新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『氷菓』とディスコミュニケーションについて

福部里志、てめえだけは絶対に許さん!

福部里志腹を切って死ぬべきだ。また、彼はただ死んで終わるものではない。省エネをモットーとする高校生・折木奉太郎にグーで殴られる者だ。理由は摩耶花を泣かせるなら自分が死ぬべきだからだ。詳しい理由は米澤穂信作『遠まわりする雛』等で熟知すべし*1

いや、ホントにもう、「ぐうの音も出ないほどの畜生」とは、まさにこういう事を言うんだろう。そもそもまず、中学3年時のバレンタインデーで、摩耶花からのチョコを受け取らないという時点で、すでに畜生の域に達している。そして、その1年後には、摩耶花から貰う前にチョコをこっそり盗み出し、あまつさえ大きすぎて巾着袋に入りきらないそれをボロボロに砕いてまで隠そうとする。そこまで徹底して摩耶花からチョコを受け取ることを拒絶する理由は、次のようなものだった。

まず、里志は以前まで、世の中の色々なものにこだわる生活をしていたという。しかし、そういった生活を次第につまらないと感じるようになり、こだわることを止めてしまったという。こだわりを捨てることで気楽さを得た里志だったが、唯一問題だったのが、摩耶花の存在だった。

僕は摩耶花にこだわっていいものだろうか?
こだわらないことに決めたのに、摩耶花だけは例外なのかな?
(中略)
その答えが出ないうちに、去年のバレンタインデーが来た。バレンタインチョコは、一種の象徴だと思わないかい、ホータロー。摩耶花のチョコを受け取ったら、摩耶花にこだわると宣言したことになる、僕はそう思ったんだ。僕はまだ、上手い答えを見つけていなかったのに*2

なるほど、納得できるようでできない少しできる理屈だ。里志にとって「こだわらない」ということが非常に重要な指針となっていることも分かるし、そういった中途半端な気持ちで摩耶花に「こだわる」ことによって彼女を傷つけてしまうんじゃないか、という配慮があったということも分かる。それでも、よくよく考えてみれば「いや、その理屈はおかしい」という事に気付くだろう。

物事を単純に考えてみよう。もし里志にとって、摩耶花が本当に魅力のある女の子なら、自分のポリシーを捨ててでも摩耶花に「こだわる」はずで、そこに迷いは無いはずだ。里志の中に迷いがあるという事は、結局、彼は摩耶花のことを「こだわるに値しない」と考えてるって事だ。もうこの際はっきりと「ごめん。君は僕のタイプじゃないんだ。だからチョコは受け取れないし、付き合う事もできないよ」と面と向かって言えば良いのに、そうする勇気がないから、上のような理屈をこねて許しを乞おうとしている。

以上はあくまでも私の解釈であるから、里志の考えを擁護する意見も当然あるだろう。けど、自分が摩耶花の立場になったとして、里志から上のような理由を聞かされたとしたら、やっぱりそれで納得するということは到底できないと思う。実際、摩耶花も里志の理屈については全く納得していないようだ。

去年、摩耶花のチョコを蹴った後、僕らは話をしたんだ。何時間も。いまの話よりもっと詳しく、ね。(中略)結構手厳しいことを言われたよ。結局、摩耶花はわかるとは言ってくれなかった。でも、待つと言ってくれたんだ。*3

摩耶花が里志の理屈に納得できないのは当たり前だ。「待つ」と言ってくれただけでも御の字だろう。にもかかわらず、1年後のバレンタインデーでも里志は答えを出せず、摩耶花と千反田を傷つけた。これを「ぐう畜」と言わずして、何が「ぐう畜」だろう。

ホント、ヒロインからのチョコを受け取らないなんて、前代未聞だよ。『けいおん!』のあずにゃんは紆余曲折の末、何とかチョコを渡せたのに・・・。摩耶花ちゃんが可哀想すぎるわ!

古典部を覆うディスコミュニケーション

氷菓』と『けいおん!』は、同じ京都アニメーション製作のアニメで、なおかつ高校における部活動を描いた作品という共通点が見出せる。しかし、部員間の人間関係という点で言えば、両者は大きく異なる作品じゃないかと思う。

けいおん!』については、唯達5人は強く信頼し合っていて、彼女らの間で隠し事は一切ないような気さえする。学園祭や日々の活動を通して、彼女らは全ての感情や思いを共有できる。学園祭の感動も、あずにゃんが抱える不安も、全てを共有できる。それはある意味、私達が理想とする人間関係であり、『氷菓』で言うところの「薔薇色の高校生活」に極めて近いと言えるかもしれない。

それとは対照的に、古典部4人の関係は非常にさばさばしていて、軽音部のように4人いつもべったりという感じではない。例えば、摩耶花と里志は古典部以外にもそれぞれ漫画研究会・手芸部にも所属しているし、地域の有力者の娘である千反田もかなり顔が広いと言える。軽音部の内部にのみ焦点を当てた『けいおん!』とは異なり、古典部の面々は皆、古典部の外にも活動の「場」を持っている。

だがそれ以上に、軽音部と古典部を大きく分けるのは、部員間を覆うディスコミュニケーションに関することだろう。ディスコミュニケーションのない理想的な人間関係を描いた『けいおん!』に対して、古典部シリーズではディスコミュニケーションが前面に押し出されている。しかもそれは、アニメ『けいおん!』1期11話で生じた澪と律との対立のように時間をかければ解決するようなものではなく、どんなに頑張っても解決することのできない決定的な断絶だ。先で述べたように、チョコを受け取らない里志の理屈を、摩耶花が完全に理解できるようになる日は来ないだろう。

バレンタインチョコを里志が盗んだ件について、里志と折木は男同士1対1で話をした。そしてその内容については決して千反田や摩耶花の耳には入らないだろうという事が示唆されている。逆に、彼女らもこの件について秘密裏に話し合っているんだろう、という事も示唆されている。

この手の話は、里志が伊原に打ち明けていたのだとしてもやはり、野郎同士のものなのだ。その分、たとえば千反田と伊原も、女同士の話をしているのだろう。そしてその話は俺に漏らされることはなく、里志もまた今日の話がやつの全てではなく、もちろん俺も、里志に全てをさらけ出すわけではない。*4

古典部員4人が4人とも、内に秘めた思いを抱えており、それは決して表に出てくることはない。たとえ出てきたとしても、それは断片的なものに留まり、4人全員にそれが共有されるということは決してない。折木と里志しか知らない事、千反田と摩耶花しか知らない事、里志と摩耶花しか知らない事、そして、各人が内に秘めている事。

千反田だって、俺に嘘をついていないとは限らない。物事の見方は単一ではないというのは、これは今日もはや常識に属するのだ。なにしろ俺は、旧友といっていいだろう里志のことでさえ、あれほどわかっていなかった。誰も嘘をつかなかったとしても、こちらが勝手に誤解しているとか相手が勝手に曲解しているとかいうのも、これも実にありそうなことだ。
(中略)
俺にはわからなかった。もう何も、わかる気がしなかった。*5

ここには、どこまで行っても結局他人のことを完全に理解することなど不可能なのだ、という諦観が見え隠れする。そう、省エネをモットーとする折木は、見方を変えれば、ある種の諦観と共に生きる人間なのだ。

では、こういった断絶だらけの人間関係が悪い事かと言えば、決してそんな事はない。現実の世界を見てもそうだ。我々は、『けいおん!』に描かれたような何の軋轢も無い理想的な関係性を追い求める事よりも、むしろ、ディスコミュニケーションだらけの現実の関係性の中で上手く折り合いをつけて行く事に努力している。古典部だってそうだ。分からない事だらけの関係性の中でも、4人の絆は絶えることなく続いている。

作品全体を覆うディスコミュニケーション

そもそも古典部シリーズ自体が、想いが歪曲されることの悲劇や切なさを描いてきたと言える。『氷菓』では、関谷純の犠牲という悲劇が、英雄譚として歪曲される過程が描かれた。『愚者のエンドロール』では、「人が死ぬ話は作りたくない」という脚本家・本郷の意志に反して、出来あがった映画は密室殺人ミステリーだった。『クドリャフカの順番』でも、十文字事件の首謀者がこめたメッセージは決して伝わることがなかった。

こういったディスコミュニケーションの苦しみこそが、アニメ『氷菓』の描こうとしている青春のほろ苦さの正体であると言える。しかし、この苦しみと諦観の先で、それでもなお相手のことをもっと知りたい、喜びや悲しみを共有したいと願って行動する時、青春は灰色から薔薇色に変わってゆくのだろう。そして、そういった空間で感じる暖かさや居心地の良さこそが、OPにある「優しさの理由」に他ならない。

*1:参考:又吉イエス選挙ポスター

*2:遠まわりする雛』、P339〜340

*3:遠まわりする雛』、P341

*4:遠まわりする雛』、P342〜243

*5:遠まわりする雛』、P344〜345