新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

(ネタバレ注意)小説『Another』を読んで感じた事

今アニメ版が放送中の『Another』の原作小説を読んだ。あまりにも面白すぎて一気に読み終えてしまったので、読んで思った事をいくつか書き留めておく。以下の文章では本作における重大なネタバレを含むので、まだ小説を読み終えてない方、今後のアニメの展開を知りたくない方は決して読んではいけない。

タイトルについて

高校の英語の授業で次のような図を見たことはないだろうか。

ある集合について述べる時、その最初の基準となる対象の事は「one」と呼ばれる(それが複数なら「some」になる)。「one」「some」以外の全てを指す「もう一方」の事は「the other」と呼ばれる(それが複数形なら「the others」となる)。「one(some)」と「もう一方」以外にも対象が存在し、なおかつ「もう一方」が複数の時、それは「others」もしくは「some」と呼ばれる。そして、「one(some)」と「もう一方」以外にも対象が存在し、なおかつ「もう一方」が単数の時にのみ、それは「another」となる。そもそも、この単語自体が、単数を表す冠詞「an」と「other」とを掛け合わせて出来たものだろう。つまり、この『Another』という小説は、主人公である「僕・恒一(one)」と、彼を含む集合の中の「たった一人(another)」に関する物語だという事が想像できる。

ここで読者は大きなミスリードに誘われる。クラスメイト達の態度や、26年前に亡くなった生徒のエピソードなどが、それを補完してゆく。「another」とは「見崎鳴」の事だと。「another」はその性質上、日本語では「もう1つの」などと訳されることが多い。見崎鳴は恒一(one)らの住む「生」の世界の者ではなく、恒一以外には見えない存在、つまり「もう1つの(死の)」世界に住む者に違いない、と。しかし、この解釈には重大な欠陥があることも容易に分かるだろう。上の図で述べたように、対象が「生」か「死」かの2種類しかないのであれば、それらは「one」と「the other」によって表されるべきだ。「another」の出る幕はない。こうして物語は、「another」の真の意味を問う方向に転換してゆく。

ムンクの『叫び』について

美術部員である望月優矢は、美術の授業中に皆が静物画を描く中、一人だけムンクの『叫び』にも似たレモンの絵を描く。一見、前後の流れとあまり関係のないように思われるこのエピソードであるが、望月の次の言葉を見れば、極めて重要なエピソードだったいう事が分かるだろう。

ムンクの絵もよく誤解されるけどね、あの絵の中で叫んでいるのはあの男の人じゃなくて、彼の周りの世界なの。彼はその叫びにおののいて、耳をふさいでいるの*1

そう、ここで世界の見方が180度転換することが示唆される。すなわち、見崎鳴が「見えない」のではなく、彼女の周りの世界が彼女を「見えない」ものとして振舞っているのだ、と。かくして、生者に紛れ込んだ死者(another)が呼びこむ「死」を相殺するために、鳴がスケープゴートにされたのだ、という事が判明してゆく。そして物語の後半は、クラスに紛れ込んだ「もう一人(another)」は誰か、という問いに焦点を当てて進んでゆく。「見崎鳴=another」というミスリードから、「生者に紛れ込んだ死者(もう一人=another)は誰?」という展開への転換は、まさに見事と言う他ない。

スケープゴートについて

この作品を語る上で、「犠牲」「スケープゴート」という観点は欠かせない。作品の前半部では、クラスの平穏な生活を守るために鳴と恒一が「いなかったこと」にされた。ここで恐ろしいのは、「いなかったこと」にされる生徒を選ぶ過程が全く公平でないという事だ。例年、「いなかったこと」にされるのは、元々から物静かで友人が少ない生徒なのだ。もちろんこれは、現実の世界における「スケープゴート」の本質と寸分も違わない。例えばアメリカでは、低所得層が多く住む地域に化学工場が多く建てられ住民が健康被害に苦しんでいるし、核兵器の実験施設などもインディアンの居住区に作られている。仮にそういった犠牲が公の利益のために必要だったと仮定しよう。であるならばその犠牲は、公正な手段を用いて共同体の構成員全員がなるべく平等に負担するよう努めなければならない。しかし実際には、元々から弱い立場にいた少数派の人間に、公の利益のための犠牲を全て押し付けてしまっているという現実がある。国家単位から学校のクラス単位まで、あらゆるところで見受けられる人間社会の「暗部」。「公の利益のため」という理由が必ずしも正義に適うわけではないという理由がそこにはある。

さらに作品の後半部では、災厄を終わらせるために生者に紛れ込んだ「もう一人」を殺す事ができるか、という問いが投げかけられる。本作の場合は元々死んでいる者を「死」へと還すだけであるので、その決断を下すことへの心理的抵抗は小さいかもしれない(それでも恒一は迷い葛藤した上で決断を下した)。しかし、現実の世界ではどうか。どんなに人類が進歩しても、誰かの犠牲を伴う選択を下さなければならない場面は必ず存在するだろう。その度に、人間は苦しみ葛藤し選択を下していくだろう。

そう考えると、殺された「もう一人」に関する記憶が消されてしまうという設定は実に示唆的だ。現実の社会でも、我々は犠牲になった人間の事を忘れがちだ。この日本という平和で豊かな生活を享受できる国が生まれるまでに、一体どれだけの犠牲が生まれたであろう。それは、発展途上国での搾取という形で現在も進行しているかもしれない。にも関わらず、我々はその犠牲に対して無関心になりがちだ。

何日後か何ヵ月後か、あるいは何年後のことになるのかは知らない。いつかぼくの記憶からも、今年の〈もう一人〉に関するすべての情報が消え去ったとして――。
そのとき。
ぼくはこの写真の空白に、何を見るんだろう。何を感じるんだろうか。*2

最後に

国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園を取り囲んでいた高く分厚い壁には、入居者たちの空けた穴がいくつもあった。療養所という名の強制収容所に入れられ、一生そこで過ごす事を強いられた患者たちが、外の景色を見たいと願って壁に穴を開けたのだ。他国では、ハンセン病患者の強制隔離政策は20世紀半ばには廃止されていった。また、効果的な新薬も開発され、後遺症に苦しむ事はあったにせよ、ハンセン病は治る病気になった。にもかかわらず、日本では1996年までハンセン病患者の強制隔離政策が続けられていたのである。理不尽な隔離によって一生外に出られなくなった患者たちは、一体どのような気持ちで壁の穴から外を見つめていたのだろう。

小説の中でクラスの一人が「いなかったこと」にされるのには、曲がりなりにも一応の理由があった。それをする事によって、超自然的な「もう一人」によってもたらされる災厄を軽減することができるという経験則が知られていた。一方、現実世界の「もう一人」は超自然的な現象でもなんでもなかった。それは、人々の間の無知や偏見が生み出したものでしかなかった。そして、その「無知や偏見」を埋め合わせるためにハンセン病患者が「いなかったこと」にされ、彼らの人権は蹂躙された。

現実の世界は、小説の中よりもはるかに残酷で理不尽だったのだ。

*1:綾辻行人、『Another (上)』、角川文庫、102P

*2:綾辻行人、『Another (下)』、角川文庫、356P