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『とある魔術の禁書目録』―科学、魔術、そして「再現性」について

『禁書』と再現性

もしあなたが研究者で、論文誌に自分の研究成果を投稿しようとする場合、どういった事が重要になるだろうか。まず第一に、その論文には「新規性」がなければならない。どんなに優れた研究成果であっても、それが一番でなければ意味がない。「これまでにない新しい化合物を合成しました」とか「従来の方法に比べてこんな利点があります」といった具合に、何らかの新しい事実が書かれていなければならない。では、仮にその点をクリアしたとして、次に何が必要になるだろう。多くの学者は「再現性」だと答えるのではなかろうか。つまり、その論文に書かれてある通りに実験を行えば、誰でも同様の結果を得ることが出来る、ということが大事になる。「化合物AとBを混ぜたら、なんかよく分からんけど化合物Cができました」では駄目だ。原料の使用量、反応条件、使用器具、分析装置、そういったものを全て記し、「ここに書かれている通りに実験すれば、誰でも化合物Cが得られますよ」と胸を張って言えなければ、論文を出すことは出来ない。

しかし、一見科学のように見えても再現性のない分野も存在している。例えば、日本の製造業やスポーツ。優秀な企業は他社には真似できない独自のノウハウを持っているし、優秀なスポーツ選手はやはりライバルには真似のできない独自の強みを持っている。これらのノウハウや強みを他人が再現することは非常に難しい。というか、競争相手に再現されたら困る。こういった再現されたら困るノウハウや強みのことを、人は「技術」と呼ぶのだろう。しかし、高い技術を持った企業や個人は、徹底的に研究される。日本企業を見て新興国の企業が成長していったように、「東洋の魔女」と呼ばれたバレー日本代表チームを真似て他国のバレーの技術が向上していったように、技術は隠していても時間が経てば広まってゆく。技術を再現するのが不可能なのではなくて、再現するだけのレベルに達するまでに時間がかかるだけなのだ(「技術」は科学論文のように全てが公にされるわけではないのだから、これは当たり前である)。しかし、そうやって技術が他者に再現されたのならば、再現された方はさらに新しい技術、すなわち「新規性」で勝負してゆく他ないだろう。

さて、ここからが本題だ。『とある魔術の禁書目録』に出てくる魔術や超能力は再現可能だろうか。例えば、インデックスや上条や一方通行と全く同じ身体・脳・精神の状態を作り出すことが出来たとして、彼らの能力を他者にも同じように再現させることは可能なのだろうか。御坂美琴のクローンにはオリジナルの御坂と同じような電磁波を操る能力があったが、オリジナルの御坂と全く同じというわけではなさそうだ。これは、単に学園都市の技術がそのレベルに達していないだけなのか、それとも、完全なるオリジナルを作り出すことは根本的に不可能なのか。残念ながら私はその問いに答えることが出来ない。だけどこれだけは言える。実は、学園都市と魔術サイド、そのどちらも「再現性」というものをほとんど重視していないようなのだ。現実の科学において、再現性は極めて重要な概念である。なぜなら科学の究極の目的は「真理の探究」であるからだ。何人もの科学者によって再現された仮説だけが「真理」となる。再現性のない仮説は、永遠に仮説のままだ。

科学サイドと再現性

一方、『禁書』の科学サイドを見てみると、必ずしも再現性が必要ではない状況というのが見えてくる。学園都市の科学技術(特に能力開発関連)は、我々のいる現実世界とはまた別の形で、「シュレーディンガーの猫」とか「ハイゼンベルク不確定性原理」といった量子力学的なものの上に成り立っている。量子力学(というかコペンハーゲン解釈)というものは、要するに、ミクロの世界を確率論的に理解しようとするものだ。例えば我々は、ニュートン力学を使えば、木から落ちたリンゴのある時点における落下速度も、100年後の地球とその他の惑星との位置関係も、全て正確に知ることが出来る。しかし、ミクロの世界ではそれが成り立たない。原子核の周りを回る電子のある時点における位置は決して特定することが出来ず、我々は波動関数によって導き出される電子の存在確率しか知り得ない。「シュレーディンガーの猫」という思考実験は、「確率論的なミクロの世界」は「非確率論的なマクロの世界」に影響を及ぼし得るのか、という問題提起を行った事例であって、よくアニメなどで言われるように、「この箱の中に飴が入っているかいないかは、開けてみるまで分からない」みたいな単純な話ではない。

ところが『禁書』の世界では、ミクロの法則はマクロの世界に干渉しまくりのようである。ミクロがマクロに干渉しないのならば、結果はたった一つしか生じない。とある少女が電磁気を自在に操る可能性はゼロで、そこには何の超能力も持たない普通の少女しか存在し得ないだろう。しかし、具体的にどうするのかは知らないが、ミクロの確率論をマクロの世界に持ち込むことが出来れば、様々な可能性が生まれる。その無限の可能性の中から、「電磁気を自在に操る能力」を掴み取る(パーソナルリアリティの獲得)ことによって能力が発現している。ゆえに学園都市では、再現性というものは意味を成さない。100人がいれば、100通りの結果が導き出されるからだ。能力開発カリキュラムを使って能力者を生み出している限り、再現性など得られるわけがないし、それゆえに必要もないだろう。ただ得られる無数の結果を観察するだけでよい。再現性が重要になるのは、ある能力を軍事転用するためにクローンを作る時など、特殊な場合だけであろう。御坂が掴んだ結果(パーソナルリアリティ)を、同じ遺伝子を持っているとはいえ、シスターズのような他者にも同様に発現させるためにはどうすれば良いのか、という問題は非常に気になるが、正直考えても分からないのでここで話を終えておく。

魔術サイドと再現性

次に魔術サイドを見てみると、意外にも表面上は再現性を重視しているように見える。彼らにとっての魔術とは、突き詰めれば、キリスト*1や聖人や天使が起こした「奇跡」の再現に他ならないからだ。しかし、彼らは「真理の探究」のために魔術を研究しているのではない。なぜなら、真理は全て十字教によってすでに明示されているからだ。彼らは真理を自ら探索するのではなく、真理に少しでも近づこうと努力するであろう。そこで重要になるのは、個人の精神・信仰心であり、再現性は必要ない。奇跡というものは、そう何度も再現されたら困るわけだ。奇跡が簡単に量産されるのであれば、それは奇跡とは言えない。だから、奇跡の再現である魔術は、ごく一部の十字教関係者によってのみ再現されることで、その意味を持つ。インデックスが記憶している魔道書にしても、一般人が読んだら命を落とすほどに危険な仕掛けがあるわけで、それは科学の論文みたいなものとは全く異なる。むしろ魔術は、必要悪の教会(ネセサリウス)やローマ聖教のような機関だけがその知識を独占し、彼らが考える神の権威を高めるためだけに使われるものだ。

さて、ここまで再現性の話をずっとしてきたわけだけど、では、再現性の有無とかを簡単に決定できるのか、という問題もないわけではない。例えば数年前、京大のチームがヒトのiPS細胞の作製に成功して話題になったけど、「じゃあ論文に書いてある通りに実験をしてみよう」と言ってどこの研究室でもそれが成功するかと言うと、決してそんなことはない。iPS細胞を作るためには、莫大な投資とノウハウが要る。だから、iPS細胞を作れる研究室はごく限られているし、その作成方法も研究室ごとに微妙に異なっているはずだ。それに、今のような近代合理主義が浸透する以前には、今ではオカルトと言われるような魔術じみたこと(錬金術とか)が真面目に科学者の手で研究されていた。それでも、科学において再現性というものが重要視されてきたという事実は変わらない。それは錬金術*2であろうが、量子力学であろうが、最先端の科学であろうが変わらない。

しかし、『禁書』の世界というのは、再現性を重視する現実の「科学的な」世界とは全く異なる気がする。何かよく分からないけどこういう現象が見られました、と言うしか為す術がない世界だ。科学サイドと魔術サイドの違いは、その現象の根源を、確率論的世界観に見出すか、神の起こした奇跡に見出すかの違いでしかない。う〜ん、(再現性のある「科学」という意味での)人間の脳や神への信仰を極限まで追求した先には、こういう世界が待っているのだろうか。正直よく分からない。というか、自分で何を言っているのかも、よく分からなくなってきた。

*1:作中では「神の子」と呼ばれている

*2:たとえそれが現代からすればナンセンスな事だったとしても。