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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『がっこうぐらし!』総評(アニメおよび原作第1~6巻について)

学校という戦いの場

子どもにとって学校とは、仲間と勉強したり遊んだり一つのことに夢中になったりすることのできる楽しい空間であると同時に、生きて卒業するための命がけのサバイバルを強いられる苦しい戦いの場でもある。奇しくも先日アニメ化が決まった漫画『三月のライオン』の中で、酷いいじめを受けた登場人物が「生きて卒業さえすれば私の勝ちだ」(羽海野チカ、『3月のライオン』、第7巻)と泣きながら言っていたように、新種のウィルスや戦争や生物兵器がない世界でも、そこには間違いなく命がけの戦いが存在しているのだ。

そして、この戦いに勝つか負けるか、あるいは加害者になるか被害者になるかという線引きは、怖ろしいほどに些細な偶然によって決まってしまう。すなわち、生まれつき持っている身体的特徴や性格、性別、家庭環境、クラスメイトや教師との巡り合わせなど、本人の力ではどうすることもできない事柄によって生きるか死ぬかが決まってしまうからこそ、この戦いは理不尽なのだ。これはいじめ問題だけでなく、不適切な指導や体罰についても同様である。それらはまるで、ある日突然町中の人々がゾンビ化し由紀たちが学校に取り残されてしまったのと同じように、何の前触れもなく我々に襲い掛かってくる。

いじめや体罰以外の例として、内田良さんが著書『教育という病』の中で指摘しているような、組体操の潜在的リスクも指摘しておかなければならない。運動会などで見られる巨大な人間ピラミッドというものは、我々の想像以上に危険な代物なのだ。これがもし大人の労働者(例えば、危険な高所での作業などの場合)であれば、専門の技術を身につけた者が厳重な安全対策を施した環境下で、相当の賃金を受け取って行うはずのものである。しかし、これが子どもの運動会になると途端に、無償でしかも強制的に、命綱なしで高い所に登ったり、自分の体重の何倍もある重さを支えたりしなければならないのだ。親や学校が強制してくるものに対して、基本的に、子どもはそこから逃げる術を何一つ持っていない。モールの一室で怯えながら助けを待つことしかできなかった美紀のように、子どもはただひたすらその災厄が通り過ぎるのを待つことしかできないのだ。

もちろんこのような理不尽は、子どもだけでなく教師にも振りかかってくるものである。親や学校が作り出した理不尽を許容する空気の中で、生徒が犠牲になる悲しい事件が起きた時、真っ先に責任を問われるのはその場にいた教師なのだ。それは、めぐ姉のような心優しい先生でも例外ではなく、彼女のような先生が理不尽なシステムの中に巻き込まれていつの間にか被害者にも加害者にもなっているということは十分あり得ることであるし、また、彼女は善良な教師であるがゆえに後悔や自責の念によって余計に苦しむことになるのだ。

部活、この理不尽なもの

さらに怖ろしいことに、このような学校空間での理不尽が理不尽として認識されておらず、子どもが経験して当たり前の、ありふれた、どこにでもある普通の出来事として、当事者も第三者も誤認しているというケースがある。そのような理不尽の最たるものが部活という制度である。全ての部活がそうだと言うわけではないが、この日本には、スポーツや文化活動を自発的に楽しみながらやるということが許されない地域や学校というものが確実に存在しているのだ。

「ハルチカ」シリーズという興味深い小説がある(こちらも2016年1月からアニメ放送されることが決まっている)。中学時代にバレー部に所属し休日返上で厳しい練習を続けてきた主人公・穂村千夏は、高校ではもっと女の子らしい部活をしたいと決心し吹奏楽部に入部する。しかし、当初の彼女の思惑に反して吹奏楽部の活動は苛烈なものになってゆく。憧れの顧問の先生を普門館に連れて行きたい、初心者である自分が他の部員の足を引っ張ってはならない、だからこそ自分は他人の何倍も練習しなければならない、そういう思いに駆られた千夏は朝から晩まで吹奏楽漬けの生活を送るようになる。これは実に不可思議かつ怖ろしい現象である。彼女は強制的に参加させられたとか、覚悟を決めて厳しい部に入ったというわけではなく、最初はあくまでも軽い気持ちで自発的にそこに入り、しかしいつの間にか後戻りできないところまで運ばれていく。それはまるで部活というものに「引きずり込まれる」「絡め捕られる」とでもいうような感覚であり、そうなったが最後、そこから抜け出すためには相当の勇気と労力そして犠牲が必要となるのである。「ハルチカ」シリーズについては、いずれまた記事を書きたいと思う。

それとは別に、部活指導中の体罰については、さらに深刻な問題として理解されなければならない。スポーツにおける体罰というものは、数ある暴力の中でも最も卑劣で非人間的なものの一つである。これは、部員が絶対に逆らえない指導者という立場を悪用して、練習や試合において指導者の満足のいくパフォーマンスを発揮できなかったというだけの善良な部員に対して、身体や精神を痛めつける厳しい罰や暴行を行い、最悪の場合死に至らしめるという、重大な犯罪行為である。にもかかわらず、その犯罪行為が全く罰せられていないどころか、他の教師や親や地域社会が積極的にその犯罪に加担している例が実際にあるのだ。

何故、由紀たちは学校を好きでいられたのか

さて、私がここまで時間をかけて学校にまつわる問題を説明しているのは、由紀たちの置かれていた極限状況が現実の学校において多くの子どもが経験することと類似しているということ、そしておそらくは、その類似性が作者によって意図的に作り出されているということを示すためである。私が以前の記事でも書いたように、『がっこうぐらし!』における「ゾンビ」とはあくまでも、学校空間に蔓延るありとあらゆる理不尽の象徴である。私の記憶が正しければ、作中では一度も「ゾンビ」という単語は登場しておらず、由紀たちは彼らのことを「みんな」とか「あいつら」などと呼んでいるし、ウィキペディアの記述(wikipedia:がっこうぐらし!)が正しければ、原作でもそれは同様である。たとえ戦争や大災害がない平和な世の中であっても、子どもは「命がけの日常」を送っている。そして実際に、その戦いに敗れて命を落としてしまった子どもは数えきれないほどいるのだ。であるからこそ本作は、ホラーやSFといったジャンルに限定されない、より一般的な学園ドラマ、少女達が学校という空間で戦い生き延びる物語としての性質を帯びている。

ここで必然的に、何故かくも理不尽で自由のない学園生活の中にあっても由紀たちは最後まで希望を失わずに笑って卒業することができたのだろう、という問いが浮かび上がってくる。その問いは、何故こんなにも辛い思い出の詰まった学校という空間を好きでいられるのか、と言い換えることもできる。これはゾンビに囲まれた世界で生きることを強いられた由紀たちに関する問いであると同時に、他でもない私達自身に向けられた問いでもある。

その答えはおそらく、不自由な世界の中で学園生活部という空間だけが唯一、由紀たちが自発的に選び取った行動の帰結としてそこに存在していたからだ。クラスメイトや教師に言われるがまま強制的に行事に参加させられるのではない、先輩や顧問からの体罰に怯えて心身ともにヘトヘトになりながら部活に打ち込むのでもない、他でもない彼女たち自身が、進んで遠足や体育祭やプール掃除などを計画しそれに全力で取り組んだからこそ、その思い出が掛け替えのない価値を持ち得たのである。そこには強制も合理的選択すらも存在しない。水が高い所から低い所へ流れるように自然と、彼女たちが自分達の思うがままに好きなことに全力で取り組める空間がそこにはあったのである。これは『ココロコネクト』における文研部誕生の経緯とも関連しているように思う。

「生徒は必ず何らかの部に所属していなければならない」という校則のある山星高校で、どこにも入部できなかった太一・伊織・稲葉・唯・青木の5人は、後藤先生によって一つの教室に集められ、そこでテキトーに活動するように言われるのだが、当然、彼らはまだお互いの事を何も知らず趣味や性格も全然違うので、部活動へのモチベーションも低く、最初の1週間はただグダグダと時間をつぶして終わってしまう。後藤は「流石に何もしないのはまずいので、2日後までに部の方向性を決めるか、別の部に入り直すか、どちらかを選択しろ」と迫ってきて、さらに稲葉も「この部活をやる意味があるのか?」と部員達に問いかける。設立早々に部が解散の危機に追い込まれる中、太一は自分の今後について考えを巡らせる。友人からはサッカー部に入らないかと誘われている、そこは部員も多く友達もたくさんできるだろう、明確な目標に向かって汗を流す方が健全で有意義ではないか。合理的に判断すれば、文研部に残るよりも、サッカー部に入る方が断然いい。他の部員達も、ここに残るよりも別の道に進んだ方が良いのではないか、と思い悩む。しかし、いざ後藤が指定した回答期限日になると、誰かが声をかけたわけでもないのに、部員がみんな部室に集まっていた。部室に戻ってきた理由について、太一は次のように述べている。

合理的に考えることは、とても大切なことだ。無理しない方が、正しい道に間違いなく進むことができる。
でも、どんな合理的な理由だって、たった一つの感覚に敗れ去ってしまうことがある。
それが、『なんとなく』だ。
なんとなくなのだ、本当に。
なんとなく自分は、みんなと一緒にいたいと思った。
部活の内容とか、他の色んなものを、度外視しても構わないと感じた。
けれど『本当の友達』になるような人間との繋がりは、そういうものだと思うのだ。
庵田定夏、『ココロコネクト ステップタイム』、70~71頁)

このような経緯で「なんとなく」始まった文研部の活動によって、彼らの高校生活がいかに充実した掛け替えのないものになったかは、本編を読んだ者なら誰もが知っているだろう。文研部のメンバーは皆、他の普通の部に入ることのできなかった「アウトロー」だった。そんな彼らが偶然一つの場所に集まった時、何故か皆がその空間を「なんとなく」居心地が良い、「なんとなく」みんなと一緒にいたいという風に思えた。それだけで十分だったのだ。たったそれだけのことで、彼らの青春は燦然と輝き出し、そこからあの壮大な物語が紡ぎ出されたのである(『ココロコネクト ステップタイム』に関するより詳細な考察は以前の記事で述べてあるので、興味のある方は一読をお勧めしたい)。

まとめ

『がっこうぐらし!』の学園生活部もまた、偶然によって誕生した。あの日、偶然屋上に避難して生き延びた4人。めぐ姉を失った後、由紀と胡桃と悠里がショッピングモールに向かい、そこで偶然、美紀と太郎丸に出会う。最初は、幸か不幸か、現実を受け入れられなくなってしまった由紀の行動に、胡桃と悠里が付き合っていただけかもしれない。しかしやがて、学園生活部の活動が他の皆にとっても無くてはならないものになってゆく。

もちろん、学校の中であるから色々と制約もあるし、ゾンビから身を守るためという必要に駆られての活動もあっただろう。それでも、由紀たちは出来る範囲で、自分たちの望む「なんとなく」を求め続けた。理屈や合理的判断を超えた「なんとなく」居心地の良い安心できる場所で、彼女たちは「なんとなく」自分のやりたいことを見つけ、それに全力で取り組んだ。閉鎖的で息苦しい学校という空間の中で、由紀たちは本気で「楽しい」と思える最高の居場所を築き、それを守るために命を懸けた。彼女たちは、学校という理不尽な世界の中で命がけで戦うと同時に、その世界を命がけで楽しんでいたのだ。

もちろん、学校を卒業して新たな世界に飛び込んだ由紀たちは楽しんでばかりではいられないだろう。楽しく平和な毎日が延々と続いていると思い込んでいた由紀が、次第にめぐ姉の死を受け入れていったように、これからは否が応でも厳しい現実と向き合わなければならなくなる。それでも、全力で楽しんだ学園生活部の素晴らしい日々が、何物にも代えがたい財産となって今後の彼女たちを支えていくだろう。