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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ねこのひたいであそぶ』を逆説的に考える―日常系4コマ漫画の再考に向けて

『ねこのひたいであそぶ』の不思議な世界

ねこのひたいであそぶ (1) (まんがタイムKRコミックス)

ねこのひたいであそぶ (1) (まんがタイムKRコミックス)

『ねこのひたいであそぶ』はマジですごい。日常系4コマ漫画の中でも圧倒的に今語られるべき作品だと思った。とりあえず、単行本の帯に載ってる説明文を見て、作品の中身を想像してほしい。

曲がったことのないあの角を、曲がろう。
科学だいすき、ちょっと理系な中学生・苗。スポーツの成績(とノリ)だけはイイ実紀。いつだって本の世界にどっぷりな綾音。カメラのファインダーごしに世界を見つめる羊子。生まれ育ったこのちいさな街だって、まだまだ成長途中の彼女たちの目には、どんな世界よりも広いはず。今日も見知らぬ路地を求めて、ねこのひたいのように狭いこの街を、彼女たちは夢中で駆けまわるのです。
おんなの子が少女になる、ちょっと前のおはなし。

説明文からも分かるように、この作品の主人公は女子中学生4人組で、彼女たちが暮らしてるのは結構な田舎ということになってる。で、単行本は全編を通して、彼女たちが自然の中で遊んでる様子を描いてる。なんだけど、それがかなり突っ込みどころ満載な感じで、これは逆に凄いんじゃないかと思った。掲載されてる13話のサブタイトルを載せておく(左の数字は話数、括弧内は筆者の注釈)。

  1. 町中のかくれんぼであそぶ(神社の境内や図書館など、街全体を使ってかくれんぼをする話)
  2. ザリガニ川の釣りであそぶ(「ザリガニ川」は作中に出てくる小川の名前。そこで釣りをして遊ぶ話)
  3. 裏山の秘密基地であそぶ(学校の裏山に穴を掘って秘密基地を作る話)
  4. 放課後のボール蹴りであそぶ(校庭でサッカーをする話)
  5. 行方不明の森であそぶ(「行方不明の森」は作中に出てくる森の名前。そこで探検をする話)
  6. 夜空の流星群観察であそぶ(苗の家で天体観測をする話)
  7. 謎の宝地図であそぶ(古い写真を手がかりにして宝探しをする話)
  8. 雨の日の校舎であそぶ
  9. 朝の昆虫採集であそぶ
  10. 先生の昼食とヤマメ川であそぶ(「ヤマメ川」は作中に出てくる川の名前)
  11. 迫力の土手滑りであそぶ(ダンボールでそりを作って遊ぶ話)
  12. 飼い猫の鬼ごっこであそぶ(行方不明になった飼い猫を探して洞窟などに入る話)
  13. はらぺこのドングリ拾いであそぶ(食べられる種類のドングリを探す話)

もうこの地点で突っ込みどころ多過ぎってことが分かるよね。まず第一に、今時の中学生はこんなに自然の中で遊んだりしない。男子とか小学生ならともかく、普通、女子中学生が裸足になって川で遊んだり、網を持って昆虫採集に行ったりしない。舞台が田舎ということを差し引いてもこれは不自然な描写だ。例えば最近話題の『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』では、超平和バスターズのメンバーが山の中に秘密基地を作ってたけど、彼らがそこで何をやってたかと言えば、要するにポケモンのゲームやってたわけでしょ。で、そういう描写が平成世代の子供の実像をよく表してる、ってことで結構うけてるわけだ。*1 でも『ねこのひたいであそぶ』には、ゲームも携帯電話もパソコンも出てこない。だから時代設定が古いのかなとも思えるんだけど、そうだと断定できる描写は作中には無い。

しかもさらに気になるのは、登場人物の精神年齢が低すぎないか、ということ。要するに、中学生にもなって、かくれんぼをして遊んだり、そりを自作して滑ったりするだろうか、って話だよね。作中で彼女たちがやってることは、『となりのトトロ』とか『マイマイ新子と千年の魔法』の主人公たちがやっていた遊びに似てるけど、中学生は普通そういう遊びはもうやらない。彼女たちの性格を形容する場合、活発すぎる、純真無垢すぎるといった言葉が当てはまると思う。実に女子中学生らしくない。その一方で作中では、天体観測、カメラ、読書といった知的な活動も見受けられるから、完全に精神が小学生というわけではなさそうだ。

では、なんでこういう不自然な女子中学生が描かれてるのか、という疑問が沸く。この作品は『けいおん!』とか『Aチャンネル』と同じ「まんがタイムきらら」系の雑誌に連載されている作品であって、本来そういう雑誌に載ってる作品は、今風の女の子の日常を描写する傾向が強い。そういった意味で、『ねこのひたいであそぶ』という作品は、最近の日常系4コマの中では異端的だ。なぜこのようなリアリティのないキャラクター設定になっているのだろうか。これには絶対に理由があるはずだ。その理由を探るために、まずは冒頭の説明文に戻ることにしよう。

『ねこのひたいであそぶ』は、逆説的に少女達の成長を描いた作品か?

本作の「不自然さ」は、一体何をもたらすのだろうか。それは登場人物の「幼さ」を強調する作用を持つ。単行本の帯の説明文には「生まれ育ったこのちいさな街だって、まだまだ成長途中の彼女たちの目には、どんな世界よりも広いはず」という注目すべき一文がある。彼女たちの行動範囲は「生まれ育ったこのちいさな街」の中に限られていて、まさに「ねこのひたい」のように狭い。しかし、そんな小さな範囲でも、彼女たちは「まだまだ成長途中」だから「どんな世界よりも広い」と感じられる。こういった「幼さ」が、前述したような「不自然さ」によって強調されることで、以下のような効果が現れてくる。すなわち、こういった不自然な描写を通すことで、彼女らが持つ「幼さ」は、逆説的に「成長によって消えてしまうもの」として読者に認識される。

女子中学生が自然の中でかくれんぼや昆虫採集をするという、あまりに不自然な日常描写を見ることによって、我々は「そのような日常が長く続くはずがない」という事実を意識せざるを得なくなる。女子中学生の楽しげ(だけど不自然)な日常を延々と描くことによって、逆説的にその日常がいずれ終わりを向かえるだろう、ということが示唆されている。「おんなの子が少女になる、ちょっと前のおはなし」と書かれてる事からも分かるように、その日常はあとちょっとで終わってしまう。だからこそ本作は、何となくではあるが読者に「切なさ」「もの悲しさ」をもたらす。

こういう作品の見方は、すでに他の作品の考察でも述べられている。例えばブログ「アニオタ保守本流」では、惜別を通した登場人物たちの成長が描かれてない、ということで『けいおん!』が批判されてたけど、その同じブログで、『となりのトトロ』は反戦映画だ、という主張がなされている。どういう事かと言うと、平和の象徴であるトトロと、サツキとメイの平和な日常を描写することで、逆説的に平和の尊さが描かれている、ということだったわけだ。*2 『ねこのひたいであそぶ』は、さすがに反戦漫画ではないけど、表面上の描写によって、逆説的に新たな見方が生まれている、という点は共通している。表面上は実にシンプルなんだけど実は逆説的な見方が出来る、という意味において、本作の構造は非常に興味深い。

そういった意味において『ねこのひたいであそぶ』は、紙面に直接描かれていないことを読み取らなければならない作品だと思う。ただ、描かれてることをありのままに受け止められてしまう危険性はあるだろう。もしかしたら、これは日常系4コマ漫画全般にも多かれ少なかれ言えることなのではないだろうか。私が今までに読んだ日常系4コマを読み直して、もう一度じっくりと考えてみる必要があるかもしれない。この作品を読んでそんなことを考えさせられた。