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最近読んだ本まとめ(4)―『眠れない一族』『破壊する創造者』

眠れない一族 食人の痕跡と殺人タンパクの謎

眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎

眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎

イタリアのある一族を何世代にもわたって苦しめた致死性家族性不眠症ニューギニアのフォレ族の間で広まったクールー病、世界を震撼させた牛海綿状脳症BSE)。初めは別々の点でしかなかったこれらの出来事が、プリオンという線を介して結ばれていく。しかし、この本の一番の見所は何と言っても、プリオンの研究に人生を捧げた2人の研究者の強烈なキャラクターであろう。

ダニエル・カールトン・ガイジュシェックはパプア・ニューギニアの奥地でクールー病の現地調査を行い、その病気が死者の脳を食べる儀式によって広まることを突き止めた。そして、患者の脳から採取した組織をサルに投与すると、そのサルにもクールー病と似た症状が現れることを発見した(これらの業績により彼は1976年にノーベル賞を受賞した)。小児性愛者だった彼は、研究の傍ら、現地の子ども達と親密な関係を築き、何十人もの子どもを母国アメリカに連れて帰って一緒に生活したりした。治療と称して子どもの包茎ペニスにフェラチオをしようとしたりもした。終いには、児童への性的虐待の容疑で逮捕され禁固刑になった。はっきり言って、相当ヤバい奴である。

スタンリー・ベン・プルジナーも、ガイジュシェックに負けず劣らずヤバい奴だった。彼はクロイツフェルト・ヤコブ病の病原体がウィルスや細菌とも異なる未知の微小なタンパク質だと当たりを付け、そのタンパク質を効率よく濃縮する方法や、抗体を使ってその有無を調べる方法を開発した。そのタンパク質をプリオンと命名し、プリオンには正常型と異常型がある、正常型が異常型と接触すると形が異常型に変化する、このようにして異常型が脳内に溜まっていくことでプリオン病が引き起こされる、という仮説(プリオン説)を発表した(これらの業績が認められ、彼も1997年にノーベル賞を受賞した)。メディアを巧みに使って自分の功績を宣伝し、研究費を集めまくり、反対者は学会で容赦なく攻撃、部下にはパワハラし放題、ライバル研究者の業績を横取りしようと画策した。高名な科学者の中には、野心家で名誉欲が強くギラギラしてる人が少なくないが、プルジナーほどヤバい人はほとんどいないだろう。

彼を批判する人から言わせれば、彼のアイディアはほとんどが別の誰かからの借用であり、それをさも自分一人の手柄であるかのようにメディアを使って印象操作をした、ということらしい。事実、プリオン説とほぼ同じ仮説は別の人によって既に提唱されていたし、プリオン説を強力に支持する決定的な証拠*1を提示したのも別の研究者だった。端的に言ってしまえば、プルジナーは人生を賭けた大博打に勝ったのだ。病原体が何なのかも分からない時代からそれにプリオンと命名し、それを声高に宣伝して周った。もしそれが間違いだったら、他の研究者から笑い者にされ、研究者人生が終わってしまうかもしれない、というリスクを冒してプリオン説に全賭けしたのだ。

また、proteinaceous infectious particleを略してプリオンと命名したこと自体が、プルジナーにとって何よりも強力なプライオリティとして機能した。これは科学の世界に限らないが、「名前」というものは時として非常に大きな力を持つことがある。例えば、iPS細胞。山中伸弥博士がiPodにあやかって付けたというこのシンプルな名称がなければ、彼の業績や再生医療にこれほど注目が集まることは無かっただろう。プルジナーもまた、プリオンという言葉を発明することによって、プリオンといえばプルジナー、プリオン研究の第一人者といえばプルジナー、という印象を世間に与えることに成功した。

強烈なキャラクターを持つ者どうしが出会うと激しく対立するということはよくあるが、ガイジュシェックとプルジナーもその例に漏れなかった。彼らはお互いの業績を一切認めようとせず、軽蔑し合っていた。ガイジュシェックは死ぬまでプリオンという言葉を使わなかった。まさに「事実は小説よりも奇なり」という言葉がピッタリな、破天荒で常識外れな科学者たちの物語だと思う。

だが、物語はここでは終わらない。本書の後半では、1990年代に猛威を振るったBSE問題の発生から収束までの一部始終が語られる。効率化と経済性を優先して肉骨粉を使用し続けた酪農業界、畜産業者を守ろうとするあまり対応が後手後手に回るイギリス政府、そんな人間側の不手際の隙間を縫うようにしてしぶとく襲い掛かってくるプリオンタンパク質。BSE問題の顛末を知ると、為政者たちが完璧だと主張する食品の安全を守るシステムが、実はちょっとしたことで簡単に崩れてしまう砂上の楼閣であることが分かる。

破壊する創造者 ウイルスがヒトを進化させた

後半は異種交配やエピジェネティクスの話が中心となり、ウイルスとは関係ない話が続く。いや、全く関係ないという事はないだろうが、それでも関連は薄いので、この副題と原題「Virolution」(virusとevolutionを掛け合わせた造語か?)は適切ではないと思う。それでも前半部は、これまで一般的だったウイルスの姿や進化のメカニズムを大きく覆すような興味深い内容となっている。

多くの人がウイルスと聞くとインフルエンザやエボラ出血熱エイズのように何か恐ろしい病気を引き起こすものと想像しがちだが、実はヒトに感染しても何にも悪さをしないウイルスの方が圧倒的に多いのである。考えてみてほしい。もし、ウイルスが感染したことによって宿主がすぐに死んでしまえば、その中にいるウイルスも一緒に消えてしまって子孫を残せない。だから、ウイルスは宿主を殺してしまわないように弱毒化し、宿主の方もウイルスと共存できない個体は淘汰される、といったことが長い目で見たら起こっているだろうと推測される。エイズを引き起こすHIV-1は、まだ人類と出会って日が浅いため、ヒトを死に至らしめるような振舞いをするのだろう。事実、HIV-1によく似たウイルスがサルの体内などで多く見つかっており、それらの多くはサルを殺すことなく共存しているように見える。

ところで、ウイルスというものは宿主のDNAの中に自分のDNAを挿入し、宿主が持つ複製・転写の機構を使って増殖することができる。そのようなDNAの挿入がもし生殖細胞で起こったら、ウイルス由来のDNAが宿主の子孫にも受け継がれることになる。事実、そのようなウイルスがコアラの体内で発見されているという。それらのウイルスは代を重ねるにつれて増殖能を失っていき、やがて宿主のDNAと完全に一体化するだろう。驚くべきことに、ヒトゲノムの30%以上は、こういった昔のウイルスの痕跡で構成されている。彼らは増殖して自由に動き回ることが出来なくなった代わりに、宿主のゲノムの一部となって存在し続けることができる。

ここで、生物どうしの「共生」関係にはいろいろな「レベル」がある、ということを再確認しておきたい。例えば、大きな木に寄り添って虫やサルや鳥が生活しているのや、哺乳類の体表面や体内にノミやダニや様々な腸内細菌がいるのは、個体レベルでの共生関係と言える。これがさらに進むと、チューブワームと硫黄酸化細菌のように、細胞レベルで融合が進んだ共生関係となる。さらに、真核細胞とミトコンドリア葉緑体のように、オルガネラレベルで共生していると、もはや両者が別々の生き物であるかどうかも怪しくなる。そして、先ほど話したヒトとヒトゲノムに刻まれたウィルスの痕跡というのは、究極の共生関係、すなわち遺伝子レベルでの共生関係だと言えるのではなかろうか。彼らは、ウイルス粒子という実体を持たない遺伝子だけの存在となり、宿主と半永久的に「共生」し続ける。

しかし、すべてのウイルスがそういう道をたどるとは限らない。宿主のゲノムと一体化した後も盛んに発現を続けるウイルス由来遺伝子も存在する。例えば、哺乳類の胎盤形成に欠かせないタンパク質であるシンシチンの遺伝子は、哺乳類の祖先に感染したレトロウイルスによってもたらされた物である。これはすなわち、ウイルスがいなければ我々哺乳類は存在していなかったということなのだ。

ダーウィン以来、進化理論の中核をなすのは、ダーウィンの提唱した自然淘汰、メンデルを祖とする遺伝学、モーガンやマラーによって確立された突然変異の理論、という3つを融合・発展させた「総合説」である。この総合説で進化の原動力として自然淘汰と共に挙げられているのは、遺伝子の突然変異である。要するに、遺伝子の複製ミスや紫外線による損傷などによって遺伝子配列が偶発的に変化することが、生物の進化における主要な原動力である、という事がこれまで信じられてきたのだ。

しかし、シンシチンの例から分かることは、ウイルスとの共生による遺伝子の受け渡しもまた、進化の原動力になっているということである。突然変異と共生、どちらがより多く進化に寄与しているのかはまだはっきりしていない。だが、突然変異によるゲノム進化は完全にランダムでゆっくりとしか進行しないのに対して、共生による進化は、ウイルスによって遺伝子が丸ごとごっそり挿入されるわけだから、スピードが速くインパクトがデカいということが容易に想像できる。著者は突然変異と共生の他にも、異種交配とエピジェネティクスの効果も進化の原動力となり得ると述べている。

以上にあるようなことは、いろんな本やHPに書かれていて知ってはいたが、このように体系立てて、一般人にも分かりやすく解説してある本は、他に例がないだろう。今まで断片的にしか理解できなかったものがストンと腑に落ちていくような読書体験だった。

*1:プリオンタンパク質を作れないように遺伝子操作されたマウスに異常型プリオンを投与してもプリオン病に感染しないという事実。

甲子園脳の恐怖

連日の猛暑の中、甲子園球場高校野球をやるのは危険なのではないか、という声が上がっている。そのような声を受けて、横浜DeNAベイスターズ初代球団社長で、スポーツ庁の参与でもある池田純氏がインタビューで次のように言っている。

甲子園は良くも悪くも議論の対象になる大会です。それだけ注目度が高いとも言えますが、甲子園が『熱中症対策の遅れの象徴』といった具合にやり玉に挙げられてしまうことには、少し疑問を感じていますね
(中略)
議論の前提として、『甲子園だけが異常』なのではなく、日本の気候が急激に変わってしまったこと、それに対してあらゆる対策をしていかなくてはいけないという認識を持ち、スポーツ界を見渡した上で冷静で総合的な議論と判断が必要だと思います

要するに、悪いのは甲子園だけじゃない、日本の気候が急に変わったのが原因なんだから仕方ない、今後みんなで対策考えていきましょ、ということらしい。

どんだけ能天気な奴なんだ、コイツ!

さらに、高校野球ドーム球場でやればいいのでは、という意見に対しては、

常識や旧弊にとらわれないアイディアや意見が出てくるのはいいことだと思いますが、これまでの歴史や経緯を考慮しないで劇的な変化だけを求めてしまうと、これまでせっかく培ってきた“甲子園”という伝統やブランドが危機にさらされてしまう可能性があると感じます
(中略)
“甲子園”は甲子園でやるから“甲子園”なんだというのは、野球に思い入れがあるなしにかかわらず、納得できる話なのではないでしょうか。ブランド論から見ても、それまで球児が紡いできた歴史も込みでブランド価値があるといえます

は? え? 何言ってんの? くだらない、取るに足らない、どうでもいい甲子園の「ブランド」とやらを守るために、選手や観客の命を危険にさらす! バカじゃねえの? 最低の人間だな、コイツ。

じゃあ、どういう熱中症対策が良いんだという話になると、

例えば、『暑くて試合時間が長くなると危ないから、どんな試合展開でも一律に2時間までにしましょう』というような、野球のルールを出発点にしてしまうような対策は共感を得づらく、受け入れられにくいのではないかと思います。京セラドームでの開催も、歴史や伝統を考えると、やはり共感は得にくいと感じます。
私としては、例えば、『甲子園球場に開閉式の屋根をつける』というところから議論をスタートさせるのも、一つの案だと思います。もちろんこの意見にもさまざまな批判はあると思いますが、暑さに対する対策が必要不可欠ななかで、日差しの強弱で開閉できる方法なら“甲子園らしさ”も残せるでしょうし、オープンで健全な議論に繋がっていくのではないかと思います

いやもう、どんだけ頭悪いんだよ。球場に屋根、それも開閉式の屋根をつけるって、どんだけ金かかると思ってんの。その費用は誰が出すの? 試合をナイトゲームにしたり、会場を京セラドームに変えたりする方が、何百倍、何千倍も安上がりだわ!

何? 何なのコイツ? 実現不可能な案をあげて高校球児の置かれた環境を改善させないようにする嫌がらせでもしたいんか? 伝統やブランドと、人の命、どっちが大切か、そんなことも分からないの?

甲子園に脳が侵されると、人はこんなにも愚かになるんだなあ…

『ダーリン・イン・ザ・フランキス』総評

第18話、ついに自分の気持ちを打ち明けたイクノに、イチゴが優しく語り掛ける。

私たち、みんなめんどくさいんだよ。でもさ、それで良いかなって最近思い始めてきてるんだ。もしかしたら、こういうのの積み重ねが、生きてるっていうことなんじゃないかなって気がして。
(『ダーリン・イン・ザ・フランキス』、第18話より)

結局、本作のテーマはこの言葉に集約されていたように思う。

人間をはじめとする多くの生物が、有性生殖という「めんどくさい」仕組みを使っているのは何故か。それは有性生殖が、遺伝子の多様性を増し、環境の変化に対応して生き残るために必要不可欠な仕組みだからだ。

関連記事:『天元突破グレンラガン』『キルラキル』から『ダーリン・イン・ザ・フランキス』へ - 新・怖いくらいに青い空

グレンラガンキルラキルも、突き詰めれば同じテーマに行きつく。一見不合理で不必要に見えるものこそが、実はもっとも合理的で、そして強い。

それは、現代の人間社会にも言えることではないだろうか。あらゆる分野において「合理化」が徹底的に追及される世の中で、私たちは気付かないうちに、人として、生物として、とても大切なものを失ってしまうかもしれない。

例えば、エネルギー問題。今ある資本主義経済を回すことだけを考えれば、化石燃料をバンバン燃やし、原発を動かして、安く電気を作ればいい。しかし、将来のことを考えるなら、本当にそれが正しい選択と言えるのだろうか。化石燃料はいつか枯渇する。原発は事故が起こってしまうと取り返しがつかない。だからこそ、今は効率が悪いと言われていても、より環境に優しく枯渇しないエネルギーに投資していくことが重要になる。

安倍政権が再生可能エネルギーへの投資に消極的なのは、それが完全に「未来」のための政策であり、現在の日本経済には基本的に何の貢献もしない、むしろマイナスになるからである。彼らは、目先の好景気や株価の上昇でしか支持者の心を繋ぎ止めることが出来ない、という事実をよく理解しているから、自然エネルギーのような「非効率的」なものには見向きもしないのだ。

最終回、地球に残ったコドモ達がマグマ燃料をもう使わないという選択をしたのは、実に示唆的だと思う。マグマ燃料は叫竜人が姿を変えてできたものだとされているが、現実の化石燃料も大昔の生物が変性してできるものだからだ。

そして、このような大胆な転換が可能だったのも、彼らが他の何物にも染まらない、真に未来を見据えて行動することのできる子どもだったからだろう。

現実世界を生きる我々なら、たとえ大人であっても、子どものことを思い、子どもの心を忘れることなく行動することができるはずだ。地球上でもっとも理性的で、未来を予測する能力に長けたヒトという生物だからこそ、それが可能であると信じたい。

進化生物学には「幼形進化」という概念がある。進化した生物はその祖先となる生物の幼体に似ているという。例えば、ホヤの幼体は原始的な脊椎動物に似ている。そして、チンパンジーの子どもはヒトに驚くほどよく似ている。

我々ヒトもまた、サルから進化した「コドモ」なのかもしれない。

『がっこうぐらし!』第10巻は、嘘と欺瞞に満ちた日本の就職活動のメタファーである

ゾンビがうごめく高校での生活は、現実の学校生活のメタファーである。子どもという存在は、冗談ではなく本当に、学校という地獄の中で命がけで戦っている。そこで生き残った者だけが大人になる。

そんな『がっこうぐらし!』も、第5巻で高校を「卒業」し、第6巻からは大学編がスタート。さらに第10巻からは、胡桃ひいては人類を救う手がかりを求めてランダル・コーポレーションへと突入します。

そこで見つけた謎のスマートフォンを使って外部との通信に成功。しかし、数日後に救援部隊を送るという相手の言葉は実は全くの嘘で、由紀達は一転して大ピンチに陥ります。地下へ逃げるか、胡桃を犠牲にするか、究極の取捨選択を迫られる中で由紀は「わたしらしさって何?」と思い悩みます。

もうお分かりでしょう。作中の描写になぞらえて言うならば、要するにこういうことです。

  • 「弊社は出身校や容姿で採用を決めたりはいたしません。面接では一人ひとりの長所や個性を引き出すように努めます」→嘘の可能性74%
  • 「弊社は福利厚生がとても充実していて女性でも働きやすい会社です」→嘘の可能性78%
  • 「今後のご健闘をお祈り申し上げます」→嘘の可能性95%

もはや学校暮らしすらしなくなった『がっこうぐらし!』第10巻に描かれているのは、まさに、嘘と欺瞞に満ちた日本の就職活動です! 学校も地獄だったけど、ある意味それ以上にもっと地獄で、理不尽で、クソッタレな社会の中に、由紀達は足を踏み入れようとしているのです。

そのように考えると、由紀達が謎のスマホアプリを頼りに行動している様は、リクナビマイナビみん就などに踊らされる就活生のメタファーのようにも見えますよね。

一番象徴的だったのが、学園生活部4人がいよいよランダルの中枢へと潜入していくシーン。「やっぱリクルートスーツとかいるかな?」と不安がる由紀を、胡桃が「学生服は冠婚葬祭何に着てってもいい最強のフォーマルなんだぞ」と励まし、4人は胸を張って扉を開けます。

キルラキル』風に言うならば、制服は、征服に通じるもの、支配や強制のメタファー、ゾンビがうごめくあの地獄の学園生活の象徴です。それでも、由紀達は誇りを持ってその制服に袖を通し、社会の中へ足を踏み入れていくわけです。

確かに学校は地獄だったかもしれない。でも、そこが自分たちの原点であることは一生変わらない。そこで学んだことはずっと自分の中に残り続けるし、そこで得た繋がりはずっと続いていく。それは、寄る辺のない現代社会を生きる私達に残された、数少ない灯台のような存在なのかもしれない。

のぞみぞ概念

生まれて初めて同じ映画を2度映画館で見た。原作を読むだけでは全然理解できなかったのに、映画を観て、ツイッターやブログで多くの人の感想を見て、再び映画を観ると、自分の中でようやく「のぞみぞ概念」が確固としてきました。

希美とみぞれが2年生の頃のエピソード『響け! ユーフォニアム 2 北宇治高校吹奏楽部のいちばん熱い夏』において、希美とみぞれの関係性を簡潔に言い表すなら「温度差」、「みぞれ→希美」という一方通行の矢印ということに尽きます。みぞれは希美のことが大好きすぎてやばいことになってるけど、希美はそのことに全然気づかない、という熱量の差、この残酷な関係性(+なかよし川のイチャイチャバカップルっぷり)を見せつけられて「ああ~~~~~~~~~~~尊すぎるんじゃ~~~~~~~~~~」ってなるのが2年生までのお話。

関連記事:『響け! ユーフォニアム』の2年生組の関係性が尊すぎて生きるのがつらい! - 新・怖いくらいに青い空

一方、『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章』と『リズと青い鳥』は、「みぞれ→希美」という一方通行性が徐々に打ち消されていく過程が描かれます。ここで、「希美→みぞれ」という方向の矢印は、音楽の才能についての嫉妬や劣等感という形で表出してきます。そして、「希美→みぞれ」という矢印についての具体的な内容が明らかになっていきます。すると、希美の行動の意味ががらりと変わって、読者・観客に戦慄が走ります。要するに、希美はみぞれの気持ちを分かってなくてああいう行動をしているのではなくて、作中における彼女の行動すべてが「みぞれへの嫉妬」という感情から出発しているのですよ!

もちろん希美は別にフルートの能力が低いというわけではないし、みぞれと一緒にソロパートを任されるくらい実力はある。でも、みぞれには天性の才能があって、音大への進学を勧められるくらい周りから期待されている。対する自分は、音大に行くのは実力的にも経済的にも厳しい感じだし、新山先生に相談しても塩対応で見向きもされない…。こういう状況で、みぞれに対する劣等感をどんどん募らせてるのが希美なわけです。

そして、ここからが非常に重要なところなのですが、こんなふうに音楽の実力について日ごろ劣等感を感じている相手だからこそ、音楽以外の部分ではみぞれより優位に立ちたいし、みぞれに頼られたいと思ってしまうんですよ! 具体的に言うと、友人関係とか、社交性とか。自分、友達いっぱいいますよ、後輩からメッチャ慕われてますよ、ってことを事あるごとにみぞれに見せびらかして、「みぞれには私しかいないけど、私には他にも友人がたくさんいる」っていう状況にすごい優越感を覚えているのが、傘木希美という女なんです!

例えば、放課後に後輩とファミレスに行くとか、あがた祭に誰と行くかとか。「みぞれは他に誘いたい子いる?」って聞いてからの「そっか」には、絶対「だよね、だよね~、みぞれには誘いたい子とかいないよね~」っていう心の声が内包されてますよね(誤解無きように言っておきますが、これは私がこの記事で勝手に妄想してることじゃなくて、希美を演じた東山奈央さんが記事の中で言ってることです)。しかも、先にみぞれを誘って喜ばせた後に、追加で優子・夏紀を誘うという腹黒さ。その時の表情をあえて観客に見せないという演出もまたすごい。

しかも、みぞれって基本的にコミュ障なんで、希美がいろいろ立ち回ってみぞれを助けたりしていて、それに対しても希美は優越感を感じてるんですよ。鎧塚先輩と仲良くなりたいという剣崎さんの相談にのってあげた時も、内心ではたぶん「みぞれがパート内でうまくいくように口添えしてやったぞ(ドヤ顔)」みたいな気持ちなんですよ。図書館で怒られて困ってたみぞれを助けてあげた時も、めっちゃニコニコしてましたよね。

なお、以上で挙げたようなことは、すでに下記の記事やつぶやきで多くの人が指摘していることです。

話は変わりますが、夏目漱石の『こころ』が100分de名著に取り上げられた時、何で先生はKを自分の下宿に招き入れたのかって質問に、姜尚中氏が「先生は『俺の方がお前より世故に長けてる』って見せびらかしたかったんじゃないか」と言っていたのですが、これがまさに希美がみぞれに対して抱いてる感情ですよ!

夏目漱石という作家は本当に偉大だと思います。100年以上も前にのぞみぞの本質を見抜いていたのですから。

さて、前半は完全に希美が余裕しゃくしゃくな感じですが、物語が進むにつれて徐々に優位性が崩れ、希美は焦り始めます。まず、みぞれが新山先生から音大のパンフレットを貰ったこと。そして、みぞれが予想以上に剣崎さんと仲良くなって、自分からプールに誘いたいとか言い出したこと。言い出した瞬間に希美とみぞれの間に他人が通り、希美の表情がみぞれからも観客からも分からないようになっていたのは、本当に秀逸な演出だと思います。

こういう事を書くと、私が希美の悪口を言ってるとか、希美アンチだとか勘違いする人もいるんですが、全然そんなことないんですよね。はっきり言って、他人から良く思われたいとか、他人より優位に立ちたいとか、自分より優れている人と対等だと思われたいとか、そういう感情を一度も持ったことない人ってこの世にいるんですかね? 私は、そういう感情を抱いてしまう人間臭さもひっくるめて、希美というキャラクターが大好きなのです。

また話は逸れますが、希美と同じような経過をたどっていくキャラクターとして、『宇宙よりも遠い場所』のめぐっちゃん(高橋めぐみ)が挙げられると思います。彼女もやはり「自分はコイツより上だ」って思ってたからこそ、キマリ達が南極行くと分かってあれだけ取り乱してるわけです。第5話で絶交しようとか言い出すのは、勝ち目がなくなった後で繰り出した最後の悪あがきってやつですよ。

物語中盤にみぞれが、青い鳥を逃がすリズの気持ちが分からない、私なら逃げないようにずっと鳥籠に閉じ込めておく、と言ってるけど、本当に青い鳥を鳥籠に閉じ込めておきたかったのは、他でもない希美なんです。絵本パートのラスト、リズとシンクロするように希美がつぶやくのは「神様、どうして私に籠の開け方を教えたのですか」という台詞。みぞれを逃がしたくない…。私のことが大好きなみぞれ、ずっと後ろをついてきてくれるみぞれでいてほしい…。もうこの時点になると、「みぞれ→希美」という矢印が完全に逆転して、希美はみぞれに強い執着を見せるようになるわけです。

では何故、希美はみぞれを鳥籠から放つと決めたのか? それはやはり、希美の中には、「みぞれはずるいよ」と思ってしまう感情と同時に、みぞれに大空を羽ばたいてほしいと願う気持ちもあったからでしょう。希美やみぞれは青い鳥ではなく、『よだかの星』に出てくるよだかのような人だと思う。よだかは繊細すぎるがゆえに、誰かを殺さなければ生きていけないという自然の摂理、殺生の輪廻の中で生きることに耐えられなくなります。そしてこう嘆きます。「ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。」 人もまた、あまりにも繊細すぎると、自分の中にある黒い感情が許せなくなるのだと思う。だからこそ、みぞれは希美に執着してしまう自分自身が気持ち悪いと言うし、希美は自分のことを「軽蔑されるべき」人間だと言います。

ハグのシーンについても、すでに東山奈央さん始め多くの人が指摘していますが、希美が本当に言ってほしかった言葉は「希美のフルートが好き」なんですよね。でも、みぞれは希美のいろんなところを好きだと言うけどフルートが好きだとは最後まで言わない。だから、希美の「ありがとう」には「もう結構です」の意味も込められています。それでも、希美は嬉しかったと思います。こんなちっぽけで、才能もない、「軽蔑されるべき」人間のことを、こんなにも愛してくれる親友がいるということに気付けて、希美は嬉しかったのだと思います。(ていうか、そうじゃないと救いが無さ過ぎる。)

しかし、希美はみぞれと違って陰キャじゃないので、みぞれが何故こんなにも深く自分を愛してくれるのかとか、希美が退部したことでどれだけみぞれが傷付いたかとか、実際のところよく分かってない。一方で、みぞれは希美と違って天才なので、希美の気持ちをあまり理解できてない感じです。もちろん希美は「みぞれはずるいよ」と言っていますが、それを聞いてみぞれが理解できたのは本当に表面的な部分だけだと思う。結局、ここに至ってもまだ2人は完全には理解し合えていないんですよね。

だがしかし、それでも2人は、この出来事を通して唯一無二の関係になる。たとえ完璧には理解し合えなくても、お互いに惹かれ合っていく。進む道は別々でも、2人の人生はこれからも時々重なり合う。これこそが「のぞみぞ概念」なわけです。

リズと青い鳥』は転換の物語でもあります。2人の関係性の転換。リズ=みぞれ、青い鳥=希美、という関係性の転換。ここで私は、物語が最後にもう一度転換した可能性について考えてみたい。表向きには「実はみぞれは青い鳥だった」と言われているけれども、実はみぞれはやっぱりリズなのではないか、という可能性。みぞれは、圧倒的な音楽の才能と、希美への強烈な愛によって、希美の心にみぞれという存在を深く刻み込んだのだ。これによって希美にとって唯一無二の青春の思い出は、完全にみぞれと切っても切り離せないものとなった。みぞれは無自覚のうちに、希美を鳥籠に閉じ込めていたのだ! みぞれ…怖ろしい子!

こうして、物語は一巡し、また同じ曲が始まるのです。