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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『キズナイーバー』と『異能バトルは日常系のなかで』の共通点

アニメ

序盤は完全に『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』や『ブラック★ロックシューター』や『心が叫びたがってるんだ。』といった岡田麿里脚本の作品と同じ系統を行ってましたね。あるいは『あの夏で待ってる』とか『ココロコネクト』とも同じ構図です。要するに、自分の気持ちが否応なく相手に伝わってしまうような舞台装置が用意され、登場人物の心が大きく揺れ動くという展開です。『あの花』ではめんまという存在が、『心が叫びたがってるんだ』では交流会の実行委員をやらされるという設定が、その舞台装置として機能していました。『キズナイーバー』においてその舞台装置となっていたのは、言うまでもなく「キズナシステム」と呼ばれる他人と痛みを共有するためのシステムでした。この系統の作品は、物語が進むにつれて登場人物が自分の気持ちを積極的に相手に伝えるようになっていき、複雑に絡み合ったディスコミュニケーションの糸が解かれることでカタルシスが得られる仕組みになっています。そして、それに付随するように「傷付け合う事を過度に怖れるのはやめよう」「まずは自分の気持ちをはっきりと相手に伝える事が大事」みたいなテーマが語られます。

ところが『キズナイーバー』では、「ディスコミュニケーションの解消=良いこと」という定式が揺らぎ、「それって本当に必要なことなの?」という視点が入ってきました。要するに、相手の心を知るっていうのはめっちゃ「痛い」し、みんなそれによってすごく傷付いちゃうわけです。だったら、もう無理に相手のことを知ろうとせず、ありのままでいれば良いんじゃね?という疑問が湧くわけですね。

で、実を言うと、本作の制作会社であるTRIGGERが、かつて同じようなテーマを有する作品をアニメ化しています。それが『異能バトルは日常系のなかで』なんですよ!

異能バトルは日常系のなかで11 (GA文庫)

異能バトルは日常系のなかで11 (GA文庫)

『異能バトル』の中で、鳩子は幼なじみである安藤のことを必死に理解しようとしますが、結局、最後まで彼の中二病的美学を鳩子が理解することはできません。安藤の一番近くに居るのに安藤のことを理解できないという苦しみが鳩子を追い詰めていき、ついに鳩子の心の叫びが爆発したのが、あの伝説の第7話でした。でも、このお話には続きがあって、第11巻(アニメ化はされてないエピソード)で鳩子は次のように言っています。

「うん。やめた。無理してジューくんの理想になろうとするのを、止めた。そういうのが、全部自己満足だって気づいたから」
(中略)
「私はさ、私が勝手に思い描いてた『ジューくんの理想の女』になろうと、一人で無理してただけだったんだよ。ジューくんのことを考えてるようで、実はジューくんのことから目を逸らしてた……」
(中略)
「だから、無理をするのはもう止めるの。ちゃんと、ジューくんと向き合ってみる」
(『異能バトルは日常系のなかで』、第11巻、131~132頁より引用)

そうなんです。結局、相手のことを理解しようと思ったら「無理」しなければいけない。だから、「理想の女」を演じるのはもうやめて、ありのままの自分で安藤と向き合いたい。第11巻ではもう、鳩子はそういう境地に達しているんです。

これってまさに、『キズナイーバー』の終盤で言われていた事と同じだと思いませんか? 相手の心を知ること自体は否定しないけど、キズナシステムのようなもので無理やり相手を知ろうとするのは、ただ「痛い」だけで何の意味もない。相手のことが分からないからこそ、相手のことを一生懸命に考える。そうすることで、また新たに見えてくるものがある。要するに、絆を作る上で重要なことは「相手を理解すること」ではないという事です。むしろ、相手のことを考えた時間、一緒に過ごした時間こそが大切なのだ、というのが最終的な結論になっていますよね。

まあ実際のところ、同様のテーマは『異能バトル』や『ココロコネクト*1でも描かれていたんですけどね。でも、アニメ版『異能バトル』ではそこら辺はあまり描けていなかった。*2 その描けなかった部分を、今度はオリジナル作品でキッチリ描いてみせたのが『キズナイーバー』という作品だったと言えるかもしれません。

*1:関連記事:『ココロコネクト』の思想3―ディスコミュニケーション論の「その先」へ - 新・怖いくらいに青い空

*2:というより、『異能バトル』がアニメ化された時には、まだ第11巻は発売されてない。