新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ささやくように恋を唄う』第1巻感想

かげぬい(艦これの陽炎と不知火の百合カップリング)は、この世で最も尊いものの一つである。そんなかげぬいというジャンルにおいて、私の知る限り最も尊い同人誌(例えば、『不知火は甘え方が分からない』)を書かれているのが、竹嶋えくという作家である。その竹嶋えくさんが百合姫で連載中の『ささやくように恋を唄う』単行本第1巻がようやく発売されたので、早速読んでみた。

ささやくように恋を唄う(1) (百合姫コミックス)

ささやくように恋を唄う(1) (百合姫コミックス)

もう………

最っっっ高………

高校3年生の朝凪依はギターが趣味だが、人前で演奏するのが苦手で、恋愛にも全く興味がなかった女の子。そんな彼女のもとに、天真爛漫な1年生・木野ひまりがやってきて、新入生歓迎会で先輩の演奏を聴いて「ひとめぼれ」したと興奮して語り出す。実はひまりの言う「ひとめぼれ」は「先輩のファンになった」という意味だったのだが、依は告白されたと勘違いしてしまう。その勘違いにはすぐに気付くも、依は完全にひまりに「ひとめぼれ」してしまい、そこから2人の激エモ高校生活がスタートする…。

これは上記の同人誌を見た時も思ったが、竹嶋えく作品はとにかく登場人物の表情が素晴らしい。もう全てのページが尊いとしか言いようがない。とにかくもう依とひまりが交流を深める中で見せる一つ一つの表情がもう尊いとしか言いようがないのである。特に、ひまりや他の友人に何か言われて、瞬間湯沸かし器のようにカアァァァァァァ!!!と真っ赤になる依先輩が最高である。

他の百合作品が甘さ控えめで場合によっては苦みすらある大人のスイーツだとしたら、『ささやくように恋を唄う』は口の中に強烈な甘さが広がる“かす巻”である。激甘の餡子を激甘のカステラで包み込み、さらに外側にザラメを振りかけるという、頭おかしいお菓子としか言いようのないものであるが、それはまるで麻薬のように脳に強烈な刺激をもたらすパワーがある。

しかしこれがまだ第1巻であるというのが凄い。百合というジャンルの醍醐味は、登場人物間の関係性を丁寧に丁寧に描いていくところにある。ゆえに、巻数を重ねるにつれて指数関数的にエモさが増していくという性質を持つ。『ささやくように恋を唄う』第2巻が今から待ち遠しい。もしかしたら、令和時代を代表する百合作品となるかもしれない。

『疑似ハーレム』感想

疑似ハーレム (1) (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

疑似ハーレム (1) (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

これは萌える。圧倒的に萌える。

演劇部に所属する七倉凛は、同じ部の先輩で「ハーレムに憧れる」という北浜瑛二のために、いろんな人格を演じ分けて北浜と会話する「疑似ハーレム」状態を作り上げる。現在のところ、小悪魔ちゃん、クールちゃん、ツンデレちゃんなどの人格が確認されており、七倉は状況に応じてそれらを巧みに使い分け、北浜と会話を重ねていく。

七倉が生み出すキャラクターは、好意を寄せる先輩である北浜と上手く会話するために編み出された「仮面」である。その「仮面」によって七倉は北浜との距離を縮めていくことができるが、それは諸刃の剣でもある。時々七倉が北浜に本心を伝えても、それは「仮面」によって発せられた「演技」に過ぎないと誤解されてなかなか本心が伝わらない。この切なさともどかしさを様々なシチュエーションを駆使して描いているのが、本作の醍醐味である。

七倉にとっての仮面、それは自動車のようなものかもしれない。自動車は私達の行動範囲を大きく広げてくれるが、車に乗ったままでは狭い路地や階段や屋内へは入って行けない。仮面は七倉と北浜を接近させる便利な道具だが、まさにその仮面によって二人はある一定の距離を保ち続けそれ以上近づくことは出来なくなる。

近年は、恋人になる前の2人の駆け引きと自我の空転を描く作品が流行りである。代表的なのが『かぐや様は告らせたい』とか『からかい上手の高木さん』であるが、よくよく考えるとそれらの作品も全て「仮面」にまつわる話である事が分かる。高木さんは「西片をからかって遊ぶ意地悪な女子」という仮面を被っているのである。何故そんなことをするのか? そうする事でしか西片と自然に会話できないからである。西片のことが好き過ぎて素の状態では自然に会話できないからこそ、高木さんは仮面を被るという手段に逃げるのだ。

これは恋愛に限らず、様々な人間関係における本質を突いている。仮面は私達を守る武器であると同時に、私達を縛る枷でもある。全ての人がそうした仮面を付けて生活している。

もちろん本作のもう一人の主人公である北浜瑛二も例外ではないだろう。彼もまた、「後輩と疑似ハーレムごっこで遊ぶ先輩」という仮面を付けて演技をしているのではないだろうか。

『継母の連れ子が元カノだった』感想

これは面白い! 最近読んだラノベの中では圧倒的にギャグセンスが高い!

水斗と結女は共に読書が趣味の陰キャだったが、中学時代に図書館で意気投合し付き合うことになる。付き合い始めたばかりの頃は初々しいバカップルのような関係だったが、様々な出来事が重なって恋は完全に冷めてしまい中学卒業前に別れることとなる。そして高校入学直前、水斗の父親が再婚、その再婚相手の連れ子はなんと別れたばかりの結女だった! こうして一つの屋根の下で暮らすことになった2人は、両親に心配をかけないために仲のいい義兄妹を演じながら高校生活を送ることに…。

なんという悲劇だろう。いや、ラノベの設定的に言えば、これ以上の喜劇はない。

各章冒頭、「今となっては若気の至りとしか言いようがないのだが」という決まり文句の後に続くのは、水斗と結女が付き合っていた頃の黒歴史開陳の時間である。高校生となった2人が今考えると恥ずかしくて仕方のない中学時代を振り返るという構図なのだが、これが死ぬほど面白い。例えば、中学時代の体育の授業で、水斗たち男子生徒がサッカーをしているのを、結女たち女子生徒が見ているシーンは、次の通り。

なーにが『せーのっ……がんばってー!』だ。何を頑張らせるんだ、たかが体育で。彼氏でもない男に甲高い声出しやがって洒落臭い。
その中でも最も洒落臭い女が、何を隠そう私であった。
何せこっそり付き合っている彼氏をこっそり応援していたのだから、洒落臭さでは一線を画している。脳内では白いタオルを彼に渡しに行く妄想が留まるところを知らず、汗臭いままの彼に校舎裏で壁ドンされるところまで進行していた。
(中略)
残念ながら――否、幸いなことに、その妄想は実現されることはなかった。
あの男が。私の彼氏が。
……一瞬たりとも、活躍しなかったからである。
試合を終えたあの男の顔には、一滴たりとも汗がなかった――それも当然だ。何せこの男、コートの右端で身動ぎ一つするすることなく、全身から溢れる『近付くなオーラ』のみをもってしてディフェンスと成すという、サッカー界に革新をもたらすプレイを披露していたのだから。
(第1巻、102~103ページ)

もうこのくだりだけで、作者の並々ならぬ才能が見て取れるだろう。それにしても、これは完全に余談になるのだが、先日読んだ辻村深月さんの『オーダーメイド殺人クラブ』でも陰キャ男子のサッカー授業時における悲哀が印象的に描かれていて、やはり日本の中学校でのサッカーの授業というのは、スクールカーストを白日の下に晒す舞台装置としてこの上ないものなのだなぁと思った次第である。

さて、陰キャうしの痛々しくも可愛らしい恋愛描写が終わって舞台は現在に戻り、すっかり高校デビューに成功した結女と、相変わらず陰キャを通す水斗が、延々といがみ合う高校生活が描かれる。しかし、言葉では散々相手を罵り、椅子を蹴り合ったりしてる関係でも、より深い精神的な部分で、2人の間に強い絆が芽生えていく。例えるなら、『響け! ユーフォニアム』における中川夏紀と吉川優子のような、喧嘩ばかりしているけどお互いがお互いのことを深く理解し繋がっている、そんな不思議な関係が描かれていくのだ。

それは、2人が恋人としてよりを戻したとかいうような単純なものではない。むしろ水斗と結女は、兄妹としての新しい関係を築いていこうと試行錯誤を繰り返しているようにも見える。2人をそこまで突き動かすのは、2人の心の中に強く残る後悔の念なのかもしれない。

水斗は幼い頃に母親を亡くし、結女は両親の絆が崩れ離婚するのを見てきた。そして、かけがえのない初恋の思い出が短時間で色褪せていくのを身をもって経験した。そんな彼らだからこそ、強固で一生変わらないとすら思える関係性が、実は非常に脆くて儚く、ちょっとしたきっかけて形を変えてしまうものであるという現実を痛いほどよく理解しているのだろう。だからこそ水斗と結女は、せっかく芽生えた新しい関係性を壊してしまわないように、今度こそ後悔しないように、相手に対して誠実であろうとし続けるのだろう。

そのような相手への誠実さを突き詰めた先に、第2巻クライマックスのあの選択があるのだと思う。正直、水斗と東頭いさなは十中八九、恋人になると思っていた。それが水斗にとってもベストな選択だという確信があった。それでも水斗はそうしなかった。輝かしい未来がすぐ届くところにありながら、水斗はそれに手を伸ばそうとはしなかった。恋人でも何でもない結女という少女のそばにいたいという、合理性の欠片もない意志、であると同時に心の奥底にある否定しがたい本心に従って、水斗は東頭いさなの告白を受け入れないという選択をしたのである。

登場人物がただ杓子定規に合理的な選択をするだけでは、そこに心揺さぶられるものは無い。登場人物がその選択をすることが間違いなく正しいとすら思えるような、強烈な合理性と読者の納得感がある中で、あえてその逆の選択を取るからこそ、そこに読者の魂を揺さぶるものが宿るのだ。福部里志が摩耶花のチョコレートをちゃんと受け取るという選択、ナツキ・スバルエミリアを救う事を諦めてレムと一緒に逃げるという選択、櫛枝実乃梨が高須竜児の告白を受け入れて2人が恋人になるという選択、そういった選択の先に読者は輝かしい未来を垣間見た。それでも、そこであえて違う選択をしたからこそ、その物語は唯一無二のものとなり、読者の心に深く刻み込まれるのである。

しかし、こういう選択にまつわる物語を作り上げるのは並大抵のことではない。それは、何巻にもわたって物語を積み重ねてきた上でようやく生きてくる手法だろう。その「極致」に、2巻の時点で既に到達しているということが如何に凄いことか。いずれ発売される第3巻も間違いなく素晴らしいものになっているだろう。

世界は不公平だ。それでも頑張る意味はある。―『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』

デジタル大辞泉の解説
こうへい【公平】 すべてのものを同じように扱うこと。判断や処理などが、かたよっていないこと。また、そのさま。

大辞林 第三版の解説
こうへい【公平】 かたよることなく、すべてを同等に扱うこと(さま)。主観を交えないこと(さま)。

精選版 日本国語大辞典の解説
こうへい【公平】 判断や行動が公正でかたよっていないこと。特定の人のえこひいきをしないこと。また、そのさま。くびょう。

公平(コウヘイ)とは - コトバンクより引用。)

本記事の概要

  • ほぼ全ての人は、「努力すれば能力はその分上がっていく」「能力が上がればそれが正しく評価される」という「公平性」が世界に存在しているという信念(公正世界信念)を持っている。『ユーフォ』で描かれる登場人物の苦悩は、自分達が信じている世界の公平性が実は存在していないかもしれない、という不安や絶望から生じるものである。
  • 公正世界信念というものは、強すぎても弱すぎても、人は健全に成長することが出来なくなる。また、努力や才能といった曖昧な概念を比較検証することは不可能に近いので、何が「公平」なのかについて考えていっても答えは出せず、ただ神経をすり減らすだけで終わってしまう可能性が高い。
  • 『ユーフォ』の登場人物は、「努力が報われない」「正当に評価されない」という経験をし、世界は公平ではないという事実を思い知らされて絶望した過去がある。しかし、たとえ世界が公平でなくても、自分の努力は決して無駄ではない、というふうに発想を転換することで、過去のトラウマや絶望を乗り越える、というのが『ユーフォ』の基本構造である。

公正世界信念について

響け!ユーフォニアム』シリーズについて考える上で「公正世界信念」というキーワードは欠かせないものだと思います。だいぶ前置きが長くなりますが、まずはそこから説明した方がいいでしょう。

人は、それが良いものであれ悪いものであれ、何らかの「結果」には必ず「原因」があると考えています。そして、人が受ける幸福や不幸のようなものにも、何らかの整合性のある「原因」があるはずだ、と考えてしまう生き物なのです。

例えば、「この人は若い頃に遊んでばっかりいて真面目に働いてこなかったから、今こうして貧しい生活をしてるんだ」「あの人は若い頃に努力していっぱいお金を稼いだから、今こうして良い家に住んでるんだろう」みたいな感じで、この人がそういう状況にいるのにはそれなりに納得できる理由があるはずだ、と考えてしまう。

これがさらに行き過ぎると、「あの人は前世で悪い事をしたから、この世ではこんな不幸な生活を強いられているんだろう」みたいな話になる。悪い事したら後でばちが当たるぞ! 良い子にしてないとサンタさんはやってこないわよ! アイツはとんでもない奴だから、いつか他人から愛想尽かされて不幸になるだろう! 映画の入場特典でなかよし川バージョンを引き当てられたのは、これまで真面目に働いてきたご褒美に違いない!神様ありがとう!

こういう思考パターンは、普段意識していなくても、私たちの心の中に怖ろしいほど深く根付いている。その最たる例が、努力(才能)と能力・評価の関係性に関する考え方。努力を続けていれば自分の能力は必ず上がっていき、今できないことも将来できるようになる! そして、努力して能力を高めていけば、それは必ず正当に評価されて、今よりも幸せな生活を送ることができるようになる! …というように、努力すれば誰でも「公平に」能力が上がり、能力が上がれば誰もが「公平に」それに見合った評価を受ける、世の中はそういうふうに「公平に」できているんだ! という思考パターンが我々の頭の中に存在しているわけです。

ところが、実際の世界は決して公平ではないという現実がある。上の例で言うならば、「若い頃怠けてたから貧乏」「頑張ったから裕福」なのではなく、ただ単に「持病のせいでまともな職につけず、かつ、そういった人を救済する社会制度も拡充していなかったので、貧乏になってしまった」だけかもしれないし、「特に努力もせずに親から譲り受けた金で裕福な暮らしをしてる」だけかもしれない。そもそも人の人生なんていうものは、生まれた時代や性別、人種、人体的特徴、親の教育方針、自然災害、病気、交通事故など、個人の努力ではどうすることもできないものでガラリと変わってしまう。

現代という時代は、「世界は公平である」という誤解が蔓延りやすい時代なのかもしれない。ほんの数百年前まで、乳幼児死亡率は今と比べ物にならないほど高く、運よく大人になれても結核などの感染症で人は容易く死んでしまう時代だった。ところが、医学の進歩とともに人の寿命は延び、それと同時に産業革命と社会の資本主義化が進んだことで、世界は豊かになった。そうなってくると、自分の人生は自分でコントロールできる、努力次第で何にでもなれる、という気持ちが芽生えるのも無理はない。

しかし実際には、人間は成長するにつれて「世界は依然として不公平である」という事実を思い知らされる。心の中で信じてきた「努力→能力→評価」という関係性=世界の公平性がガラリと崩れ落ち、自分の努力は本当に報われるのだろうかという不安や、どうせ何やっても救われないんだという絶望感に襲われたりする

『ユーフォ』の登場人物もまた、そうした「努力は報われないかもしれない」という不安や絶望の中にいる人として描かれる。例えば、傘木希美。同時期に吹奏楽を初めて同じように努力してきた鎧塚みぞれと傘木希美だが、圧倒的に実力があるのはみぞれの方で、音大に行くことを進められるほど。じゃあ自分は一体何なんだろう? 本人の力ではどうすることもできない無力感に襲われているからこそ、映画『リズと青い鳥』で希美は「みぞれはズルいよ」と言うのである。

例えば、中世古香織。1年生の頃からトランペットで部内No.1の実力者だったけれど、上級生を優先する部の方針もありソロは吹けなかった。3年生になり滝先生が着任すると部の方針は変わったが、今度は高坂麗奈にソロの座を奪われてしまう。彼女もまた、年齢(高校に入学した年度)という、個人ではどうにもならない高い壁に阻まれ、努力が報われなかった人だと言える。

『誓いのフィナーレ』で言うならば、本番直前に顎関節症になり結局3年間で一度もコンクールメンバーになれずに引退した加部友恵も、そういう人物として描かれている。

「努力」の量を測ることの難しさ

ところで、ここまで読んできた方なら容易に想像つくと思いますが、この「公正世界信念」というものが強すぎる、つまり「世界は公平であるに違いない!」と信じ切ってる人は相当ヤバい奴です。こういうタイプの人間は、自分に実力があり周りから評価されているのは、自分が誰よりも努力して腕を磨いてきたからだと信じ切っている。なので、今自分が評価されているのは、もちろん本人の努力もあるのだろうけど、運や周りのサポートがあってのことだという事実を忘れがちになる。また、自分より実力のない者は、単に努力が足りなかったのがいけないんだ、という思いやりに欠けた思考に陥りがちになる。逆に、自分が評価されなかった場合には、焦って「もっと努力しなければ」という方向に思い詰めてしまう。『ユーフォ』シリーズで言えば、麗奈や佐々木梓には、これに近い危うさのようなものがあります。

一方で、この手の信念が全くない人というのも、それはそれでマズいという事も容易に想像できるでしょう。だって、努力したって無駄!仮に実力があったとしてもそれがちゃんと評価されるとは限らんし…みたいな発想になっているので、実際にその人は努力しないだろうし、したがって成長することもできなくなる。滝先生が着任する前の全然やる気がなかった中川夏紀先輩は、このタイプに近いかもね。

ようするに、両極端なのはいかんよ~、という話なのだけれど、『ユーフォ』という作品はそこからさらに一歩進んで、そもそも公平かどうかなんて簡単には決められないよ、という視点が入ってくるのである。

例えば、黄前久美子は努力している、夏紀先輩も同じくらい(もしかしたらそれ以上)努力している。それでも、2年生の時、コンクールメンバーに久美子は選ばれて、夏紀は選ばれない。この世は、同じように努力しても一方は報われ、もう一方は報われない、そういう不公平な世界なのか? そういうふうに捉えることも出来るけど、本当にこの2人の努力量は同じか? 夏紀は高校に入ってからユーフォを始めたけど、久美子は小学生の時からずっとユーフォを演奏している。努力というものを人生のトータルの練習時間で捉えるなら、久美子だけが選ばれるのはやっぱり公平なことなのだという風にも考えられないか?

鈴木美玲と鈴木さつきのエピソードもまた、典型的な公平さにまつわるエピソードです。美玲は短時間で効率良く練習を進めるタイプで、自主練で放課後遅くまで残るようなことはしない。さつきは、先輩と一緒に遅くまで練習しているから、実力は美玲より下だけど先輩から好かれてるし、すごい努力してる良い子って思われがち。それが美玲にとっては凄く面白くない。心に積もり積もった不満がサンフェスの日に一気に爆発し、泣き出してしまう。

努力の量を測る上で時間というものは最も分かりやすい判断基準。だから、さつきの方が努力してると評価されがちだけど、その時間をどう使ったかも大事な要素。作中で滝先生が言っていたように、ただ漫然と演奏しているだけでは駄目で、いかに集中して効率よく練習するかということが重要。だからこそ、さつきの方が先輩から好かれているという事実に、美玲は納得がいかない。

でも、これをさつきの視点から見たらどうなるだろう。「みっちゃんは私や葉月先輩より全然練習してないのに実力があって本当にズルい。おまけに奏ちゃんや久美子先輩と仲良くなって私の悪口言ってるらしいじゃん、ホント最悪マジ何なのアイツ!」 もちろん、さつきが本当にこう思ってるというわけではなく、あくまでもこんな感じに関係がこじれてしまう可能性もあったという話です。

「公平」の反対が「不公平」なのではなく、各々の心の中に、各々が思い描く「公平さ」があるだけなのです。

どっちがより努力してるかなんて誰にも分からない。同じように、「才能」というものも簡単に比較できるものではない。才能とは何かと考えた時、多くの人は、少ない努力で多くの成果を上げられる場合に「あの人は才能がある」という言葉が用いられる、と考えます。しかし、上で見てきたように、その努力という言葉はとても曖昧な概念でした。だとしたら、努力という言葉で表現される才能という言葉もまた、すごく曖昧で漠然とした何かです。希美は「自分は才能がない」と嘆きますが、「それって本当なの?」「そもそも才能って何よ?」という疑問はずっとずっと付きまとってきます。

何が「公平」で、何が「不公平」なのか

【注意】 この先、『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編』のネタバレがあります。見たくないという人は「ネタバレ部分終了」と書かれた場所まで飛ばしてください。

さて、ここまでは、努力・才能というものをどう測るかという話でしたが、先日発売されたばかりの『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編』では、各人の能力をどう評価するか、その評価は本当に公平なのか、という視点が入り、話がどんどん複雑化していることが分かります。

久美子が3年生になり、釜屋すずめが入部してくる。彼女はチューバの初心者ではあったが、どんどん上達して1年生でありながらコンクールメンバーに選ばれる。一方、2年生になった鈴木さつきはすずめより演奏は上手いにも関わらず、何故かメンバーには選ばれない。久美子が滝先生に何故かと問うと、滝先生は「すずめの演奏はもちろん課題も多いけど、彼女はきれいな音を維持したまま音量を出せるという長所がある。彼女の欠点となる部分も、今年の選曲であれば、あまり問題にはならない」というような事を言う。つまりこのエピソードは、綺麗な音を正確に出すことだけが「実力」なのではなく、音量とか、選曲との相性など、様々な要素が複雑に絡み合って「実力」というものが判定されるということを示している。

また、福岡の高校からユーフォニアムの実力者である黒江真由が編入してきて、久美子は強い焦りを覚える。京都府大会のソロパートの座はなんとか久美子が獲得したけれど、部内では「今年転校してきた真由なんかより久美子部長の方がソロを吹くべき!」みたいな空気があることを久美子自身が感じ取ってしまう。自分は実力があったからソロに選ばれたのではなく、そういう部の空気を滝先生が忖度してソロに選ばれたのではないか…。そういう不安が久美子を苦しめていく。

『誓いのフィナーレ』も含め、これまでのエピソードはずっと、滝先生の判断は絶対的に正しいという前提のもとで進んできた。ところが、その顧問の判断ですらも、絶対的な物ではないということが『最終楽章』では描かれていくのです。

『最終楽章』のネタバレ部分終了

こうした事例は、もちろん学校の部活だけに限る話ではない。この社会のありとあらゆる場面で、似たような事例が出てきます。

アテネ五輪前の選考レースで高橋尚子は日本人トップとなったが、オリンピック代表に選ばれたのは別の選考レースで結果を残した他の3選手で、前回大会金メダルという高橋の過去の実績は考慮されなかった。一方、北京オリンピック前の国内大会で谷亮子は破れたが、過去の実績が評価されてオリンピック日本代表に選ばれた。これらの事例に対して公平か不公平か判断することなどできるだろうか。結果から言えば、アテネ五輪女子マラソンでは野口みずきが金メダル、谷は北京で銅メダルだった。結果が良ければ選択が公平だったということになる? もし結果が逆だったら、公平・不公平の判断も逆になる? そんな単純なものではないだろう。

クロスカップリング反応の開発の功績によりリチャード・ヘック根岸英一鈴木章ノーベル化学賞を受賞したが、この分野では彼ら以外にもたくさんの研究者がいて、偉大な業績を残している。ノーベル賞の同時受賞は3人までと決まっているが、何故この3人だったのか。彼らと彼ら以外を分けたものは何だったのだろう(なかには、受賞時にすでに亡くなっていて受賞を逃した人もいたかもしれない)。iPS細胞の論文を山中伸弥と共同で書いた高橋和利は、何故ノーベル賞を貰えなかったのだろう。高橋は山中の助手だったから貰えなかったのか? でも、天野浩は赤﨑勇の助手だったけどちゃんと2人ともノーベル賞を貰っているけど…。選考委員の判断について色んな人が色んな推察をしているけれど、本当の真実を受賞者や候補者が知ることはできない。ノーベル賞の選考過程が公開されるのは、受賞から50年後と決まっているから。

単純な組み合わせの問題を考えれば、不確定要素の数がn個増えると、世界の複雑さは2のn乗倍に膨れ上がります。何かを評価する時の判断基準は一つではない。どちらががより努力してるかなんて簡単には決められない。何をもって「実力」と言うかも、時と場合によって変わる。評価する側が常に正しいなんていうことも有り得ない。これだけ多くのファクターが複雑に絡み合っている中で、何が「公平」で何が「不公平」かなんて、そもそも決めること自体無理じゃね?っていうことです。

そういう状況下で、「あれは公平だ、正しい」「これは不公平だ、間違ってる」と言ってまわることに一体何の意味があるのだろう。もちろん、世界には理不尽で正義に反することも存在していて、それは改善されなければいけない、というのもまた事実。でも、上で述べたようなもっと曖昧なケースで、各個人が好き勝手に公平か不公平かを判断していった先に、一体何が残るというのだろう。そういう状況で公平性に固執するということは結局、人と人との対立を深め、自分の中に負の感情を溜め込んでいってしまうだけではないだろうか。

「頑張るって何ですか?」

では、公平さをめぐる袋小路的状況を打破するには一体どうすれば良いのでしょう。その答えを『誓いのフィナーレ』は見事に描いていると思います。

まず、第一歩目として、自分の心に築かれた公正世界信念がいったんボロボロに崩れ去る経験が必要なのではないでしょうか。これまで自分は努力すれば絶対に成功すると思ってきたけれど、実はそうじゃない。努力して報われる人もいればそうでない人もいる。実力が正しく評価されるとは限らない。世界は、怖ろしいほどに不公平だ…。希美も、香織も、加部ちゃん先輩も、みんなこういった真実を思い知らされ、世界に絶望した人として描かれているのです。『ユーフォ』に出てくる一人ひとりが、過去に同じように絶望を味わったのだと思います。例えば麗奈は、中学時代に自分一人だけが頑張っても全国大会には行けない、という事実を嫌というほど思い知らされています。そして『誓いのフィナーレ』の裏主人公とも言える久石奏も、中学時代に後輩でありながらAメンバーに選ばれ、後で陰口を叩かれたという経験を通して、世界に絶望している人として描かれます。

で、次のステップとして、そもそも公平か不公平かなんて考えだしてもきりがないですよ~、という事実に気付くことが必要だと思います。折しもイチロー選手が引退会見の時、「自分が他人より努力してきたかなんて分からない。あくまでも秤は自分の中にある」という話をしていましたが、まさに、他人と比較するのではなくて、自分が納得できるかどうかの方が大事なんだよ、ということなんですね。自分の方が努力してるのに評価されなくて悲しいと言って美玲が泣き出した時、久美子は彼女を立ち直らせるために巧妙に論点をずらしています。いや~そんなことないよ~、みんな美玲ちゃんのこと大好きだよ~。美玲ちゃんだって、自分から歩み寄っていけば先輩とも仲良くなれるはずだよ~、まずは皆から「みっちゃん」って呼んでもらうようにしようか。…この回答に奏は不満顔でしたが、美玲にとってはこれが最適解。答えの出ない問題を延々考えていた美玲の思考はリセットされ、美玲は次第に周りと打ち解けていきます。

そして、最後のステップとして、努力しても結果が出ないかもしれない、どんなに頑張っても報われないかもしれない、たとえそうだとしても、努力することに意味がある、という風に自分が納得できれば、その人は救われるのではないでしょうか。作中、ふてくされた奏が「結局、実力があるかどうかじゃなくて、皆が納得できるかどうかの方が大事なんでしょ」と久美子に詰め寄っていましたが、奇しくもこの「納得」というのが重要なキーワードです。

では、どうやって人を納得させるかという話になるんですが、これはもう方法は人によってバラバラとしか言いようがありません。最もよく使われるレトリックは、努力すれば報われるかもしれないけれど、努力しなかったら100%報われないですよ、というものですよね。それ以外にも、例えば、自分が努力してやれるだけのことをやりきれば、たとえそれで失敗しても後悔はしない、というのも挙げられます。田中あすかが退部するのを引き止める時、久美子は「後悔するってわかってる選択肢を、自分から選ばないでください」と叫んでいますが、まさに、このレトリックだったというわけです。

そして、奏を救うために久美子が使っているのは、「あなたがかつて置かれていた状況と今の状況は全然違うんですよ」という説得方法なのです。確かに中学時代のあなたは大変辛い思いをしましたよね。ぶっちゃげ私も、あなたの努力が報われるかどうかなんて分かんないし、それは誰にも分かりません。でも、これだけは確実に言えます。あなたがいた中学と北宇治とでは、状況が全く違います。部員の意識も、部の方針も、練習環境も、何から何まで違うのはあなたも分かってますよね。だから、中学時代に努力が報われなかったからといって、それがここでも同じだとは限らないですよね。もしかしたら上手くいく可能性だってあるじゃないですか。ほら、努力してみようって思ってきたでしょ?

これを見事な正論と見なす人もいれば、ただの屁理屈、言葉のあやだと見なす人もいるでしょう。でも、一番大事なことは、この言葉を聞いて奏が納得できるかどうかではないでしょうか。そして、奏が本当にそれで納得できたのであれば、ただ単に「努力すれば報われるから努力する」(公平世界信念の世界)ではない、もっと高いレベルの覚悟と決意をもって頑張ることができるようになります。

「悔しくて死にそうです!」

実は、上で述べたような発想の転換を国家レベル・民族レベルでやってしまったのが、ドイツやイギリスやアメリカだということになります。

カトリック教会が強い権力を持っていた時代、人々は、神の教えに従って正しく生きていれば天国に行ける、と信じていました。だから、教会の言うことは絶対ですよ~、教会に逆らったりしたら駄目よ~、ということで腐敗が進み、それが宗教改革の要因となりました。宗教改革の後、カルヴァン派が生まれ、予定説というものを唱え始めました。その概要は次の通りです。

「は?この世で良い事したら天国に行けるとか、そんな訳ねーじゃん。神様が何を考えてるかなんて俺ら人間ごときに理解できるわけないだろ。誰が天国行って誰が地獄行きかなんて、はじめから決められていて、それを人間の行動で勝手に変えるなんて出来るわけねーだろ」

こうして人々の心の中にある公平世界信念はボロボロに崩れ去り、絶望に打ちひしがれることになります。ここで「努力しても天国行けないんなら、もう努力するのやーめた!」ってなるかと思いきや、実際はそうはならなかった。

「誰が救われるのかはあらかじめ決まっている。ということは、もし俺が救われる側の人間だったなら、神の教えに背くことなく清く正しく生きることができるはずだ。そして、そうやって努力を重ねていけば、神の恩寵によって幸せになれるに違いない!」

こういうふうに発想を180°転換したことによって、真面目に一生懸命働くことを美徳とする社会が生まれます。人々は「自分は神に愛されてるはずだ」と信じて一生懸命働き、資本主義が発達していきます。こういう社会の在り方が正しいかどうかは誰にも判断できない。けれども、この地球上で最初に産業革命を成功させ、今なお経済的に最も豊かで、世界のトップランナーとして君臨している国は、だいたいプロテスタントの国であるというのは純然たる事実です。

人間と他の動物とを分ける最大の特徴は、人間の並外れた未来を予想する能力である、という人がいます。その時その時の快楽や欲求のために行動するだけではなく、時にはそれを我慢して、将来の幸福のために努力することが出来る。それが地球上で人間だけに備わった能力です。

でも、上で述べたような、世界に絶望してもそれでも努力していくという意志は、将来の喜びのために努力するのとは全くレベルの違う高次の努力だと言えます。だって、その努力は報われないかもしれないんですよ。それは生物学的には全く無意味な努力かもしれない。この世の中は公平ではない。世界は怖ろしいほどに不公平だ。それでも人間は、「いや、その努力には意味があるんだ!それで私は納得しているんだ!」と考えることができる。

奏にとって高校での最初のコンクールは、全国大会金賞という目標を達成できずに終わってしまう。そういう意味で言えば、奏の努力は報われなかったということになる。けれども彼女が中学時代のように絶望することはもうない。「悔しくて死にそう」だと叫ぶ奏の瞳には、今なお熱い炎がメラメラと燃えたぎってる。彼女の瞳の中に宿るそれこそが、人間の尊厳などだと私は思う。

物語はさらに進み、久美子が新部長となって『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章』が始まる。けれども、『ユーフォ』シリーズが追いかけてきたテーマは『誓いのフィナーレ』で語り尽してしまったのではないか、とすら感じる。まさに「フィナーレ」という言葉が相応しい、そんな圧倒的な映画だった。

アニメ『かぐや様は告らせたい』各話感想

第1話

第1話の感想は下記記事を参照。

第1話のMOP(Most お可愛い Picture)は、白銀のお弁当を見てよだれを垂らすかぐや様。
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普段のかぐや様はクールで近寄り難く、怖い印象すらある。けれども実際は、お嬢様であるがゆえに世間知らずで、まだ知らないもの見たことがないものに強い憧れを抱いている、そんな内面がふっと表に出てきた瞬間のかぐや様は最高にお可愛い。第1話(原作では第1巻)でありながら、かぐや様のお可愛さの本質が見て取れる場面でした。

第2話

夏休みに海に行くか山に行くか論争、スマホの連絡先交換を巡る駆け引きも面白かったが、何と言っても、会長が恋愛相談に応じる回が最高。白銀が裏声で「付き合って欲しいな~」とか言ってる場面は腹を抱えて笑った。かぐや様のあのキレッキレなツッコミもまさにアニメでしか味わえない魅力だろう。

柏木さんとその彼氏が恋愛相談に来る回は原作でも何回かあって、私は勝手に「バカップル恋愛相談回」と呼んでいるのだが、正直、原作では特別面白いエピソードではない。ところが、これがアニメになっただけでこんなにも爆笑不可避な作品になるなんて…。やはりマンガのアニメ化に際しては、「アニメ映え」するエピソードとそうでないエピソードというのがあって、バカップル恋愛相談回は物凄くアニメ映えする何らかの要素を兼ね備えているのだろう。

表向きは、「どう考えても会長のアドバイスは的外れだったけど、何故か告白は上手くいって柏木さんと付き合い始めた」、というお話。だが、実際には、生徒会長のもとに恋愛相談しに行く勇気があった時点で、あの男子の告白が成功するのは確定だったのだろう。秀知院学園での生徒会長というのは、(実態はともかくイメージとしては)雲の上の存在であって、一般生徒にとってはとても話しかけづらいオーラがある。そこにわざわざ出かけていって、学園と何の関係もない私的な相談をできるという行動力があったからこそ、この男子生徒は柏木さんと付き合うことができたのだ。

第2話のMOP(Most お可愛い Picture)は、ドアに隠れながら会長が話してるのを聞いてちょっとムッとしてるかぐや様。
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この場面も、原作漫画の時はスルーしてた。でも、これがアニメになると、何故だかは分からないけど、メチャクチャお可愛い。単なる原作の書き写しだけではない、新しいかぐや様のお可愛さが垣間見えた。

第3話

原作第1巻でも特に印象に残っている自転車2人乗りで登校する回。小学校から高校2年生までずっと車で登校していたかぐや様、その事実を嫌というほど知っている原作読者だからこそ、このエピソードが感動的に見える。将来かぐやと白銀が付き合い出して、結婚までしたとしても、大好きな人と一緒に登校するこの瞬間は、もう二度と訪れないかもしれないのだ。道に迷い電信柱に寄りかかるかぐやの腕時計が指し示す時刻は8時25分。おそらく、白銀と遭遇し、2人乗りしてた時間はほんの2、3分だっただろう。でもその僅かな時間が、かぐやにとっては一生に一度しかない尊い時間だったに違いない。

そんな感動的な回のすぐ後に訪れる特殊エンディング「チカッとチカ千花!」の衝撃。ラブ探偵チカの登場は第5話、「森へお帰り」で有名なゴキブリ回はアニメにすらなっていない。本編と何の関係もないエンディングにこれほどまでに力を入れ、しかもそれをたった1回だけの放送で終わらせるという凄さ。これだけでもう、本作が普通のアニメではないという事を物語っている。

第3話のMOP(Most お可愛い Picture)は、初体験=キッスのことだという勘違いにようやく気付いたかぐや様。
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この表情、もう最高である。ドヤ顔でマウント取りに行ったのに全部勘違いだったという恥ずかしさ、会長の前でとんでもない事やらかしてしまったどうしようという焦り、性の知識に初めて触れたことによる恐怖…。この瞬間にかぐや様の頭の中に去来する様々な感情を想像しただけで、もうニヤニヤが止まらなくなる。

第4話

この回あたりから、各キャラが初登場時とは異なる新たな一面を見せるようになる。例えば、NGワードゲームで無双する藤原とか、自室で早坂と会話するかぐやとか。その中でも印象的なのは、これまで相手に対してマウント取りに行って恋愛頭脳戦を有利に進めることしか考えていなかった会長とかぐやが、ようやく相手に自分の弱点や本音を見せるようになった点だと思う。

会長をバカにする発言をした生徒に対して、かぐやが怒涛の勢いで言い返す。フランス語で罵詈雑言を繰り出すかぐやの姿は、白銀と出会う前のいわゆる「氷のかぐや様」時代の残滓だ。誰にも心を開かず、他人を蹴落とすことしか考えていなかった昔のかぐや。それは、今のかぐやにとっては忘れてしまいたい黒歴史のようなものだろう。だからこそ、かぐやはそんな姿を会長の前で晒してしまったことを恥じ、落ち込んでしまう。でも、かぐやは、そこまでしてでも会長を守りたかったのだ。そんなかぐやの心境を分かっているからこそ、白銀の方も、実はフランス語はほとんど聞き取れなかった、と本当のことをかぐやに打ち明ける。間違いなく、二人の距離が大きく縮まったエピソードと言えるだろう。

第4話のMOP(Most お可愛い Picture)は、ネコ耳をつけたかぐや様。
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これはもう鉄板だろう。

第5話

相合傘回は原作でも屈指のイチャイチャラブコメ回だと思うが、ただ単に、二人がイチャイチャしてお前らもう結婚しろよ、ってなるだけじゃないのが本作の醍醐味だ。せっかくの作戦を藤原に邪魔され、顔赤くしながら傘を差しだすかぐや。傘の下からその表情が少しだけ見えて、勇気を振り絞って一緒に帰ろうとしてくれてた事が御行にも分かったからこそ、御行もまた勇気を出して「半分借りる」と言うのである。ああもう尊いなぁ~。

第5話のMOP(Most お可愛い Picture)は、作戦が台無しになって傘をパタパタさせてるかぐや様。
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次点は、柏木さんの恋愛相談中、あくまでも友人の話だと言い張るかぐや様。

第6話

石上会計がようやく登場。さすがに出てくるの遅すぎだろと思ったりもしたが、後になって振り返るとここしかない絶妙なタイミングでの登場だったと思う。第5話までは生徒会室にたまに来てる程度で会長たちとはほとんど会話しない。第6話でようやく顔見せ。第7話で本筋のストーリーに絡むようになってきて、第8話ではかぐやとも交流を持つ(テスト勉強回)。そして第9話では藤原のことをボロクソにこき下ろし、第10話で「うるせーバーーーカ!!!」が発動する。これは、他人に心を閉ざしていた石上が、少しずつ、一歩ずつ着実に、傷を癒し周囲と打ち解けていく軌跡だ。

第6話のMOP(Most お可愛い Picture)は、ラストの「もうっ…もうっ!」のかぐや様。
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次点は、会長にネイルを気付いてもらえなくて拗ねるかぐや様。

第7話

おそらく、女性声優が最も多く「ちんちん」という台詞を言ったTVアニメの回、としてギネスブックに載るであろう。この回を本気でアニメ化したスタッフの心意気、そして声優陣の名演に心から拍手を送りたい。

第7話のMOP(Most お可愛い Picture)は、「会長からそんなワードが出てきたら…絶対に笑ってしまう!」のところのかぐや様。
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この回だけに限らないが、本作はかぐや様の顔のどアップをメチャメチャ多用している。これは第2話とか第8話でも顕著に表れているのだが、元を辿れば原作漫画の時点でかぐや様の顔がコマいっぱいに描かれていて、台詞やモノローグの文字が顔に重なってるような構図が頻出しているのだ。こういうところにも、アニメスタッフの原作へのリスペクトが垣間見える。

第8話

第8話の感想は下記記事を参照。

第8話のMOP(Most お可愛い Picture)は、期末テストで白銀に負けて悔しがるかぐや様。
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この場面で初めて、生徒会副会長のかぐや様でもなく、白銀に恋するかぐや様でもない、本当に素のかぐや様が描かれたように思う。そうか、そうなのか…、テストで負けたのが泣くほど悔しかったのか…。第4話のNGワードゲームで負けてメッチャイラついてた時にも思ったが、かぐやは筋金入りの負けず嫌いだと思う。大財閥の令嬢としての仮面を被り感情を殺しながら生きてきたかぐや様にも、こういう人間らしい一面があるのだと再確認できて、感動すら覚えた。

第9話

原作読者全員が待ちわびたイカサマトランプ回、そしてお見舞い回である。ここぞとばかりに藤原を攻撃する石上、風邪をひいて幼児退行してしまったかぐや様、声優の名演が特に光る回だった。

第9話のMOP(Most お可愛い Picture)は、もちろん、風邪で弱っている甘えんぼかぐや様。
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何この可愛い生き物…。風邪ひいたときに食べたい物が桃の缶詰という意外と庶民的な物であるのも何か可愛い。だが、原作漫画14巻では、甘えんぼかぐや様の上位互換、この世で最も可愛い生き物といっても過言ではない、激レア生物「かぐやちゃん」も登場している。アニメしか見ていない人も、絶対にこの続きを見るべきだろう。Don't miss it!!!

第10話

台風の日→かぐや様風邪ひく(&藤原フルボッコ)→かぐや様幼児化→喧嘩→恋愛相談(「うるせーバーーーカ!!!」)→仲直り、というアニメ9話から10話の一連の流れは本当に素晴らしかった。この流れの中でいったい何個名言・名シーンが生まれた? 本作の一番の魅力の一つは、予想もつかないようなところから話がどんどん膨らんでいく事だと思う。

第10話のMOP(Most お可愛い Picture)は、白銀と喧嘩して「はーーーーーーーーーっ!!!」ってなってるかぐや様。
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原作者は本当に人間の心理描写が上手いというか、なんというか…。たしかに、気になってる相手とギクシャクして喧嘩してる、そんな矢先に相手から結構嬉しい事言われて、驚きとか嬉しさとか照れとかでいっぱいになってるけど、そんな感情絶対知られたくないっていう時、こういう反応になるっていうのは何となく分かるよね。

第11話

尺。尺、だよなあ…。このアニメにおいて、最大の敵は、12話、30分という時間の制限なんだよなあ…。せめてアニメが全13話だったなら、白銀・藤原の特訓回をもう1話増やせたし、ラーメン回ももっと面白くできた。「花火の音は聞こえない」も、本当は12話で一気に描き切って欲しかった。でも、これはもう、どうすることも出来ないよなあ。

そういった制限の中でも、かぐや様がツイッターを始める回は抜群に光っていた。何というか、この作品は、ツイッタースマホ、LINEといった現代のアイテムの使い方が本当に上手い。

第11話のMOP(Most お可愛い Picture)は、夏休みに白銀と会えなくて溜息をつくかぐや様。
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普段のクールな表情とは大違い。「は~~~~~~あ~~~~~~」という、体内の空気が全部抜けてしまうんじゃないかと思うくらい大きな溜息。完全にやさぐれてるおっさんである。でも、普段気を張って生きてる人ほど、プライベートではユル~い性格になってしまう、というのは現実の世界でもよくある事だし、かぐや様のような表向きは完璧超人な人が、気を許せる人の前でだけはこんなにもダラけてしまうというのは、すごく説得力のある描写だと思う。

第12話

第12話のMOP(Most お可愛い Picture)は、会長の横顔から目が離せないかぐや様。
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ルイ・パスツールはこう言った。「幸運は準備された心に宿る」

この世に神様など居ない。奇跡も魔法も存在しない。だが、それでも、たった一人の人間が、かぐやの事を思い、もっとかぐやの事を知りたいと願い、そのために必死に努力して、準備を続けた時、今までの不幸なんてきれいさっぱり忘れてしまうくらいに最高の幸運が訪れる。そこには夏らしいロマンチックな思い出も、特別な舞台装置も必要ない。花火ですら必要ない。大好きな人と一緒に夏を過ごす、ただそれだけの事で、かぐやは救われていたのだから。

かぐや様は告らせたい』は、ラブコメでも恋愛頭脳戦でもない。これは、四宮かぐやという少女の心の救済の物語。そして、かぐやだけでなく、石上やその他の登場人物みんなが、誰かから救われ、誰かを救う物語だ。

総評

アニメでナレーションを担当した青山穣さんが、インタビューでユニークな作品評をしている。

実は最初、タイトルを勘違いしていたんですよ。『かぐや様は告らせたい』じゃなくて『告られたい』だと。そのほうが普通じゃないですか? だから「告白されたい女の子の物語なのか」と読み進めていったら、なぜか恋愛バトルをしてるので「ん、なんか変だぞ?」と(笑)。
でも読んでいくうちに、タイトルを「告られたい」という受身ではなく、「告らせたい」という使役の表現にしたことが、『かぐや様』のポイントなんだなと感じるようになってきたんですよ。
(中略)
かぐや様は告らせたい』という作品は、「他人を自分を意のままに動かしたい」という欲望について物語なんだな、と個人的に解釈したんです。もしかしたら現代っ子は、人間を機械のようにコントロールしたいという、ちょっと薄暗い気持ちがあるのかもしれないなと。
でも人を自由に動かすなんて、そんな簡単なことじゃない。かぐやと白銀会長もいろいろな計画を企てるけれども、実際は失敗ばかりなわけで(笑)、だから『かぐや様』は相手を支配したいと考えていた二人が、人間は思い通りにはいかないことを悟るまでを描いたお話になるんじゃないか、と僕は勝手に想像していますね。
『かぐや様は告らせたい』青山穣さんがナレーションで手応えを感じたエピソードとは【連載】 | アニメイトタイムズより引用)

この見方は決して的外れではないと思う。物語の序盤はかぐやも白銀も「相手に告白させたい」「自分を選ばせたい」という気持ちから行動していたように思うが、原作漫画の巻数が増えるにつれて「相手に好かれたい」「嫌われたくない」という気持ちの方がより強くなってきている。つまり、最初の頃はまだ「相手の行動をコントロールして優位に立ちたい」という「使役」の感情が強かったのが、相手への愛を深めるにつれて、相手と一緒にいたい、この掛け替えのない高校生活を2人で楽しみたい、という気持ちがより前面に出てくるようになる。でもそれは、「相手に好かれたい」「告白されたい」という「受身」の願望だから、自らの行動はますます慎重になり、自我は空転し、見る側からしたら最高にお可愛い姿を拝める。

そういう意味で言えば、今回アニメ化されたのは原作の序盤にある「使役」の物語の部分だけだろう。これよりももっとお可愛くて最高に面白いエピソードは、後半の「受身」の物語の中にある。だからこそ、アニメ第2期をできるだけ早く実現してほしいと強く願わずにはいられない。

(下記関連記事は、原作漫画のネタバレを含みますので注意願います。)