新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『やがて君になる』の魅力

「特別」を知らない侑

『やがて君になる』読み返してます。これは読めば読むほど深みにはまっていく怖ろしい漫画ですね。個人的にこの漫画の一番素晴らしいところは、主人公・小糸侑のキャラクターだと思っています。一言で言えば、侑は「特別」なものを持つことができない人なのです。

より正確に言うなら、恋愛とか部活とか生徒会活動といった、普通の中高生が必ず経験する事柄に「熱中する」「夢中になる」といったことが決定的にできない人なんですね。これは何も恋愛のことだけではなくて、部活でも勉強でもいいし、将来の夢のために頑張るということでもいい、とにかく「これだったら自分は頑張れる」「他の全てを犠牲にしてでもこれに集中したい」と思えるような「特別」なものを皆が持っている。ところが侑には、その「特別」が分からない。全てのことを一歩下がった所からまるで他人事のように見つめることしかできない。つまり侑は、学校という空間で経験し得る様々なこと(勉強・部活・学校行事・その他全て)に「熱を上げる」ということが、本質的に無意味なことである、という事実を心の底から知ってしまってるんですね。

「特別」を知っている七海先輩

しかし世間というものは、侑に「特別」を知ることを強要してくるのです。何か一つ夢中になれるものを持っていることが、「普通」であり「自然」であり「当たり前」であるという洗脳を、事あるごとに浴びせ続ける。そして、何か一つのことに全力で取り組むのという事、みんなで一致団結して一つのものを作り上げるという事は素晴らしいよね、という無言の圧力がこの社会にはあって、それに逆らうと物凄く生きるのが難しくなるという現実がある。だからこそ侑は「特別」を知りたい、つまり、誰かのことを好きになりたい、と強く願うのです。

けれどもただ一人、七海先輩だけが、侑に「そのままでいいんだよ」と宣言します。「特別」を知らない侑のままでいい、いやむしろ、今の侑のことが好きだ、と全力の愛で侑を肯定してくれるのが七海先輩なのです。

ところがここに、七海先輩の抱える本質的矛盾=ズルさが存在しているのです。要するに、七海先輩はすでに「特別」を知ることの快感を知っているのです。侑にとって七海先輩は、特別を知らないありのままの自分を肯定してくれた唯一の人物、だから七海先輩も自分と同じ人種に違いない、そんな風に思っていた。ところがフタを開けてみれば、七海先輩は、侑のことを好きになるという特別、生徒会長になって皆の期待に応えるという特別、姉の代わりに文化祭の劇をやるという特別、そういった沢山の「特別」を持つ喜びを知っているくせに、侑には「自分のことを好きになるな」「特別を持つな」と要求してくるのです。それゆえに、侑は七海先輩のことを「ズルい」と感じてしまうのですね。

なぜ侑は七海先輩から離れられないのか

それでも侑は、七海先輩から離れることができない。生徒会長選挙の応援演説も引き受けるし、劇も手伝うと約束してしまう。それは何故なのでしょう。それはおそらく、七海先輩の持つ「特別」が「偽物」であることを侑だけが見抜いているからです。

彼女の「特別」の中で、「本物」と呼べるものは侑への恋心だけで、他の生徒会活動とか劇をやりたいとかは全部「偽物」なのです。それらは、彼女の心の底から湧き上がる自発的な意志によって発動しているものではなく、周囲の期待に応えなければならないという強迫観念とか、姉の代わりにならなければならないという焦燥感などによって生み出された、偽物の特別なのです。つまり七海先輩は、「特別」を持つことの喜びだけでなく、「特別」を持ち続けることの苦しみを誰よりも深く理解している。そして、表向きは学校生活の中のあらゆる事に熱を上げているように見えて、実際には心の中は氷のように冷え切っている。

それゆえに、侑と七海は一見すると全然違うように見えて、心の奥深くでは凄く似た者同士であり、互いに惹かれ合ってしまう。そして何より、侑は、凍りついた七海の心を溶かすことができるのは自分だけである、すなわち、自分が七海先輩にとって「特別」な存在であるという事実に、間違いなく喜びを感じている。そして、自分が「特別」を獲得できるかもしれない唯一の場所である七海先輩の傍に、ずっと居続けたいと強く願ってしまう。

という感じで、二人の関係性がどのようなものなのか推理しつつ、絶え間なく繰り出される二人のイチャイチャっぷりに悶絶しながら何回も読んでしまうのが、『やがて君になる』の魅力でございます。3巻以降、この関係性がどうなってしまうのか、果たして侑は「特別」を知ることができるのか、これからも目が離せません。