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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

誰かの犠牲の上に成り立つ平和とは―『イリヤの空、UFOの夏』が描く「日本人の罪深さ」

ライトノベル

セカイ系の代名詞とも言われているライトノベルイリヤの空、UFOの夏』を読み終わった後に、我々が感じるモヤモヤとした思い、やるせなさは一体何に起因するのだろう。もしこの作品が、ただ主人公とヒロインの堅い愛を描いただけの作品だとしたら、こんな感情が湧いてくるはずはない。実はこの作品は、誰かの犠牲の上に生きる日本人を痛烈に批判した作品なのではないか。

今日、日本は世界でも有数の平和な国となった。しかし、その平和は先人達が多大な犠牲を払って獲得したもの、あるいは平和でない地域からのありとあらゆる搾取によって成り立つものではないか。イリヤは平和のために犠牲になった人の象徴として描かれ、榎本や椎名といった軍人はその犠牲を強制した人の象徴として描かれている。では、主人公・浅羽直之とは何なのか。それは、我々日本人の象徴である。浅羽は、人類のためにイリヤが犠牲になるのは間違っていると主張し、イリヤに愛の告白をする。しかしイリヤは、「世界のため」ではなく「浅羽のために」自分が犠牲になると宣言してしまう。つまり浅羽は、気付かぬうちにイリヤを犠牲にする枠組みに入りこんでいたのだ。我々日本人も浅羽と同様に、誰かの犠牲によって日本の平和を維持するという枠組みに囚われてしまっている。

ただ、こんな反論もあり得る。イリヤは最後には自分で望んで犠牲を受け入れたではないか。浅羽を愛し、浅羽のために死んでいったイリヤ。本人がそれで満足したのならそれで良いではないか。この考え方は一見正しいように見える。しかし、例えばこう考えてみるのはどうだろう。今日の日本の豊かな生活は途上国からの搾取によって成り立っている。先進国は途上国の資源や労働力を使うことでここまで成長してきた。では、途上国の人々の中に「先進国のために我々が犠牲になることは本望である」と考える人が出てきて、実際に犠牲になって死んで行ったとしたらどうか。我々はそのとき、「本人が望んでいたのだから、これは良かったことなのだ」と言えるのだろうか。確かに犠牲になった本人は、それを望んでいたのだろう。しかし、だからと言って我々が許されるという事はない。我々が感じるべきなのは、「これで良かった」と納得する事ではなく、犠牲の上に生きているという「罪の意識」なのではないか。

浅羽はイリヤという少女を通じて、誰かの犠牲の上に平和が成り立っているという歪んだ世界の構図を理解した。そして、自分が知らず知らずのうちにその構図の加担者になっているということも同時に理解した。ひるがえって現実の日本人はというと、おそらく大部分が罪の意識を持っていない。「平和」というものが当たり前のものであると誤解し、その背後にある「犠牲」に目を向けていない。確かに平和には犠牲が付き物である。「犠牲」を無くし、皆が平和を享受できることはおそらく出来ない。ならせめて、平和に生きる者は、犠牲になった者に対して「罪の意識」を持つべきではなかろうか。しかし、日本人はその犠牲にすら気付かないし、仮に気付いたとしても、当事者意識がまるでない。だからこそ、日本人は罪深いのである。ゆえに『イリヤの空、UFOの夏』は、現代日本社会を痛烈に批判した作品なのだ。