新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

アニメ・ライトノベル・マンガを考察する、とはどういうことか―『けいおん!』『WORKING!!』から考える

はじめに

今回の記事では『けいおん!』と『WORKING!!』という2つの作品について述べるが、あくまでも例としてこの2作品に焦点を絞るだけであって、実際にはあらゆる作品に当てはまることについて考察をしたいと思う。私がこのようにしてブログで意見を述べているのは、他のブロガーの方々の素晴らしい記事に影響を受け、自分もアニメ等について自分なりの考察を行ってみたい、と考えたからに他ならない。では、ある作品を「考察する」ないし「批評する」とは、どういう行為なのだろう。そのことについて、『けいおん!』と『WORKING!!』を例に考えてみたい。*1

作者による「枠組み」の設定

私たちが『けいおん!』という作品を考察する際、そのアプローチの方法は多種多様である。この時のキャラクターの心情はどうだったとか、あの時のキャラクターの行動の意味は、といった観点から考察する事も出来るし、作品全体におけるあるキャラクターの性格や心の変化について考察する事も出来ます。その他、演出や音楽など、あらゆる角度から考察を行う事が可能です。しかし、一見自由に見える考察行為も、ある一つの絶対的なルールに束縛されているのではないか、と私は考えました。すなわち、作者であるかきふらい(敬称略)が設定した物語の「範囲」を勝手に拡大することも、縮小することも出来ない、という大事な原理です。

例えば、これは極端な例だが、唯達が所属する軽音楽部に自分で創作したオリジナルキャラクターがいることにして、勝手に考察を進めたとする。これは二次創作の領域にまで足を踏み入れてしまう行為であり、考察ではない。同様に、この作品を唯達が所属する3年2組というクラス全体を舞台とした話だと見なして考察したり、他メンバーのことを念頭に置かずに唯と梓との関係性だけを取り出して考察することは出来ない。私達が考察できるのは、かきふらいが設定した物語の範囲、すなわち軽音楽部ないし放課後ティータイムに属する5人を中心とする枠組みだけなのである。

もし、かきふらいが3年2組というクラス全体を舞台とした物語を作っていたとすれば、軽音部という存在は、「キャラクターの一部が共通の部活に所属してますよ」程度の意味しか持たなかったであろう。逆に、軽音部の中でもとりわけ律と澪の関係性のみをピックアップした物語を作ったとしたら? いずれにしても、それは私達が知ってる『けいおん!』とは異なる作品になっていただろう。キャラクター達は軽音部という集団だけに所属しているのではなく、家族やクラスなど、それぞれ異なる集団に同時に所属しており、その各々に別の物語が生まれるはずである。しかし、かきふらいは軽音部という一つの集団に物語の範囲を限定し、その中で『けいおん!』という作品を作り上げた。その理由は簡単で、例えば私達は多かれ少なかれ世界とつながってるわけだが、世界全体を考慮に入れずに私の周りの家族や学校について考慮するだけでも、私という物語を記述することは可能だ。同様に、かきふらいがキャラクター達の物語を記述する上で「必要ない」と考えた部分については、作品中から排除することができるわけだ。

けいおん!』の場合は、部活という社会的に認知された区分と、物語の範囲とが一致しているからまだ良い。しかし、『WORKING!!』の場合はどうか。主人公の小鳥遊宗太が所属するファミレス・ワグナリアには、作中に出てくるキャラクター以外にも多くの人が働いているはずであり、実際にそれを示唆するセリフもある。ワグナリアで働いているのに作品に登場して来ない人達と、実際に出てくるキャラクターとの間に、何らかの制度上の区分は存在しない。あくまでも作者である高津カリノ(敬称略)によって、両者が区別されているだけなのだ。つまり、本当はもっと大きな集団であったはずのワグナリアは、高津カリノによって2つに分けられ、一方は小鳥遊宗太を含む作中の登場人物に、もう一方はワグナリアにいるんだけれども全く登場しない人達となったのである。この分割行為は恣意的と言ったらおかしいかもしれないが、高津カリノにしか出来ない行為であり、私達はこのようにして分割されたワグナリアしか見ることは出来ないのだ。

「人間」と「キャラクター」の違い

これが実際の出来事だったなら話は違う。歴史上の出来事は、複数の人によって記録され、当然、各々が異なる解釈を持っている。それらを調べることで、ある程度客観的にその出来事を考察することが可能になる。もちろん完全に客観的な解釈など存在しないが、そこに近づく努力をすることは出来る。それも全て、ある出来事について複数の視点からの記録が残っているおかげである。しかし、今私が考察対象としている漫画やアニメやライトノベルはどうだろう。作中の出来事は唯一作者によってのみ記述される。『けいおん!』はかきふらいによってのみ、『WORKING!!』は高津カリノによってのみ、記述されたものである。そこには、一作品につき唯一つの視点しか存在しない。

そもそも、作中で扱われている出来事というものは、実際に起こった出来事ではなく、作者の頭の中で考え出されたものである。だから、客観性なんか気にしなくて良いのだ。平沢唯は軽音部にだけ所属しているのではなく、クラスメイトや家族と共有した出来事というものもあったはずである。また、ワグナリアの小鳥遊宗太は、彼のごく一面だけであり、学校や家族との関係性の中では別の一面が見られるはずである。しかし、作中に出てこない彼らを見ることは絶対に出来ない。軽音部およびその周辺という枠組みの中にいる平沢唯だけが、平沢唯の全てであり、ワグナリアおよびその周辺という枠組みの中にいる小鳥遊宗太だけが、小鳥遊宗太の全てなのである。

これこそが、人間とキャラクターとを分けるポイントなのかもしれない。日本人としての私、大学の中の私、家族の中の私、ブロガーとしての私、それらが全て合わさって人間としての私が出来上がっている。それに対して、小鳥遊宗太というキャラクターは、ワグナリアおよびその周辺という枠組みの中にしか存在し得ない。人間としての小鳥遊宗太について推測しようとしても、その推測の材料となるのはキャラクターとしての小鳥遊宗太だけなのである。

まとめ

私達がある作品を考察する時、作者の決めた「枠組み」を念頭に置いておく、ということが重要になる。そうでない考察は、考察の枠を超え、二次創作の領域になってしまう。しかし、私達が何らかの作品の考察をするにあたって、このような枠組みの確認を意図的に行っているか、と言われれば、決してそんなことはない。当たり前だが、作品中にある要素を基にして何か新しい事実を発見し発表しても、それは二次創作ではなく考察の範囲に収まる。「考察は作者が設定した枠組みの範囲内で、与えられた情報だけを基にしなければならない」という限定条件が付いていたとしても、私達が出来ることは無数にある。

まとめると、ある作品にはその作者が決定した「枠組み」というものが存在し、私達はその枠組みを拡大・縮小・破壊することはできない。しかし、変に考察する者が委縮する必要はなく、その枠組みの範囲内という条件付きでも十分に自由な考察が可能である。――という、面白くも何ともない結論が導き出されたわけだ。

*1:私が例としてこの2作品を持ちだした理由は、ともに昨年を代表するアニメであり、作品に明確な「敵」が登場しない比較的単純な作品構造となっているからである。