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最近読んだ本まとめ(5)―『系外惑星と太陽系』『抗生物質と人間』『すごい分子』

系外惑星と太陽系

系外惑星と太陽系 (岩波新書)

系外惑星と太陽系 (岩波新書)

太陽系外惑星の発見は我々の宇宙観を変える大きな出来事として語り継がれていくだろう。天文学者がずっと問い掛けてきた「我々が生きるこの惑星という存在は非常に珍しいものなのか、それとも、この宇宙ではありふれたものなのか」という疑問の答えが後者である、ということがようやくはっきりとしてきたのだ。

一方で、太陽系外惑星の発見は、人類が全く想像もしなかった惑星の姿を描き出すことになった。恒星のすぐ近くを短い周期で公転する巨大ガス惑星、いわゆるホットジュピターというものがたくさん発見されたのだ。これは、恒星の近くには地球のような岩石惑星があり、その外側に木星のようなガス惑星が形成される、という太陽系のモデルしか知らなかった人類にとって、あまりにも衝撃的な結果だった。

しかし、ここで注意しなければならない事がある。太陽系外惑星を発見する方法としてよく用いられるのはドップラー法とトランジット法である。ドップラー法は、恒星が惑星の重力に引きずられて揺れ動く際に発生するドップラー効果を観測する。トランジット法は、惑星が恒星と地球との間を通過する時に更生の光がわずかに弱くなる現象を利用する。これらの方法は、大きくて恒星に近い距離を周っている惑星を発見することは容易だが、恒星から離れたところにある惑星を見つけるのは難しい。

ゆえに、最初のうちは最も観測しやすいホットジュピターが数多く見つかり、センセーショナルに報道もされるが、それは宇宙全体の惑星の平均的な姿とはかけ離れている。事実、観測技術が進歩するにつれて、地球と似たような岩石惑星も多数発見されるようになってきた。

これはどんな分野にも言えることだが、目の前に提示された事実だけを見てそれが全てだと判断することは非常に危険である。これは、集団の中では声のデカい人の意見が通りやすいが、それが必ずしも集団全体の意見を反映しているわけではない、という事と似ている。太陽系外惑星の科学は、科学者にとって大切なんだけれども忘れがちな教訓を思い起こさせてくれる。

抗生物質と人間 マイクロバイオームの危機

1990年代から2000年代は、人類がヒトやその他生物の全遺伝情報の解析に注力した時代、つまり、ゲノムの時代だった。しかし現在は、個々の細胞や組織がどのような遺伝子を転写・翻訳しているのかを調べる時代、つまり、トランスクリプトームやプロテオームの時代である。語尾のオーム(-ome)は、ギリシャ語で「全体」を表す言葉である。しかし、そう遠くない未来に、腸内細菌がヒトに与える影響を調べる時代、マイクロバイオームの時代がやってくるかもしれない。

本著では、抗生物質の歴史と腸内細菌研究の歴史が概説され、抗生物質がヒトに害をなす細菌を殺すのと同時に、ヒトにとって有益な腸内細菌まで殺してしまうという危険性を指摘している。著者によると、以下のような事実により、抗生物質の投与(によるマイクロバイオームの変化)とある種の病気や肥満との関連性が明らかになりつつあるという。

  1. 抗生物質が発見されて以降、人類の肥満率が急増した
  2. 家畜に抗生物質を投与すると体重の増加が見られるようになる
  3. 抗生物質を投与されたマウスほど肥満になりやすい
  4. クーロン病のモデルマウスに健康なマウス由来の腸内細菌を移植したらクーロン病が治った
  5. 生後間もなく抗生物質の投与を受けた子どもほど肥満になりやすい

これだけ見ると、確かに腸内細菌・抗生物質・疾患の間には密接な関係がありそうだと思える。しかし、腸内細菌が死滅したことによって一体どういう不都合が生じ肥満が生じるのか、という具体的なメカニズムは書かれていない。唯一、腸内細菌の死滅によって免疫系に異常が生じることが関係しているのではないか、といった事が書かれているが、漠然とした表現にとどまっており、著者もその他の研究者も結局のところまだ詳細なメカニズムは掴みきれていないのだろうと思われた。

また、仮に腸内細菌と病気との間に関連が認められたとしても、それがどの程度の関連なのかについては慎重に議論されなければならない。例えば、肥満に関わる遺伝子というものがすでに発見されているが、だからと言って肥満が全て遺伝や遺伝子疾患で説明できるなどという人はいないし、多くの人が肥満は食事や運動不足と関連があるという事実を経験的に知っている。なので、マイクロバイオームの研究が進んだとしても、それで全てが説明できるなんてことはまず有り得ないだろうと思う。

そして、これは著者自身も口酸っぱく書いていることだが、これらの研究は、抗生物質の使用を全面的に禁止しようなんていうバカげた主張をするのが目的ではない。薬剤耐性菌の問題とも絡んで、あくまでも不必要な抗生物質の乱用こそが問題なのであって、「抗生物質は全部ダメ!」みたいな極論を言い出す人が居たとしたら、それはオカルト・疑似科学の類と同じであろう。

すごい分子 世界は六角形でできている

著者の佐藤健太郎氏は有機化学美術館というブログでも秀逸な記事を多数書いている。彼の記事や著書の面白いところは、何と言っても膨大な知識に裏打ちされた「化学トリビア」だろう。その中でも本著は、sp2炭素の化学、要するに、芳香族性を有する化合物に焦点を絞って書かれているようだ。

著者は、炭素は自然のレゴブロックのようなものだと述べている。人類は炭素を駆使して様々な形や機能を持った分子を自由自在に作り上げることができる。本著を読むと、人間の好奇心・探究心とは、かくも凄いものなのかと驚かされる。芳香環どうしをつなげて行ったらどうなるのか? 本来平面の芳香族化合物を捻じ曲げたら? 芳香環の中に炭素以外の元素を入れたら? 誰も見たことのない化合物を作って、その性質を調べてみたい。炭素と炭素を自由自在につなげてみたい。希少な化合物を安く大量に作りたい…。そんな人類の情熱が、数え切れないほどたくさんの新しい物質を生み出し、新しい分野を生み出していく。

そこには、自然の原理を解明したり人類の進歩を目指したりする他の学問とは少し毛色の異なる何かがある。まるでレゴブロックで遊ぶ子どものような、自由さとワクワク感に満ちた研究だ。しかし、研究者個人の遊び心からスタートしたような研究であっても、それが後に人類に多大な貢献をする場合があるから面白い。

例えば、本来平面的な形の芳香族化合物を曲げるのは極めて難しい。だからこそ多くの研究者が、まるでエベレストに挑む登山家のように、野心を抱いてそれを作り上げようとしてきた。彼らはきっと「それは一体何の役に立つのか」なんて最初は考えていなくて(研究費を獲得するために建前として少しは考えていたかもしれないが)、ただ純粋に自分がやりたい研究をしていたのだろう。けれども、そうやって作られた新しい化合物は、他の化合物とは反応性やその他の物性がまるで異なっていて、そこから様々な応用研究が生まれたりしている。

そのような有機化学の奥深さを知れば知るほど、今の日本政府がやっているような、最初から何の役に立つかとかビジネスになるかとかばかりを考えて研究者を選別し金を配るような政策が、いかに馬鹿げたことであるかがよく分かる。

アニメ『かぐや様は告らせたい』第1話感想

記念すべきアニメ第1話のサブタイトルは「映画に誘わせたい」「かぐや様は止められたい」「かぐや様はいただきたい」であり、全て原作にもあるタイトルとなっている。『かぐや様』原作漫画のサブタイトルは、いくつか例外はあるものの基本的に「○○は□□たい」(人物+行動)みたいな文章になっているが、原作第1話の段階ではそのようなルールが確立する前だったので「映画に誘わせたい」というサブタイトルになったものと考えられる。

なので、アニメ化にあたって「かぐや様は誘わせたい」などというようにサブタイトルを変えてくるかと思ったが、あえて原作と同じにすることで、アニメは原作を忠実に再現したものであることを強調しているようにも見える。

もう一つ、原作読者が驚いたのは、「かぐや様はいただきたい」(お弁当回)をあえて第1話に持ってきたことだろう。原作の順番で行けば、ババ抜きや映画館に行く話が入るはずなのだが、それらをあえて省略してお弁当回を1話に持ってきているのだ。この回は原作漫画の序盤でも特に人気の高いエピソードであり、作者自身が作品の転換点になった回であるとインタビューで述べている。

連載序盤は頭脳戦っていう看板が大きくあったから、思いつく限り頭脳戦のネタをやっていってたかな。でもだんだんとキャラクターについての理解が深まっていって、「この子はこういう表情を出す子なんだ。じゃあこの子がもっと恥ずかしがったり、怒ったり出来る場面を作ろう」という感じに、頭脳戦よりも感情優先になっていきましたね。転換点になったのは単行本1巻5話の「かぐや様はいただきたい」かな。
【インタビュー】『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』赤坂アカ「毎週、神が降りてくるのを祈ってる。」|コミスペ!より)

あのお話を描いたあと、最初はどうしてこんなにキャラが面白い動きをしてくれたのかわからなかったんですよ。分析をしていく中で、「キャラの感情を引き出せている」という部分にたどり着いて。そこから「今回はこんな恥ずかしがらせ方をしてみよう」「こうやってテンパらせよう」と感情の部分に重きを置くようになりました。
テレビアニメ「かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~」特集、赤坂アカインタビュー - コミックナタリー 特集・インタビューより)

このように、副題にあるような恋愛「頭脳戦」を重視するのではなく、「キャラの感情を引き出す」という方向に作風をシフトさせるきっかけとなったのがこの回なのだ。まさにコペルニクス的転換と言えるだろう。この回が無かったら名作ぞろいのヤングジャンプの中で本作がここまで注目されることも無かっただろう。

それにしても、感情が引き出された状態のかぐや様は、何故こんなにもお可愛いのだろう。それは、ぶっちゃげて言えば、普段クールで聡明なかぐや様が別人かと思うくらいポンコツになっているからである。このポンコツかぐや様のお可愛さこそが、本作の一番の魅力と言っても過言ではない。私の個人的な統計によると、『かぐや様は告らせたい』の原作話のうち実に1/4がポンコツかぐや様回である。

一言でポンコツと言っても、その種類は実に様々であり、代表的なところを挙げれば、

  1. 御行のこと好きすぎて頭おかしくなってるかぐや様
  2. マウント取りに行って返り討ちに合い涙目になるかぐや様
  3. 世間知らずで行動がどこかズレてるかぐや様
  4. 深読み&論理の飛躍が酷すぎてしっちゃかめっちゃかなかぐや様
  5. 予想が外れてテンパるかぐや様
  6. 高速手のひら返しかぐや様

などがある。しかも、これらは毎回単体で登場するのではなく、2個か3個まとめて合わせ技一本という形になっているので、膨大な組み合わせが可能で、作品のマンネリ化を防いでいるのである。

例えば今回のお弁当回で言えば、御行のこと好きすぎて頭おかしくなってるかぐや様(藤原に嫉妬)、世間知らずで行動がどこかズレてるかぐや様(タコさんウインナーへの憧れ)、高速手のひら返しかぐや様(絶交とか言ってたのにウインナーくれたらすぐ仲直り)が含まれている。

本作から放たれる悶絶必死のお可愛さは、ただそこに偶然存在していたわけではない。作品を面白いと思うのには、理路整然とした理由があるのだ、ということを改めて実感した。

『弱キャラ友崎くん』と定性・観察の科学

人生をcontrollableなものと見なす日南葵の思想

北与野に住む高校生・友崎文也は、アタファミというオンライン格闘ゲームで日本一の実力を誇るゲーマーだが、実生活では友達も1人もいない根っからの非リア充で「人生はクソゲー」だと思っている。一方、友崎のクラスメイトで、アタファミで友崎に次ぐ実力を持つ女子高生・日南葵は、勉強でも部活でもトップの成績を叩き出し、クラスの誰からも好かれる完璧なヒロインで、「人生は神ゲー」と言って譲らない。ひょんなことから大宮駅で出会い、お互いの人生観をぶつけ合うことになった2人は、勢いそのまま師弟関係を結び、日南は友崎をリア充にするためにありとあらゆる特訓を課すこととなる…。

作品から溢れ出る大宮・与野への愛…。最初は、舞台が千葉から埼玉に変わっただけで、中身は『俺ガイル』(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』)のフォロワー的な作品かと思っていたが、どうもそうではない。むしろ、やってることは『俺ガイル』と正反対のようにも見える。

そもそも『俺ガイル』的なものとは何か。それは、リア充・ぼっち・スクールカーストといった言葉によって表現されるクラス内のランク付けを明確に描き、かつ、それらのランクで上位にいる人達が当たり前に信じている恋愛・友情・青春の価値を揺さぶるようなテーマ性を持つ作品群のことである。その根底には、リア充リア充でいろいろ大変そうだし、俺ら非リア充は非リア充どうしでまあテキトーに楽しく過ごせればいいんじゃね、というような諦観がある。

ところが本作で日南は、人生というゲームは努力と工夫次第でいくらでもレベルアップできると説く。実際に彼女は、中学時代から努力に努力を重ねて、今の地位を獲得したのだという。そこには、人生に対する諦めも冷笑もない。あるのは人生を徹底的にcontrollableなものと見なす日南葵の思想である。

日南の思想を支えるのは、合理性を徹底的に突き詰めた科学的思考である。日南はまず、どうして友崎はリア充になれない弱キャラなのか、どうして自分が誰からも愛される強キャラでいられるのか、その理由を徹底的に分析して見せる。それはまさに、多くの研究者が日頃行っている定性的な観察そのものだと思う。

定性と定量

定性とは、化学用語で物質の成分を調べることであるが、より広義の意味で言えば、対象の性質や特徴を調べること、要するに観察という言葉と大差ないと考えていいだろう。これらの対義語が定量であり測定である。例えば、「ある液体にある固体を加えると液体が赤色に変化した」というのが定性(観察)で、そこから一歩進んで「固体を何グラム入れると赤くなるのか」「赤色というのは光の吸収波長でいうと何ナノメートル付近なのか」「その時温度やpHはどれだけ変化したか」というように数値を使って現象を理解しようとするのが定量(測定)である。

現代の科学というものは基本的に全て定量的な議論をしなければ成り立たないものである。例えば、「この水の中にどういう化合物が含まれているか」という一見すると定性的なテーマであっても、その中身はというと、試料を液クロにかけてリテンションタイム○○分のピークを分取して、それを質量分析にかけると分子量は○○で…、というように数々の定量的な操作を通して化合物を同定していくということなのである。

こう書くと、定性というものは定量よりも一段低いものと思う人もいるだろうが、実際は、中谷宇吉郎が『科学の方法』という著書でも書いているように、定性という作業がなければ対象を正しく定量することは不可能である。例えば、ある対象物の調査をする時には、その対象物の何をどのように測定するかという実験計画を立てる必要があるが、適切な実験計画を立てるためには事前にその対象を徹底的に観察しておかなければならないのである。例えば、物の質量を測るにしても、体重計とか精密天秤とか、色々な方法がありその中から適切なものを選ばないといけないのであって、ただ闇雲に「とりあえず測ってみよう」で上手くいくこともゼロではないにせよ、ほとんどの場合は、事前に観察をして対象の性質をある程度知っておかないと測定は無意味なものに終わってしまう。

もう一つ、定性・観察には重要な役割があり、それは自然の中にある何かを、視覚や聴覚や言語といった人間が理解できる対象として再構築するという働きである。世界の中に溶け込んでいる対象物は、人間が観察することによって初めて世界から切り離され、人間が理解できる形に定義されていく。

例えば、緑色蛍光タンパク質GFP)という光るタンパク質がある。観察したいタンパク質の遺伝子の近傍にGFP遺伝子を組み込むと、そのタンパク質とGFPの複合タンパクが作られ、鮮やかな緑色を呈した顕微鏡写真を取ることが出来る。「それまで見ることのできなかったタンパク質が光った」というのは、現象を数値で表しているわけではないので、完全に定性的な仕事である。しかし、これまで見えなかったものが見えるようになる、観察できるようになるということは、とてつもなくインパクトがある事なのだ。どんなに膨大な数値データも、1枚の写真が放つ強烈なインパクトには勝てない。GFPは文字通り、私たち人類の見る世界を変えたのである。

弱キャラ友崎くん』に見る定性・観察の科学

さて、話を『弱キャラ友崎くん』に戻そう。日南は実に様々な課題を友崎に課しているが、課題解決の第一歩はいつも決まって「観察」である。日南はまず友崎に、クラスの人間関係やパワーバランス、クラスメイトの人となりとか、そういったものを徹底的に観察するように言う。そしてその後必ず「どうだった?」と友崎に問い、それを受けて友崎は観察したことを頭の中で整理しながら何とか言葉を紡ぎ出す。そんな過程を何度も何度も繰り返すことで問題点を洗い出し、解決の糸口を見出していく。

科学の目的は真理の探究、日南と友崎の目的は課題の解決と人生におけるレベル上げ。目的は違うが、目的を達成するために観察を重視する姿勢は全く同じである。それは本作の文章にもよく表れている。

俺はただ、茫然としてしまった。
だって日南は、日南葵は。
自分が隠している真相、つまり、普段みんなに見せているキャラクターはすべて仮面で、本当はゲームのように自分を操作し、ただそれをプレイし続けているということ。
その真相に正面から突然、無理やり、片手を突っ込まれたにもかかわらず。
そんなことはまったく意にも介さず、片手間に、造作もなく、まるで雑魚を蹴散らす魔王のように、つかまれた真実を魔法のように虚構へと変え、『悩みを打ち明けてくれたクラスメイトの相談を真摯に受け止める、学園のパーフェクトヒロイン』というロールプレイを、完璧にこなしてみせたのだ。
(第3巻256ページ)

そして俺は、それがどれだけ大きい意味を持つのか理解できていながら。
たぶんこの一点に関しては、俺とこいつはわかりあえない、とどこかで予感していながら。
でもその言葉を、伝えるしかないと思った。
「誰と仲良くなるとか、誰かに告白するとか……そういう人との『つながり』を。
『課題』とか『目標』で判断しているのが、そもそもおかしいんじゃないのか」
(第3巻291ページ)

たまちゃんはいやがらせを受ける前からずっと、言っていることの芯は変わっていない。なにひとつ、ブレちゃいない。芯だけは、なんにも、変わっていないのだ。
だけど少し前までは届かなかったたまちゃんの言葉が。
こうしていまは、これでもかってくらいに強く、まっすぐに、みんなに響いている。
(中略)
自分の心のまんなかにある、いちばん大切な芯だけは決して折らず。
それを伝えるための手段と、人とつながるための心構えをこれでもかってくらいに変えることで、自分のいちばん大切な部分をそのまま伝えるというところに、辿り着いていたのだ。
(第5巻300~301ページ)

弱キャラ友崎くん』の文章は6.5巻(短編集)を除いて全て友崎の一人称で進む。そして、印象的な場面では必ずと言っていいほど、文章の途中でもお構いなしに句点と改行が入れられ、全体としては1つの文章なんだけどそれがいくつかのブロックに分かれたような形をしている。それはまるで、目の前にある現象を友崎が必死に言語化していった過程を見ているかのようだ。

目の前で起こった出来事を食い入るように観察して。

まるで一つ一つの言葉の意味を自分に言い聞かせるように、慎重に、丁寧に言葉を紡ぎ出していくことで。

この世界の理を何とかして理解しようとした、その友崎の必死さ、気迫が、痛いほど強く伝わってくる文章だと思う。

今もなお明らかにならない日南の本当の姿

こうして巻を重ねるごとに科学的思考力を鍛えられた友崎は、日南の協力無しでクラス内の問題を解決できるまでに成長していく。しかし、友崎にも読者にも、まったく観察することのできない大きな謎が浮かび上がってくる。それは、日南葵の心の中である。

作中に描かれる日南のストイックさは尋常じゃないレベルである。陸上競技で全国レベルの実力を見せ、学力でも校内1位をずっと維持し続けた上に、アタファミで全国2位になり、生徒会長にまで上り詰め、友崎の指導教官までしてくれる。他人の見えない所でとてつもない努力を重ねているのは、誰が見ても明らかだが、何故そこまで頑張れるのか、そうなったきっかけは何だったのか。それが、6巻(短編集を射れれば7巻)まで読んできても全く分からないのだ。

そもそも、日南がクラス内で見せる顔は全て、人生というゲームにおいて彼女が作り上げた「キャラクター」であり、本当の感情が露わになることはほとんどない。例えば、日南は友達から無類のチーズ好きということで知られているが、それも、そういう隙を見せた方が人から好かれやすいと計算して彼女が作り上げたキャラでしかないのである。6.5巻のモノローグを除けば、日南の素の部分が垣間見えるのは、3巻の肝試しで怖がっていた(あれが演技じゃなくてガチだったということは、文章をよく読めば分かるようになっている。)のと、5巻でたまちゃんが苛めを受けて泣いた後に激昂し、執拗に報復を行った時くらいだろう。

日南にとって人生はゲームをプレーするのと同じ感覚なのだ。こうすれば上手くいく、こうやれば勝てる、という無数のデータが頭の中にあって、それをただ実践しているだけ。そこには、レベルが上がっていく達成感がある。けれども、日南が本当にやりたいことは未だに見えてこない。最近のアニメで例えるなら、『ココロコネクト』の永瀬伊織とか、『やがて君になる』の七海燈子先輩に近いだろう。クラスメイトとの交流も、部活動も、学校行事も、全てにおいてキラキラと輝いているように見えて、実は、日南の心は氷のように冷え切っている。

彼女をここまで突き動かしたものは何だったのか。人生をゲームと同様のものだと解釈し、人生は神ゲーであり、controllableなものであると見なすにに至った、彼女の思想の源泉はいったい何なのか。それは今のところ、一切計り知れない。

日南葵とは、いったい何者なのか。

おそらく、物語はこれから、この謎を解き明かす方向に切り込んでいくだろう。そして、その謎を解き明かすために友崎が用いるのは、日南から教わった観察力、科学的思考力であるに違いない。

『かぐや様は告らせたい』各話のパターン分類について

図1 『かぐや様』各話のパターン分類とその表記法

かぐや様は告らせたい』第1巻から第12巻までに登場する話のパターンを14種類に分類し、それぞれに記号と名称を設定した。参考までに、各パターンにおける代表的な話を事例として表記した。
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図2 『かぐや様』各話の各パターンの分布

『かぐや様』各巻に収録されている10話(第9巻のみ11話)の話のパターンを記号で表記した図。左端の数字は巻数。
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図3 『かぐや様』各話の各パターンの出現頻度

『かぐや様』各話のパターンの出現頻度を棒グラフで表記した図。数字は各パターンの割合(%)。
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考察

  • 『かぐや様』の副題で「天才たちの恋愛頭脳戦」とあるが、実際に頭脳戦をやってる回はたったの4.1%である。
  • かぐや様は告らせたい』の約1/4(23.1%)は、ポンコツかぐや様のお可愛さで構成されている。
  • 前半は「ポンコツかぐや様回」と「王道ラブコメ回」の割合が大きいが、後半は石上やミコの登場が増えたことにより、「伊井野・石上回」や「生徒会ドタバタコメディ回」が増える傾向にある。
  • 各パターンの出現にはほとんど法則性がなく、次にどういう話が来るか分からないというワクワク感が作品の面白さに繋がっていると考えられる。

『かぐや様は告らせたい』第12巻についての3つの論点

かぐや様、新たな次元へ

天才数学者ジョン・ナッシュプリンストン大学に進学する際、彼の指導教官は推薦状にたった一言、「この男は天才である」と書いたそうである。『かぐや様は告らせたい』第12巻の素晴らしさを伝えるのもまた、たった一言で足りるであろう。

赤坂アカは天才である。

かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~』は、連載開始早々に恋愛頭脳戦というコンセプトを乗り越え、ここ数話でついに「相手を先に告白させた方が勝ち」というコンセプトですら乗り越えて、新たな次元へ行こうとしている。

赤坂アカの作り出す圧倒的な物語構成と萌え力が、プライドの高い男女が如何に相手に告白させるかを考えながらマウント取り合い合戦をやってるという当初のコンセプトを軽々と飛び越して、12巻から何巻かにわたって描かれるであろう文化祭編で2人がおそらくは恋人となり、新たな世界を生み出す寸前のところまで到達したのだ。

思えば、歴史に残る名作はみんなそうである。例えば『ドラえもん』。当初の設定では、ダメ人間のび太のせいで困窮を強いられていた未来の野比家が、のび太を立派な人間に更生させるために過去に派遣したロボットというのがドラえもんであった。しかし、今、私たちはそんな設定をほとんど何も意識することなく、何故かロボットがのび太と一緒に生活していて、未来の道具で様々な騒動を巻き起こし、毎年の映画版で大冒険を繰り広げるという世界観を、当たり前のように受け入れて『ドラえもん』を鑑賞している。

歴史に残る傑作というものは、その作品に当初含まれていた意味合いやコンセプトを乗り越えて、作品が新たな次元に到達することで、その地位を不動のものにする。『かぐや様は告らせたい』は、まさに今、歴史的名作となろうとしている。

第12巻118話、白銀会長が必死にバルーンアートを作り上げようと努力している姿を見て、かぐやは「会長の謎がまた一つ解けました」と言って目をキラキラと輝かせる。私は、この瞬間にかぐやが、会長のことが好きなのだという事実を明確に自覚したのだと思う。この瞬間、恥やプライドを捨てて「私は会長の事が好きなんだ」と認めざるを得ない、そういう段階に辿り着いたのだ。その2話後に「私は白銀御行が好き」と言ってるのは、あくまでもその事実を早坂に打ち明けたというだけであって、かぐやの心に決定的な変化をもたらしたのは、あのバルーンアートの出来事だったのだと思う。

そして、ネタバレになるので詳しくは言わないが、12月20日に発売された週刊誌掲載の第122話「かぐや様は告りたい(2)」で、ついに、本当についに、これまで動くことのなかった大きな山が動いたのである。

我々は今、歴史的名作が生まれる瞬間を目撃している。1954年版『ゴジラ』を映画館で見た人が未だにそのことを自慢げに語るように、私たちは50年後、「私はこのラブコメの最高傑作を毎週リアルタイムで見ていたんだ」と若者に自慢する日が来るのだ。

別の視点から描かれる世界

さて、第12巻の何よりの見どころは、やはり、白銀とかぐやのファーストコンタクトを描く第121話「1年生 春」なのではないだろうか。

私は第9巻の記事で、主要メンバーは大まかに2通りに分けられ、「世界をポジティブに捉えているのが白銀や藤原であり、世界に対してネガティブなのが石上やかぐや様だ」と書いた。

関連記事:『かぐや様は告らせたい』―世界に絶望した人が世界は「いい奴ばかりじゃないけど悪い奴ばかりでもない」と気づくまでの物語 - 新・怖いくらいに青い空

しかし、その見方はあくまでも、かぐやの視点から世界を見た場合にしか通用しないものであることが、第12巻ではっきりとした。かぐやから見た世界は謀略と偽善に満ちており、「この世に良い人なんていない」とすら思っていた。そんな認識を変えてくれた白銀御行は、かぐやにとって、あまりにも真っ直ぐで、実直で、光輝いて見えていた。

ところが、当の白銀の内面は全然違っていた。入学早々に校風に嫌気がさし、やさぐれて、人生の全てを諦めたような、ネガティブ思考全開の御行がそこにはいた。対するかぐやは、自らの危険も顧みずに池に飛び込み、泥だらけになりながら溺れた生徒を助けて見せた。その姿は、御行にとって、あまりにも気高く、綺麗で、この瞬間に御行はかぐやの事を好きになっていた。

この作品は一貫して、今見えている世界だけが全てではないという事実を描き続けている。世界に絶望していた石上が、会長と出会い、体育祭を通して世界の見方を変えていったように、かぐやと白銀御行の物語も、いつもとは違った視点から描かれることで形を変え、違う色で塗り替えられていく。

かぐや様と自己犠牲

そうして描かれた新たな物語でやはり気になるのは、沼に落ちた生徒を助けるために自ら率先して沼に飛び込んだかぐやの「動機」の部分である。かぐやは、新聞社局長の娘を助ければ後々得になるかもしれないから助けたのだと言う。そして、見返りも何もなしに飛び込む者がいるとすれば、きっと相容れることはできないと言う。

しかし、かぐやの言うこの動機は本当に正しいのだろうか。私には、新聞社局長の娘だったからという理由は後付けで、たとえどんな人間が溺れていたとしても、かぐやはその人をとっさに助けたのではないかという気がする。

そもそもかぐやの行為は「自己犠牲」なのか、見返りを期待した「利己的行動」なのか。

カントによれば、ある行動が道徳的かどうかは、その行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす意図で決まるという。大事なのは動機であり、その動機は決まった種類のものでなければならない。重要なのは、何らかの不純な動機のためではなく、そうすることが正しいからという理由で正しい行動をとることだ。
マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳、『これからの「正義」の話をしよう』、早川書房、P146)

カント倫理学の立場からすれば、かぐやの行動は単なる利己的行動に過ぎない。しかし、それを言うならば、人間のあらゆる行動は究極的に利己的行動である。これは、私個人の考え方ではなく、進化生物学から導き出される科学的事実である。

おそらくヒトの祖先は、集団で狩りをし、集団で身を守ることで生き延びてきた。誰かを助けることが、結果的に自分を助けることにもなったから、たとえ自分の生存の確率を下げてでも時には他者を助けるという性質が長年にわたって受け継がれてきた。そのようにして論を進めると、この世の中の自己犠牲的行動の全てが、結局のところは利己的行動なのだと説明できる。

これは、人間の利他性や道徳を貶めるものではない。むしろ、「不純な動機が少しでもあれば、それは自己犠牲じゃない!」みたいな、動機に基づく線引きが無意味であることを物語っている。

白銀はかぐやを見て、「動くべき時に動けるか それが出来る人間は――たとえ泥にまみれてもきれいだ」と憧れを抱くようになる。白銀が見ているのは、かぐやの行動の「動機」ではなく、行動の「結果」なのだ。そして、実はかぐやもまた、白銀と同じなのではないかと思った。かぐやは、白銀会長の他人思いで努力家なところに惚れている。けれど、白銀のそういう行動の裏にあるのは、思春期特有の見栄とプライド、そして、かぐやに嫌われたくないという気持ちではないか。

この二人の生き方は正反対のように見えて、実は似た者どうしなのかもしれない。自分の行動は、その背後にある動機を基準にして見ているから、自己評価がとても低い。一方で、相手の行動は、動機ではなく結果を基準にして見ているから、そこに憧れや敬意や恋愛感情が芽生えてくる

第12巻にして、ようやくこの2人の自己認識と相手への恋愛感情を形づくる「思考の源泉」のようなものが見えてきた。