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『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』ネタバレあり考察―常守朱の掲げる「理想」を打ち砕く絶望的な世界の「現実」

『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』を見てきた。この映画を一言で表すなら、シビュラのない社会を目指すという理想を掲げる常守朱が、いやいや現実はそんなに甘くないよ、と強烈な挑戦状を叩きつけられる話だと言える。

常守朱の掲げる理想が打ち砕かれた瞬間

常守朱という人は、シビュラシステムによる社会の統治を改めて、人間自らがより良き社会のために思考し議論する民主主義を確立すべきだと考えている。潜在犯のような「異物」を排除するのではなく、様々な個性を持った人々が互いを慮りながら共生していくべきだと考えている。功利主義的な「最大多数の最大幸福」によって少数派の人権を蔑ろにするのではなく、少数派であっても人権が保障されるヒューマニズム的な統治が望ましいと考えている。

『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』では、常守が考えるそれらの「理想」がことごとく打ち砕かれる。物語の舞台を海外に移すことによって、彼女の考える理想=正義の実現がいかに困難であるか、という点が強調されていたように思う。シビュラの外は紛争と貧困が入り混じる地獄のような世界。ヒューマニズムを掲げて何も攻撃しないでいたら、逆にこっちがやられてしまう。潜在犯を差別することで成り立つ平和な社会に人々は感謝し、自ら進んでシビュラの支配を望んでいる。シビュラは常守に問う。お前はそれでも我々を否定するのか、と。シビュラによってもたらされた平和と安全を捨て、苦しみに満ち溢れた茨の道を選択するのか、と。

もちろん、映画で出てくるSEAUn(東南アジア連合)の統治システムも様々な欠陥を抱えていた。サイマティックスキャンの偽装や警備ドローンの軍事転用などの描写はまるで、現実世界の軍事独裁政権がやってることと同じだ。それはもはやシビュラによる統治ですらない。シビュラの名を借りたハリボテの権力だ。だが常守の掲げる理想は、そのハリボテにすら敵わなかった。映画のラスト、ラジオからハン議長が圧倒的大差で再選されたというニュースが聞こえてくる。人々が望んだのは、軍事独裁政権による統治、暴力による統治、シビュラによる統治だった。常守(と狡噛)の理想はあっけなく崩れ去ったのだ。

霜月監視官=「凡庸な悪」

一方、映画版の霜月監視官は、シビュラの奴隷となって生きる覚悟を決め、シビュラの忠実な駒として行動していたように思う。視聴者から無能と言われていたTV版の頃の面影は消え去り、(シビュラからの直接的に支持を受けていたとは言え)実に有能な監視官として職務を遂行していた。その姿はまさに、ナチスからの命令に従ってホロコーストを遂行したアドルフ・アイヒマンそのものだ*1

常守に向かって憎たらしい口調で「空気読めってことですよ」と言い放つシーンを見て、ああ、この映画はそういう事を言いたかったんだ、と思った。空気を読むということはすなわち、全ての人間が持っているありふれた保身の心、ありふれた怠惰、ありふれた無関心・利己心・事なかれ主義に従って生きて、自分の頭で考える作業を放棄してしまうことであり、それこそがハンナ・アーレントの語った「凡庸な悪」の正体なのだ、と。

それでも戦い続ける常守朱

霜月、シビュラ、そして世界そのものから強く拒絶された常守。それでも彼女は、理想を語る事を決して止めないだろう。少数派が犠牲になるのではなく、一人一人が大切にされ、人間としての尊厳を持って生きられる社会。得体の知れないものを拒絶するのではなく、彼らのことを理解しようと努め、時には手を差しのべて共生していける社会。そして、「こうすれば皆が幸せになれるんだ」と言って上から押さえつけるのではなく、自らの生き方を自らで決めることのできる社会。そういった社会の方が、時間はかかるかもしれないが、人間をより豊かで幸せにするのだという確信が常守の中にはある。

もちろん、私の中にもそれと同じ確信がある。だからこそ、たとえどんなに無謀で絶望的な戦いであっても、常守が戦い続けることには価値があると思う。