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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『てんむす』と勝負の世界におけるセオリーについて

大食い競技を題材にした漫画『てんむす』は、スポ根ものの少年漫画にありがちなイケイケドンドンの精神論者を排して、極めて理論的な戦いを描いている点が面白いと思います。大食い競技で勝つためのセオリーというものがしっかりと決まっていて、各選手は多かれ少なかれそれに沿った戦いを展開します。そのセオリーとは、

  • 一口一口を落ち着いてリズム良く食べること
  • 水を飲む回数を最小限に抑えること
  • 熱い料理は極力冷まして食べること

といったものが挙げられます。いずれにせよ、目の前の料理と真摯に向き合い、試合に集中し、着実にこのセオリー通りに食べ進める者が最終的には勝つ、というストーリーになっているわけですね。

そういった意味で、主人公・天子は最初から凄くイレギュラーな存在です。彼女にはセオリーも戦略もありません。ただ、美味しい物をたくさん食べたいという欲望に従うがままに食べ進みます。しかし、その天子は中部予選の3回戦でとうとう打ちのめされます。熱い麻婆豆腐をほとんど冷まさずに食べ続けたせいで、口の中に火傷を負ってしまいます。初めての敗北を経験して泣き崩れる天子は、ここでようやくセオリーの重要性を知りました。

でも、ここで面白いのは、この時の天子の対戦相手だった以勢日輪高校・烏井さんも、終盤はセオリーを捨てていたということです。彼女はこれまで先輩達が編み出してきた必勝法に忠実に従って食べ進めてきましたが、火傷を負いながらも懸命に食らいついてくる天子を見て「このままでは勝てない」と悟り、最後の最後でそのセオリーを捨てるんですね。ラスト5分、火傷のリスクを負いながら懸命に麻婆豆腐をかき込み、僅差で勝利を手にしました。セオリーを破って試合に負けた者と、セオリーを破って試合に勝った者という対比がそこにはあります。

天子のような元々才能がある人は、最初は自己流の型破りな方法をとりがちになります。最初のうちはそれでも勝って行けるのですが、戦いのレベルが上がるにつれて才能だけでは勝てない所に到達し、彼女らはそこで初めてセオリーの重要性に気付くわけです。何故セオリーが重要なのか。それは、先人達が研究し尽くして、最も良いとされている方法だからです。しかし、状況によっては、そのセオリーが全く通用しないような場合があります。そう言えば、将棋の羽生善治さんが以前何かのインタビューで、「定石が絶対だと思わない方がいい」ということを言っていました。状況を的確に見極めて最良の食べ方を貫いた烏井さんと、自己流で突っ走って自滅した天子。定石・セオリーと呼ばれている方法に向き合う姿勢の違いが、勝敗を分けました。

さて、敗北を知った後の天子の成長は目覚ましいものがありました。彼女は続く中部予選準決勝で、今度は完全にセオリー通りの戦い方をして勝利を手にしました。この時出された料理はわんこそばでしたが、天子は、

  • 定期的に汁を捨てながらそばだけを食べること
  • そばを注いでくるおばあちゃんと呼吸を合わせてテンポ良く食べること
  • 顔やお椀を極力動かさず、最小限の力で食べ続けること

などのセオリーを忠実に守って戦いました。それはさながら、恐いもの知らずだった子供が現実に打ちのめされて、無難な方法を選択する大人になっていくようなもの悲しさを伴っています。

そんな彼女に訪れた最後の試練は、天食祭決勝戦でした。熱いラーメン、照りつける太陽、勝たなければというプレッシャーが、容赦なく天子を襲い、食べ進める手が止まってしまいます。そんな時、昔の彼女を知る天咲が「あんたは…いつだってバカみたいに楽しそうにゴハン食べてなさいよ」と語りかけます。その声にハッとなった天子は、ようやく楽しく食べるという自分のスタイルを思い出し、試合に望むことが出来るようになりました。

これはどんな競技にも言えることですが、勝つためのセオリーが確立された世界では、最上位の選手達の力は拮抗していきます。ウサイン・ボルトのような規格外の選手でもいない限り、勝負は0.01秒を争う僅差の戦いになります。そんな中で、最後の最後に勝利をつかむ鍵となるのは、天子のように「楽しく競技をする」という才能、言い換えれば、「苦労を苦労と思わないで戦える」才能なのではないでしょうか。この競技を楽しむという才能によって栄光を手にした実際のアスリートとして、私がすぐに思いつくのは高橋尚子ですね。彼女は、シドニーオリンピックでゴールした直後のインタビューで「凄く楽しい42キロでした」と答えています。

『てんむす』に描かれているのは、ハイレベルな戦いの中で勝つにはどうすれば良いのか、そして、勝負の世界における才能とは何か、という普遍的な問いだと思います。大食い漫画が好きな方には是非おすすめします。といっても私も『てんむす』以外には、土山しげるの『喰いしん坊!』くらいしか読んだことないですけど。