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(ネタバレ注意)〈古典部〉シリーズ『長い休日』考察―努力と友情、そして信仰の危機

長い休日

<古典部>シリーズの最新話『長い休日』を早速読んだ。今回の話は、奉太郎が何故「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」をモットーにして生きるようになったのか、そのきっかけとなった小学生時代のエピソードが中心となっている。この話を読んだ時、正直驚いた。ポジティブ方向への転換点を描く物語は全く珍しくないが、ネガティブ方向への転換点を描くのは非常に珍しいからだ。例えば、心を閉ざしていた人が少し心を開くようになったとか、夢を諦めて自暴自棄になっていた人が「自分もまだ捨てたもんじゃないな」と再び思えるようになったとか、そういった前向きな転換は物語にしやすいし、構図的にも美しい。しかし、この世の中にはそれとは全く逆の転換、つまり努力や献身や友情といったものに価値を見いだせなくなるような瞬間というものも確実に存在している。そのような転機のことを本作では「長い休日に入る」と表現しているのは、実に言い当て妙だと思った。奉太郎が小学6年生の時に体験したことというのはまさに、他人のため、自分のために一生懸命に「働く」ということの価値が徹底的に揺さぶられる出来事だったと言えるだろう。その結果として、奉太郎は「働く」ことをやめ、いつ終わるとも分からない「長い休日」に入っていく。*1

古典部〉シリーズでは、これまでにもネガティブな転換体験が描かれていた。例えば『愚者のエンドロール』の本郷さんがそうだろう。おそらく彼女は小学6年生時の奉太郎のように、人に何か頼まれるとそれを断りきれない真面目な性格をしているのだと思う(彼女さんの親友である江波さんは、本郷さんのことを「生真面目で、注意深く、責任感が強く馬鹿みたいに優しく、脆い」と言い表していた)。それゆえに、自主制作映画の脚本作りという大役を任されてしまう。映画製作が進むにつれて、ストーリーはどんどん彼女の脚本と乖離して行き、ついには脚本作りを途中で断念せざるを得ない状況に追い込まれてしまう。また、『クドリャフカの順番』の田名辺や河内もまた、自分達の周囲にいる圧倒的な才能を持つ者を前にして、自分の才能の無さに絶望的な気持ちになるという経験をしている。そして、福部里志という人物もおそらくは、ネガティブな転換体験を通過してきているのだろう。『手作りチョコレート事件』の中で語られた「こだわる」という事を止めてしまったという証言や、「データベースは結論を出せない」と口癖のように言っている姿からは、すでに自分の能力の限界を痛感している者が持つある種の諦めのようなものが感じられる。しかし、ここまではっきりと、折木奉太郎という男が転換する瞬間を捉えたのは、この『長い休日』が最初だろう。

そしてこのシリーズの怖いところは、「どんなに高い壁にぶつかっても、努力し続ければいつかきっと乗り越えられる」的な前向きなメッセージが一切存在しないところだ。これが他の作品だったら、善意に付け込まれて酷い目にあった後でも、「それでも人のために何かをするっていう事は尊いことだよね。だから、それを続けていたらいつか良い事があるよ」という具合に明るいメッセージが入り、それを裏付けるかのようなハッピーエンドで物語が終わる。ところが〈古典部〉シリーズでは、そういった「救い」は全く存在しない。奉太郎は世の中の醜さや理不尽さと真正面からぶつかり、その衝撃から立ち直れないまま「長い休日」に入ってしまう。

このあたりのメッセージ性の違いが、従来の「部活もの」と呼ばれる作品群と一線を画す点ではないかと思う。他の作品がジャンプ的な努力・友情・勝利を描くのだとしたら、〈古典部〉シリーズは敗北と諦め、そして、友情の背後にある闇を描く。何を言っているのか分からないと思うので、以下では視点を変えて、現実の部活動における努力と友情について考えてみたい。

部活動における「努力は必ず報われる」という「信仰」

さて、大阪市立桜宮高校の男子バスケットボール部のキャプテンが顧問の教師から体罰を受けた翌日に自殺した問題に端を発して、これまで見過ごされてきたスポーツ界における体罰が急に問題視されているが、これを機に学校における部活動の有り方についてもう一度よく考え直す必要があるのではないか。これまで、学校教育やスポーツ界の問題点は散々指摘されてきたし、部活動に関しても高野連の旧態依然とした態度などは散々問題視されてきたが、部活動そのものに関する批判はあまり表には出て来なかった。そのような状況でも、日垣隆氏は著書『世間のウソ』の中で次のように日本の部活動の有り方を批判していた。

さて、ときどき新聞の投稿で「孫が在学中最後の地方大会でスタンドから声援する純粋な姿に目頭が熱くなった」というような無職七二歳(あくまで一例)がおいでになります。四回目の離婚や冤罪体験や交通事故でさえ、あらゆる体験は有意義である、という意味でならおっしゃるとおりです。*2

彼が問題視しているのは要するに、日本の部活動では学校単位でチームが構成されているため、同じ部活内に「鍛練を重ねてより上を目指したい」という部員と、「純粋にスポーツを楽しみたい」という部員とが混在してしまい、後者からスポーツを楽しむ権利が奪われているという事だ。彼はこの著書の中で、学校単位の部活動を廃止して代わりに地域のスポーツクラブのようなものを拡充すれば、前者はより高いレベルを目指すクラブなどで練習に打ち込むことができ、後者もまた別のユルいクラブで楽しくスポーツができるのではないか、と提案している。しかし、彼の言うような「住み分け」を行う事で、果たして本当に、日本の部活動を取り巻く諸問題が解決されるのか、今となっては大いに疑問に思う。

むしろ問題なのは、日垣氏が著書で述べたようなことではなくて、部活動の顧問や部員、保護者、無職七二歳(あくまで一例)などの心に深く根付いている「努力は必ず報われる」という「信仰」なのではないか。この信仰には主に2つのパターンがあって、1つ目が「努力を続けていれば、必ずそれ相応の成果を得ることができる」というもので、「諦めなければ夢は叶う」的な言説もそれに含まれると思われる。2つ目が「結果が出なくても、その努力した経験が将来必ず役に立つ」というもので、要するに努力を継続する事によって得られた根性、忍耐力、困難を乗り越える力が、その人の人生において結果的にプラスに働くというもの。この信仰が抱える問題点を一言で言えば、「努力は必ず報われる」ということが必ずしも正しいとは限らない、もっと言えば、それが正しいかどうかを証明することが事実上不可能であるということに尽きる。

まず1つ目の「努力を続けていれば、必ずそれ相応の成果を得ることができる」という信仰について考えてみると、そのような主張の多くが、実際に努力によって成功を勝ち取った「成功者」の視点から言われていることだという事実が見えてくる。そのような成功体験というものは、果たして一般化できるものなのだろうか。さらに、努力の量というものを客観的に測ることができない以上、その成功者達が、成功しなかった人達よりも多くの努力をしていたという事を判定するのはほぼ不可能と言える。例えば、イチローが絶え間ない努力によって現在の地位を築いたことは疑いようが無いが、イチロー以上に努力したけれども結局成功しなかったという人も居なかったとは限らない(おそらくそういう人は居ると思う)。要するに、その成功は努力によるものではなく、単に運が良かったか、元々才能を持っていたからではないか、という疑いを完全に払拭することは出来ない。そして何より私達は実際に、どんなに本人がそれを望んで努力していたとしても、その夢が、性別、身体の障害、生まれ育った環境、運などといった「個人の力ではどうする事もできない事柄」が原因で断たれてしまうという事例を数多く知っている。

では次に、2つ目のパターンである「努力した経験が将来必ず役に立つ」という言説について見てみよう。上で無職七二歳(あくまで一例)が言っているように、3年間きつい練習に耐えてひた向きに努力してきたけれども結局レギュラーになれずにスタンドで応援するだけだった、というような体験は、本当に人生において価値のあるものになるのだろうか。確かに、努力を継続することは大事なことで、たとえ成功しなかったとしてもそこから得られるものは非常にたくさんある。しかし、これは元も子もない言い方かもしれないが、「努力を継続した場合の未来」と「努力を継続しなかった場合の未来」とを比較することは絶対的に不可能なわけだから、結局、努力を継続することがその人にとって本当にプラスになったのかどうかを判定することなど絶対に出来ない。例えば山中伸哉は、臨床医になることを諦めて基礎研究の道に進み、そこで結果的に成功をおさめている。彼が基礎研究の道に進んだ理由は、現在の医学では治療できない難病の患者を救うためだとか、単に手術が下手だったからだとか、諸説あるが、いずれにせよ、最初の夢を諦めて別の道に進んだことが結果的にプラスに働いた事例だと言える。つまり、(報われない可能性の高い)努力を継続することが本当にその人にとって有意義な経験になるのかどうかは、誰も分からない(私達に出来るのは、その努力が有意義なものであったと信じることだけだ)。

結局のところ、今日の部活動をめぐる問題とは、このような信仰が生み出す様々な「ひずみ」の積み重ねなのではないだろうか。「努力は必ず報われる」という空気の下では、努力をやめて別の道に進む(退部する)というような選択肢は否定される。「困難を乗り越える経験は必ず将来の役に立つ」という考えに強く支配されれば、体罰でさえ「本人のため」として容認されかねない。世間一般から見て明らかにおかしいと思うようなことが、この「信仰」の下では容認されたりする。そうやって困難にさらされて、それを乗り越えられた場合はまだ良いが、そうでない場合には精神を病んだり、最悪の場合自殺に至ったりする。結局、「努力は必ず報われる」という信仰の延長線上に、今日の部活動が抱える諸問題があるのだと思う。

「転換体験」と「信仰の危機」

ここまで述べてきた努力に関する「信仰」の話は、何も部活動だけに当てはまるとは限らない。人間は、そういった信仰を持ち続けている人と、信仰を捨ててしまった人との、2種類に分けられる。おそらく、最初から全く信仰を持っていない人間というのは居ないと思う。私達は生きてゆく中で、何らかの重大な出来事に遭遇して、その結果信仰を捨ててしまう場合がある。私はこういった信仰を捨て去る体験のことを勝手に「転換体験」と呼んでいる。部活動で例えるなら、周囲との実力差に絶望して部活をやめるという体験は、信仰を捨て去る転換体験になり得るだろう(もちろん、退部した後でも信仰を持ち続ける人もいる)。この転換体験は、文字通り人生において非常に重大な転換点になり得る。なぜならば、「努力は必ず報われる」というこれまで信じ続けてきた価値観が一転してしまう体験だからだ。そして、こんなに大きな価値観の転換は、おそらく一生に一度しか起こらない。たぶん、一度転換体験を通して信仰を捨ててしまうと、もう二度とその信仰を取り戻すことは出来ない。

そして、ここからが一番大事な部分なんだけれど、信仰を持ち続けている人には、「努力は報われる」と強く信じて疑わない人と、「本当にこの努力に意味はあるのか」と疑っている人とがいる。後者は、努力を続けてもなかなか結果がついて来なくて自分に自信が持てず、「自分には才能が無いんじゃないか」などと思い悩んでいる人に有りがちなパターンだと思う。こういう心の有り方を、私は勝手に「信仰の危機」と呼んだりしている。

では、「信仰の危機」と「信仰を捨てた状態」とは何が根本的に違うのか。それは次のように説明できる。人は、周囲との実力差や才能の差を見せつけられたり、努力ではどうしようもならない状況に陥ったりすると、心の中にある信仰が強く揺さぶられる。これが信仰の危機だ。この状態にある時、人は悔しさ、嫉妬、怒り、絶望感といった、ありとあらゆる負の感情を持ち得る。「俺は絶対あいつより努力してるのに、何で結果が出ないんだ!」みたいな感じ。そういった信仰の危機の中でも、ずっと信仰を保ち続ける人もいるが、中には、あまりにも強く揺さぶられて途中で信仰を捨ててしまう人もいる。これが「転換体験」だ。「どんなに努力したって報われない時は報われないよね。結局自分には才能が無いんだから、頑張ったって意味ないよね」という諦めの境地に達してしまう。ゆえに、信仰の危機にある時に感じていた負の感情も無くなってしまう。要するに、誰かに負けて「悔しい」と思ったり、自分より能力のある人を見て「自分はなんて駄目なんだ」と落ち込んだりするのは、現状を受け入れることが出来ないからであって、これが転換体験を過ぎてしまうと、完全に現状を受け入れて何も思わなくなってしまうのだ。信仰を持つということは、別の言い方をすれば、やる気、情熱、向上心を持って前に進むということだとも言える。これに対して、信仰を捨てた状態では、人は世界に対して非常に冷めた見方しか出来なくなると思う。

「長い休日」に終わりは来るのか

話が大きく逸れてしまったが、これでようやく整理がついたと思う。以上を踏まえた上で部活動もの、あるいはそれに準ずる学園ものの作品を見渡してみると、その多くが「信仰の危機」を描いているという事が分かるだろう。そして、そのような作品は最終的に努力と友情を肯定的に描く。この「信仰の危機」というテーマだけでも、様々な考察が可能であるので、興味のある方は次の記事を参考にしてもらいたい。

  1. 『とある科学の超電磁砲』 長井龍雪 監督 才能のなさへの劣等感と選ばれたものの孤独、、、そのどれもを超えた所に仲間はある - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために
  2. 『青空エール』 河原和音著 主人公のあこがれに向けて努力する姿に切なさを覚えます - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために
  3. とある科学の超電磁砲 第9話感想・考察個人的まとめ - WebLab.ota
  4. 部活動論2―『LSD〜ろんぐすろーでぃすたんす〜』、陸上部 - 新・怖いくらいに青い空

ひるがえって『長い休日』を見てみると、奉太郎の場合は「信仰の危機」を通り越して「信仰を捨てた状態」まで行ってしまっているケースだと言えるだろう。もちろんここで描かれるのは、いわゆる部活動における努力ではなくて、利他的行動という意味での努力の話ですが、両者は基本的に同じものだと考えて良いでしょう。それはすなわち、どちらも「やらなくてもいい努力」というものをどう捉えるか、という視点を含んでいるという事だ。部活動は基本的に個人が自由に選択して入退部できるものであって、強制的に参加しなければならないというものではない。利他的行動に関しても、花の水やり程度ならまだ良いが、自分が不利になるようなことは出来るならやりたくないと思うのは当然だ。それでも、あえてそういった努力を続けることにどういう価値があるのか、それを追求していくのが「信仰の危機」にまつわる物語だ。一方、〈古典部〉シリーズは、その価値を徹底的に揺さぶり、読み終わった後に他の作品にはない独特のほろ苦さを残す。

しかし奉太郎の姉・供恵は、転換後の奉太郎の考え方を「間違ってはない」と認めつつも、その休日を終わらせてくれる人がいつか現れるだろうという事を示唆している。その人とは言うまでもなく千反田えるのことだ。作者は明らかに千反田を、他のキャラクターとは異なる「特異点」として描いている。千反田は良い意味で「子どもの心」を持った人間だ。それは、自分の中の善意や正義感を動機として行動するということに対して何の疑いをも持たない純粋な心という意味だ。ゆえに、彼女が奉太郎に向ける眼差しには打算や狡猾さが存在しない(あるとすればそれは、「知りたい」という好奇心だろう)。だからこそ、奉太郎は千反田のためなら「やらなくてもいい努力」でもやってしまう。一見すると、奉太郎はもうすでに「長い休日」から抜け出し「信仰」を取り戻したかのように思える。

しかし、奉太郎があの転換体験以前の性善説の世界に戻り、純粋な心を完全に取り戻すということは、千反田の力をもってしても難しいことだろう。ましてや、千反田という「特異点」の存在しない現実世界の私たちが、一度捨ててしまった信仰を取り戻すという事は不可能に近い。そうは言っても、小説というものが面白いのは、「現実では起こり得ないことがもし起こったらどうなるのか」という好奇心を満たしてくれるからだ。奉太郎は果たしてどこまで「信仰」を取り戻すことができるのか、今後も注視していきたい。

*1:一方で、『ココロコネクト』の八重樫太一を巡るエピソードでは、『長い休日』とは一段フェーズの異なる部分での転換点が描かれていたのかな、とふと思った。太一の場合は、休日出勤もサービス残業もどんと来いっていう感じで自己犠牲をやっていたわけだけど、それが文研部の部員たちとの交流を通じて、体を壊さない程度に無理せず働くというレベルにまで改善されたということになるんだろう。

*2:『世間のウソ』、121P