新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『水平線の、文月』は全人類必読の聖典である

艦隊これくしょん ‐艦これ‐ 水平線の、文月 (1) (角川コミックス・エース)

艦隊これくしょん ‐艦これ‐ 水平線の、文月 (1) (角川コミックス・エース)

『水平線の、文月』第1巻読んだ。

かわいいいいいいいいいいいいいいいいい!!! 第22駆逐隊かわいいいいいいいいいいいいいいいいい!!! あ~~~~~~~~~~~~~睦月型尊すぎるだろおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!! もう最高すぎだろおおおおおおおおおおおおおお!!! 萌wwwwwえwwwww死wwwwwぬwwwwwwwwwwwwwwwwww

……こんな尊いものがこの世に存在していいのだろうか。これはもう単なる書籍ではない。もはや聖典と言っていいだろう。これは紛れもなく文月教の新しい聖典として、末永く語り継がれていく作品だ。

ちなみに、2018年現在、文月教の信者数は全世界で約25億人と言われている。また、皐月教、長月教、水無月教の信者もそれぞれ20億人以上いると言われており、それらを全部足し合わせると地球の人口を大きく上回ってしまうというおかしな現象が起こる。まあ流石に全人類というのは言い過ぎであろうが、この地球上の人類の大多数が睦月型駆逐艦のいずれかを信仰していることは間違いない。その世界数十億人の同胞が何よりも心待ちにしていたのが、この『水平線の、文月』なのである!

見どころ1 圧倒的な萌え力

『水平線の、文月』の一番の見どころは何と言っても、文月たち第22駆逐隊の可愛さを最大限に描いている点にある。

本作の主要キャラクターは第22駆逐隊に所属する文月、皐月、長月、水無月。この4人の性格は、ゲーム版やそれに準ずる各種作品と概ね一緒と言っていいだろう。普段はマイペースでおっとりしているけど、海上では常に冷静で頼りがいのある文月。いつも天真爛漫だけど、たまに暴走しがちになる皐月。真面目でクールだけど、よく皐月たちに振り回されている長月。皐月と同じように明るい性格だけど、文月のように冷静な一面もある水無月

この4人の可愛さは、睦月型信者の皆様であれば百も承知だろうし、それは主要キャラ4人中3人が登場したライトノベル『陽炎、抜錨します!』でも散々描かれてきたことであるが、本作を通して改めて第22駆逐隊を見てみると、まあ、何と可愛いことかと再認識させられる。

表情も、台詞も、もう全てが可愛い。文月たちのやることなすこと全部かわいい。全ページ可愛さで埋め尽くされている。まさに地上に舞い降りた天使。その光輝くかわいいお姿は、日々ストレスに晒されている現代人にとってこの上ない癒しである。

ああ~~~心がポカポカするんじゃ~~~!

なお、第22駆逐隊のライバルとして登場する白露や時雨についても、私は真に驚くべき萌えポイントを多数発見したのだが、それを説明するにはあまりにも余白が狭すぎる。

見どころ2 不利な状況でも一生懸命頑張る姿

この作品が睦月型駆逐艦の可愛い姿を描くだけだったとしたら、それは単なる萌えマンガとして消費されるだけであっただろう。しかし、『水平線の、文月』が真に素晴らしいのは、古くて性能が低いという睦月型駆逐艦の「現実」をしっかりと描いているからである!

作中の鎮守府では、3か月後の大規模作戦を見据えた練度向上のために、駆逐隊対抗の模擬戦闘が行われている。そこで第22駆逐隊と戦うのは、睦月型よりも後発の高スペックな駆逐艦ばかりである。つまり、文月たちはスタートの時点で既に大きなハンデを背負って戦わざるをえない。それは睦月型の悲しい宿命みたいなものである。

しかし、それでも第22駆逐隊は常に前向きに、自分たちの力を信じて勇敢に戦っていく。性能の低さを努力と創意工夫とチームワークで補いながら、勝利を重ねていく姿は、全ての読者の胸を打つ。

そして第1巻のクライマックスで4人の前に立ちはだかるのは、圧倒的な強さを誇る第17駆逐隊。所属するのは磯風、浦風、浜風、雪風。全員が最新鋭の陽炎型駆逐艦で、性能も実戦経験も文月たちとは桁違いのエリート駆逐隊である。そんな強敵に苦戦を強いられる文月たち。さらに悪いことに、天候が崩れ、深海棲艦も出現。皐月が被弾し、戦闘不能に陥る。

そこに颯爽と現れた磯風たちが深海棲艦と対峙する。皐月も「ボクたちだって戦える」と言って参戦しようとするが、文月の必死の説得により思い止まり、第22駆逐隊は鎮守府へと帰還する。こみ上げてくる悔しさ、情けなさ。それでも皐月たちは決して下を向かない。唇を噛みしめ、涙をこらえながら、じっと前を見つめる皐月君の表情。なんて尊いシーンなのだろう…。

繰り返すが、『水平線の、文月』は単なる「萌え」だけのマンガではない。他の艦種と比べて火力が低く脇役に回りがちな駆逐艦、その中でも特に旧型でスペックの低い睦月型駆逐艦が、自分たちの置かれた不利な状況にもめげずに、ひた向きに頑張る姿を描く作品なのだ!

見どころ3 時代の最先端を行く思想

最後に、『水平線の、文月』は、現代社会が忘れてしまった大切な考え方を提示してくれている、という話をしよう。現代社会に生きる我々は「新しいものは全てにおいて古いものよりも優れている」と信じ切っている。でも、それは本当に正しいのだろうか? 今、本当に求められているのは、「古いものを大切に使う」という思想なのではないだろうか?

例えば航空機業界を見てみよう。今、旅客機の世界は世代交代の真っ只中である。アナログの古い機体は、次々に高性能コンピュータを搭載した最新機に置き換えられている。日本でも、全日空は最新鋭のB787を次々に購入し、三菱が満を持して開発したMRJも大量に投入する予定である。B787MRJは、駆逐艦で例えるなら最新鋭の陽炎型や夕雲型である。機体は軽くて丈夫で、燃費はメチャクチャ良い。様々な安全対策やコンピュータ制御が取り入れられ、安全性は格段に向上している。であるからこそ、多くの航空会社がこぞって最新機を求める。

しかし、実際には、最新機を導入することのデメリットも存在する。最新技術を使った飛行機は、飛行実績がなく、航空会社側にも運用スキルが蓄積されていないので、想定外のトラブルが発生しやすくなる。実際に、B787は就航当初、バッテリーやエンジンの不具合が多発し、全日空B787を使った便の欠航を余儀なくされた。また、旅客機の開発には遅れがつきものである。当初2013年を予定していたMRJの納入は延びに延び、早くても2020年までかかると言われている。納入されるまでの間、航空会社は別の機種を購入したりリースしてもらったりする羽目になり、莫大な追加出費と経営方針の変更を迫られる。私は別にB787MRJをディスってるわけではないが、はっきり言って、最新機を大量購入するというのは、航空会社にとって極めてリスキーな選択なのである。

一方、世界には、MD-80シリーズやB717、つまり駆逐艦で言えば睦月型みたいな古い機種を大切に使い続けている航空会社も存在する。それらの飛行機は、古くてボロいし、燃費も悪い。しかし、古い飛行機が長く使われているのには、それ相応の理由がある。古い機種は長年運用が続けられることによって、メーカーや航空会社に修理・メンテナンス・パイロット育成のノウハウが蓄積されている。たとえスペックは低くても、歴史に裏打ちされた信頼と実績があるのだ。だからこそ、全てが最新機に置き換わるということはなく、古い飛行機が大切に使われ続けるのである。

しかし、古い飛行機が花形路線に投入される事はほとんどない。大都市と大都市を結ぶ華やかな国際線で活躍するのが陽炎型なら、地方空港で細々と引退の時が来るのを待っているのが睦月型である。それでも、彼女たちは文句一つ言うことなく、懸命に飛び続ける。華やかな主力機の陰に隠れながら、黙々と最後まで自分の仕事を全うしようとしている。その健気な姿が、多くの人々の心を打つ。

今、時代は、間違いなく睦月型である。

矛盾と共に生きる―『いでおろーぐ!』ついに完結

ついに『いでおろーぐ!』完結である。最後には、強者vs弱者、リア充vs非リア充、といった単純な図式では収まりきれないこの世界の複雑さを描きつつも、結局主人公たちは最後まで、反恋愛・反リア充の姿勢を崩すことなく、この世界と闘い続けることを誓った。

『はがない』や『俺ガイル』の登場以降、これまで当たり前に信じられてきた「恋愛」や「友情」や「青春」の価値を徹底的に揺さぶる作品が大量に生まれてきた。というか、これまで皆が何となく感じていても漠然としていて説明できなかったものが、リア充とか、ぼっちとか、スクールカーストといった言葉によって言語化・顕在化した。『わたモテ』も『青春ブタ野郎』シリーズも、そういった流れを汲む作品である。

これらの作品では一貫して、同調圧力や空気の支配する教室、その中で常に周りの目を気にしながら生活することの息苦しさを描いてきた。そして、他人の評価なんか気にしなくていい、無理に周りと合わせるくらいならいっその事ぼっちでも良い、というような価値観が打ち出された。『いでおろーぐ!』でも、特に第2巻などは、同様のテーマ性を持っていた。

ところが、これらの作品には共通して一つの「矛盾」が生じてしまう。確かに物語の最初の根幹はリア充的なものの否定ではあるのだが、何かかんやで放課後に集まって駄弁ったり、時には皆で協力して一つの事を成し遂げたりする姿は、彼らが忌み嫌っていたリア充的なものに他ならない。つまり、物語が進むにつれてキャラクター達の生活はリア充然としてくるのである。

そのような「矛盾」を逆手に取り、最も先鋭化された形として描き出して見せたのが『いでおろーぐ!』だった。高砂と領家が反恋愛主義活動に邁進すればするほど、2人の愛は深まり、何やかんやと言い訳を付けてはイチャコラ、イチャコラ、もうやりたい放題、ついには作中でもその矛盾を指摘され自己批判をさせられる始末。この「矛盾」を徹底的にギャグに落とし込むことで、物語はどんどん予期せぬ方向へと展開していった。

一方、この作品の凄かったところは、主人公たちの宿敵であるリア充の側にも、非リア充的な鬱屈した気持ちを抱く人がいることを描いていった点にある。元生徒会長で恋愛至上主義の親玉的存在だった宮前や、彼女の後継の生徒会長となった佐知川などは、まさにそのような人物として描かれた。彼女たちの内面が語られることで、恋愛至上主義vs反恋愛主義という単純な図式は崩れ、世界は複雑さを増していく。

そんな複雑な世界で、高砂と領家は何度も転向しそうになりながらも、最後まで反恋愛主義を貫き通す。彼らはただ、あまりにも不器用で、真っ直ぐな人間だったのだろう。反恋愛主義同盟の部員たちは、恋愛や青春といったものに価値を見出す生き方をどうしても受け入れられなかった「アウトロー」であった。彼らはアウトローであったがゆえに、何度も理不尽に傷付き、肩身の狭い思いをしてきて、その怒りと悲しみを反恋愛主義運動を通して世間にぶつけることしかできなかった。であるからこそ、その活動を通して得たものが、彼らが心の底から忌み嫌うリア充的な生活に他ならないという事実を、彼らは受け入れることができなかった。

高砂と領家は、これからも「矛盾」を抱えながら生きていく。それは、たとえ高砂と領家がリア充的な学校生活を送るようになったとしても、たとえ2人が本当に恋人同士になったとしても、絶対に変わらないだろう。

彼らの人生に幸多からんことを。

2018年TVアニメ、性格クズなヒロイン列伝

高橋めぐみ(宇宙よりも遠い場所

幼馴染のキマリが報瀬といっしょに南極に行くと言い出したのが気に食わず、彼女らの悪い噂を流したりする。出発当日の朝には、最後の悪あがきで「絶交しよう」とか言い出す。一連のめぐっちゃんの行動原理は、仲のいい幼馴染が遠くに行ってしまう寂しさや嫉妬心などという単純な言葉では説明がつかない。めぐっちゃんの一番ヤバいところは、キマリが自分と同等、いや、自分より下だと勝手に見下して、優越感覚えてるところ。だからこそ、キマリ達が南極行くと聞いて心の中グチャグチャになって、ああいう行動を取ってしまうわけ。

しかし、あんだけ啖呵切って絶交だとか言ってたのに、キマリとLINEで会話してるし、その悪人になりきれない小物っぷりがまた良い味を出している。しかし、最終回では、キマリ達に触発されて北極に旅に出てる事が発覚! ええええええええええええ????? 行動力あり過ぎて逆に怖えよ…。

けいおん!』の和ちゃんに代表されるような後方見守り系幼なじみキャラという概念を打ち破る、まさに唯一無二の幼なじみキャラだった。

羽咲綾乃(はねバド!)

この作品を良くも悪くも特徴づけているのは、主人公・羽咲綾乃のクズっぷりであることは言うまでもない。世の中には健全な精神は健全な肉体に宿るとか言って、部活を頑張ってる人やスポーツで大成した人は無条件に人格者であると思ってる輩がいるが、本作はそんな幻想を完全にぶち壊していく。綾乃がバドミントンに打ち込んでいき、勝ち進んでいくにつれて、彼女の心は薄汚れ、不健全になっていく。

綾乃のクズさというのは、あからさまに悪いことをしてる悪人的なものとはかけ離れていて、何というか、精神的な幼さとそれに起因する自己中気質と言っていいのではないか。試合に勝てばすぐ調子に乗り、負ければすぐ不貞腐れる。試合中・観戦中の態度は最悪で、何か言われたらすぐ口ごたえするし、先輩にも全く敬語使わない。ようするにコイツは、どうしようもないクソガキなのである。こんなことになってるのは、幼馴染であるエレナのせいでもある。綾乃がクズな行為をしてもエレナは軽く注意するだけで本気で怒ったりしない。エレナが綾乃を甘やかすから、綾乃はますます調子に乗ってクズになっていくのである。

こんな事を書くと綾乃が嫌いなのだと思われるかもしれないが、はっきり言って、綾乃はクソガキだからこそ良いのである! 小さい体でふんぞり返ってクズな行動してるのが可愛いし、その合間に見せる無邪気な笑顔とかがまた素晴らしいのである。最終話、なぎさとの試合に負けて、それでもなおバドミントンを続けてきて良かったと心の底から思えるようになった綾乃の目に光る涙。そうか、そうだったんだ…。この子は、バドミントンを通してでしか、人の優しさや暖かさに触れることができないんだ…。その不器用な生き方が、たまらなく切なくて胸が苦しくなる。

という感じでようやく更生したかと思いきや、怪我から復帰したばかりのなぎさに喧嘩を吹っ掛け、この(↓)表情である。ホント、マジでどうしようもない奴だな。


新条アカネ(SSSS.GRIDMAN)

2018年の日本に彗星のごとく現れた奇跡の悪役キャラ。世界は新条アカネの登場を待っていた!

第2話の衝撃は本当に凄かった。暗殺ターゲットの女子生徒が死んだと分かると「よしっ!よしっ!死んだーっ!」 と大喜び、担任教師めがけて怪獣がレーザー砲を放つと「ちょっと雑すぎ!ちゃんと狙って撃ってよ!」とまた大喜び。そこに躊躇いや良心の呵責は一切存在しない。心の底から殺人と破壊を楽しんでいる。さすがアカネ様、俺たちにできない事を平然とやってのけるッ! そこにシビれる!あこがれるゥ!

逆に負けた時の反応もまたとにかく良い。パソコン蹴るわ、アンチ君に八つ当たりするわ、もうやりたい放題。そんでまた次の復讐計画を練って、ワクワクしながら部屋で怪獣作ってるところも含めて、もう最高すぎる。

要するに、新条アカネちゃんが勝ったら「アカネちゃんメッチャ嬉しそうwwwwww」って感じで笑えるし、負けたら負けたで「アカネちゃんメッチャイラついてるwwwwww」って笑えるので、もうアカネちゃんが画面にいるだけで最高に楽しい。「次はどんなクズいことしてくるのかなあ~」とニヤニヤしながら画面を見つめてしまう。

しかしまあ、ここまでクズというか極悪人になってしまうと、物語の構造上、彼女が無罪放免で救われるような終わり方は絶対ないだろうし、今後どんなふうにボッコボコにされて酷い目に遭うかとか、その時のアカネちゃんの反応とか、もう想像するだけでワクワクが止まらない。

まとめ

さて、以上を読んでいただいた方なら分かると思うけど、ここでいうクズというのは、全然悪口ではない。彼女らはクズだからこそ良いのだ。クズい行動取ってる時の顔とか、逆に返り討ちにあった時の顔とか、もう見ているだけで楽しい。

アニメに出てくるヒロインというのは基本的に善人で、どこかで見たような性格のキャラクターばかりであるが、そんな中で、こういう一癖も二癖もあるキャラクターを登場させて来るアニメはやはり面白いと感じる。

『ヤマノススメ サードシーズン』―ひなたと、あおいと、のぞみぞ概念

ここのところ『ヤマノススメ サードシーズン』が凄いことになっている。ぶっちゃげ、第6話までは特筆すべき内容はあまりなかった。ロックハート城に行くとか、山の上でコーヒー飲むとか、正直言ってスゲーどうでもいい話で、2期からの惰性で見ているような感じだった。ところが、第7話から、まるで山の天気のように急転直下、あおいとひなたの「すれ違い」を軸として物語が大きく揺れ動きはじめる。

あおいは一緒に池袋に行こうとひなたを誘うが、ひなたはバイトがあって行けない。次の週末も、ひなたはここなちゃんと赤城山に登り、あおいはほのかちゃんと伊香保温泉へ行く。その次の週末も、あおいは他のクラスメイトと池袋へ行くが、ひなたは予定があって行けない。物理的なすれ違いは、やがて心のすれ違いへと発展する。あおいのバイト先に池袋のお土産を持って行こうとするひなた。しかし、いつもとは異なる明るくてテキパキと動くあおいを見て、店の中に入るのを躊躇ってしまう。クラスメイトに上手く話しかけられずにあおいがぼっちになってないかと心配するひなた。でも、普通にあおいがみお達と仲良くしてるのを見て、動揺し声をかけられなくなる。この一連のすれ違いによって心を掻き乱されているのは、あおいではなく、終始ひなたの方である。

あおいは引っ込み思案な性格で友達も少ない。ひなたの事を一番の親友だと思っているし、ひなたが居ないと不安になったりもする。しかし、編み物や読書といった趣味もあり、一人でいるのが嫌いというわけではない。そして、ひなたとの交流を通じて性格も少し明るくなり、ひなた以外の人とも積極的に関わるようになってきている。みお達やほのかちゃんとの関係も、きっかけを作ったのはあおいかもしれないが、そこから一歩踏み出して関係を深めていったのは他でもないあおい自身の意志だ。

一方、ひなたは昔から友達が多く、誰にでも気軽に話しかけることが出来る。しかし、高校で再会したあおいのことをやはり一番の親友と思っているし、色々と頼りないあおいの事を自分が助けてやらないといけないとも思っている。そして、アニメ第3期ではっきりと見えてきたのは、ひなたのあおいに対する独占欲のような感情だろう。あおいに人見知りを克服して色々な人と仲良くなってほしいと願う半面、あおいが自分から離れていってしまうのではないかという不安や焦りを感じてしまう。

あれっ? おかしいな? この関係性、どっかで見たことがあるような…。友達が少ないコミュ障と、大勢の友達がいる陽キャの組み合わせ。最初はコミュ障の方が陽キャにべったりという感じだったけど、次第に陽キャの方がコミュ障に強い執着を見せるようになる展開。

って、これ、のぞみぞ概念じゃねえか!

もちろん、本物ののぞみぞ概念は他にも様々な要素が絡み合った複雑なものであるが、回を重なるごとに表情が曇ってゆくひなたから垣間見えるそこはかとなく不健全な感情は、紛れもなくのぞみぞ概念である。

ひなたが抱いてしまったこの感情が健全か不健全かでいえば、明らかに不健全である。例えば、ひなたが一人で飯能の街をぶらつきながらあおいから送られてきたメールを見たあの土曜日、もしあおいがクラスメイト3人とうまく会話できずにぼっち状態になっていたとしたら、ひなたの顔には笑顔が戻っていたはずなのだ。そして、ひなたはその後すぐにあおいに声かけに行っただろうし、電車の中でキレたりすることもなかっただろう。早い話が、ひなたはあおいを手放したくないのだ。ずっと自分についてきてくれるあおいでいてほしいのである。これは相当に感情をこじらせてるし、あおいサイドからしたらあまりにも自分勝手な振舞いなのだが、であるがゆえにそれは誰にでも起こり得る普遍的な感情で、我々視聴者の胸に響くものである。

そして、その強烈な感情を5週以上(要するに第3期の後半全部!)も使って極めて精緻に描いているのは、本当に驚くべきことである。バイトの日程、予定の勘違い、山登り当日の遅刻、全ての出来事がひなたにとって悪い方向に働き、歯車が噛み合わなくなっていく様。ひなたが一人で池袋に行ったあの日に芽生えた感情は、最初は小さな違和感でしかなかったが、それがやがて大きくなり、ついにあおいへの苛立ちという形で表出してくる一連の心の動き。それらがこれ以上ないくらい丁寧に描かれる。同じ日に同じ群馬県で「天使のはしご」を見るという共有体験は、それでもすれ違ってしまうあおいとひなたの心をかえって浮き上がらせて見せる効果を持つ。大学進学のために勉強するかえでさんを描くことにより、あおいとひなたの間にも必然的に訪れる卒業と別れが、ひなたや視聴者の胸に強く想起される。

繰り返しになるが、これは本当に凄いことである。普通のアニメであれば1話あるかないかというレベルの素晴しい回が、立て続けに出てきている。ヤマノススメという作品の奥深さを思い知らされた。

体操協会のパワハラ問題について

【独自】速見コーチの「暴力映像」 宮川選手を平手打ち(フジテレビ系(FNN)) - Yahoo!ニュース

「何も事情を知らない部外者が後出しジャンケンで発言するな」という批判は甘んじて受ける。それでも、この映像が出てきて本当に、本当に良かった。心の底から、本当に良かったと胸を撫で下ろしている。

暴力を振るった側が擁護され、たとえ暴力を振るっても当事者が納得してるなら問題ないという風潮がほんの少しでも社会に拡散する危険性が無くなって良かった。

相手を思いやってする暴力などというものは存在せず、百歩譲ってそれが存在するとしても暴力を正当化する理由にはならず、暴力を伴う指導は「異常」であり、そういった指導を求めたり容認したりすることも「異常」である、ということが多くの人に知れ渡って良かった。

映像が出てくる前は、まるで過去の暴力行為など存在せず、速見コーチと宮川選手が何かとてつもなく理不尽な圧力によって苦しめられている悲劇の主人公かのような報道がなされていた。それが映像が出てきた途端、どうだ。速見コーチ=善、塚原夫妻=悪、という図式は崩れ、一連の出来事は以前とは異なる色で上書きされてゆく…。これでようやく潮目が変わったと思う。

誤解を恐れずに言うが、私が「動画が公開されて良かった」と言うのは、宮川選手にとって良かったという意味ではない。今現在、学校や家庭で暴力被害を受けている子どもや、これから受ける可能性のある大勢の子どもにとって良かった、という意味だ。

法治国家としてベストなのは、暴力を振るった者は問答無用で逮捕して裁判にかける、ということなのだが、暴力行為が行われた場所に常に監視カメラがあるとは限らないし、全部の事件を警察が捜査することになると人も金もいくらあっても足りなくなる。なので現状では、特に悪質で危険な暴力で、かつ、被害者やその家族がマスコミや警察に被害を訴えた場合にのみ、その暴力が表沙汰になる。時津風部屋の力士が死亡した事件も、大阪の航行でバスケ部の主将が自殺した事件も、女子柔道の日本代表監督による暴力・パワハラ問題も、日馬富士による後輩力士への暴力事件も、日大の悪質タックル問題も、すべて被害者やその家族が勇気を持って声を上げたからこそ大きく報道された。だから、暴力を受けた被害者が声を上げるという事が何より大事になってくる。本来であればこれは望ましい形ではない。被害者の感情とは関係なく、暴力を振るった者は罰を受けるという形にすべきである。そうでなければ、まさに今回の問題のように、「被害者側も納得してるからOK」みたいな言い訳がまかり通ってしまう。しかし、上で挙げたように、警察の対応力やマスコミの取材能力にも限界があるので、どうしても被害者が声を上げた案件だけがクローズアップされがちになる。

だが、こうして不完全な形ではあるものの、暴力が学校や社会で問題となり、場合によっては警察の捜査が入り、加害者が社会的制裁を受ける。暴力は許されない、暴力を振るった者は罰せられる、ということが世間へ繰り返し繰り返し発信され続けることが、何よりも重要なのだ。そうすることで、今現在暴力を受けて苦しんでいる人が声を上げやすい環境が生まれ、暴力的な指導を止めさせる抑止力となる。言葉は悪いかもしれないが、これはある種の「見せしめ」だ。でも、それをすることによって、暴力=悪という図式が生まれ、それが世間に浸透し、被害者は救われ、社会は少しずつ良い方向に変わっていく。

今回の事件は、暴力を追放しようとする世間の流れと完全に逆行する流れを作り出してしまう危険があった。たとえ暴力を振るったとしても、軽く叩いた程度なら許される、被害者側が納得してるなら許される、被害者側が望んでるのであれば暴力を振るった指導者でも指導を続けられる、そういう「空気」を作り出してしまう危険性があった。そういう「空気」ができあがると、暴力の加害者は自らの行為を正当化しやすくなり、被害者はますます声を上げることが難しくなる。その「空気」は定量化できない。けれども、暴力の当事者がちょっとでもそういう「空気」に触れて、自覚の有無にかかわらず、暴力を容認する方向へ行動が変わっていくのだとしたら、これは怖ろしいことだと思う。

もちろん、塚原夫妻の行動にも問題が無かったとは言わない。速見コーチや宮川選手が言うように、パワハラのようなものがあったのかもしれないし、宮川選手を自身のクラブに引き抜こうとする魂胆があったのかもしれない。しかし、仮に塚原夫妻によるパワハラが事実だったとしても、元はと言えば速見コーチが暴力を振るったのが全ての元凶じゃないか。速見コーチが過去の暴力行為について真摯に反省しているというのなら、胸の内がどうであれ、謝罪と反省の言葉以外は何も口にするべきではない。それが大人としての責任の取り方だと思う。暴力行為は無かったと反論したいのなら、そうする権利が彼にはある。処分が重すぎるというのなら、自分がもう十分罪を償ったと思った時点で、「そろそろ許していただけませんか」とお伺いを立てればいい。けれども、まだ罪を償いもしない段階で謝罪と反省の言葉以外を口にするというのなら、それは暴力について反省してないと見なされても仕方のない行為だ。

宮川選手についても、自身の体験した事や思ってる事を世間に広く訴えていく権利がある。しかし、速見コーチを庇うために嘘をつくようなことは許されない。