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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』―「想いの伝わらなさ」を克服した物語

『俺妹』におけるテーマの転換

私は以前書いた記事の中で、『俺妹』は「普通と異常の境界」で起こる化学反応を描いた作品だと述べた。すなわち、「オタク文化」についてほとんど何も知らない「普通」の高校生である京介の視点を通じて、妹・桐乃の趣味であるエロゲーや萌えアニメを描写し、「普通」と「異常」を対比・交流させることで本作のストーリーは進んでいった。ここに出てくる「一般人から見たオタク像」というモチーフは、過去の作品ではあまり見られなかったものであり、『俺妹』という作品がこれほどまでの人気を得た理由もここにある(と、私は解釈している)。

しかし、本作について上記のような解釈が単純に成り立つのは、第4巻、長くとも第5巻までであろう。桐乃のスポーツ留学という出来事の前後で、物語の様相は大きく転換したのだ。その理由を端的に言えば、一般人であった京介が、桐乃やその仲間たちとの交流を通じて、自らもオタクの一員になっていったからに他ならない。以前はエロゲプレイヤーとしての桐乃、コスプレ少女としての黒猫、オタクコミュニティ管理人としての沙織といった具合に、オタク文化というものを介して京介と彼女らが交流していたのに対して、4〜5巻以降では、そういったものを介さない「人間としての彼女ら」との交流に主眼が置かれるようになった。*1 

「オタクとしての桐乃」から「妹としての桐乃」へ、「オタクとしての黒猫」から「後輩としての黒猫」への変遷によって、「普通と異常の接触」「一般人から見たオタク像」という物語の核となるテーマは薄らいでいった。代わりに大きくクローズアップされたのは、実は第1巻からすでに本作の隠れたテーマでもあった、「想いの伝わらなさ」ではないだろうか。それについて詳しく述べる前に、とある『魔法少女まどか☆マギカ』評について少し言及しなければならない。

『俺妹』と『まどマギ』

さて、京都大学新聞の『魔法少女まどか☆マギカ』に関する記事が広く注目されたことは記憶に新しいが、その記事の中では、「想いの伝わらなさ」という観点から『まどマギ』を考察している。この作品には「伝わらない」という苦しみがあふれている。例えばほむらは、まどかを救うためにタイムリープを繰り返して戦いを続けていたが、その想いはまどかに伝わることはない。しかし、物語の最後で、まどかは「伝わらなさ」を解消するための重大な決断を下し、ほむらの想いはようやくまどかに届く。

「概念」となったまどかの、誰からも認識されず、また誰にも干渉できないという状況は、つまるところ完全なる「伝わらなさ」を意味する。そう、まどかは、人を助けたいと願う魔法少女らにとってもっとも絶望的な「想いの敗北」である彼女たちの魔女化を食い止める代わりに、存在を認識されずまた干渉できないという究極の「伝わらなさ」(=ディスコミュニケーションの苦悩)をたった一人で引き受けたのである。
(『〈企画〉アニメ評 魔法少女まどか☆マギカ』より引用)

詳細については当該記事を見てもらうとして、話を『俺妹』に戻そう。「想いの伝わらなさ」という観点から『俺妹』を見ると、それが本作の裏テーマとしてずっと根底に存在し続けていることが分かる。例えば1〜2巻においては、父親やあやせの中にあったオタク文化への偏見が、彼らと桐乃との間に「想いの伝わらなさ」を生じさせたわけだが、それを京介の機転によって克服することで、物語はハッピーエンドを迎えたのだった。京都大学新聞で述べられているのと同様に、『俺妹』にも「想いが伝わる瞬間」のカタルシスがある。では、それを実現するために、作中ではどのような手段が有効と考えられているのだろうか。

最初に考えつく答えとして、自分の感情に素直になって相手に自分の意志を伝えるべきだ、ということが挙げられるだろう。自分の感情を押し殺して遠慮してしまうと、(たとえそれが相手のためを思った行動であったとしても、)相手に自分の考えが正しく伝わらないままとなってしまい、その誤解がさらなる誤解を生んで、人間関係が立ち行かなくなってしまう。であるから、とりあえず自分の感情を積極的に表に出して、相手に自分のことを分かってもらうことが大事、というメッセージが生じてくることは容易に想像できる。*2 そのように考えれば、『俺妹』と『とらドラ!』との共通点が自ずと見えてくるであろう。

『俺妹』と『とらドラ!

『俺妹』第7巻、8巻の構造は『とらドラ!』に似ている。竜児と大河、京介と桐乃はともに共依存の関係にある。しかし、それと相反する実乃梨、黒猫との関係も一方では存在している。大河との関係があるがゆえに、竜児と実乃梨は互いに遠慮して前に進めない。桐乃との関係があるがゆえに、京介と黒猫も互いに遠慮して一歩先に踏み出せずにいる。そのジレンマをどう克服するかという問題についても、両作の解決方法は一致していて、それは先に述べたように、自分の感情に素直に向き合うことが大事なのだという結論に達している。

とらドラ!』の場合は、亜美・北村・実乃梨の後押しによって、あるいは高校生活や家族との関係を通じて、竜児と大河が少しずつ自らの感情に気付いていき、最後には皆が感情をさらけ出して問題の解決へ向けて突き進んでいった。『俺妹』でも同じようなことが言えると思う。まず京介は、桐乃のスポーツ留学という大事件を通して自らがシスコンであることを自覚し、それ以来、ことあるごとにその感情を桐乃に向けて発露するようになる。

「俺はおまえがいないと寂しくてイヤだから、連れ戻しに来た! それだけだ! 文句あっか!」(第5巻P290)
「俺はロリコンじゃねえ! シスコンだぁぁーーーーーーッ!」(第6巻P268)
「桐乃と付き合いたいってんなら、てめえ! この俺に認めさせてみろ! 俺よりもおまえの方が、桐乃を大切にしてやれるってことをな!」(第6巻P277)

一方の桐乃も、京介に対する特別な感情が芽生えていた。それは言うまでもなく、桐乃を助けようとする献身的な姿や、上記のような発言を通して、桐乃に京介の「想い」が通じたからだ。しかし、桐乃がはっきりと自らの感情を吐露するのは、第8巻を待たねばならなかった。

「あたしは兄貴が大嫌い。だけど、だけど――兄貴に彼女ができるのなんて絶対イヤ!」(第8巻P266)

京介が桐乃に送った「想い」はきちんと桐乃に届いていた。そして今度は、桐乃の方が自らの「想い」を京介に送ったのだ。思い起こせば本作各巻のラストにはいつも、「想いを伝える瞬間」があった。第1巻で、それまで京介のことを「お前」とか「アンタ」としか呼ばなかった桐乃が、「ありがとね、兄貴」(第1巻P266)と感謝の言葉を口にした。自らの感情を表に出すことで「想いの伝わらなさ」を解消する、という基本構造は第1巻の頃から変わっていない。

まとめ

長くなったが、そろそろまとめに入ろう。今回、『俺妹』『まどマギ』『とらドラ!』という作品を「想いの伝わらなさ」という観点で見てきた。その中で『俺妹』『とらドラ!』に関しては、次のようなステップを踏むことで問題の解決が為されていたことが分かった。すなわち、

  1. 自らの感情を素直に受け入れる。
  2. 自らの感情をはっきりと相手に伝える。
  3. 上2つを前提とした上で、具体的な問題の解決を進めてゆく。

という3段階のプロセスがあったわけだ。ここで両作の違いをあえて言うとすれば、『とらドラ!』が上記3ステップを全てクリアした上で終了したのに対して、『俺妹』はまだ2ステップまでしか終わっていない、という点であろう。簡単に言ってしまえば京介には、自身・桐乃・黒猫の「想い」を十分に知った上で、桐乃と黒猫のどちらを「選択」するのか、という問題が残っている。作中でも言われていたように、桐乃に本当に好きな人が現れるまでは彼女を作らない、という選択は一時的なものでしかない。

しかし、第8巻は実に清々しく、希望に満ちた終わり方をしている。それは彼らが、自分の感情と向き合い、それを表にさらけ出す、という大きな一歩を踏み出したからに他ならない。ここに至るまでがどんなに長く困難な道のりであったかということは、本作を第1巻から読んできた者なら十分理解できるだろう。彼らはもう、「想いを伝える」という大事業を成し遂げた。「想いの伝わらなさ」は克服されたのだ。だからこそ、その後に待っている問題についても、彼らはきっと乗り越えることが出来る、という確信が私にはある。

*1:もちろん、麻奈実など、オタク文化と関係のないキャラクターとの交流については、上記ような傾向は当てはまらない。

*2:もちろん、そのような努力をしても「想いの伝わらなさ」が解消されないという困難な状況も有り得る。その典型が『まどマギ』の世界であろう。