新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

当ブログが追いかけてきた『ココロコネクト』論の系譜について

(この記事は、私が以前に書いた『ココロコネクト』考察まとめ - 新・怖いくらいに青い空という記事に寄せられたコメントに対する返信のつもりで書きました。コメント内容については該当記事をご参照ください。)

ごんさんへ。

コメントありがとうございます。ごんさんがおっしゃる通り、文研部5人の間には初めから強固な絆が形成されています。ゆえに、毎回〈ふうせんかずら〉によって絆にヒビが入ったとしても、5人が力を合わせて困難を乗り越えて絆の強さを再確認するだけで終わってしまう。このような意見には、私も一理あると思っています。しかし『ココロコネクト』を語る上で重要なのは、5人の絆の方ではなく、むしろその背後にある「断絶」の方だと思います。私が本作の中に何らかの教訓めいたものを見出しているのは、自分と他人との間にある断絶・ディスコミュニケーション・想いの伝わらなさ、そういったものに対してどう向き合うか、というテーマが根底にあるからです。例えば以下の3つの記事では、「ディスコミュニケーション」という単語をキーワードにしてアニメを考察しています。私のこのブログの記事、特に『ココロコネクト』関連の記事は、これらのブログからインスピレーションを受けて書いたものです。

登場人物間に横たわるディスコミュニケーション(断絶、誤解、勘違い、意見の不一致、など、言い方は色々あると思いますが)をいかに克服するか、という点に主眼が置かれた作品は、実に沢山あります。例を挙げるなら『とらドラ』『俺妹』『あの花』といった作品群です。これらの作品では、まず自分の感情と素直に向き合って、自分の想いを相手に伝え、その上で実際の問題を解決してゆくプロセスが描かれます。『まどマギ』や『禁書』では、ディスコミュニケーションを克服するために登場人物を取り巻くシステムをどう変えてゆくかが問われます。

このように、ディスコミュニケーションの克服にカタルシスがある物語は数多く存在するわけですが、中には、ディスコミュニケーションに対して全く別のアプローチをしている作品も存在します。すなわち、「ディスコミュニケーションなんて存在しないんだから、君が悩む必要なんか全く無いんだよ」と言ってディスコミュニケーションの存在を否定するタイプの作品です。『けいおん』や『Aチャンネル』のような日常系アニメは、徹底的にそれを突き詰めた作品だと思います。私は、前者を「ディスコミュニケーション克服型」、後者を「ディスコミュニケーション否定型」と勝手に命名しています。

さらに私は、克服型・否定型とは全く別の「第3の道」ともいうべき選択肢が存在していると考えています。それが、ディスコミュニケーションだらけの関係性の中でいかに共存してゆくのか、という点に主眼が置かれた作品群です。どんなに仲の良い関係でも、「相手のここが気に入らない」とか「これだけは絶対許せない」といった部分はどうしても残ってしまいます。相手の事を全て理解し、一切ディスコミュニケーションのない関係を築くということは、事実上不可能なわけです。親しい間柄になればなるほど、相手の良い点だけではなく、欠点も浮き彫りになってゆく。どう足掻いても克服することのできない決定的なディスコミュニケーションを前にして、それをどのように許容し良好な人間関係を築いてゆくべきかが主題となる作品としては、『氷菓』などが挙げられると思います。あるいは、『クラッシュ』や『バベル』のような映画もそうかもしれません。私はこれを、ディスコミュニケーションを克服するのではなく、それを受け入れて真正面から向き合うという意味で、「ディスコミュニケーション許容型」と勝手に呼んでいます。これら、ディスコミュニケーションに関する3類型についての詳しい事は、私が以前に書いた以下の記事を参照してみてください。

で、ここからが本題になるのですが、『ココロコネクト』という作品は、以上で見てきた3類型すべての面から考察できるという点で、非常に特殊な作品だと思います。ヒトランダム編で太一が唯・稲葉・伊織から彼女らの抱えている問題を聞き出した場面、キズランダム編のクライマックスで稲葉と伊織がぶつかり合った場面、ミチランダム編で伊織が感情を爆発させて思いの丈を叫ぶ場面、これらは全て、ディスコミュニケーションを克服するためのプロセスとして捉えることが可能です。ここで重要になるのは、いかに自分の感情と向き合うか、そして、それをいかに相手に伝えるか、という事だと思います。自分の感情を押し殺して遠慮してしまうと、(たとえそれが相手のためを思った行動であったとしても、)相手に自分の考えが正しく伝わらないままとなってしまい、その誤解がさらなる誤解を生んで、人間関係が立ち行かなくなってしまいます。そうならないためにも、勇気を出して自分の気持ちや意思を伝えてゆくということが大事になるわけです。

さらに、キズランダム編やミチランダム編では、ありのままの自分を肯定するということの重要性が説かれます。これは言うまでもなく、ディスコミュニケーション否定型が得意とする主題です。稲葉(キズランダム)や伊織(ミチランダム)は、周囲の認識する自分と本当の自分とのギャップに苦しみ、そこに周囲とのディスコミュニケーションを見出すわけですが、他のメンバー達はあるがままの彼女らを肯定することで、そのディスコミュニケーションの存在を完全に否定するわけです。ここで意外と重要になるのが、同じ時間・場所・出来事を共有したという感覚に他なりません。ある種の打算的な関係を乗り越えて、あるがままの相手を受け入れることが出来るためには、時間的・空間的な共有の感覚が欠かせないと私は思っています。「どんなあなたでも私は受け入れます」と言える時、そこには論理や理屈を超えた繋がりが必要になります。

最後に、ディスコミュニケーション許容型についてですが、これについては最早言うまでもないでしょう。文研部の5人は毎巻、〈ふうせんかずら〉らによって決定的な断絶を突きつけられます。例えば、稲葉の「仲間を信用できない」と思ってしまう感情、「力(夢中透視)」をどのように使うかという事に対する考え方の違い。これらの決定的なディスコミュニケーションを認識した上で、いかにして絆を維持してゆくのか、という問題がそこにはあります。ここでで大事になってくるのは、端的に言えば、対立を怖れない勇気(要するに、キズランダム編でテーマとなっていたこと)だと思います。相手の欠点を見て見ぬふりをするのではなくて、たとえ一時的に関係を壊す可能性があるとしても、間違っていると思う事ははっきり「間違っている」という勇気。そして、それを可能にする前提条件として、「自分の思想を持つ」という事が挙げられるでしょう。これについては、ペトロニウスさんが優れた記事を書かれていますので、参照してみてください。

結局、私が何を言いたいかというと、『ココロコネクト』という作品は、考察の切り口・視点・論点の違いによって、見方が全く変わってしまう作品だということです。ごんさんと私との間では、本作を語るためのバックグラウンドに大きな違いが見られるように思います。正直に申し上げると、ごんさんの言わんとする事を正確に理解することが未だによくできていないというのが実情です。ゆえに、ごんさんのコメントに対して何らかの反論や感想を述べるということは、私にとっては非常に難しいのです。せめて、このブログの『ココロコネクト』の考察がどのような系譜を経て誕生したのかについて、ご説明をしようと思い、このような記事を書いた次第です。