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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『SPA!』の『魔法少女まどか☆マギカ』特集について(2)―八代嘉美・森川嘉一郎・磯崎哲也の評論を読んで

はじめに

前回の記事に引き続き、『SPA!』7月19日号に掲載された「大人気アニメ『まどか☆マギカ』の正体」という特集記事について述べていこうと思う。今回は八代嘉美森川嘉一郎・磯崎哲也(敬称略)という3人の『まどマギ』評について、私なりに解釈して考察してみようと思う。

八代嘉美

八代嘉美氏は細胞生物学者であり、『iPS細胞』(平凡社新書)という著書も書かれている。*1 それゆえに、彼の評論は生物学者・医療従事者の観点から『まどマギ』を論じたものになっている。さて、本作と生物学・医療との関連を考えた時、真っ先に思い付くのは上条恭介のエピソードであろう。上条は事故によって二度とヴァイオリンを弾けない体になってしまったが、さやかがキュゥべえと契約することで「奇跡」が起きた。これは、従来では治療困難とされて死を待つばかりだった患者が、臓器移植という「奇跡」によって回復することと似ている。しかし、上条の身に起こった奇跡と引き換えにさやかが絶望を味わったように、臓器移植という「奇跡」も決して万能な手段というわけではない。

私の専門である再生医療の問題にしても、正解はありません。まどかが最終的に自らの意思で選択したように、万能な答えではないと知りながらも何かを選ばなければならないときがある。そのことに改めて自覚させられる。そういう結末なのかなあと。
(『SPA!』2011年7月19日号、P55)

現実の医療の世界でも、「奇跡」や「魔法」と呼ばれる技術革新には「対価」が伴っていた。不治の病に侵された患者を救う「奇跡」として臓器移植の技術が確立されたわけだが、この方法は(生体肝移植や骨髄移植などを除けば)ドナーの死を前提として成り立っている。また、手術後の拒絶反応や脳死判定の問題など、臓器移植に関わる倫理的・技術的な問題点は今なお議論され続けている。こういった臓器移植の問題点を克服するために、八代氏が専門とする再生医療が登場してきた。各種クローン技術やES細胞の作成。特に、患者と同じ遺伝子を持つES細胞から臓器を作り出す技術が確立すれば、ドナーや拒絶反応の問題が一気に解消されるとして、世界中から注目されていたわけだ。しかし、ES細胞を作るためには、ヒトの受精卵が必要となる。だからこそ、ES細胞の研究は倫理的・宗教的な批判を受けた。こういった問題を克服する技術として、iPS細胞が開発されたわけだが、これが本当に万能な方法なのかどうかは、今後の研究を見なければ分からないだろう。

『まどマギ』の世界でも現実世界でも、奇跡や魔法は誰かの犠牲によって成り立っている。そして、上条がさやかの献身に気付いてあげられなかったように、我々も奇跡や魔法の背後にある「犠牲」を見落としがちである。そういった犠牲に目を背けてはいけない、というのが本作の重要なテーマでもあると私は考えている。*2 しかし、八代氏が述べているように、それでもなお我々は「選択」しなければならない。誰もが犠牲にならずに済む方法を考えることは大事だし、医療の分野では実際に、医学の進歩によってそれを可能にしてきた。それでもまだ、犠牲を伴う選択を下さなければならない時がある。その選択にどう向き合うのか、それが今問われている。

森川嘉一郎

森川嘉一郎氏の評論は、深夜アニメのビジネスモデルから演出、大ヒットの要因など、あらゆる観点から『まどマギ』を論じたものとなっているが、色んなブログ記事を読んできた私からすれば「どこかで読んだような話」になってしまっている感は否めない。しかし、書かれてあることについて少しだけ言及しておこう。

個人的に目を引いたのは、各場面の絵的な構図です。主人公の家の子供部屋も、リビングも、洗面所も、学校の教室も、公園も、まるで演劇の舞台を客席から眺めているように、真正面からロングで描いた構図が異様に多い。結果として、シュールなほど広々とした洗面所が創出されたりしています。
(『SPA!』2011年7月19日号、P56)

『まどマギ』の演出に関する記事はたくさんあるが、私がその中から一つ挙げるとすれば、「魔法少女まどか☆マギカ第07話の演出の解説 嘘をつく影とその意図 新房昭之の虚実」であろう。確かに、その記事で挙げられている場面も「シュールなほど広々とした」空間ばかりである。詳細は忘れたが、あるインターネットラジオで次のようなことが言われていたのを思い出した。

シャフトアニメっていうのは宝塚と同じで、シャフト劇団という劇団がやってる舞台だと考えればいい。宝塚の演出に観客が誰もツッコミを入れないように、シャフトの演出も「そういうもの」として見るのが一番いい。

確かに、シャフトの演出はシュールでよく考えると不自然ですらあるが、視聴者を引き付ける演劇的な魅力がある。

さらに森川氏は、『まどマギ』がヒットした理由を次のように分析している。まず彼は、『けいおん!』のような日常系萌えアニメのブームが一段落し「食傷気味」になりつつあったと指摘。そして、

そのような状況下でいきなり癒し系の皮を被った生々しい作品が登場し、新鮮な驚きを与えたということも大きいのではないでしょうか。
(『SPA!』2011年7月19日号、P56)

と述べている。これもよく言われる意見であるが、確かに一理ある説だ。以前にも萌えアニメでありながらシリアスな展開を描いた作品は結構あった(例えば『かなめも』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』)が、『まどマギ』ほど思い切ったことをしてきた作品はなかったし、注目度の面でも『けいおん!』などに遠く及ばなかった。一方で、『けいおん!』以降、それに変わる日常系萌えアニメのヒットが見られないということもまた事実である。これを「日常系の限界」と見るか、「『けいおん!』があまりにも良かったから他がかすんで見えるだけ」と見るか、それは人によるだろう。

磯崎哲也

磯崎哲也氏は公認会計士であり、『まどマギ』を「契約」という観点から論じている。彼はまずキュゥべえについて、「契約に伴うリスクをきちんと説明していない」と指摘。その上で、

この作品は契約というものが持つ意味やリスクを誰にでもわかりやすく伝えられる非常に優れた作品だと思います。
(『SPA!』2011年7月19日号、P56)

と述べている。考えてみれば、この近代社会は「契約」という概念なしでは成り立たないものではなかろうか。啓蒙思想家が唱えた社会契約説の考え方が、今日の民主主義の根底にある。あるいは、国民が選挙で政治家に投票し、当選者が国民の期待に応えるというのも、一種の契約。さらに、資本主義経済が成り立たっているのも、資本家と労働者、生産者と消費者といった間で結ばれる契約のおかげ。そして、こういった契約は原則として両者の合意の下でのみ成立するがゆえに、建前上は「対等な契約」と謳われたりする。

しかし、それはあくまでも建前でしかない。権力と財力を持つ資本家に対して、労働者個人はどうしても弱い立場に立たされているし、生産者と消費者との間にも情報量の面で圧倒的な格差があり、どうしても消費者は弱い立場にある。もちろん労働者や消費者を保護する制度は無数にあるが、それでもなお不平等な契約はなくならない。キュゥべえのように狡猾で残酷な契約というシステムが、今日の社会を支えている。

魔法少女はいろいろな願いを胸に契約すると同時に、その対価を支払うわけですが、起業家もまさに魔法少女と似た境遇だと感じます。(中略) 無自覚で幼かったが、自分の宿命に気づき、覚悟を決めて主体的に選択していくまどかの姿は、学生起業家のつくった会社が世界的企業にまで成長するような壮大さがあります。
(『SPA!』2011年7月19日号、P56)

上で述べた森川氏の評論とも通じてくるが、結局のところ、契約というものに対して我々がどう向き合い選択してゆくのか、という観点が重要になってくるのだろう。

私の意見

以上をふまえた上で、私自身の意見、特に磯崎氏の評論を読んで私が考えた事について述べることにしよう。まず私の認識として、ブッシュ・小泉的な弱肉強食の論理が台頭してきて以来、特にネット上では弱者の置かれた状況を軽視する主張が普通に聞こえるようになってきた、という前提がある。例えば上で述べたような契約や詐欺事件についても、「騙される方が悪い」とか「うまい話に乗っかるなんてバカだ」という意見は多い。確かに、被害者側にも多少の落ち度があった事例も多いのだろう。しかし、詐欺師や犯罪者なんていうのはそれこそキュゥべえのように狡猾で、そういう連中が束になって精神的・経済的に追い詰められている人達に擦り寄って来るわけだから、やっぱり作中の魔法少女のように簡単に騙されてしまうわけだ。それにも関わらず、ネット上の意見は被害者に対して極めて冷たい。*3

「これまで顧みられてこなかった犯罪被害者の権利については、ネット上でも重要視されているじゃないか」という意見もあるだろう。しかしこれにしても、厳罰化の望む世論の派生として出てきた主張でしかない。さらに、犯罪が起こる原因となった社会的背景については、やはり軽視されがちになっている。事故や国の間違った政策による被害者が訴訟を起こしても、「調子に乗るな」とか「結局、金目当てなんだろ」とか言ってる人が結構いる。こういった事態が起こる理由としては、事実関係がきちんと理解されていない(ゆえに偏見や差別意識が入りこむ)という「無知」に由来するものと、相手の立場になって考えてみることを放棄した「想像力の欠如」に由来するものとがある。

さて、上記のような点をおさえた上で『まどマギ』とその視聴者を見てみると、非常に面白いことが分かる。現実世界の「詐欺師-被害者」という構図では、被害者に大して厳しい意見を述べていたネット上の声が、「キュゥべえ-魔法少女」という構図に変わった途端、魔法少女という被害者側に極めて同情的になる。現実世界の被害者に対しては冷たいネット世論が、『まどマギ』の萌えキャラがキュゥべえに騙された時には、手のひらを返したように被害者寄りになるという事実。この矛盾した我々の感情を暴き出したというだけでも、『まどマギ』には大きな価値があった。この差を生み出すものは何なのか。それはやはり想像力が及ぶか否かだろう。メディアで報道されただけの被害者には共感できないけど、アニメなら画面を通じて被害者の苦しみを理解出来るから魔法少女には共感できる、という違い。

で、繰り返しになるけど、そういった残酷な加害者-被害者という構図は決して消えることはない。世界的な貧困問題や戦争、それに今回の原発問題でも分かったように、気付かないうちに自分が加害者になって誰かを傷つけてしまうこともある。だからこそ、被害者の声をどう社会に反映させるかが大事になってくる。我々がキュゥべえの側に立つのか、魔法少女の側に立つのか。あるいは、キュゥべえを罰することだけに着目するのか、魔法少女を生み出さないためにシステムを変えてゆくのか。もちろん魔法少女=被害者を完全になくすことは出来ないだろう。それでも、世界で誰が犠牲になっているのかを知り、その被害者の声に耳を傾けること。そして、社会をより良い方向に変えるために決断を下すこと。『まどマギ』はそのことの大切さを我々に伝えている。

*1:余談だが、この本は大変分かりやすく面白い本なので、生物学に興味のある方は是非読んでみてほしい。

*2:参考:[http://d.hatena.ne.jp/kyuusyuuzinn/20110714/1310581949:title=『SPA!』の『魔法少女まどか☆マギカ』特集について(1)―宮台真司宮崎哲弥の評論を読んで]

*3:ただ、こういう傾向が近年特有のものと言われれば、そうでない面もあると思う。例えば豊田商事事件の時も、騙された被害者を批判する声は少なからず存在していたらしい。