新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『キルラキル』はノーパン主義

「制服」と「鋏」、「自由」と「服従」

ブラジャーを考えた人は誰だろう。よくもまぁあんなものを思い付いたもんだ。天地がひっくり返るような発想だ。(中略)
そう考えてみれば、パンツを発明した人はもっと凄い。今もって老若男女全てを束縛している。人はパンツを穿き続ける限りその者が作った枠組みの外には出られない。パンツを作った人物こそが世界の王であり、支配者であることがこれで明らかになっただろう。そのことに気付き、自由を欲した者がノーパン主義者になる。だからノーパンは自由主義の証なのだ。
2月28日(日) パンツ : ナトラス日記より引用)

アニメ『キルラキル』において、「制服」は「征服」に通じ、服従・管理・規律を象徴する。生徒会長・鬼龍院皐月とその信奉者たちが掲げているのは、ファシズム全体主義軍国主義といった、抑圧と暴力による支配を基調とする思想だ。それに対抗する主人公・纏流子が持っている「鋏」は、そんな旧態依然とした権威からの決別を象徴するものだ。彼女は、自由を愛するリベラリストであり、自由のために戦う革命家なのだ。そして、その自由主義は自ずと、ノーパン主義・ヌーディズムへと帰着してゆくことだろう。為政者からの理不尽な支配に対して、露出の多い前衛的な服装で不服従の意を示そうとするのは、世界共通のことなのだ。

ハンガリー南西部にあるカポシュバール大学(Kaposvar University)では前日の2日、学長が学生らに対し、授業や試験に出席する時には保守的な服装をすることを命じる通達を出した。(中略)
しかし、学長は夏の暑さ対策としての軽装は認めたため、一部の学生が下着姿で授業に出た。「きちんとした服を着ていたんだけど、教室があまりに暑いから脱いじゃったの。それは許可されているでしょう」
ミニスカート禁止に下着で抗議、ハンガリーの大学 - ライブドアニュースより引用)

自由主義リベラリズム)は元々、既存の体制に反対する勢力、すなわち左翼と親和性が高かった。それは言うまでもなく、彼らの活動が、絶対王政時代の特権階級に対して言論・信教・経済活動などの自由を求めて戦ったブルジョワ革命に起源を持つからだ。しかし時が経ち、経済活動の自由による弊害として貧富の格差が拡大していくにつれて、左翼=自由主義という単純な図式は成り立たなくなっていく。多少自由を制限してでも「平等」であることに重きをおく考え方、すなわち社会主義的な立場が左翼の代名詞となっていくのだ。かつて左翼が掲げていた「自由」という価値観は、今度は右翼によって掲げられるようになった。例えばアメリカでは、個人の自由を広範囲に認めようとする立場を取る共和党が「右翼」とされているし、日本で右翼的な政党とされるのも「自由」民主党だ。

今や、右傾化したネット世論の中では、自由を声高に叫ぶことは時代遅れで恥ずかしい行為であると見なされる。ありとあらゆる自由が認められたこの民主主義社会で、それでもなお自由を叫ぶのは単なるエゴイズムだと認識されるのだ。しかし、残念ながら、私たちを拘束する理不尽な権力は、決して無くなっていない。それはあたかも、私たちが毎日身につけている下着のように、あまりにも当たり前すぎる存在であるからこそ、私たちはそれに気が付けず受け入れてしまっているのだ。本能字学園の理不尽なヒエラルキーの中に組み込まれ、そこから抜け出すことすらできずに苦しむ民衆たち。その矛盾に気付き、自由のために立ち上がった勇気あるヌーディストが、纏流子なのだ!

要するに何が言いたいかというと、

天元突破グレンラガン』との比較

流子の闘争は、自由を獲得するための輝かしい戦いの歴史(実際のそれは、非常に血塗られた歴史でもあったのだけれど)を現代に蘇らせようとするものとは限らない。実は、「持続可能な発展」を如何に実現するかという極めて現代的なテーマを内包しているのだ。そのことを理解するために、まずは本作と同じスタッフが作ったアニメ『天元突破グレンラガン』について触れなければならない。

グレンラガン』に登場したアンチ・スパイラルは、際限のない進化の先に待ち受ける破滅(スパイラル・メネシス)を防ぐために、自らの進化を止めてしまった種族だ。主人公・シモン達はそれでもなお、自らの進化を止める事なく、前に進み続けようと誓った(作中の「ドリル」「螺旋」は、DNAの二重らせん構造、さらには人類の進化・進歩に通じるものだ)。このスパイラル・メネシスを現実社会の言葉に直すなら、それは迫りくる地球温暖化と資源枯渇、人口爆発とそれに起因する飢餓・戦争ということに尽きる。人類の進歩の先にある地獄のような光景。それを知ってもなお、我々はシモン達のように前に進んで行けるのだろうか。そのためには、地球上の限られた資源に依存した発展の仕方ではなく、人類が未来永劫文明を維持して行けるような「持続可能な発展」が必要なのだ。

ここで話は『キルラキル』に戻る。『キルラキル』は「持続可能な発展」を進めていくために必要なことを、我々に提示してくれている。それこそがヌーディズムだ。衣服を脱ぎ捨てることで冷房を抑えることができ、それがCO2排出抑制と資源の節約につながる、という効果ももちろんあるが、大事なのはそこではない。現代人が身に纏っているありとあらゆる固定観念・しがらみを一旦すべて脱ぎ捨てて、裸になってこの世界を見たとき、隠れていた差別と搾取の構造がようやく見えてくる。私たちの便利で豊かな生活を成り立たせている尊い犠牲、その存在を認め、真正面から向き合うことで、人類の進むべき道が見えてくるのではないだろうか。

グレンラガン』は、人類が自由のない暗黒の世界から抜け出し、大きく飛躍し、さらに持続可能な発展という未来のための選択を下すまでの、壮大な物語だった。『キルラキル』もまた、全体主義的な支配に対する自由主義者たちの抵抗、さらに、それを打破した後には何があるのか、どう生きれば良いのか、という点まで踏まえた壮大な物語になっていることだろう。