新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『それでも歩は寄せてくる』第1巻感想

もう大っっっ好き…。うるしパイセンかわいいよ~、うるしパイセ~ン…。もう何なの?この可愛い生き物。うるしパイセンの「んあっ!?」が出るたびに脳がとろけるわ…。

八乙女うるし先輩の何が可愛いって、部の後輩である田中歩との会話を、「相手を論理的に追い詰めていけば確実に勝てるゲーム」、それこそ将棋のような、二人零和有限確定完全情報ゲームだと思い込んでるところですね。*1

うるし先輩は歩に対して常に最善手を出している、と自分で思い込んでいる。可愛い。どうにかこうにか歩を詰ませるところまでいってドヤ顔になる。超可愛い。でも、その会話のゲームは所詮うるし先輩の頭の中でしか通用しないものなので、最後は歩に棋盤ごとひっくり返されて「んあっ!?」となる。はあ…可愛すぎる…。

世界よ、これが萌えの最前線だ。我々は『それでも歩は寄せてくる』や『からかい上手の高木さん』といった作品に魅了されているというよりも、作者の作り出す「山本崇一朗ワールド」に魅せられているのだ。「山本崇一朗ワールド」とは要するに、セックスとかキスなんかもっての外で手を繋いだことすらない男女の初々しい関係性を描くものである。『高木さん』のスピンオフ作品である『あしたは土曜日』が読売中高生新聞で連載されていたことからも分かる通り、エロなど一切ない子どもが見ても安心の仕様なのである。本来であれば「萌え」とは対極にある、NHKの夕方に放送しててもおかしくないくらいの健全な作品である。それがいまや飛ぶ鳥を落とす勢いで萌えの最前線を突き進んでいる。

是非とも『高木さん』に続いてアニメ化してほしい作品である。

*1:実は、『かぐや様は告らせたい』の2人の主人公も同じような思考の持ち主であって、白銀はそのゲームのことを端的に「四宮の考えを読んで四宮を探せゲーム」と述べています。近年はこういう構造をした物語がトレンドになっているようです。

最近読んだ本まとめ(6)―『オーダーメイド殺人クラブ』『14歳からの哲学入門』『植物たちの戦争』

オーダーメイド殺人クラブ

これは我々一人ひとりの物語でもあり、少年Aの物語でもある。我々は一歩間違えれば少年Aのようになっていたかもしれないという事実を描き、同時に、やはり我々と少年Aとの間には大きな隔たりがある(我々は少年Aになりきれなかった大人である)という事実も描く物語だ。

動物の死骸や少年犯罪などの猟奇的なイメージに憧れるアンと徳川。それは我々自身の姿をした写し鏡のようでもあり、その関係性の萌芽は色々な作品の中にも垣間見える。中二病をこじらせた小鳥遊六花や岡部倫太郎、理不尽なスクールカーストの中で鬱屈した高校生活を送る比企谷八幡雪ノ下雪乃、夜の山で「特別になりたい」と願う麗奈と久美子、のぞみぞ、安達としまむら。彼女達もまた、ほんの少し運命の歯車が狂ってしまっていたら、アンと徳川のようになっていたかもしれないのだ。

ある生物学者はガンのことを「我々自身の歪んだバージョン」(我々が元々持っている遺伝子が何らかの理由で暴走したり働かなくなったりすることでガンが発生する、というガンのメカニズムを表現する言葉)だと述べているが、アンと徳川もまた、我々の心の歪んだバージョンなのである。

一方で、我々の心の中に少年A的なものが内在するという事実は、逆説的に、少年Aのように行くところまで行ってしまう例は極めて少ない、という事実を示唆している。であるならば、我々と少年Aを分けたものは一体何だったのだろう、という問いが生まれてくる。私はそれは「人と人とのつながり」だったのではないかと思っているが、その答えは人の数だけ存在するだろう。

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

これは良い。ニーチェ、カント、キルケゴールウィトゲンシュタイン、そういった哲学者の語った思想体系を、非常に大雑把ではあるものの、極めて簡潔に分かりやすくまとめてある。読みながら「こういう本を待っていた!」と思った。

私は別に哲学を学びたいわけではないし、構造主義とか実存とか言語ゲームといった哲学用語について調べてるわけでもない。ただ純粋に、哲学という分野において、どういう人達が、どういう主張をしてきたのか知りたいだけなのである。例えば「今度お札になる北里柴三郎って何やった人?」「自分と同じ誕生日の有名人って誰がいるんだろう」「今やってるアニメのあのキャラの声優誰だっけ?」みたいな疑問が湧いてきた時、スマホでサッと調べれば簡単に分かるけれども、哲学に関してはそんな風に気軽に調べることがなかなか難しい。

要するに、哲学や哲学史についてのざっくりした流れみたいなものを一応知っておきたい、というただそれだけなのだ。いつ使うかわわからないけど、そりあえずそういう「ざっくりした流れ」を頭の引き出しの中に入れておけば、後で使いたいと思った時にそれを足がかりにして色々深く掘り下げていけるのである。この本は、そういう需要を満たすのにうってつけの本だと思う。だから本書を何らかの哲学についての入門書や教科書のようなものと考えるのは間違いで、「入門書の入門書」だと考えた方が良い。

植物たちの戦争

植物たちの戦争 病原体との5億年サバイバルレース (ブルーバックス)

植物たちの戦争 病原体との5億年サバイバルレース (ブルーバックス)

本書は一言で言えば、植物が持つ免疫系の話である。当然だが、我々動物と同じく植物も微生物やウイルスに感染するが、植物に感染する微生物の多くを占めるのは、カビなどの真菌の仲間であるらしい。元々死んだ植物などに寄生していた菌の中で、生きた植物に寄生できるものが現れ、さらに植物の方も感染を防ぐための様々な防御機構を進化させ、菌の方もそれに対抗して…というようなイタチごっこが何億年も繰り返され、動物の免疫系に勝るとも劣らない複雑な免疫システムが存在する。

免疫と聞けば多くの人が抗体を用いた獲得免疫を想像するし、最近では自然免疫とかガンの免疫療法とかが注目されているが、それらは全て動物の免疫系についてのお話である。植物の免疫というのは、動物の自然免疫に似たような部分(例えば、植物も菌類の鞭毛を認識して感染を防ぐ仕組みを持っている)もあるが、動物の免疫とは大きく様相が異なる。

しかし、そういうニッチな領域の研究が、意外と身近に応用されているというのが面白い。例えば、ゲノム編集で用いるタンパク質として有名なTALENは、元々、植物感染菌が持つTALエフェクターというたんぱく質の研究から生まれたものである。これは、細菌の免疫システムというニッチな研究分野からCRISPR/Cas9という現在最も広く使われているゲノム編集ツールが生まれたこととよく似ている。結局、科学というのは本当に何が起こるか分からない、誰も注目してないようなところから予想外の大発見・大発明が生まれることが有り得る世界なのだ。

『ささやくように恋を唄う』第1巻感想

かげぬい(艦これの陽炎と不知火の百合カップリング)は、この世で最も尊いものの一つである。そんなかげぬいというジャンルにおいて、私の知る限り最も尊い同人誌(例えば、『不知火は甘え方が分からない』)を書かれているのが、竹嶋えくという作家である。その竹嶋えくさんが百合姫で連載中の『ささやくように恋を唄う』単行本第1巻がようやく発売されたので、早速読んでみた。

ささやくように恋を唄う(1) (百合姫コミックス)

ささやくように恋を唄う(1) (百合姫コミックス)

もう………

最っっっ高………

高校3年生の朝凪依はギターが趣味だが、人前で演奏するのが苦手で、恋愛にも全く興味がなかった女の子。そんな彼女のもとに、天真爛漫な1年生・木野ひまりがやってきて、新入生歓迎会で先輩の演奏を聴いて「ひとめぼれ」したと興奮して語り出す。実はひまりの言う「ひとめぼれ」は「先輩のファンになった」という意味だったのだが、依は告白されたと勘違いしてしまう。その勘違いにはすぐに気付くも、依は完全にひまりに「ひとめぼれ」してしまい、そこから2人の激エモ高校生活がスタートする…。

これは上記の同人誌を見た時も思ったが、竹嶋えく作品はとにかく登場人物の表情が素晴らしい。もう全てのページが尊いとしか言いようがない。とにかくもう依とひまりが交流を深める中で見せる一つ一つの表情がもう尊いとしか言いようがないのである。特に、ひまりや他の友人に何か言われて、瞬間湯沸かし器のようにカアァァァァァァ!!!と真っ赤になる依先輩が最高である。

他の百合作品が甘さ控えめで場合によっては苦みすらある大人のスイーツだとしたら、『ささやくように恋を唄う』は口の中に強烈な甘さが広がる“かす巻”である。激甘の餡子を激甘のカステラで包み込み、さらに外側にザラメを振りかけるという、頭おかしいお菓子としか言いようのないものであるが、それはまるで麻薬のように脳に強烈な刺激をもたらすパワーがある。

しかしこれがまだ第1巻であるというのが凄い。百合というジャンルの醍醐味は、登場人物間の関係性を丁寧に丁寧に描いていくところにある。ゆえに、巻数を重ねるにつれて指数関数的にエモさが増していくという性質を持つ。『ささやくように恋を唄う』第2巻が今から待ち遠しい。もしかしたら、令和時代を代表する百合作品となるかもしれない。

『疑似ハーレム』感想

疑似ハーレム (1) (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

疑似ハーレム (1) (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

これは萌える。圧倒的に萌える。

演劇部に所属する七倉凛は、同じ部の先輩で「ハーレムに憧れる」という北浜瑛二のために、いろんな人格を演じ分けて北浜と会話する「疑似ハーレム」状態を作り上げる。現在のところ、小悪魔ちゃん、クールちゃん、ツンデレちゃんなどの人格が確認されており、七倉は状況に応じてそれらを巧みに使い分け、北浜と会話を重ねていく。

七倉が生み出すキャラクターは、好意を寄せる先輩である北浜と上手く会話するために編み出された「仮面」である。その「仮面」によって七倉は北浜との距離を縮めていくことができるが、それは諸刃の剣でもある。時々七倉が北浜に本心を伝えても、それは「仮面」によって発せられた「演技」に過ぎないと誤解されてなかなか本心が伝わらない。この切なさともどかしさを様々なシチュエーションを駆使して描いているのが、本作の醍醐味である。

七倉にとっての仮面、それは自動車のようなものかもしれない。自動車は私達の行動範囲を大きく広げてくれるが、車に乗ったままでは狭い路地や階段や屋内へは入って行けない。仮面は七倉と北浜を接近させる便利な道具だが、まさにその仮面によって二人はある一定の距離を保ち続けそれ以上近づくことは出来なくなる。

近年は、恋人になる前の2人の駆け引きと自我の空転を描く作品が流行りである。代表的なのが『かぐや様は告らせたい』とか『からかい上手の高木さん』であるが、よくよく考えるとそれらの作品も全て「仮面」にまつわる話である事が分かる。高木さんは「西片をからかって遊ぶ意地悪な女子」という仮面を被っているのである。何故そんなことをするのか? そうする事でしか西片と自然に会話できないからである。西片のことが好き過ぎて素の状態では自然に会話できないからこそ、高木さんは仮面を被るという手段に逃げるのだ。

これは恋愛に限らず、様々な人間関係における本質を突いている。仮面は私達を守る武器であると同時に、私達を縛る枷でもある。全ての人がそうした仮面を付けて生活している。

もちろん本作のもう一人の主人公である北浜瑛二も例外ではないだろう。彼もまた、「後輩と疑似ハーレムごっこで遊ぶ先輩」という仮面を付けて演技をしているのではないだろうか。

『継母の連れ子が元カノだった』感想

これは面白い! 最近読んだラノベの中では圧倒的にギャグセンスが高い!

水斗と結女は共に読書が趣味の陰キャだったが、中学時代に図書館で意気投合し付き合うことになる。付き合い始めたばかりの頃は初々しいバカップルのような関係だったが、様々な出来事が重なって恋は完全に冷めてしまい中学卒業前に別れることとなる。そして高校入学直前、水斗の父親が再婚、その再婚相手の連れ子はなんと別れたばかりの結女だった! こうして一つの屋根の下で暮らすことになった2人は、両親に心配をかけないために仲のいい義兄妹を演じながら高校生活を送ることに…。

なんという悲劇だろう。いや、ラノベの設定的に言えば、これ以上の喜劇はない。

各章冒頭、「今となっては若気の至りとしか言いようがないのだが」という決まり文句の後に続くのは、水斗と結女が付き合っていた頃の黒歴史開陳の時間である。高校生となった2人が今考えると恥ずかしくて仕方のない中学時代を振り返るという構図なのだが、これが死ぬほど面白い。例えば、中学時代の体育の授業で、水斗たち男子生徒がサッカーをしているのを、結女たち女子生徒が見ているシーンは、次の通り。

なーにが『せーのっ……がんばってー!』だ。何を頑張らせるんだ、たかが体育で。彼氏でもない男に甲高い声出しやがって洒落臭い。
その中でも最も洒落臭い女が、何を隠そう私であった。
何せこっそり付き合っている彼氏をこっそり応援していたのだから、洒落臭さでは一線を画している。脳内では白いタオルを彼に渡しに行く妄想が留まるところを知らず、汗臭いままの彼に校舎裏で壁ドンされるところまで進行していた。
(中略)
残念ながら――否、幸いなことに、その妄想は実現されることはなかった。
あの男が。私の彼氏が。
……一瞬たりとも、活躍しなかったからである。
試合を終えたあの男の顔には、一滴たりとも汗がなかった――それも当然だ。何せこの男、コートの右端で身動ぎ一つするすることなく、全身から溢れる『近付くなオーラ』のみをもってしてディフェンスと成すという、サッカー界に革新をもたらすプレイを披露していたのだから。
(第1巻、102~103ページ)

もうこのくだりだけで、作者の並々ならぬ才能が見て取れるだろう。それにしても、これは完全に余談になるのだが、先日読んだ辻村深月さんの『オーダーメイド殺人クラブ』でも陰キャ男子のサッカー授業時における悲哀が印象的に描かれていて、やはり日本の中学校でのサッカーの授業というのは、スクールカーストを白日の下に晒す舞台装置としてこの上ないものなのだなぁと思った次第である。

さて、陰キャうしの痛々しくも可愛らしい恋愛描写が終わって舞台は現在に戻り、すっかり高校デビューに成功した結女と、相変わらず陰キャを通す水斗が、延々といがみ合う高校生活が描かれる。しかし、言葉では散々相手を罵り、椅子を蹴り合ったりしてる関係でも、より深い精神的な部分で、2人の間に強い絆が芽生えていく。例えるなら、『響け! ユーフォニアム』における中川夏紀と吉川優子のような、喧嘩ばかりしているけどお互いがお互いのことを深く理解し繋がっている、そんな不思議な関係が描かれていくのだ。

それは、2人が恋人としてよりを戻したとかいうような単純なものではない。むしろ水斗と結女は、兄妹としての新しい関係を築いていこうと試行錯誤を繰り返しているようにも見える。2人をそこまで突き動かすのは、2人の心の中に強く残る後悔の念なのかもしれない。

水斗は幼い頃に母親を亡くし、結女は両親の絆が崩れ離婚するのを見てきた。そして、かけがえのない初恋の思い出が短時間で色褪せていくのを身をもって経験した。そんな彼らだからこそ、強固で一生変わらないとすら思える関係性が、実は非常に脆くて儚く、ちょっとしたきっかけて形を変えてしまうものであるという現実を痛いほどよく理解しているのだろう。だからこそ水斗と結女は、せっかく芽生えた新しい関係性を壊してしまわないように、今度こそ後悔しないように、相手に対して誠実であろうとし続けるのだろう。

そのような相手への誠実さを突き詰めた先に、第2巻クライマックスのあの選択があるのだと思う。正直、水斗と東頭いさなは十中八九、恋人になると思っていた。それが水斗にとってもベストな選択だという確信があった。それでも水斗はそうしなかった。輝かしい未来がすぐ届くところにありながら、水斗はそれに手を伸ばそうとはしなかった。恋人でも何でもない結女という少女のそばにいたいという、合理性の欠片もない意志、であると同時に心の奥底にある否定しがたい本心に従って、水斗は東頭いさなの告白を受け入れないという選択をしたのである。

登場人物がただ杓子定規に合理的な選択をするだけでは、そこに心揺さぶられるものは無い。登場人物がその選択をすることが間違いなく正しいとすら思えるような、強烈な合理性と読者の納得感がある中で、あえてその逆の選択を取るからこそ、そこに読者の魂を揺さぶるものが宿るのだ。福部里志が摩耶花のチョコレートをちゃんと受け取るという選択、ナツキ・スバルエミリアを救う事を諦めてレムと一緒に逃げるという選択、櫛枝実乃梨が高須竜児の告白を受け入れて2人が恋人になるという選択、そういった選択の先に読者は輝かしい未来を垣間見た。それでも、そこであえて違う選択をしたからこそ、その物語は唯一無二のものとなり、読者の心に深く刻み込まれるのである。

しかし、こういう選択にまつわる物語を作り上げるのは並大抵のことではない。それは、何巻にもわたって物語を積み重ねてきた上でようやく生きてくる手法だろう。その「極致」に、2巻の時点で既に到達しているということが如何に凄いことか。いずれ発売される第3巻も間違いなく素晴らしいものになっているだろう。