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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『氷菓』『ハガレン』『銀の匙』―「7つの大罪」と「理解の不可能性」について

アニメ『氷菓』第6話で千反田が犯した罪は「憤怒」だった。授業進度を間違えた尾道先生に怒った千反田は、なぜ自分が怒らなければならなかったのか、つまり、なぜ先生は授業進度を間違えたのかについて執拗に知りたがった。そんな彼女の心の内を、折木は次のように分析した。

怒らない千反田が怒り、その理由を知りたがった。怒ることは悪いことではないと言いつつも、本当は、いつだって怒りたくなんかないのではなかろうか。だから千反田は、尾道の間違いにも三分の理があると考えたかった。そして、怒ったのは自分のミスだったと思いたいから、自分の怒りの理由を知りたがったのではないか。
千反田えるとは、そういうやつではないか?*1

しかし、ここまで来て折木は想像することを止めた。千反田の心理を探ること、正確に言えば、彼女のことを理解したつもりになることが重大な罪であるような気がしたからだ。

存在を知ってからたった二ヶ月の千反田に、「そういうやつではないか」とは何様だ。(中略)
そうだ。千反田の行動は、その目的がはっきりしている分、ときどき読めることがある。しかしだからといって、心の内まで読み切れると考えては、これはあれだ、大罪を犯している。「傲慢」ってやつだ。*2

ここには、他者の気持ちを完璧に理解することなど不可能だ、というある種の諦観がある(参考:『氷菓』とディスコミュニケーションについて - 新・怖いくらいに青い空)。折木の考え方を「冷めた見方」だと嗤うのは容易い。だが、落ち着いて考えてみれば、この世に完璧に理解しあえる人間関係など有り得るだろうか。自分の家族のことですら完璧には理解できていないのに、恋人や友達、ましてや国籍も宗教も違う人間のことを理解することが出来るのだろうか。もし、理解出来ると考えているのだとすれば、それは結局、自分の理解力を過信しているだけで、だからこそそれは「傲慢」と呼ばれるものなのではないか。

もちろん、他人の気持ちになって考えることは大切な事だ。だが、それよりも大切なのは、理解できないものを目の前にした時に、我々が何を感じ何を思うかではないだろうか。理解できない者に対しては何をやっても良い、では世の中は争いだらけになってしまうだろう。自分には理解できない世界があるという認識、そして、仮に理解できなかったとしても、それを頭ごなしに否定してはならないという認識。それこそが、謙虚さという美徳であり、他者と共に生きてゆく上で最も重要な考え方だと思う。

ところで、「7つの大罪」と聞いて『鋼の錬金術師』のホムンクルスを思い出した人も多いだろう。自然や生命の理を全て理解し、それを人為的に操作できる、と考える事もまた「傲慢」と言える。自然や生命、あるいは人生を完璧にコントロールすることなどできないのだ(関連:荒川弘私論―『百姓貴族』と「自然への介入」について - 新・怖いくらいに青い空)。『鋼の錬金術師』の作者・荒川弘氏の最新作『銀の匙』でも、人間の理解の不可能性に関する言及がある。

主人公・八軒勇吾らはある日、ばんえい競馬の厩舎を訪れる。そこで馬の世話をしているおじさんを見て「馬の気持ちがカンペキにわかるんスね」と感心していると、おじさんは笑いながらこう言う。

なに言ってんの! 馬の気持ちなんてカンペキにわかる訳ないっしょ!!
同じ人間同士でもわかり合えない奴がいるのに、種族の違うモンの気持ちがホントにわかる訳ねーべ!!*3

競馬や畜産の世界では、残酷な選択を下さなければならない場面が無数にある。病気になった牛や馬は容赦なく処分される。人間の都合で強制的に去勢したり、家畜の角を切ったりすることも日常茶飯事だ。そういう事実を知っているのなら、動物の気持ちが完璧に分かる、と考えるのはやはり「傲慢」なことなのだろう。

人間の気持ちひとつで一生を左右されるんだもんなぁ。
馬の気持ちが完璧にわかったら、俺ら気がおかしくなるかもしれん。*4

結局私たちは、千反田の心の内も、自然の理も、馬の気持ちも、完璧に理解することなどできない。だがそれは、決して落胆するようなものではないだろう。「無知の知」という言葉からも分かるように、自分はまだ何も理解していないんだという謙虚さを持つことによって、「傲慢」という大罪を犯さずにすむのだから。

*1:遠まわりする雛』、99P

*2:遠まわりする雛』、99P

*3:銀の匙』、第1巻、131P

*4:銀の匙』、第1巻、138P