新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『テルミー』が伝えようとしている事は―作中に垣間見える反石原・反表現規制のメッセージ

はじめに

テルミー きみがやろうとしている事は (集英社スーパーダッシュ文庫)

テルミー きみがやろうとしている事は (集英社スーパーダッシュ文庫)

先日『テルミー』第1巻を読んで強い衝撃を受けた。結論から言う。このラノベは、東京都青少年健全育成条例の改正に代表される、アニメ等の表現規制に異議を唱えている、極めて政治的なメッセージが含まれた作品である。――と、私は勝手に解釈している。この自説を裏付けるために、まずは作品の基本設定を確認していこう。

月之浦高校2年3組の生徒達は、バスに乗って修学旅行中であったが、そのバスが土砂崩れに巻き込まれてしまう。2年3組の生徒で生き残ったのは、事故現場から奇跡的に救出された鬼塚輝美と、別の交通事故に巻き込まれて修学旅行に参加できなかった灰吹清隆の、たった2人だけであった。事故から1週間ほど経ったある日、清隆は輝美から衝撃的な事実を知らされる。

「わたしの心の中には、あの事故で死んだ二十四人が、まだ生きている。……比喩ではなく、本当に私の精神に介入してくるのよ (中略) 彼らは、人生の最期の瞬間に強い心残りを抱いた。そしてその思念が、なぜか生き残ってしまったわたしの精神に入り込んだ」
(第1巻、P52)

輝美は、死んだクラスメイトの思念を自らの体に「憑依」させることで、彼らが生前持っていた技術や行動パターンをそっくりそのまま再現できる。輝美と清隆は、この能力をフルに活用して、クラスメイト達の最後の願いを叶えるべく奮闘することとなる。*1 以上が、本作の基本設定である。さて、ここからが本題だ。

松前孝司と近親相姦

松前孝司は、刑事の父と目に障害を負った妹を家族に持つ、極めて正義感の強い真面目な人物で、生前は清隆と親友と呼べるような関係にあった。その彼が死ぬ間際に願った事とは、自宅に隠し持っていたエロ本・エロ画像の類を処分したい、というものだった。当初は実に些細な願いだと苦笑していた清隆だったが、孝司の自室に行って驚くべき物を発見する。彼の部屋にあったのは、兄と妹の近親相姦を描いたエロ本であったのだ。孝司は実の妹・朋に恋をしていた。この性癖を死んでも家族に隠し続けようとした孝司の気持ちを察して、清隆はこう思った。

彼はそれを誰にも言えず、心の奥底に秘めて、空想の世界でだけこっそりと、ありのままの欲望を開放していた。もしもそのささやかな空想遊びすら許されないというのなら、ぼくらは脳手術でも受けねばならなくなる。それこそ悪夢のような話だ。
(第1巻、P98)

一方で、そのすぐ後に、次のように近親相姦の危険性が指摘されている。

近親間での恋愛には性的虐待に繋がりかねない危険性がある事は、清隆も知っている。なにより年少者にはまだ知識も社会性も身についていないから、保護者や年長者が情報を規制して支配するのは容易い。
少なくとも孝司と朋の場合、朋の年齢が若すぎて、フェアな恋愛には程遠いだろう。
(第1巻、P98)

しかし孝司は、自らの欲望を満たすために妹を傷つけたことはない、と主張した。*2 あくまでも空想の世界で快楽に浸るだけにとどめ、それを実行に移すことはなかったのである。それを聞いて清隆は、さらに次のように思った。

空想の世界は治外法権、どんな規制からも解放されている場所だ。そこで孝司は独を抜き、ともすれば溢れ出ようとする欲望をコントロールしていた。
それは朋を傷つけたくなかったからだ。
彼女が大切だから、空想で欲望を散らす。さもなければ現実にやるしかないのだから。
その懸命な欲望処理が誤解されるのは、あまりにも辛すぎる事だ。
まして、決して反論の機会がない死者にすれば。
(第1巻、P98〜99)

もうお分かりだろう。上で述べられていることは、石原都知事らが進める表現規制に反対する勢力が主張している意見とほとんど同じものなのだ。彼らはまず、レイプや近親相姦などの行為を実行に移すことは法や倫理に触れる行為である、ということを率直に認める。上で言えば、「性的虐待に繋がりかねない危険性」とか「フェアな恋愛には程遠い」といった文章がそれにあたる。それをふまえた上で、でも「空想の世界」でそういった欲望を処理することには何ら問題はない、と主張する。「空想遊びすら許されないというのなら、(中略)それこそ悪夢のような話だ」とか「空想の世界は治外法権、どんな規制からも解放されている場所だ」という文章がそれにあたる。もし表現規制によって、そのような空想すら許されないとなったら、「現実にやるしかない」。そうならないように、出版物を用いて性欲を処理しているだけなのに、それを「不健全」とか「社会に悪影響を及ぼす」などと言われて誤解されるのだとしたら、「あまりにも辛すぎる事だ」。

『テルミー』の第1刷が発行されたのは2010年7月。一方、都議会で青少年健全育成条例の改正案が可決されたのは2010年12月だが、その何年も前からこの法案がネット上などで問題視されていたのは、読者の皆さんもよくご存じであろう。そのように考えれば、このラノベは極めて政治的・時事的な問題を扱った作品だった、と言えるのではなかろうか。*3

一応言っておくが、私は表現規制に賛成とも反対とも言っていない。ただ、本作を読んで、「こういう風にも解釈できる」と述べているだけに過ぎない。

鬼塚輝美と相対主義

では、孝司をはじめとするクラスメイト達の思念を心に宿した輝美は、孝司のことをどのように思ったのだろうか。彼女は、死んだ24人のクラスメイトの思念と向き合うことで、24人それぞれの価値観の多様性に気付かされた。そしてこう述べている。

そんな二十四人が最期に抱いた願いは、スケールの大小や達成の難しさに違いはあっても、想いの強さに違いなんてなかった。迫ってくる死と向き合いながら、みんなが真剣に願った事は、どれもが、痛切に響く激しさと痛みを帯びていた。

つまり輝美にとっては、妹への恋心を知られたくないという孝司の願いも、他のクラスメイトの願いも、どれも同じように「痛切に響く激しさと痛みを帯び」たものであったのだ。そこに、貴賤や善悪の区別はない。これは、現実世界における価値相対主義リベラリズムと極めて親和性の高い考え方である。逆に言えば、石原都知事らが掲げる排他的な保守主義とは、全く相容れないものである。*4

さらに本作の後半は、天才的なギタリストであった檜山蘭の話に移る。彼女が死ぬ間際に願った事とは、バンド仲間と一緒にもう一度だけステージに立って思いのたけを伝えたい、というものだった。その願いを叶えるために輝美と清隆が奮闘し、ライブは成功する。それを見て清隆は次のように思った。

音楽が人に与える感動を言葉にする事は難しい。そもそも、もし言葉で完全に表現する事が可能ならば、音楽の存在価値自体が消えてしまうからだ。(中略)
人が詩を歌う理由が、楽器を奏でる理由が、理解できたように思った。
言葉で表現できないものを、未知の予感を、描けるからだ。
(第1巻、P218)

作中では音楽について言われているが、これはあらゆる「表現」についても当てはまる。音楽には音楽の、小説には小説の、漫画には漫画の良さがある。表現に優劣を付けることなど出来ない。ここから導き出されるのは、「表現」というものの崇高さや不可侵性であり、エロ漫画家のことを「卑しい職業」と言った石原都知事への痛烈な批判である。

まとめ

というわけで、『テルミー』という作品は、東京都の表現規制を批判し、表現の自由、価値相対主義などを謳った政治的な作品だということがお分かりになったであろうか。繰り返すが、これはあくまでも私の解釈であり、作者や出版社が実際に何を意図してこの作品を書いたのかは知るよしもない。

さて、今年7月に本作の第2巻が発売となった。私も近いうちに読んで感想を書きたいと思っている。これは予想だが、上で挙げたような反石原・反表現規制のメッセージは、第2巻以降ではあまり登場しなくなるのではなかろうか。死んだクラスメイトの願いが、全て表現や表現規制に関わる事だなんてことは有り得ないからだ。しかし、このようなメッセージを抜きにしても、本作が極めて優れた作品であることは言うまでもない。物語の今後の展開に注目していきたい。

*1:これは『シャーマンキング』の序盤で麻倉葉がやっていたことを彷彿とさせる設定であるが、それについての詳しい考察はまた別の機会に。

*2:死んだクラスメイト達は、輝美の体に憑依することで、会話をすることが可能となる。

*3:ちなみに、本作の発行元である集英社は、この青少年健全育成条例の改正に明確に反対を表明しており、東京国際アニメフェアへの出展をボイコットするなどの対応を取っている。

*4:これは実を言うと、ライトノベル全般に関わる話でもある。あくまで私の解釈だが、大部分のライトノベルには何らかの相対主義的メッセージが込められているのだ。