大きく逸脱しているように思う。これは、他人に自分の人生を翻弄され絶望した男が、逆に他人の人生をコントロールする力を得て、その力に酔いしれていく物語なのかもしれない。

人間の測りまちがい 差別の科学史

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

近代科学が進歩することで古臭い迷信や偏見が打破されより良い社会が実現する、と無邪気に考えている人たちにとてつもない衝撃を与えてくるのが本作だろう。この本を読めば、科学は時として迷信を再生産し、新たな偏見や差別を生み出すことすらある、そして人はある任意のデータから自分にとって都合のいい結論をいとも簡単に導き出すことができる、ということが分かる。19世紀から20世紀にかけて、多くの学者が脳の大きさ、人相、IQなどによって人間の知能を測ることができると考え、それらの間違った仮説に基づいて知能が劣っているとされた人種や民族が差別された。そして、いったんそのようなレッテル貼りが行われると、その結論とは異なる不都合な真実が出てきても、それを都合の良いように解釈して切り捨てていまい間違いが長い時間訂正されないままになってしまう。

例えば、昔の骨相学では、高い地位にいる白人は脳が大きく、アジア人・黒人・貧しい人・犯罪者などは脳が小さいとされていた(実際には、脳の重量は体格などによって変わるし、当時の測定では頭蓋骨から正確に脳の重量を測ることなどできなかった)。ところが、墓から掘り出してきた高い地位にいる人々の頭蓋骨を調べてみると、明らかに犯罪者のそれより小さいものがあった。普通に考えれば人種や職業の違いと脳の大きさには何の関係もないという結論になるはずなのだが、当時の学者は、いや、昔の骨は保存状態も悪いし、それらは死因も違うので単純比較はできない、などと言い訳をして自説の正当性を曲げなかった。

例えば、20世紀前半のアメリカ軍で実施された知能テストでは、アングロサクソン系の白人移民が最も知能が高く、南欧系、アジア系、黒人は低い、という結論が得られていた。一方、アメリカでの生活が長い人ほど知能テストの結果も良いというデータも得られた(つまり、当時の知能テストは英語やアメリカの文化をある程度知っていなければ答えられないものであり、アメリカに来て間もない移民にとって不利なテストであった)。しかし心理学者たちは、より知能がある者はより早い時期にアメリカに移り住み、より知能の劣った者は最近になってからようやくアメリカに移住してきたのではないか、という今では考えられない仮説を述べ、知能テストの不備を認めなかった。

彼らは結局のところ、意識的にせよ無意識にせよ、心の中にある偏見に基づいて調査をし、その偏見の目を通してデータを解釈し、その偏見と合致する結論を導き出したに過ぎない。「先入観はデータの中にもぐりこんで、一巡して同じ先入観へと戻る」(上巻、172ページ)。しかし、何よりも怖ろしいのは、それらの非科学的、いや、もはや犯罪的ですらある研究が、単なる疑似科学ではなく、当時としては最先端の極めて客観的で科学的な研究であると見なされていたということである。

この本を読んで「昔はこのような疑似科学が蔓延し人々が差別されていたが、科学が進歩することで無知蒙昧な言説は否定されよりよい社会が実現した」みたいな感想・結論を出す人がいるとすれば、その人はこの本の内容を全く理解していない、完全な誤読である。真っ当な研究者であれば、この本を読んで自分もここに書かれた研究者と同じような過ちを犯してないだろうか、と立ち止まって考えてみるだろう。

真実の一〇メートル手前

いつも思うのだが、米澤穂信氏の小説は余計な情報がほとんど無く洗練された文章だと感じる。例えば、早坂真理は何故失踪し自殺するほど追い詰められなければならなかったのか、会社の倒産に関して真理は何か法に触れるようなことをしていたのか、その辺りの詳細は一切書かれていない。早坂真理は今どこにいるのか、というただ1点のみに焦点を絞って物語は展開していく。そのような作品構造は、逆に言えば、一言一句全てに何らかの意味があるということであり、どんなに些細な文章でもそれが後々の伏線になっていたりするから、実に唸らされる。例えば、事件当事者の筆跡を調べるために万智がわざと間違えた日付のサインを書かせるシーンがあるが、それより前のページにはちゃんと当日の日付が読者に分かるような文章が入れられている。

このようにミステリーとしての基本を忠実に押さえつつも、根底には一つの大きなテーマがしっかりと存在している。それを一言で言うなら、ジャーナリストという職業が背負う「業」と「矜持」、という言葉に尽きるだろう。何らかの事実を伝えることは、誰かを救う事にもなるかもしれないが、同時に誰かを傷付ける事になるかもしれない。その二重性のことを作中では「綱渡り」と表現されている。全くの偶然なのだが、上で紹介した『人間の測りまちがい 差別の科学史』と本作は、非常に似通ったテーマを持っていると思う。人の目は真実を見ることはできない。自分にとって都合の良いもの、見たいものだけが見える。これは、科学であれ、報道の世界であれ、結局は同じなのだ。例えば、ある物の長さを測るという単純な作業ですら、測定時の気象条件や測定方法の違いによって長さは微妙に変わってくるし、その計測に使うモノサシ自体の目盛にも一定の誤差が存在する。しかし、だからと言って、「結局、科学や報道では真実は分からない」みたいな冷笑を向けるのは、明らかに間違った態度だと思う。真実の10メートル手前で必死に目を凝らして考え抜いた上で、どうやらこれが確からしいと思われる「真実」を世に発表する。そこにこそ、科学者として、ジャーナリストとしての、矜持のようなものが宿るのだ。

まあ、そんなことを万智本人に言っても絶対恥ずかしがって「いや、そうじゃない、自分の仕事はそんな高尚なものじゃない」とか言ってメッチャ反論してくるだろうけど(萌)。

しかし、その反論があながち間違いじゃないかもしれないと読者に感じさせてくるのが、とてもゾッとするのだ。例えば、駅のホームで犯人をおびき寄せるために演技をしていた時、歩道橋の上で推理通りに証拠品が見つかった時、そして『王とサーカス』の後半、少年の安否を調べる事よりも自分の仕事を優先していた時、彼女の胸にジャーナリストとしての矜持に悖る何かが去来していなかったと断言することはできるだろうか。いや、そんな問いに結論を出すことなど誰も絶対にできないだろう。他でもない万智自身が、結論を出せないのだから。これがまさに、米澤穂信作品に潜む強烈な「毒」である。

収録作品の中で白眉と言えるのは『名を刻む死』だろう。隣人を見殺しにしてしまったと思い悩む少年に向かって、珍しく大声で「違う!」と叫び、少年が傷付かないような「結論」を与えようとする万智。その姿はとりもなおさず、彼女が高校時代に経験した少女との別れについて、何度も何度も思い悩み、いまだに結論を出せていないことを物語っている。そもそもこの種の苦悩は、解決することが極めて難しい部類の苦悩だろう。何故ならば、彼らにとっては、その苦悩を和らげる結論を導き出そうとしている自分自身が許せないからだ。これは、救われることがまた新たな苦悩を生み出すという、入れ子のような構造をした苦悩なのだ。改めて、万智が高校時代に感じた衝撃の重たさを見て取ることができる。『王とサーカス』はそれ単体でも読めるが、本作は先に『さよなら妖精』を読まなければ良さが半減するだろう。

*1:私が学生時代に所属していた研究室ではガン細胞株を培養していたのだが、ある時、指導教官に聞いてみた事がある。ここにはヒトの乳がん細胞から作られた細胞株がありますけど、これを誤って飲んだり自分の体に注射してしまったらどうなるのですか?やはりガンになってしまうのでしょうか? もうだいぶ昔の話なので先生の回答がどのようなものだったか詳しくは覚えていないが、たしか、その細胞は他者由来の細胞なので実験者の体内に入ったとしても増殖することはなく安全である、というような話だったと思う。

*2:通常のマウスにガン細胞を注射してもガン細胞は増殖しないが、実験で使うマウスは免疫系が働かないように改良されたマウスを使っているので実験が行える、ただしそのマウスを他の病原菌などから守るために実験は外部と遮断されたクリーンルーム内で行わなければならない、という説明。

『宇宙よりも遠い場所』総評―アウトロー達の「ざまぁみろ」を肯定的に描く爽快感

伝統的な立身出世モデルの崩壊

今思えばこの作品は終始、登場人物が、誰の期待を背負う事もなく、他でもない自分達の夢や願望や目的のためだけにチャレンジしていくという物語だった。南極に天文台を作りたい、南極でしかできない研究がしたい、母親が降り立った地に自分も行ってみたい、自分をバカにした奴らを見返したい。そういった個人的な願望に突き動かされた人達が力を合わせて南極を目指す、という物語だ。第9話の「ざまぁみろ」はそれを実によく象徴している。

日本で昔からよくある成功の物語は、才能あふれる若者が家族や出身校や地元の期待を一身に背負って、広い世界に挑戦しに行って努力と創意工夫で成功を収める、みたいなものだった。しかし思えば今は、この「立身出世して故郷に錦を飾る」的な成功モデルがなかなか成立しない時代になっているのかもしれない。

本当に優れたパイオニア的存在は、没個性的で保守的な日本の小さなコミュニティでは逆に評価されない場合がある。出る杭は打たれるという諺の通り、彼らは学校や地域社会から理解されずに蔑まれたりもする。彼らは、そこで感じたルサンチマンにも似た鬱屈した感情を上手にモチベーションへと変換し、自分の能力を発揮できる場所を求めてもっと広い世界(海外とか)に出ていき、そこでようやく認められる。こういうタイプの偉人は、色々な分野で少なからず存在している。

例えば、野茂英雄近鉄バファローズに入団して4年連続で最多勝を獲得するなど大活躍を見せるも、監督や球団と対立し退団。メジャー行きを宣言するも、当時は多くのマスコミが通用するはずないとバッシングしていた。しかし実際は、ノーヒットノーランを2回達成するなど数々の偉業を成し遂げ、日本人メジャーリーガーのパイオニア的存在となった。

他にも、落合博満や、モハメド・アリや、マルコムXなどが、このタイプに含まれるだろう。ノーベル賞受賞者の中にも少なからずこのタイプの偉人がいる。

負の感情を出発点としてチャレンジするということ

今や、才能ある人は子どもの頃から世界を舞台にして活動するというのが当たり前の時代になっているが、学校や地域や国といったコミュニティのレベルではそういう時代になかなか対応できず、それらの枠組みから外れた人達をバッシングして才能をつぶそうとしてくる。なので、そういう小さなコミュニティに居られなくなったアウトローが、自分から世界に出ていってようやく認められる、というケースはこれからの日本でどんどん増えていくだろう。

そういう時代において、「自分をバカにした連中を見返したい」「ざまぁみろと言ってやりたい」という一見すると不健全な負の感情のようにも解釈できる動機を、むしろ全肯定していったのが『宇宙よりも遠い場所』という作品だったのだと思う。

本作の主要登場人物はみんな、学校でバカにされたり、不登校になっていたり、友達ができなかったりして、この社会に「居場所がない!」という切実な感覚を抱くアウトロー的な人物ばかりで、そういう彼女たちが、心の中から沸々と沸き起こる負の感情を出発点として新しい世界に踏み出す姿を、極めて肯定的に描いていった。そしてその事が、現実にいる才能があってもなかなか世の中から評価されずに苦しんでる人達に、どれだけ勇気を与えただろうか。

「ここじゃない何処かに行きたい」を超えた「何か」

しかし、そうは言っても、帰国して再び南極に行こうと誓い合うキマリ達には、「ざまぁみろ」に代表されるような個人的な夢や願望ではない、それを超えた「何か」が求められるということもまた事実である。先ほど、個人的な負の感情を出発点としてやっていくのも全然有りみたいな話をしたが、実際には「ここじゃない何処かに行きたい」みたいなロマンを追い求めることは極めて難しくなっている。要するに、研究者が個人的に「これがやりたい」と思う事でも、それが同時に「社会や人類のためになる」と認められなければ、スポンサーもつかないし予算も下りないというシビアな時代になっているのだ。

事実、南極観測隊の隊員達は皆、ただ南極に行くことを目的としていたわけではないはずだ。南極の気象・生物・雪・オゾンホール、南極から見える星やオーロラ、それらを研究することが彼らの目的であって、南極に行くのはそのための手段でしかない。そして、彼らの目的がゆくゆくは人類の進歩につながるのだということを、スポンサーとなる企業や国や社会に向けて彼らが絶えず発信し説得してきたからこそ、彼らは南極に行くことが出来、また、行く資格があると認められたのだ。

だとするなら、1度目の旅を終えたキマリ達も、「ざまぁみろ」や「ここじゃない何処かに行きたい」だけでは許されないフェイズに入ったのである。それが成長し、大人になる、ということなのだ。ただ「南極に行きたい」だけではなく、「南極に行って何かを成し遂げたい」へ。大人になり2度目の南極を目指すキマリ達が、その「何か」を見つけてくれることを願って止まない。