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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『これからの正義の話をしよっ☆』を読んで、これからのバレンタインデーの話をしよう

ライトノベル

第1章 問題の提起

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの正義の話をしよっ☆ (一迅社文庫)

これからの正義の話をしよっ☆ (一迅社文庫)

『これからの正義の話をしよっ☆』(以下『正義(ラノベ)』と記す)というライトノベルがある。このタイトルは言うまでもなく、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』(以下『正義(サンデル)』と記す)のパロディである。今回の記事では、この2冊を本を手掛かりにして、これからのバレンタインについて考えてみたいと思う。

三照大学付属高校*1の生徒会長である鷲座つばさは、高校でのバレンタイン中止議案を委員長会議(生徒会役員会議)に提出する。一方、正義同好会部長の叶祈里と、その部員で主人公の守川剣司は、バレンタインを中止することは「正義」に反するとして、つばさの議案に反対する。ここに、「高校でバレンタインを中止することは正義か否か」という、サンデルもびっくりの壮大な哲学的議論が始まったのである。

ここでまずは、バレンタイン中止派のつばさを論理を見てみよう。実を言うと彼女には、想い人である剣司が他の女子からチョコを貰うことがないようにバレンタインを中止し、その上でこっそり自分だけチョコを渡そうという下心があった。そのために彼女は、自らの生徒会長としての権限をフルに活用し、生徒会役員を買収・説得し、是が非でもバレンタインを中止に追い込もうとしている。このような身勝手な理由は当然、正義に適ってない。しかし、彼女がバレンタイン中止を訴える「建前上の」理由は、全く別のところにあった。実は、バレンタインを快く思わない生徒から、バレンタイン中止の要望書が数多くの署名とともに生徒会に届けられたのだという。そして調べてみると、どうやら過半数を超える生徒が、バレンタイン中止に賛成しているらしいのだ。また、生徒会役員の買収についても、多少強引ではあるが、自らに与えられた権限をフルに活用しているだけに過ぎない、と主張した。要するに、つばさの邪な下心は置いておくとして、「多数決の原理」だけで考えるのならば、つばさの論理は完全に「正義」に適ったものになってしまうのだ。

つまり、祈里や剣司たちがバレンタイン中止議案に反対するためには、過半数の生徒が中止に賛成していてもなお、バレンタインを中止することは正義に反する、ということを立証しなければならないわけだ。その作業を抜きにしてバレンタイン実施を声高に叫んでも、それは空虚で他人の心に響かない。祈里も次のように述べている。

ボクたちは情に流されて動くんじゃない。明確に論理で武装された正義で動く。これは、ボクたちがバレンタイン禁止を突破するための足場だ。確かな論理に下支えされているからこそ、ボクたちはこれから声を上げてバレンタインをやるべきだと言える
(『正義(ラノベ)』、P141〜142)

では、実際に正義同好会が導き出した、バレンタインをやることが正義だとする論理は、どのようなものだったのか。それを次の章で説明しよう。

第2章 ジョン・スチュアート・ミルと「質の話」

祈里たちはまず、バレンタインをやりたい人の気持ちと、やりたくない人の気持ちを考えてみた。141ページによると、前者としては「告白をしたい気持ち*2」「女の子同士の友情を確認したい気持ち」、後者としては「チョコをもらいたいけどもらえないが故の僻み」「女の子社会の複雑さに対する倦労*3」などが挙げられるという。もし、これらの気持ちがどれも等しく大切なものであるならば、多数派であるバレンタインをやりたくない人の気持ちが優先されてしまうだろう。そこで祈里は、「質の話」をしよう、と提案する。

その論理はこうだ。バレンタイン中止派と賛成派に共通する「本音」は、「恋をしたい」という気持ちである。誰だって、人を愛する、人から愛されるという経験をしてみたいと思っている。そして、人が恋をしている限り、バレンタイン中止を望むことはないだろう。ゆえに、バレンタインをやりたい人の気持ちの方がより質が高く、やりたくない人の気持ちよりも優先されるべきである。これは、『正義(サンデル)』の第2章で示されたジョン・スチュアート・ミルの考え方に近い。これについて述べる前に、ざっと『正義(サンデル)』の第2章で書かれていることをまとめよう。

ジェレミー・ベンサムは、正義とは社会全体の効用を最大化することであると述べた。この考え方のことを功利主義と言う。功利主義が謳う「最大多数の最大幸福」は、実際の政治の世界では現在でも大変重要な概念となっている。しかし、功利主義への批判として次の2点が挙げられるだろう。まず、【1】多数派の幸福を優先することで犠牲になる少数派の人権はどうなるのか、という問題。そして、【2】あらゆる効用を同一の尺度で比較することはできない、という問題。*4

これらの批判に対して、ジョン・スチュアート・ミルは功利主義を擁護する立場から次のように反論した。まず、【1】の批判については、効用を長期的な観点で考えることで解決されるとした。*5 そして、【2】の批判についても、功利主義は価値を同一の尺度で決めてしまうものではなく、質の高い快楽と低い快楽に分けることが可能だ、と述べた。

ここで話は最初に戻る。バレンタインをやりたいという気持ちが、やりたくないという気持ちと比べてより「質が高い」のであれば、たとえやりたくない人が過半数に上るとしても、やりたいという気持ちの方が優先されるであろう。では、気持ちの「質」の差はどうすれば決定されるのか。ミルならこう言うだろう。バレンタインをやりたいという気持ちとやりたくないという気持ち、その両方を経験している人が選択する気持ちこそが、質の高い気持ちである、と。*6 「恋する気持ち」と「恋をしない気持ち」の両方を知っている者なら、やはり前者がより質の高い気持ちだと考えるだろう。そして、バレンタインは「恋をする気持ち」を得ることのできる絶好のチャンスだ。ならやはり、「バレンタインをやりたいという気持ち」と「やりたくないという気持ち」の場合でも、その両方を知っている者なら当然前者を選択するだろう。

以上より、バレンタインをやりたいという気持ちは、やりたくないという気持ちよりも優先されるべきであり、ゆえに、バレンタインを中止することは正義に反する。これが祈里たちの論理だ。そしてこの論理は、『正義(サンデル)』の第2章までに挙げられている考え方を用いれば、容易に導き出されるものなのだ。

しかし、ここで次のような疑問が沸く。真面目な人なら「学校は本来勉強するための場であり、バレンタインなどという浮ついたことをする場ではない。よって、学校ではバレンタインを中止すべき」と考えるのではないか。この問いについて応えるためには、正義同好会が学校という場をどのようにとらえているか、について知らなければならない。それについては後ほどまた詳しく述べるが、ここで簡単に結論を言っておく。祈里たちは、学校は単なる勉強するための場ではなく、社会に出た時に必要な知識や教養を身につける場でもある、と考えている。だから、在学中に様々な経験を積むことは何ら間違ってないし、むしろ本人にとって有益となる。だから、バレンタインをやることは学校の本来あるべき姿から逸脱している、という反論は成り立たない。

第3章 リバタリアニズムと「チョコを渡す自由」

上記のような論理によって、たとえバレンタインをやりたくない者が過半数を占めていたとしても、学校でバレンタインをやることは正義に適う、ということが明らかになった。だが、ちょっと待ってほしい。第2章では、ミルが提唱した「質の話」と、学校の本分などの観点から、バレンタイン中止は正義に反すると結論付けたわけだが、こんな回りくどい事をしなくても同じ結論を導き出すことは出来るのではなかろうか。つまり、「バレンタインをするのもしないのも個人の自由。だから一律に中止にするのは正義に反する」と主張すれば良かったのではなかろうか。このような考え方について、『正義(サンデル)』の第3章を基に考察してみよう。

もし、祈里がリバタリアニズム(自由至上主義)の信奉者なら、次のような理由により、バレンタイン中止に反対しただろう。*7

  1. パターナリズム(父親的温情主義)の拒否。もし、バレンタインを実施すれば、チョコを貰えずに悲しむ男子や、告白に失敗して傷つく女子が出てくるかもしれない。だからと言って、彼らに同情してバレンタインを中止することは間違っている。何故ならば、告白しようとする女子は失恋するというリスクを承知の上でチョコを渡すという選択をしているわけで、もしバレンタインを中止してしまえば、彼女らから選択する自由を奪ってしまうことになるからだ。
  2. 道徳的法律の拒否。多数派(ここで言うバレンタイン中止派)の道徳的信条を全体に強要することは間違っている。個人は、他人の権利を侵害しない限り、あらゆる選択を行う自由を有している(たとえそれが、道徳的に間違った行動であったとしても)。だから「学校は勉強するための場であり、チョコの受け渡しをする場所じゃない」などという個人の考えを他人に押し付けることは間違っている。
  3. 所得や富の再分配の拒否。バレンタインを中止するということは、本来チョコを貰うはずだった男子から、チョコを奪うことに等しい。生徒会が個人の私有財産を奪うことは許されないから、バレンタイン中止議案は正義に反する。

どうだろう。個人の自由というものに正義の根拠を置けば、より簡便にバレンタイン中止は正義に反する、という結論を導き出せるのだ。しかし、本当に「個人の自由」というものは無条件に認めて良いものなのだろうか、という疑問は残る。例えば、「あらゆる自由を認めてしまうと、極端な話、一夫多妻制や嘱託殺人までも認められてしまうのではないか」とか、「個人の選択というものは、本当にその個人の自由意志によってなされたものなのか」という疑問は当然出てくるだろう(その辺の議論については、「ラブコメは正義か――早矢塚かつや『これからの正義の話をしよっ☆』」という記事に詳しく書かれているので、是非読んでいただきたい)。

上に挙げた記事でも述べられている通り、バレンタインをやるかやらないかという問題は、【1】バレンタインは正義に反するか否かという観点と、【2】生徒会長としての権力を振りかざしてチョコを渡す自由を奪うことは許されるのか否か、という2点から論ずる事が出来る。しかし、『正義(ラノベ)』では、主に【1】の観点からバレンタインの問題を論じている。

確かに、生徒会長つばさのやり方は横暴だ。彼女は委員会の活動費倍増をチラつかせて委員長らを買収し、バレンタイン中止議案を生徒会役員会議で可決させようとしている。このようなやり方に反感を覚えた風紀委員長の風祭風花は、正義同好会に協力してバレンタイン中止反対のために奮闘する。風花の場合には、当然【2】の観点からも問題を論じているわけだが、祈里はあくまでも【1】の観点から問題を論じている。何故なら彼女はリバタリアニズムと距離を置いているからだ。後で詳しく述べるが、彼女の正義の考え方は共同体主義に近い。ゆえに、個人の自由を正義の根幹に置くことはしなかったわけだ。*8

第4章 無知のベールと「チョコを貰えない男子の権利」

ここまで、ミルの論理やリバタリアニズムの観点からバレンタインについて論じてきて、いずれの場合でも、学校でバレンタインを中止するのは正義に反するという結論に至った。しかし、バレンタインを快く思ってない生徒の気持ちはどうなるのか、という問題は解決していない。この問いに答えるために、『正義(サンデル)』第6章で述べられているジョン・ロールズの理論について説明しよう。

我々が話し合って社会のルールを作る時、皆が平等に発言権を与えられているわけではない。財力・思想・性別・年齢などの違いによって、交渉力に差が生まれてしまうからだ。このような状態で作られたルールが「公正」であるとは言えない。そこで、ロールズは次のように考えた。

一つ思考実験をしてみよう。人びとは原理原則を選ぶために集まったが、自分が社会のどの位置にいるのかはわからない。全員が「無知のベール」をかぶった状態で原則を選ぶのだ。(中略)自分が属する階級も、性別も、人種も、民族も、政治的意見も、宗教上の信念もわからない。(中略)もし全員がこうした情報を持っていないなら、実質的には誰もが平等の原始状態で選択を行なうことになる。交渉力に差がない以上、人びとが同意する原則は公正なものとなるはずだ。
(『正義(サンデル)』、P184)

人々が「無知のベール」をかぶった状態で選択した取り決めこそが正義に適っている、とロールズは主張したわけだが、ではそこで選択される取り決めとはどういうものになるのだろうか。まず、第2章で見たような功利主義は選択されない。無知のベールをはずした時に、自分が多数派なら良いが、運悪く少数派になったら、権利が保障されなくなるからだ。同様の理由で、表現の自由や信仰の自由も、社会全体の福祉のためとは無関係に認められるだろう。次に、第3章で見たようなリバタリアンが主張する市場原理主義も選択されない。無知のベールをはずした時に、自分が大金持ちだったら良いが、貧乏なホームレスだったら悲惨なことになるからだ。それとは逆の理由により、社会主義共産主義も絶対に選択されないだろう。無知のベールの下では、社会の中で最も不遇な者の利益に適うような格差だけが認められる。つまり、経済的格差を認めつつも、課税や福祉政策などによって最下層の人々を救済するような社会制度に落ち着くだろう。

さあ、ここで、生徒達が全員「無知のベール」をかぶってバレンタインの是非について論じた場合を考えよう。この場合でもやはり、バレンタインはすべき、という結論になるだろう。バレンタインを一律で中止してしまうと、もし自分が「渡す女子」「貰う男子」だった場合に不利益が生じる。誰だって、貰えるものは貰いたいし、渡せるものは渡したい。その気持ちを切り捨てるような議案は、絶対に選択されないだろう。しかし、そうなると逆に、バレンタインチョコに縁のない非リア充は悲しい気持ちになるかもしれない。ロールズによると、このような格差は、最も不遇な人々(バレンタインチョコを貰えない男子)にも利益をもたらす場合にのみ認められるはずである。この理論に従うと、彼らを救済することなしにバレンタインを行うのは、正義に反する。

では、どうすればバレンタインチョコを貰えない男子を救済することが出来るのか。現実の世界なら、最下層の人々を救済する方法はいくつもある。*9 しかし、バレンタインの場合はどうか。まさか、チョコを多くもらった人から一部をまきあげて、それを貰ってない人に分配する、なんてことは出来るわけがない。正義同好会が思い付いた救済策については、次章で説明する。

第5章 共同体主義と「トリビュート・チョコ」

まずは祈里の考える正義の形について詳しく述べよう。『正義(ラノベ)』の15ページによると、祈里は学校を「社会の縮図」と捉え、その目的を以下の3点にまとめている。

  • 勉強を通して考える力を養う。
  • 幅広い分野を学ぶことによって、自分の進むべき道に対する指標を与える。
  • 集団生活を通して、社会の規律、協調性を磨く。

ここからも分かる通り、祈里は共同体主義の立場をとっている。すなわち、自由主義者が言うような「万人に共通する学校の目的など存在しない」という立場ではなく、ある程度の共通善を規定すべきという立場だ。これは、サンデル自身の考え方とも通じる。

例えばサンデルは、人工妊娠中絶の問題を通して、リベラリズムの限界を示している。リベラリズムの立場では、中絶をするのもしないのも個人の自由であり、宗教や国家がその是非を決めるのは間違っている、ということになる。しかし、そのように主張するリベラリストは、暗黙のうちに「受精卵や胎児は人ではない」という価値判断を下してしまっている。「人を殺すも殺さないも個人の自由」などと言う人は絶対に居ないのだから、リベラリストは少なくとも「妊娠初期の胎児は人ではない、従って、中絶は人殺しではない」という認識を持っていなければおかしい。このように、個人の選択を重視して「正義は人それぞれ」という立場であったとしても、大元の部分(胎児は人か、人でないか)では必ず何らかの価値判断を下さなければならない。「正義は人それぞれ」と言うのはある意味「逃げ」であって、やはり人は、「共通の正義」を規定していく作業からは逃れられない。

公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。
(『正義(サンデル)』、P335)

祈里もそのように考え、学校の中における共通の正義を模索する。結果として、上の「幅広い分野を学ぶ」*10には、当然恋愛も含まれるわけであって、それを妨げるような生徒会長の議案は正義に反する、という結論に至る。この信念を胸に、祈里達は生徒会メンバーや生徒会長と交渉を繰り返し、ついにバレンタイン中止議案は廃案となる。しかし、「チョコを貰えない男子」のことを無視してバレンタインを強行するのも正義に反するということは、上で述べたとおりだ。では祈里は、どのような選択によってこの問題を解決したのであろうか。

結論から先に言うと、祈里達はチョコを大量に作って、普段あまりモテない男子生徒の靴箱にそれを入れていったのだ。祈里はこれを「トリビュート・チョコ」と称し、放送室から全生徒に向かって次のようなメッセージを送る。

誰もバレンタインに疎外感を覚える必要はありません。みんな恋をして、好きな人がいる学校生活を送って欲しい、それがボクの願いです。さらにそこから一歩踏み出して告白まで踏み切れればもう言うことないです。ボクが今日配ったチョコはそう言った人たちを励ます餞別であり、みんなをしっかり見ていることの証明です。学生であるウチに、誰かを好きになってください。恋をしてください。確実に格差はあるけれど、大人になる前からそんなものに負けないでください
(『正義(ラノベ)』、P301〜302)

この行為とメッセージには、2つの効果があるという事が分かるだろう。すなわち、【1】チョコを配って普段バレンタインに縁のない男子(最も恵まれない立場の人間)を励ますことで、ロールズの言う正義に適うバレンタインにしようとする効果。【2】全校生徒に対して、恋愛を含めた「幅広い分野を学ぶ」という共通の価値を再認識させる効果。

第6章 リベラリズムと「正義同好会への反論(1)」

この祈里達の「正義」に対して、あなたはどのように感じるだろうか。おそらく、「こんな風にしてチョコを貰っても嬉しくない」と考える人も居るのではないだろうか。なるほど、曲がりなりにもチョコを貰って「嬉しい」と感じる人もいるだろう。しかし一方で、「おせっかいな情けをかけられてる」と感じて不愉快に思う人もいるだろう。このトリビュート・チョコというやり方の問題点は、作中でも何度も指摘されている。

バレンタインにおいて、普段からモテない男の半分は見栄でできてると言っても過言じゃない。少なくとも、これまでの俺はそうだ。
そういう奴らが、応募者全員サービス――いや、応募すらしていない――のバレンタインチョコに、どれだけの魅力を感じるのだろう?
(『正義(ラノベ)』、P224)

このように、トリビュート・チョコ方式が決して万人を救済するような制度ではないという事は、作中でも述べられていて、それでもなお、祈里はあえてこういうやり方を選択したわけだ。しかし、読者からすれば、「いや、もうちょっと良い方法があっただろう」と言いたくなる。第一、モテない男子にチョコを配って回るというのは、好きな人にチョコを渡すというバレンタインの趣旨に反している。バレンタインチョコは、恵まれない人々のための救済措置なんかではない。

そもそも作者のリベラリズムに対する考え方自体が何か間違っているとしか思えない。例えば、次のような文章がある。

祈里に言わせてみれば、正義とは物語である。
権利と義務。自由を謳う社会で、俺たちは自分が何をしたら良いのかわからない。
必然性を見出すことができない。
次に自分が何をすれば良いのかを知る目印。未来を照らすかがり火。
当然それは、強制しだしたり誘導めいてしまっては、正義からかけ離れてしまう。
故に祈里は、常に悩んでいる。
混沌とした現代の正義を順序立てることが社会の正義になると信じながら、具体的にどうすれば良いのか、わからない。
(『正義(ラノベ)』、P184〜185)

ここまでは、いたって普通の文章だ。これはまさに、リベラリズムの行き着く先にある閉塞感のことを言っている。リベラリズムでは、正義は人それぞれであり、共通の物語など存在しないと考える。ゆえにそれは、正しいことは何もない、何が正義かなんて決めることはできない、という諦観に繋がりかねない。かつては宗教や国家が教えてくれた大きな物語は消えて、我々個人は自由になり、その中で何を指針として生きればよいのか分からなくなった。これが現代を覆うニヒリズムの概要だ。それを打破するために、祈里は共同体主義を掲げて、「混沌とした現代の正義を順序立て」ようとしている。ここまでは良いだろう。しかし、上の文章は次のように続く。

同じく、恋もまた物語だ。
一目惚れにしろそうでないにしろ、恋をするに値するきっかけがあり、思い悩む果てに選択があり、結果がある。
恋をしたくなかったり、誰かに好きになってもらいたがらない人は、いない。
それでも、そういう物語や必然性が見えないから、バレンタインなんてイベントは中止してもいいって言い出す連中は増えた。
(『正義(ラノベ)』、P185)

いや、その理屈はおかしいだろう。恋という物語に価値を見出せなかったからと言って、何故「バレンタインなんてイベントは中止してもいい」などという結論に至るのか。現代は「恋をするという物語」にも「恋をしないという物語」にも、価値を見出せなくなった時代だ。それならば、我々はむしろ「バレンタイン? やりたい奴は勝手にやれば?」みたいな無関心な態度を取るだけで、バレンタインを積極的に中止しようとは思わないだろう。

このラノベの作者は、リベラリズムが行き着いた先にあるニヒリズムがバレンタイン中止などという考え方を生み出したという「物語」を作って、それをもって祈里達の掲げる共同体主義の優位性を説いたつもりなのだろう。これは手法は違っていても、サンデルが『正義(サンデル)』の中でリベラリズムの限界を示し、共同体主義に基づく正義を模索したことと似ている。しかし私は、祈里やサンデルの言うような「リベラリズムの欠陥」というものが、それほど深刻なものだとは思えないのだ。少なくとも、上で見てきたように、リベラリズムの帰結として、バレンタイン中止などという考え方が生み出されるということは有り得ない。

確かに「どう生きるべきか」を考えることは大事だが、そういった個人の生き方に国家や宗教が介入するべきではないという事も最早自明になりつつある。祈里たちは、共同体における共通の物語に着目する前に、ここ数百年の歴史から得られた経験則の方にもっと目を向けるべきだった。ここ数百年、人類は個人の自由を広げるような政治制度(民衆の政治参加、思想・言論の自由、各種選択の自由など)を選択し、逆に、極端に自由を制限する政治制度(ナチズム社会主義)は全て失敗に終わった。こういった事実こそがまさに、リベラリズムの優位性を証明している。

正義同好会は、そういった点を無視して「個人の生き方」に介入しようとした結果、いまいち釈然としないちぐはぐな選択しか下せなかったのだ。結局、『正義(ラノベ)』は、作者の意図に反して「共同体主義の限界」を示してしまった、と言えるのではなかろうか。

第7章 インセンティブと「正義同好会への反論(2)」

確かに、人を愛するということは素晴らしいことである。しかし、それを正義同好会が推奨することは、本当に正義に適うのだろうか。正義同好会を国家に置き換えてみれば分かりやすい。環境にやさしい製品を使うことは確かに好ましい事だが、国家が全国民に対して強制的にそれを使わせるよう命令したりしたら、それは「行き過ぎだ」と誰もが思うだろう。そして何より、「チョコを貰えない男子」に片っ端からチョコを渡して回るという行為のうちに、彼らを(言葉は悪いが)憐れみ見下すような意識がなかったと言えるだろうか。これは、「アフリカの恵まれない子供たち」といったフレーズに内包されている、ある種の欺瞞とも通じるものだ。

では、正義同好会はどうすれば良かったのか。私の提案はこうだ。まず、2月14日の朝、校門の前で「女子生徒」にチョコを配る。そのチョコには、こういうメッセージを付けておく。

このチョコは、自分で食べてもらっても、誰かに渡してもらってもかまいません。私達は、もっと多くの人にバレンタインデーで幸せになってもらいたいと思い、この企画を立案しました。もしあなたに今、気になってる人、日頃お世話になってる人がいるのなら、是非、このチョコレートを渡して自分の気持ちを伝えてみてください。

この提案の第一のねらいは、チョコを持って来なかった女子生徒にチョコを渡してバレンタインに参加してもらうことだ。女子生徒の中には、チョコを持って来るかどうか迷った挙句持って来なかった生徒や、そもそも自分にはバレンタインなど関係ないと思っている生徒もいるだろう。そういった生徒にチョコを渡すことで、大切な人にチョコを渡して想いを伝えることのサポートをしようというねらいだ。また、元からチョコを持ってきている女子にチョコを渡した場合にも、隣の席の非リア充男子に「ついでだからやるわよ」的な軽いノリでチョコが渡ることが期待できる。

先程の例で言うのならば、環境にやさしい製品を使うように政府が強制するのは許されないが、環境にやさしい製品を作っている企業をサポートし、その製品をより安い価格で販売できるようにすることで、消費者にその製品を買うよう促すことなら出来るわけだ。あるいは、ガソリンなどに環境税を課して、大気を汚染するガスの排出量を間接的に抑制することなら可能だ。このように国家は、環境にやさしい生活を強制することは出来なくても、国民が環境にやさしい選択をするようにインセンティブを与える事ならできる*11。同様に正義同好会も、「恋愛をしよう」という説教めいたメッセージを説くのではなく、女子生徒にチョコを配ることでチョコが男子生徒に渡るようにインセンティブを与えることなら問題ないのではないか。

どうだろうか。このようにすれば、正義に反することなくバレンタインデーを実行することが可能になるのではないか。もちろん、このやり方でも全ての生徒が報われるというわけではないことは十分承知だ。だが、それは祈里たちのやり方でも同じなのだから、お互い様だろう。完璧な制度などないのと同じように、誰もが報われ、幸せになるバレンタインデーなど存在しないのだ。

終章 まとめ

後半では批判めいたことも言ってしまったが、作者はサンデルの本を深く読み込んだ上で『正義(ラノベ)』を書いている、という事は間違いない。「質の話」とか、祈里の正義に対する考え方などは、『正義(サンデル)』を深く読み進めなければ書けないことだろう。にもかかわらず、作者の意図に反して「共同体主義の限界」が示されてしまったということは実に興味深い。

私は別に、共同体主義が全部悪いと言っているわけではない。震災直後から宮台真司宮崎哲弥が言ってきた「絆」の重要性も、それはそれで大切な事だ。しかし、それは時として「内輪でしか通用しない正しさ」になりがちだ。今、求められているのは「わかり合えない他者との間で交わされる配慮」ではないのだろうか*12。そして、そのような配慮を基調とする政治思想こそが、リベラリズムに他ならない。

いずれにせよ、『これからの正義の話をしよっ☆』というラノベは、バレンタインデーという観点から正義のあり方を論じるという壮大な物語であり、極めて刺激的かつチャレンジングな作品だったと言えるだろう。

*1:「三照」のルビは「さんしょう」となっている。しかし「照」は「てる」とも読める。つまり、三照→さんてる→サンデル、という粋な小ネタなのだ。

*2:好きな男子にチョコを渡すことで、積極的に「好き」という気持ちを伝えたいという気持ち。

*3:女の子同士の付き合いの一環として形式化されたバレンタインチョコの受け渡しに対して、「煩わしい」などと思う気持ち。

*4:例えば、山間の村に住む住民を立ち退かせてそこにダムを作れば、水力発電によってかなりの経済効果が見込める、という場合を想定しよう。この時、【1】村に住み続けたいと願う村民の権利はどうなるのか、【2】慣れ親しんだ村を離れる苦痛と経済効果とを同一の尺度で比較してしまうのは間違いではないのか、という批判が挙がるであろう。

*5:その論理はこうだ。多数派の利益のために少数派を迫害するような制度は、社会の多様性を喪失することになり、長期的に見れば社会全体の効用は低下する。ゆえに、効用を長期的な観点で考えれば、功利主義が少数派の迫害を促進することはない。

*6:ミルは「気持ち」ではなく「快楽」という言葉を使って論理を展開しているが、『正義(ラノベ)』では「気持ち」という言葉が使われているので、あえて「気持ち」という言葉を用いて説明した。

*7:以下の3つの理由は、『正義(サンデル)』のP80〜81に書かれている内容を基にまとめた。

*8:そもそも、リバタリアン的な観点からバレンタインについて論じれば、「バレンタインをやるのもやらないのも個人の自由」と言うだけでおしまいだ。それでは、物語として面白くないから、やはり自由以外のものを正義の根拠として提示する必要があったのだろう。

*9:例えば、累進課税や、各種福祉政策、生活保護なども救済策の一つ。

*10:「幅広い分野」をどう捉えるかは人によって違うだろうが、上の3点を学校における共通善として良い、という考えには大抵の人は賛成だろうと思う。

*11:そのインセンティブすら認められないと主張するのが、上で見たリバタリアニズムなわけだが、そのような考え方に賛同する人は少数だろう。

*12:石原千秋著、『国語教科書の思想』、ちくま新書