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「佐天さん問題」を考える(1)―マクロな視点から『とある科学の超電磁砲』を見てみよう

はじめに

今回と次回の記事では、これまでとは趣を変えて、私の思いのたけを声を大にして叫びたいと思います。まず結論から言わせてもらえば、「佐天さんがあまりにも可哀想だから何とかしろ!」という話です。学園都市でレベル0というレッテルを貼られ、どんなに頑張ってもレベルアップの兆しすら見えず、結局自己嫌悪に陥ってレベルアッパーにまで手を出してしまった佐天さん。佐天さんをここまで苦しめたのは、周囲の無理解であり、学園都市という弱者切り捨てのシステムです。

学園都市は様々な問題点を抱えていて、そのために佐天さんのような無能力者(そもそも、この言葉自体が差別的です)が犠牲になっています。しかも、佐天さんはその苦しみを誰にも理解してもらえなかった。この問題を私は「佐天さん問題」と命名し、具体的に何が問題なのかを、以下でじっくり論じていこうと思います。実は、この「佐天さん問題」はすでにあらゆる所で取り上げられているので、今日は私と同じような問題意識を持っている方々の意見をまとめ、それと合わせて自分の考えも述べていきたいと思います。

一応初めに言っておきますが、私は別に『とある科学の超電磁砲』という作品自体が嫌いなわけではなく、むしろ好きな部類に入ります。しかし、感情的になってしまって、本作のファンから見れば「こいつは何を言ってるんだ」と思われるような発言をするかもしれませんので、あらかじめ断わっておきます。

今回の記事では、佐天さんのような無能力者がレベルアッパーに手を出してしまった社会的背景、すなわち、学園都市というシステムが抱える問題点について考えてみたいと思います。そして、次回の記事では、実際に佐天さんがレベルアッパーを使用するまで追い込まれてゆく心理を解説し、何が佐天さんを苦しめていたのかを明らかにしたいと思います。

佐天さんが無能力者だなんて大嘘!

まず、学園都市の中で気になるのは、能力開発カリキュラムによって能力を獲得することが、唯一の評価方法になっていることです。下で紹介するブログでは、それを「持てる者と持たざる者とのバランスが悪い」と表現しています。

なんで「バランスが悪いなぁ〜」って感じてるのかっていうと,たぶん,感情移入できるぐらい魅力的な持たざる者(佐天)が登場しているのに,「絶対にこの世界の持たざる者にはなりたくないなぁ〜」って思うのと,「この世界の持たざる者はどうすれば救われるんだろうか?」って考えてしまうところなんだろうと思う.
普通,この手の作品で持たざる者が出てきても,「持たざる者は持たざる者で幸せを見つければいいんだよ」といった高度経済成長以降の「豊かさは良いことではない.もっと生きがいを」的な考え方で救えてしまったりするんだけど,それができない.
何故できないのか?というと,とある科学の超電磁砲の世界では,圧倒的に「持てる者」が「持たざる者」より地位が高いからってのが「まず」ある.
とある科学の超電磁砲の持てる者と持たざる者とバランスについてより引用)

やはり、学園都市にはびこる「レベルアップ至上主義」というものが、非常に問題のあるシステムであると言えそうです。

ここで、はっきりと言っておかなければならない事がもう一つあります。それは、佐天さんに能力がないのではなくて、佐天さんの能力を引き出せない学園都市が間違ってるだけだ、という揺るぎない事実です。ブログ『EPISODE ZERO』では、前々からその問題が提起されていました。このブログはもう閉鎖されてしまったのですが、そこで述べられていたのは次のような事です。

EPISODE ZEROさん曰く、人間の能力を科学的に正しく測定できるかという問題は、現実世界でも古くから言われ続けていることで、同じ問題を学園都市も抱えています。佐天さんは料理も出来るし、風邪を引いた初春の看病だって出来るのに、学園都市のシステムではそれが評価されることは決してないのです。

初春のために料理を作ったり、初春の身体を拭いたりと、佐天さんの能力は「福祉系」とでも言うべきである。これらは明らかに美琴や黒子ではなく佐天さんにしかできないことであり、彼女はこの分野で必要とされるべき人材のはず。しかし、8話で強調された一連の彼女の長所は学園都市のレベル云々と直接結びつくことはない。
そもそも学園都市は最初から老人や障害者を排除した非福祉国家型の社会構造になっているので、彼女の長所が「能力」として評価されることはない。ここでは、いくら人助けや介護ができても学園都市が定めた基準を満たさない人間は全てレベルゼロの「落第者」として扱われる。上条さん然り、佐天さん然り。つまり、本来は社会に貢献できる能力を有しながらも、それがレベルとして数値化/定量化されて評価の対象にならないという制度的欠陥がある。
能力の測りまちがい―『とある科学の超電磁砲』第8話が面白いより引用)*1

電磁気を使った戦闘能力やテレポートは、もちろん立派な能力です。でも、佐天さんの持つ「思いやり」や「明るい性格」だって、掛け替えのない「能力」じゃないですか。もちろんそれは、能力開発のカリキュラムによって生じた能力ではないです。でも、佐天さんが生まれつき持っているこの「能力」(「個性」と言い換えても良い)だって、正当に評価されるべきじゃないですか? あれだけ科学技術が進んでいるにも関わらず、佐天さんの能力を評価できない学園都市は、やっぱり間違っています。

努力が反映されないシステム

さて、ここから私自身の論になります。私は、上記のような問題点に加えて、個人の努力がきちんと反映されないシステムというのが非常に問題だと思っています。美琴は努力すればレベルアップできるかのような発言をしていましたが、どうやら努力だけではどうにもならない点があるようです。

例えば、能力開発のカリキュラムについて。シュレーディンガーの猫とか、ハイゼンベルク不確定性原理と言った単語が出てきますが、具体的なカリキュラムの内容はよく分かりません。一応、「パーソナルリアリティ」なるものを獲得することが重要らしい、ということは作中で述べられています。しかし、シュレーディンガーの猫とか不確定性原理といった概念を頭に叩き込んだところで能力が発現するとも思えないし、パーソナルリアリティなんて抽象的なことを言われても、どう努力すれば良いのかが分かりません。

努力が反映される社会とそうでない社会とでは、雲泥の差があります。努力が報われると分かっているのなら、無能力者に「もっと努力しろ」と言うことだって出来るし、能力が発現しないのは努力を怠ったから(つまり自己責任)だと割り切ることができる。でも、努力だけではどうしようも出来ない社会だったら? 「私には才能が無いから」と諦めることができればそれでも良い。でも、佐天さんのように周りにすごい能力者がいて、自分もああいう風になってみたいなと憧れて、それでも本人ではどうしようも出来ない壁が立ちはだかるのだとしたら? どんな手段を使ってでも上に行きたいと願ってしまうかもしれない。たとえそれが、レベルアッパーのような危険な手段だとしても。

その先に待っているのは最悪の格差社会

やっぱり、美琴たちの能力は本人の努力で獲得したものではなく、生まれつき持っていた「才能」だと考えてしまいたくなります。人種・性別・出自といった、本人の努力ではどうしようもならない要素で人の価値を判断する社会に違和感を覚えるのと同じように、この学園都市のシステムもやはり大いに問題があると言わざるを得ません。しかも上で述べたように、学園都市における「才能」の測り方も極めて恣意的です。美琴に出来なくて佐天さんに出来ることなんて数えきれないくらいあるはずなのに、能力開発のカリキュラムにそぐわないから、もしくは学園都市が必要としていないから、という理由で佐天さんを無能力者だと見なすこのシステムは、非常に不健全だと言わざるを得ません。

学園都市の問題点をまとめると、次のようになるでしょうか。すなわち、

  1. 本人の努力ではどうしようもならない要素によって人の価値が決められてしまう。
  2. そもそも能力判断の基準がおかしく、本来評価されるべき能力が評価されていない。

このような不健全なシステムは、現実世界でも十分に起こり得る問題で、例えば遺伝子工学の発達に伴って、遺伝子によって人の価値を判断するような事態が、もう始まりつつあるわけです。例えば『ガタカ』というSF映画がありますが、以下でストーリーの概要を見てみましょう。

出生前の遺伝子操作により、生まれながらに優れた知能と体力と外見を持った「適正者」と、「欠陥」のある遺伝子を持ちうる自然出産により産まれた「不適正者」との間で厳格な社会的差別がある近未来。「不適正者」として産まれた主人公ヴィンセントは、子供の頃から「適正者」のみに資格が与えられている宇宙飛行士になる事を夢見ていた。(以下略)
wikipedia:ガタカより引用)

上に挙げたような学園都市の問題点を内包したまま突き進んで行けば、いずれ『ガタカ』に描かれたような最悪の格差社会に行き着きます。能力開発のカリキュラムによって能力を発現できるかどうかによって、人の価値が決められてしまう社会。それに適合できなかったら、「あなたは無能力者です。はい、さようなら」と切り捨てられてしまう社会。もし自分がこんな社会の中で生きることを余儀なくされたら、と思うと実に恐ろしいと思います。

では、学園都市のシステムをどうすれば良いのでしょうか。もう無能力者が革命を起こすしかないんじゃないか?――これはまあ冗談ですが、でもやはり、この不健全なシステムを変えてゆくために誰かが声を上げなければならない。能力者達の才能や努力を認めつつも、同時に無能力者達の個性も認めてゆくような制度にしなければいけない。

まとめ

今日は、佐天さんがレベルアッパーに手を出してしまうに至った社会的背景について見てきました。具体的には、学園都市のシステムでは努力が報われないことや、能力の測り間違いがあるといった指摘をし、その中に現実世界とも関連する恐ろしい格差社会の萌芽を見出したつもりです。いわば、考察の視点を大きくして、マクロな観点から問題点を整理したわけです。

しかし、これだけでは考察は不十分です。このような社会問題の結果として、佐天さんが自分を追い詰めてしまい、レベルアッパーに手を出してしまったわけですが、この時の佐天さんの詳しい心理状態については、まだ何も考察していません。佐天さんの心理状態を詳しく分析する作業、すなわち、ミクロな視点から「佐天さん問題」を考える必要があります。それについては、また近いうちに記事を書くことになるでしょう。

*1:大変恐縮ですが、私のブログで以前引用していた文を、そのまま再び引用しました。