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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

「固有名詞」を徹底的に排除する特殊な構造―私が考える『けいおん!』最大の特徴とは

アニメ けいおん

今日は、私が日ごろ『けいおん!』について思っている事をまとめて見ようと思います。結論から言えば私は、この作品の最大の特徴は徹底的に「固有名詞的なもの」を排除しているところにあると思っています。ここで言う「固有名詞的なもの」とは、「軽音部のキャラクター達が持つ個性」という意味ではありません。むしろ、唯をはじめとするキャラクター達には、あり過ぎるくらいの「個性」がある。でも、アニメキャラクターの「個性」というものは物凄く一般的なものでしかない。これを「萌え属性」なんて言葉で片付ける気はありませんが、とにかく「個性」というものは万人に共通する(少なくとも現代日本の女子高生に共通の)行動パターンの組み合わせに他ならない。私が言いたい「固有名詞的なもの」とは、「彼女達は何処に住んでいるのか」「普段どういう音楽を聞いているのか」「個別具体的な社会的話題・ニュースについてどういう考えを持っているのか」といった、一人ひとりの「特殊性」を際立たせるような要素の事なのです。

例えば、けいおん!には「地名」というものがほとんど出てきません。せいぜい、修学旅行で言った京都の観光地と桜高くらいです(桜高ですら架空の学校名にすぎない)。作中の風景などは京都をモデルにしているのですが、作中で唯達が生活している街の名称が出てくることは一切ありません。合宿に行く場所も、単なる「海」「夏フェス会場」でしかない。極め付けなのが、第2期8話で進路について話し合っている場面。「○○大学を目指している」とは言わずに、「国立を目指してみようと思う」「この前話した女子大を受験する」と言っている。この作品はファンタジーやSFの世界の話ではなく、現代日本の女子高が舞台の話であるわけですから、何かしらの地名が出てきても何ら不自然じゃないし、地域特有の方言・風習・気候・その他の特徴があってもおかしくない。でも、ここまで徹底して「地名」もっと言えば「地域性」というものが排除されているわけです。

さらに目を引くのが、「家族」とか「家庭」というものが排除されていること。もちろん、唯の妹や律の弟は出てくるわけですが、「両親」というものが全くと言っていいほど出てこない。これはもう我々視聴者の方が「不自然さ」を感じるほどに徹底しています(原作コミックの方では、唯の両親が登場したと聞きますが、今後アニメの方で両親がストーリーに関わる事は、絶対ないと言って良いでしょう)。これはもちろん、キャラクター達の「バックボーン」というものが具体的には全く分からない、ということを意味します。また、必然的に「普段両親とはどう接しているのか」といった点も不明なままとなります。要するに、「軽音部や友達といる時のキャラクター」は描かれていても、(妹・弟などを除く)「家族といる時のキャラクター」は全く描かれません。

製作者が現代の高校生をリアルに描こうと意図していたのなら、むしろ固有名詞的なものを前面に出した方が有利です。現に、同じ京都アニメーション制作の『らき☆すた』では、地名も家族も出てきます。しかし、けいおん!が「リアルさ」を捨ててまで、固有名詞の排除にこだわった理由とは何か。それは、唯をはじめとする作中のキャラクターが「アイドル(偶像)的存在」だからに他ならない。彼女たちは、ある固有の空間にいる一高校生ではなく、地域性・特殊性を超越した一般的な空間におけるアイドルなわけです。けいおん!のキャラクター達は、アイドル的存在として、視聴者の想像力の中に留まる必要があった。この時、住んでいる地域とか進学先といった「地域性」を示すものが出てきてしまったら、我々の想像力は急速に縮小してしまう。家族が登場しなかったのも同じ理由でしょう。家族との会話や関係性を描写すると、その直接的描写以外にもあらゆる情報を我々視聴者に与えてしまう。だからこそ、各キャラクターの家などを描写するのがギリギリのラインで、それ以上家庭的なものに踏み込む事が出来なかった。まとめれば、我々視聴者が「行間を読む」ことによって、キャラクターのアイドル性が揺らいでしまうことを防ぐために、行間を読む材料となる「固有名詞的なもの」を徹底的に排除したのだ、ということが言えるのだ思います。こういう手法が良いのか悪いのか、という点については私は特に言及しません。しかし、けいおん!という作品を見るにあたって、以上のような事を押えておくことは悪くない思います。