新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『安達としまむら』に描かれた閉塞的な百合の世界

安達としまむら』のような百合を前面に押し出したライトノベルは、入間人間が書かなくても遅かれ早かれ誰かが書いたと思う。『らき☆すた』『けいおん!』『Aチャンネル』『ゆゆ式』をはじめとする日常系4コマ漫画を原作とする作品群、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』『ガールズ&パンツァー』『うぽって!!』『ストライクウィッチーズ』といった少女ミリタリー系作品群、『キルミーベイベー』『かなめも』『ゆるゆり』『じょしらく』といったギャグ・コメディ系作品群。これらのアニメ作品に共通するのは、主要な登場人物が全て女性であるという「男性不在」の傾向だ。しかし、このような近年のアニメ界の潮流に反して、ライトノベルの世界では依然として、「男性主人公1人に複数のヒロイン」というハーレム系作品や、学校を舞台にした学園ラブコメ的物語が持て囃されているように見える。前者は『ゼロの使い魔』『ソードアート・オンライン』『IS <インフィニット・ストラトス>』『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』『とある魔術の禁書目録』など、後者は『とらドラ!』『ココロコネクト』『さくら荘のペットな彼女』など、例を挙げればきりが無い。もちろん少数の例外は存在するが、ライトノベル界の主流は今でもハーレム系と学園ラブコメである。しかし、アニメや4コマ漫画の世界に広がった男性不在の傾向を、ライトノベル側が無視できるわけもなく、ついに『安達としまむら』という、女子高生の淡々とした日常と百合の雰囲気を全面的に押し出した作品が登場してきたわけだ。これは歴史の必然だったと思う。

安達としまむら (電撃文庫)

安達としまむら (電撃文庫)

安達としまむら』は、入間人間が編集者から「ゆ○○○みたいなのを書いてくれ」と言われて書いたというだけあって、『ゆるゆり』のようなライトな百合描写を前面に押し出した作品となっている。しかし、両者が決定的に異なるのは、『ゆるゆり』では開かれた空間における友人関係の延長線上としての百合が描かれているのに対して、『安達としまむら』では負の感情とディスコミュニケーションを強調した閉塞的な百合が描かれているという点である。そういった意味で、入間自身も指摘しているように、この作品は『ゆるゆり』ではなくむしろ、それと同じ作者の描いた同人誌『ゆりゆり』に近いと言える。

作中のしまむらには、永藤と日野という友達がいる。ヤシロという名の、宇宙服を着た謎の少女からも懐かれている。これに対して安達には、しまむら以外には友達がおらず、しまむらに対する独占欲が強い。こういう人間関係っていうのは現実には多く存在しているけれども、日常系4コマ漫画やアニメで描かれることは稀だと思う。例えば『ゆるゆり』などは、両想い・片思いを問わず、様々な「恋愛」感情を伴った関係性が入り混じっているけれども、それらの関係性と同じくらいに大切な友人関係(部活動・生徒会・クラスという空間における関係性)も存在していて、登場人物達はその両方を大切にしている。あるいは、『Aチャンネル』では、当初トオルは、るんに対して強い独占欲を持っていて、ユー子やナギのことを良く思ってなかったけれども、次第に4人の関係性を受け入れるようになっていき、同じクラスの中にも友人関係を持つようになった。るんだけを見ていた「閉塞的な百合」から、るん以外の友人関係も大切にしたいと思える「開かれた百合」への転換。これはアニメ版『けいおん!』における律と澪との関係にも当てはまるかもしれない。

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このような「閉塞的な百合」から「開かれた百合」への転換が日常系作品で描かれてきたのに対して、安達のしまむらに対する感情は最後まで閉塞的なままだ。永藤や日野が嫌いなわけじゃないけれど、でもやっぱり自分とは合わないような気がする。しまむらだけを見ていたい、しまむらも自分だけを見ていてほしい、という感情。こういう微妙な安達の心情を丁寧に描いた作者はやはり凄いと思う。というのも、私自身も安達のような感情を抱いた時があったからだ。あの人ともっと話をしたい、もっと親密になりたい、と思うような事が、同性に対しても異性に対しても、これまで数回あったけど、これは普通の恋愛感情とか友人関係とかとは決定的に異なる何かだと思う。私にも、話をしていて楽しい気の合う友人・先輩後輩は何人かいるけれども、その人達に対して「もっと一緒にいたい」とか「ずっと見ていたい」とか思ったことなんて、はっきり言って1度もないですよ(笑)。でも、人生のうちで数回だけ、そういう風に思える関係性というものがあって、それこそが安達のしまむらに対する感情なんだと思う。これを言葉で上手く説明することは非常に難しい。この閉塞感をそれとなく示唆することはアニメや漫画でも可能ではある。

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しかし、この閉塞感を前面に押し出して描くことは、ライトノベルじゃないとなかなか出来ないことだ。なぜなら、ライトノベルや小説は、登場人物の内面を徹底的に描くという性質のメディアだからだ。アニメが漫画タイムきらら的、ゆるゆり的な開かれた百合を得意とするのに対して、徹底的に内面を描くことのできるライトノベルでは、必然的にそれは閉塞的なものになる。言い換えれば、閉塞的なものの方が美しく見えるのだ。美しい閉塞的な百合の世界を見せてくれた『安達としまむら』は、今後のライトノベルの潮流を変える転換点になるかもしれない。