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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『アオイハルノスベテ』第2巻―日本的空気感の打破と「今」を全力で生きるということ

庵田定夏作品の特徴

正直、読み始めた当初は「あんまり面白くないな」と思っていました。は~? 2巻はまひるさんメインかよ~! こっちは幼なじみキャラの岩佐さんと浩人がイチャイチャしてる姿を眺めたいの! 小悪魔清楚系の大河内さんが毒舌かまして浩人がたじたじになるシーンが見たいの! まひるさんはお呼びじゃないから!!! ……今では、そんな風に感じていた自分を恥じて反省しています。まひるちゃんメッチャ良い子やー! 可愛いすぎるわー! 最高やー! うおおおおおおおおおお!!!

まさに、庵田定夏という作家の並々ならぬパワーを再認識させられた気分です。普通のライトノベルやアニメは、誰か一人メインヒロインがいてその子については内面を深く掘り下げるけれども、その他のサブヒロインたちについては結構いい加減でなあなあな感じで終わらせてる作品が多いわけですが*1、『ココロコネクト』や『アオイハルノスベテ』はそういった作品とは全く異なります。まず第一に、ヒロインがみんな非常に人間的で、読者から見て感情移入しやすい。そして物語は、彼女たちの抱える苦悩やトラウマを主人公やその仲間が解決してゆくという形式を取るわけですが、彼女らが真剣に悩み、もがき苦しんだその過程に、貴賤や優劣の差は全くない。彼女たちの悩みは本当に多種多様ですが、そのどれもが、我々の心にガツンと響く激しさと痛みを伴っている。だからこそ、主人公などと一緒にその苦悩を乗り越えて、クライマックスで彼女たちの心がパーッとパーッと晴れやかになった瞬間、読者もそれを我が事のように祝福し、何とも言えない高揚感と幸福感に包まれるのです。

日本的空気感の打破

さて、ここからは第2巻の具体的な内容について見ていきましょう。まひるの持つ【サイコメトリー】の能力で、3年前の文化祭で上演されたとある演劇が大好評だったことを知った1年A組一同は、今年の文化祭でそれと同じものを上演しようと決め、クラス一丸となって上位入賞を目指します。特にまひるは、文化祭の後に経済的な理由で退学することになっていたため、浩人もまひるの最後の思い出づくりのために全力を尽くそうと張り切ります。ところが、別のクラスもそれと全く同じ劇をすることが発覚し、クラスの士気は一気に低下、どうせ入賞は無理だからテキトーにしとけばいい的な雰囲気が蔓延します。ここで面白いのは、クラス内で「多少無理してでも演劇の内容を変更しよう」とか「演劇自体を取り止めよう」という声が広がることはなかったという事です。「もう本番も近いので台本を変えるのは無理、いや無理ではないかもしれないけど、ただの文化祭でそこまで頑張らなくてもいいんじゃね?」「もういっそ演劇自体やめたいけど、せっかくここまで準備してきたし、途中で取り止めるわけにもいかない。とりあえずテキトーに仕上げて上演しとけばいいっしょ?」という空気ですね。

そんな空気に押し流されそうになっていた浩人ですが、岩佐さんの言葉をきっかけに考えを改め、もう一度文化祭を頑張ろうと決心します。まひるも最後まで全力を尽くしたいという意志をクラスの皆に伝え、それをきっかけにして再びクラスは一つになりました。皆が知恵を出し合い、それぞれの得意分野を生かして演劇を改良していくという、理想的な空間が生まれたのです。結果、入賞は逃しましたが、まひるを笑顔で送り出すことのできる最高の演劇が完成しました。

ここで描かれる「波風立たないようにテキトーにしとこうぜ」的な空気感って、まさに日本的ですよね。大型公共事業をめぐるゴタゴタなんかが良い例です。計画を立案した当時は皆が崇高な目標を掲げてそれに向かって全力で突き進んでいたけど、時が経つにつれて様々な課題や問題が噴出してきて人々の熱は急速に冷めていく。工事を始めてみたものの、建設費の高騰とか、環境破壊とか、「そもそもこんなハコモノ必要なん?」という反対意見とかが後から後から出てきてもうしっちゃかメッチャカになっちゃう。諫早湾干拓八ッ場ダム静岡空港長崎新幹線もんじゅ六ヶ所村、米軍基地の移設など、そういう例は挙げたらキリがありません。それでも「もういっそのこと全てを白紙に戻して考え直そうぜ!」という声が多数派になることはない。一旦動き出した暴走列車を止めることは、この日本では至難の業です。かと言って、その事業を続けた先に明るい未来や希望は見いだせない。だからみんな、夢や希望を語らなくなり、「決まったことだから」と言い訳しながら淡々と同じことを繰り返す。こうして日本には、あってもなくても困らないような空虚で無機質なハコモノだけが残ってゆく…。

そういう良くない状況を打破していくためには、浩人のような強力なリーダーシップが必要です。要するに、お前らもう一度原点に立ち返って考えてみろよ、計画が持ち上がった当時の人々の意志を思い出してみろよ、と勇気を出して言える人がいなければならない。もう一度初心に返って、今この地域には何が必要なのか、何が重要なのか考えてみろよ。昔の計画が今の時代と合わなくなった? だったら、さっさと計画を見直して、今の時代に合った新しいビジョンを示せよ。今からでも全然遅くないよ。場合によっては、計画を全部白紙に戻さなければならないかもしれない。でも、それで良いじゃん。ただ言われるがままに間違った道に進む方がよっぽど問題だよ。皆で知恵を出し合って、皆が納得するまで話し合って、本当に地域のためになるものを作ろうよ。浩人が言ってることは、まさにこういう事ですよね。私がいつも参考にしてるブログ「物語三昧~できればより深く物語を楽しむために」でも、同じような文脈でこの作品を見ているようです。

日本(=共同体主義が極まったムラ構造のシステム)を内部から変えるためには、空気(ニューマ)の破壊と創造が同時にできなくてはだめで、「そこ」の具体的方法は、学校空間のモデルからはじめられる。日本的空気の問題点解消は、外からの破壊(=外に逃げた/脱出した人には批判しかできない)でも内部での絶望(=内部の人間はあまりのがんじがらめの拘束で窒息して動けなくなるので何もできないであきらめる)でもだめで、その両方を同時に「内部において」行うことによってしかなされない。これには具体的な技術・手法がある(学校空間でのいじめの創造的破壊などが、このモデルの出発点/俺ガイルやアオイハルノスベテのはなしね)。
最近考えてきたことのまとめのメモを2つ - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむためにより引用)

要するに、「波風立たないようにテキトーにしとこうぜ」的な日本的空気を変えるためには、外部から破壊するのでは上手く行かなくて、内部から破壊と創造を同時に行うような改革が必要なんですね。まあ、実際にそういうことができる政治家や民間人がこの日本にいるか、という問題もあるんですけどね…。

「祭り」を起こす才能

そしてこの第2巻のさらに凄いところは、私が第1巻の感想記事で示した疑問点に対する見事な解答がすでに書かれているという事なんですね。とりあえず、前後関係を理解してもらうために前の記事を引用します。

たとえ岩佐が学校に戻れたところで、彼女がマイノリティであることには変わりない。世界はこれからもずっと、何かあるごとに彼女を異端者として迫害するだろう。では、どうすればいいのか。それはもう「祭り」しかないでしょう! 〈シンドローム〉発症者=悪という価値観を覆すほどのインパクトのある盛大な「祭り」を仕掛けるしかない。
本作における祭りは、〈シンドローム〉発症者どうしのプロレス大会という、いかにも庵田さんらしいものでしたが、これは別にどのような形をしていても良くて、例えば、1963年のワシントン大行進なんかもある意味、アメリカ社会を変えるためにキング牧師達が仕掛けた壮大な「祭り」だったと言えるでしょう。しかし、そういう「祭り」をいざ起こすとなると、なかなか難しい。それは、マジョリティの安全を脅かすような過激なものであってはならないし、マイノリティだけが満足するような独りよがりなものでもいけない。多数派と少数派が一緒になって、やっぱりこの社会はおかしいよね!みんなで力を合わせて社会を変えて行こう!という空気を盛り上げることができるような「企画力」が必要です。それゆえに「それって誰もが出来ることなの?」「やっぱり祭りを起こすにも才能が必要なんじゃないの?」という疑問も当然湧いてくるわけですが。
『アオイハルノスベテ』―世界を変えるために「祭り」を起こす才能とは何か? - 新・怖いくらいに青い空より引用)

要するに、日本的空気の打破でも差別の解消でも何でも良いんですが、そういう「祭り」を起こすための才能はどうすれば身につくのか、それは何の変哲もない一般人でも身につくのか、という疑問です。浩人が何故「祭り」を起こせたのかについては、第1巻の頃から明確な答えがあります。それは彼が〈シンドローム〉発症者の能力によって高校生活をやり直しているから。このまま何もせずにいたら、後悔を残したまま3年後に自分が死んでしまうと分かっているからですよね。だから「祭り」を起こさなければならないと考える動機の時点で、もう一般人とは全然違うわけです。普通の人は自分がいつ死ぬかなんて知りようがありませんから、もう動機の段階で大きな差があるなあと思ってしまうのも無理はありません。

それでも作者は、まひるの言葉を用いて、最初の疑問に対して明確な答えを提示しています。経済的な理由から通学を続けることが難しくなったまひるは、次第に高校に通い続けたいという気持ちを押し殺して将来のために「今」を犠牲にする選択を受け入れていきました。しかし、浩人たちとの交流を通じてその考えを改め、常に「今」を全力で生きることの重要性に気付いたのです。

「いい中学にいくために小学校の頃我慢して遊ばずに勉強をする。いい高校にいくらめに中学校では我慢する。いい大学にいくために高校では我慢する。いい会社に入るため大学では我慢する。家庭を持った時のため。老後のため……ずっとずっと将来のため、将来のため……って、じゃあいつのために生きてるの? いったいいつが人生の本番なの?」
「そんなの決まっているよね」
「いつだって本番なんだよ」
「今が本番なんだよ。殺していい今なんてないんだ。きっと今この瞬間を悔いのないように生きなきゃいけない。そういうことなんだ」
(『アオイハルノスベテ』、第2巻、293~294P、セリフのみを抜粋)

このセリフによって作者は、祭りを起こす才能は誰にでもある、ということを高らかに宣言してると思います。3年後に死ぬとかそういうのは関係ない、と。今を全力で生きなければならないのは、浩人であっても他の人であっても全く同じ。であるから、少なくとも動機の面については人による違いはないんだ、ということがここで示されたわけです。

最終進化形への道のり

そうなってくると今後、主人公を含めた登場人物たちがどこまで成長し、どういう着地点を見いだすかというのが非常に楽しみですね。だって、この人達みんな、まだ最終進化形に至ってないですからね。例えば『ココロコネクト』の太一の場合、第1巻のヒトランダム編で大きな成長を遂げたわけですが、それでもまだ自分の中にある「自己犠牲精神」と向き合うことができてなくて、ユメランダム編でようやくそれを達成し最終進化形になったわけです。伊織にしても、第1巻と第3巻で成長が描かれましたが、それだけではまだ不十分で、第4巻のミチランダム編でついに彼女の感情が爆発、文研部メンバーとの対立に次ぐ対立によってようやく最終進化形へと到達しました。

そう考えれば、第2巻で大きく成長したまひるですら、まだまだ発展途上ですよね*2。浩人なんか、太一とかに比べてればまだペーペーですよ。大河内さんや岩佐さんも同じです。作者がこれで良しとするわけがないですから。これからも彼女たちはますます進化して、いつかは『ココロコネクト』と同じように最終進化形に到達するはずです。その未来が今から待ち遠しいですね。

ところで、それとはまた別の話として、早く浩人と岩佐さんは付き合えよ、って思うんですがね。第2巻ではまひるさんの猛アタックもありましたし、浩人と一緒に文化祭を見て回る大河内さんも、それはそれは嬉しそうな表情してましたから、早くしないと大変なことになると思うんです。これはもう幼なじみ特有の滑り台コースに入りつつありますから、早く巻き返さないと取り返しがつかなくなりますよ。まひるさんも大河内さんも可愛いから困っているんですが、このブログは最後まで、幼なじみヒロイン・岩佐さんを応援しています!

*1:もちろん、そのような作品が全て悪いという訳ではありません。例えその他の描写がいい加減でも、メインヒロインが非常に魅力的に描かれ、彼女と主人公を中心として素晴らしいストーリーが展開されていけば、それはそれで大変な名作となるでしょう。

*2:何やかんやあって転校がなしになったのも、ご都合主義的との批判はあるかもしれませんが、全体として見れば良かったと思います。こんな良いキャラを2巻で退場させるのはもったいないですし、まだまだこれから成長していくキャラですから。