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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『俺の目を見てボクと言え!』を読んで「ボクっ娘」と差別の問題について考えてみた

ライトノベル

日本語の中には無数の一人称代名詞があふれている。私は男だが、普段話し言葉で自分を表す場合には「俺」を使う事が多い。先輩や先生の前では「僕」、かしこまった場面や文章中では「私」を使う頻度が増える。本や漫画の中では、これ以外にも、「わし」「おら」「吾輩」「小生」など、様々な一人称を目にすることができる。また、日本語における一人称は、単に自分を指し示すだけでなく、その人の大まかな性格・行動パターンを映し出す場合がある。作中の登場人物が「僕」を使うか、「俺」を使うかによって、読み手の受ける印象は大きく変わってくる。女性の場合、ほとんどが「わたし」を使うわけだが、それが「私」と書かれるか、「アタシ」などと書かれるかによって、印象が少し異なってくる。ましてや、「わたくし」「あたい」「うち」などの一人称を使っていれば、なおさらだ。その中でも、最も強烈なインパクトを与えるのが、本来ならば男性しか使わない「僕」「俺」という一人称を女性が使っている場合だろう。

女の子が「ボク」を使うだけで、「中性的」または「ボーイッシュ」という印象が強く増幅される。また、そんな中性的な子が時折乙女チックな姿を見せることで、そこに「ギャップ萌え」の要素が見いだされる。こうして、一人称「ボク」は「ボクっ娘」という萌え属性をも生み出したのだ。一方、女性が「オレ」という一人称を使った場合には、中性的というよりも「男勝り」で「粗野」という印象が強まる。言葉遣いや行動が「乱暴」といった印象も出てきてしまう。であるからこそ、「ボクっ娘は大好きだけど、オレっ娘はちょっと・・・」という人も結構多いと思う。

ライトノベル『俺の目を見てボクと言え!』の主人公・大智は、ボクっ娘が大好きで仕方がない高校生だ。理想のボクっ娘を求めて、元々名門女子校だった嶺永学園に入学し、そこで昔の幼なじみ・淵花と再開する。しかし、泣き虫で引っ込み思案だった彼女は、いつの間にか男勝りな性格に変わってしまい、自分のことを「オレ」と呼ぶようになっていた! その事に落胆し激昂した大智は、淵花を「更生」させるために、ことあるごとに彼女に勝負を挑んでは「ボク」と言わせようとする。その他にも、学園の女生徒に片っ端から声をかけては「ボクって言ってください!」などと迫り、風紀委員である淵花を困らせる。

本作では、このような場面を実に馬鹿馬鹿しくコミカルに描いているが、大智のやっていることは、現実の世界では決して許されるものではない(もちろん作中でも、大智は多くの生徒からひんしゅくを買うわけだが)。性同一性障害や方言話者への差別の例を出すまでもなく、その人が生まれて以来積み重ねてきた話し方を、自分勝手な都合で変えるように強要することは、慎むべき行為だ。上で述べたように、言葉は本来の意味とは別に、その人の性別・性格・思想などを映すものでもあるから、それを「自分の性的欲求を満たすため」といった邪な目的で変えようとすることは、その人の人格を否定することにも繋がる。大智の「『オレ』じゃなくて、『ボク』と言え!」という主張の背後には、「女は(もしくは淵花は)、『オレ』なんていう野蛮な言葉を使うべきではない、ボクっ娘のように中性的な魅力を備えた存在であるべきだ」という、独善的な考え方が見て取れる。

本作は、本来ならば単なる一人称代名詞でしかない「ボク」という言葉が、それ以外の様々な意味を含んで「ボクっ娘」という萌え属性にまでなるという不思議、しかも、その「ボク」が「オレ」に変わっただけで、印象がまたガラリと変わってくるという不思議を、余すところなく描ききっている。その背後では、日本語という言語の複雑さや、様々な萌え文化、「女はこうあるべき」という男性側の抱く女性観などが複雑に絡み合い、言葉に関する差別や偏見がどのようにして生まれてくるのかを我々に教えてくれている。