新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ココロコネクト』第2話考察

※作品に対する様々な考え方を併記するために、対論形式の記事にしてあります。

『人格入れ替わり』の苦悩

司会者  さて、アニメ『ココロコネクト』第2話が終わりましたが、前回の対論で言われていたとおり、『人格入れ替わり』が引き起こす様々な苦悩がクローズアップされてきました。はじめに、その点について議論していこうと思います。

哲学者  『人格入れ替わり』が引き起こす深刻な問題は、誰かと入れ替わっている間にとった行動の責任が、全て入れ替わった相手に振りかかる、という事に尽きる。人格が入れ替わっている最中に、男子トイレと女子トイレを間違えた、胸を揉んでいるところを藤島さんに見られた、変な行動をして周りから不審に思われた、そういったミスは全て、入れ替わっている相手に跳ね返って来る。

生物学者  極端な話、例えば入れ替わっている間に不注意で誰かに怪我を負わせてしまった、あるいは、高価な物を壊してしまった、というような事があった場合にも、その社会的責任・金銭的責任を負わされるのは入れ替わった相手ということになりますよね。

九州人  そう考えると実に恐ろしい現象ですね。他人の車を運転してドライブに行くようなものです。これでは、入れ替わっているメンバーが親しければ親しいほど、相手に迷惑がかかるんじゃないかと怯えて、日常生活すらままならなくなるんじゃないでしょうか。

生物学者  『人格入れ替わり』が引き起こす問題点についてもう一つ挙げるとするなら、各個人の「感覚」の違いによるトラブルが考えられます。例えば、潔癖症の人が人格入れ替わりを経験したとしましょう。で、その入れ替わった相手が凄く不潔で、トイレに行っても手も洗わないような人だったとしたら? 潔癖症の人が、自分の身体でそんなことをされてると知ったら、物凄く不快に思うでしょう。自分にとってはOKだけど、人によっては不快に思う行為っていうのは、結構ありますよね。自分にとってNGな行為を、他の誰かが自分の体を使ってやるというのは、やられた側からしたら我慢ならないことでしょうね。

九州人  感覚と言えば、伊織と唯との間で生じた気持ちの齟齬についても、触れないといけませんね。伊織にとって、夜中一人で家にいることは当たり前な事であり、母子家庭である以上仕方のないことでもある。でも、唯にとっては物凄く危険で恐ろしいことに思えてしまう。おそらく、この二人が夜中に入れ替わった時、一人で過ごした唯(体は伊織)は不安で仕方がなかったんだと思います。だからこそ、「何かあってからじゃ遅い」と声を荒げるほど気持ちが高ぶってしまう。身体的な接触についても、伊織は男女分け隔てなく触れあって問題ないタイプだけど、唯は男性と接触することに抵抗を感じるタイプ。例えば、青木と唯が入れ替わった時に、伊織(体は青木)が唯をなでようとしたら、唯が拒否反応を示した場面。伊織の方は、第1話で唯が「変態がキモい言いがかり付けてくるよ〜」と言って抱きついてきた時と同じくらいの軽いノリで、唯に触ろうとする。でも、唯にとっては、その外見が青木である以上、女の子同士で抱きつく時とは決定的に違う抵抗を感じてしまう。そういった、微妙な感覚の違いが、人格入れ替わりという現象によって浮き彫りになって、色々なトラブルを引き起こしてしまうわけですね。

「意識」と「身体」と「他者」

司会者  申し訳ありませんが、唯の件に関しては、また次回じっくりと話したいと思いますので、今日はこの辺りで次のテーマに移りたいと思います。さて、青木と入れ替わった伊織が述べた問題提起は、このアニメを語る上で大変重要になるかと思います。まずは、それについて原作小説の表現を再確認した後、皆さんの意見を伺いたいと思います。

わたし達は暗黙の内に、魂というか意識というか人格というものでもって『わたし達はわたし達たり得ている』、と判断しています。それは今、【青木の身体】に永瀬伊織の魂が込められているこの存在を、わたし達は永瀬伊織として認める、ということです。しかし、そこで問題となってくるのは、その魂、もしくは意識、もしくは人格と呼ばれるものが、実は、非常に曖昧なものであるということです。 (中略) ですから我々は、『わたし達をわたし達たらしめている』のは魂、意識、人格と呼ばれるものだということを意識しつつも、普段は【身体】でもって『その人物がその人物である』ということを判断しているのです。 (中略) しかし、もし、その【身体】が――例えば人格入れ替わりで――曖昧なものになってしまったら? 我々は我々として存在し続けることができるのでしょうか?*1

九州人  これは非常に難しい問題です。そもそも、魂とは何か、人格とは何か、という議論から始めないといけませんね。

生物学者  その点については、漠然とではありますが、生物学的にはある程度結論が出ていると思います。まず大前提として、人格、意識、霊魂――呼び方は何でもいいですが、ここでは「意識」としましょう――といったものが、我々の身体から独立して存在しているということは有り得ません。我々が意識と呼んでいるものは、脳内での電気信号のやり取りや、化学反応、化学物質の分泌といった現象の結果生じたものに過ぎないのです。

司会者  もう少し詳しくご説明していただけないでしょうか。

生物学者  分かりました。我々生物は、進化の過程で単細胞生物から多細胞生物になり、構造もどんどん複雑化していきました。そういった中で円滑に生命活動を行うために、ある器官が捉えた刺激を他の器官に伝える必要性が生じたわけです。そのために出来たのが神経系なわけです。外界から受け取った刺激は、神経系で電気信号に変換されて他の器官に伝わって行きます。その神経系が寄り集まって、情報の交通整理を行っているのが、言うまでもなく我々の脳ですね。そして、生物の脳がさらに進化を重ねると、ある刺激に対していちいち反応するだけでなく、以前受け取った刺激を脳内に情報として保持しておくことができるようになる。これによって記憶・感情・思考といった複雑なシステムが生まれてゆく。結局のところ、脳の活動、具体的に言えば、脳内での電気信号や化学物質のやり取りの事を、我々が便宜上「意識」と呼んでいるに過ぎないわけです。

哲学者  言っていることは分かるが、感覚的にはどうも納得できない話だ。例えば、稲葉んを見て可愛い・綺麗だ・好きだなどと思うこの「感覚」が、なぜ脳内の化学反応のようなものによって生じてくるのか、そのメカニズムはほとんど解明されていないではないか。他にも、我々が赤いりんごを見てそれを「赤い」と思う感覚、自分の体の中に「自分」という存在が「いる」と思う感覚。私が知りたいのは、それらの感覚が脳内の化学反応によって生じてくるメカニズムなのだよ。

生物学者  痛いところを突いてきますね。確かに、今おっしゃったような感覚、つまり「クオリア」の問題は、現代科学でも十分に説明できない未知の領域です。人間の意識とかクオリアといったものが、あまりにも主観的で漠然とした概念だからです。しかし、考えてみてください。例えば地震や雷や伝染病のような、かつてはよく分からず、神などの超常的な理由でしか説明出来なかったものも、科学の進歩によって合理的に説明できるようになりました。ですので、ここで問題となっている意識やクオリアについても、科学の進歩によって原理を解明できる日が来ると私は信じています。

司会者  ありがとうございました。とりあえず「意識」と呼ばれるものの科学的位置付けについて理解できたところで、次の意見を伺いたいと思います。

哲学者  伊織は、自分を自分たらしめている「身体」というものが、人格入れ替わりによって曖昧になることを怖れているように見える。しかし、そもそもこの身体というものは、非常に曖昧なものではなかろうか。例えば、我々は自分の顔や背中や内蔵について、一体どれだけの事を知っているだろうか。もちろん、鏡やカメラや内視鏡を使えば、それらを間接的に見ることはできるが、自分の目で直接それらを見ることは絶対に出来ない。もっと分かりやすい例が、病気にかかった時や怪我を負った時だ。我々は普段、自分の身体を「所有」していて、それを自由に使えると思い込んでいるが、いざ病気になると、それが全く思い通りに動かせなくなる。むしろ医者や看護師さんの方が、自分の体の事を理解してくれているような気さえする。このように考えれば、身体の曖昧さという問題は、「人格入れ替わり」どうこう以前からずっと付きまとっている問題であるように思う。

九州人  それでは、結局のところ、我々を我々たらしめているものとは、一体何なんでしょうか?

哲学者  我々が我々自身を知ろうとする時、重要な鍵となるのが「他者」の存在だと思う。我々の意識・人格・性格と呼ばれるものは全て、他者との関係性の中で形成されるものだ。それに我々は常に、他者から影響を受けたり、他者に影響を与えたりしながら生きている。さらに言えば、我々が何らかの価値判断を下すためには、その比較対象となる何かが必要となるわけだ。つまり、我々が自分について知りたいなら、必然的に他者との比較の中でそれを知るしか術がないのではなかろうか。例えば、「あの人は怒りっぽい人だ」という場合、それは要するに「あの人は、世間一般の平均的な人と比べると、怒り出す頻度が高い」という意味であって、やはり「他者との比較」という要素が入らざるを得ない。

生物学者  もっと言うなら、その「怒る」という行為自体も他者が居ないと発生しないものですよね。その人が多忙でストレスの多い環境で生活していたら、当然怒りっぽくなるでしょうし、逆に、心に余裕を持って生活出来ていれば、頻繁に怒ることもないかもしれない。つまり、我々の性格、さらに言えば、意識全般が、他者との関係によって変化し得るということです。

九州人  そのように考えるなら、伊織の心配は杞憂に終わりそうですね。結局、意識や身体はどこまで行っても曖昧なものですし、周囲の影響を受けて変わっていくものである以上、一人で悶々と考えていても仕方がない。それこそ、家族や友人や文研部のメンバーとの関わりの中で、自分というものを見つけてゆくしかないですね。

哲学者  私はむしろ、この「人格入れ替わり」という経験は、伊織の不安を解消する方向にはらたくと思う。自分の「身体」から一旦離れて、それを客観的に見るという経験は、自分という存在を見つめ直す上で非常に良い方法ではないだろうか。私も、出来ることなら「人格入れ替わり」を体験してみたいと思う。

生物学者  いや、やっぱり身体と意識はセットでしか存在し得ない。その意識が入れ替わるなんて、そんなオカルトありえません!

ふうせんかずら

司会者  さて今回、人格入れ替わりを引き起こす黒幕として〈ふうせんかずら〉という存在が登場してきたわけですが・・・

生物学者  フウセンカズラムクロジ科の一年草で、夏に白い小さな花を咲かせ、ホオズキのような実をつけます。種には白いハート型の模様があり、オープニングにも登場しています。「ココロ」に関係する植物であるからこそ、本作でこの植物が選ばれたのだと思います。

九州人  それにしても、〈ふうせんかずら〉の声優である藤原啓治の演技が凄かったですね。彼がアニメで悪役を演じる場合、『とある魔術の禁書目録』の木原数多や、『TIGER & BUNNY』のジェイクのように、憎たらしいほどに感情豊かに演じていることが多かった気がします。しかし、今回は全く抑揚のない、何を考えているか分からないような声で演じていました。原作で読んだ時には、これほどまでに感情のない声だとは想像もつかなかった。

哲学者  あの感情のない雰囲気は『魔法少女まどか☆マギカ』のキュゥべえに近いのかもしれない。キュゥべえも〈ふうせんかずら〉も、人類とは全く相容れない思考を持ち、人類には根本的に理解できない存在であるように感じる。

校外清掃と『とらドラ!

司会者  他に何か気になったシーンなどはなかったでしょうか。

九州人  太一が放課後の校外清掃に志願したせいで、稲葉が無理やり掃除に参加させられる場面。あれは『とらドラ!』を彷彿とさせる場面でした。進んで掃除を買って出るなんて、お前は高須竜児かと。

アニオタ  いいえ、実を言いますと、竜児は自ら進んで校外清掃に参加したわけじゃありません。その場面があるのは『とらドラ!』の第6話、原作では第2巻ですが、竜児は自分の家や学校を掃除することには喜びを感じていますが、公共空間はいくら掃除してもきりがないので、掃除したいとは思っていないんです。竜児が校外清掃に参加したのは、北村とお近づきになりたい大河に無理やり手を挙げさせられたからでした。

哲学者  まさにここが重要なポイントのように思える。つまり竜児の場合、掃除をするのはあくまでも自らの喜びのためだ。一方で太一は、クラスメイトが渋る中、率先して嫌な役を引き受けており、自己犠牲的な精神から掃除を引き受けていることが分かる。

生物学者  そう言えば、『とらドラ!』では、そういった自己犠牲が否定され、誰もが犠牲になることなく幸福になれる道が選択されましたよね。同じ理屈で、太一の自己犠牲行動についても、色々と問題が噴出してきそうです。

司会者  申し訳ありませんが、自己犠牲の問題については、今後またじっくりと議論をしていきたいと思いますので、今日はこの辺りで終りにしたいと思います。最後に、何か言い残す事がある方はどうぞ。

九州人  今回も稲葉んの色んな表情が見られて満足でした。特に、太一と入れ替わった稲葉(中身は太一)が見せる多彩な表情は、まさに可愛すぎると言う他ありません。

哲学者  ちょっと待ちなさい! 先程、伊織の「わたし達は (中略) 人格というものでもって『わたし達はわたし達たり得ている』、と判断しています」という言葉を確認したばかりじゃないか。中身の人格は太一なのに、なぜ外見だけの稲葉んを見て「稲葉ん可愛い」という感想が出てくるのだ。それとも、君は、外見だけで「稲葉んは稲葉んたり得ている」と判断しているのかね?

九州人  それとこれとは話が別です。人間は、他人の中身に魅かれる事もあれば、外見に魅かれる事もあるんです。もちろん、私は稲葉んの両方ともを愛していますよ。あんな魅力的なキャラクターはそうそう居ない。だから太一は、伊織の胸ではなく、稲葉んの胸の揉むべきなのです。

司会者  えー・・・戯言はこれくらいにして、本日の対論を終わりたいと思います。

*1:第1巻、104〜105P