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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『銀の匙』第6話考察―分業化によって遠ざかった「死」を実感するということ

近代化とは、生産プロセスの分業化の歴史でもある。かつては一つの家族や村で衣食住に関するあらゆる物を生産していたのが、近代以降になると、食料は農村で、衣服は工場で、工業製品はまた別の工場で、という具合に別々の場所で生産されるようになった。例えば、肉という食料品だけをとってみても、家畜の飼育を行う人、肉を加工する人、流通や販売を担う人、という風に細かい分業が進んでおり、その肉が最終消費者の手に届くまでには途方もない数の人間がそれに関与している。我々消費者が目にすることができるのは、様々な処理を施された後の肉の塊、あるいは、すでに調理までされて後はもうレンジでチンするだけで食べられる状態の加工品だけだ。この分業というシステムのおかげで、我々は様々な恩恵を受け、この豊かな社会で暮らしてゆけるわけだけど、それは同時に、かつては全ての人が身を持って実感していた、生きるために他の命を奪うという営みを遠ざけてしまったのではないだろうか。それは言い換えれば、我々の生活から「死」というものが遠ざかったということに他ならない。

「君は人生全部、学校で習うんかい?」 御影のおじいさんは八軒にこう詰め寄っていたが、そもそも学校という施設自体が、近代における分業化の産物と言えなくもない。教育の分業化によって生まれたのが、教師という職業であり、学校という場だ。学校で私たちは、近代社会で生きるための知識を学ぶことができるわけだが、生きるという事が他の生物を殺すという事に直結しているという「実感」を学ぶことはなかなか出来ないだろう。獣をさばく時の生々しくグロテスクな光景、獣の腹に包丁を入れた時に手に伝わる嫌な感触、他の生き物を殺すということの重み。それらは全て、自らの体を動かすこと、つまり、実際に「労働」することでしか知る事のできないことだ。

自分で解体したシカの肉を食べる時、八軒は、念入りに洗ったはずの自分の手から血の臭いがまだ取れていないことに気付いた。それはまるで、たとえどんなに分業化が進んで「殺す」という行為が遠ざかったように見えたとしても、我々は決してその行為から逃れることはできないのだ、という事を暗示しているようだ。と同時に、自分の体と手を動かして覚えた知識はずっと体に染み込んでいて、それが八軒にとっての生きる糧になるのだということも示唆しているように感じた。

作者・荒川弘の実家は、酪農とジャガイモの栽培を営む農家であり、家訓は「働かざる者食うべからず」だったという。作者が幼いころからの労働を通じて培ってきた生命観・倫理観が、その後『鋼の錬金術師』という作品を生み出したように、今回八軒の手に染み込んだ血の臭いも、いつか必ず活かされる日が来るだろう。