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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ステラ女学院高等科C3部』に描かれた「虚像」の世界

「模倣」と「虚像」

アニメ『ステラ女学院高等科C3部』第4話の脚本を担当された、さかもとたけしさんがTwitterで次のように述べている。

題材の「サバゲー」ってそもそも「模倣」で「虚像」なんです。で、アニメっていう表現も「模倣」で「虚像」。その2段重ねをどうやって成立されるかが取り組んでて面白かったです。

確かに、サバゲーもアニメも、どちらも模倣で虚像なんだろうと思う。しかし私は、それを言うのなら、ありとあらゆるスポーツやゲームは戦争の模倣であり、虚像なんだと思う。競技・チェス・囲碁といったボードゲームは、明らかに戦争における兵の動き方を模して作られている。また、兵士同士の戦いや訓練を起源とするスポーツは少なくない。スポーツやボードゲームは、まさにルール化された戦争に他ならない。だからこそ、大きなスポーツ大会は物凄く白熱する。戦争で負けるのと同じくらいに、自分の国がスポーツで負けるのは悔しい。時には行き過ぎて、本当の戦い(乱闘やフーリガンなど)も起こる。これは、「虚像」であるスポーツの中に「実像」が混じりこんだ例と言えるだろう。

逆に実際の戦争の中に「虚像」が混じる場合もある。例えば、中世の武士達の戦は、武士道精神や騎士道精神に則ってある程度ルール化された中で行われるのが普通だった。であるからこそ、鎌倉時代の武士たちはルール無用で突っ込んでくる元の軍団に歯が立たなかったのだろう。現代の戦争でも、それが守られるかどうかは別として、戦場で行ってはならない行為が国際法で定められ、一定のルールの下で戦いが行われている。これらは、「実像」である戦争の中に「虚像」が混じりこんだ例だ。このように、純粋な実像、純粋な虚像というものは存在せず、我々人間は実像と虚像が入り乱れた中で戦争やスポーツをやっているのだろう。

これは個人的な意見だが、実像と虚像のちょうど中間点に位置するものとして、『NARUTO』の中忍試験を挙げたい。観客や試験監督のいる中で明確なルールに則って行われる一方、戦闘自体は実際の戦争とあまり変わらない。中忍試験は戦争という側面と、スポーツという側面を、等分に併せ持っている。

話をサバイバルゲームに戻そう。この競技は実際の戦争を忠実に模倣している。その忠実さは、類似するオリンピック競技である射撃やバイアスロンと比べても非常に高い。そういった意味で、サバゲーは「実像」に近い「虚像」であると言える。上の例からも分かるように、「虚像」の中にある「実像」性を高めていくと、それはいずれ戦争と区別がつかなくなる。ところが、サバゲーは実際の戦争とは似て非なるものだと言ってよい。なぜならば、サバゲーは自らの死=ゲームにおける負けを自己申告するという、極めて「虚像」的な特徴を持っているからだ。

プレイヤーの矜持

アニメ『ステラ女学院高等科C3部』のホームページにある「よい子のためのサバゲー講座 #4」には、サバゲーをする上で特に重要なルールが書かれている。サバゲーでは、自分の体に弾が当たったなら「ヒット」とコールして速やかにフィールドから退場しなければならない。つまり、ゲームの勝敗がプレイヤーの自己申告に委ねられているのだ。

そのら「サバゲーで『バレなきゃオッケー』をやったら最悪サバゲーフィールドから追放だ (中略) なぜなら、そいつはもうサバゲー仲間じゃないからだ。自分が撃ったBB弾に『ヒット』されてくれる仲間だって信頼してるから、安心して撃てる。 (中略) 相手だって同じだ。ゆらがいくら悔しくても正直にヒットコールするって全面的に信頼して、銃口を向け、銃弾を飛ばしてくる」

この記事を書くにあたって、サバゲーのルールが書かれているサイトをいくつか見たが、この事は必ず重要なルールとして記載されていた。フィールドには審判もいないし、ヒットの有無を判定できる機械もない。どんなに悔しくても、ヒットされたら正直に負けを認めるという事をしなければ、サバゲーという競技は成立しない。そういった意味でサバゲーは、プレイヤーの矜持が試されるゲームであるとも言える。

おそらく、他のあらゆるスポーツも始めのうちは、競技者の矜持によって成立している面があったのだろう。だが、大会が巨大化し、政治や経済の問題が絡むようになると、そういう牧歌的な状況はなくなっていく。「ズル」を防止するため、公平性を保つためといった理由によって、ルールは明確化され、審判やビデオ判定などによる公平な判定が行われるようになる。誤解を怖れずに言えば、今日のスポーツは最早、スポーツマンシップなど持ち合わせていなくても、客観的に勝敗を決定できるように上手くルールが組み立てられているのだ。

しかしサバゲーは、ヒット判定という最も重要なポイントを自己申告に任せている競技であり、スポーツマンシップが無ければ全く成立しない競技であると言えるだろう。最も「実像」に近い形態をしたスポーツでありながら、「虚像」であるスポーツマンシップに完全に依存しているのが、サバゲーという競技のユニークな点だ。

「仮想」と「現実」

プレイヤーの矜持と言えば、『ソードアート・オンライン』第4巻に、次のような一文があった。

このゲームには、どこかプレイヤーを試してくるところがある。近頃リーファは強くそう感じる。
試されるのは、大仰に言えば、矜持ということになるのだろう。ゲームなのだから、当然勝ちっぱなしというわけには行かない。敵対種族のプレイヤーの仕掛けに嵌まって進退窮まることも、正面から叩きのめされて一敗地に塗れることもままある。
そんな時、どこまで真剣に足掻けるか、あるいは負けてもなお胸を張れるか。それをこのゲームは試してくる。
(『ソードアート・オンライン』、第4巻、43-44P)

SAOにおける仮想空間もまた、人の死なない「虚像」の世界だ。しかし、SAOでは一貫して、現実世界と仮想世界は本質的に全く同じものである事、現実世界ですら無数にあるレイヤーのうちの1つでしかないことを描いてきた。ゲームの中での死と現実の死が直結していた第1巻の世界観はまさに、この現実と仮想の同一性を象徴している。

『C3部』もまた、ゆらの頭の中にある仮想空間と現実が頻繁にリンクする。試合中は必ず、ゆらが心の中で見ている実際の戦場の光景が挿入される。弓道場に生まれた仮想空間での出来事が、現実世界の歴史すら変えてしまう。そもそも「ゆら」という名前が、現実-仮想間の「揺らぎ」を連想させる。サバゲーにおける仮想の恐怖や喜びや悲しみを、現実世界のそれとして感じることのできる能力。おそらく、サバゲーのような仮想の世界で真剣に足掻くからこそ、そこに楽しさが生まれるのだろう。そのらの言う「楽しんだ者が勝ちだ」というのは、そういう事だと思う。

たとえサバゲーで負けたとしても、死ぬわけではない。サバゲーはあくまでも「仮想」の戦争であり、ただの遊びだ。しかし、その遊びに、どれだけ真剣になり、感情を震えさせることができるかが試されている。そして、逆説的ではあるが、このサバゲーという遊びに真剣にならなければ、それを好きになることも、楽しいと思う事もできないだろう。その仮想世界での真剣さは、時として現実世界ですら変え得る。内気で物静かだったゆらが、サバゲーを通じて積極的な性格に変わっていったという事実もまた、広くとらえれば仮想と現実がリンクしている実例なのかもしれない。

アニメという「模倣」と「虚像」の世界で、サバゲーという「虚像」をどのように描くのか、そして、その「虚像」の中に「実像」がどのようにリンクしてゆくのか。今後も『C3部』から目が離せない。