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『シン・ゴジラ』感想―日本が世界に示した第3の道、それはパンドラの箱を開けたのか?

シン・ゴジラ』観て来ました。いやぁもう凄いとしか言いようがないですね。僕の中でNo.1の特撮映画ってずっと『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年公開)だったのですが、それが更新されそうな勢いです。とにかくこの興奮が冷めないうちに記事を書きたいと思います。以下の内容はネタバレ全開なので、まだ見ていない方は決して読まないようにお願いいたします。

蒲田に出現した巨大生物

まず、本作で驚きだったのは、初登場時のゴジラの形状ですね。物語は、東京湾岸で謎の巨大生物が登場するところから始まるのですが、その時点ではまだ尻尾の一部が確認できるくらいで、一体何なのかよく分からない。やがてそれが、川を遡上し始めて、その勢いでボートやら橋やらが次々に飲み込まれていく。すでに他の方が指摘しているように、その光景はまるで、あの東日本大震災で発生した巨大津波を彷彿とさせます。そしてついに、蒲田付近で陸に上がった巨大生物は、我々が想像していたゴジラとは似ても似つかない姿をしていたんです。そいつは、例えるなら、全身ゴツゴツとした50メートル級のツチノコのような姿。しかも、巨大な口とエラがあり、地面を這うように動くという、実におぞましい姿をしています。

「え?なんやコイツ?」と観客が動揺している中、なんとこの未確認生物が急速に変身し始めるのです。日本政府が都市部で自衛隊の攻撃はできないとか、住民の避難がまだ終わってないとか、もたもたしてるうちに、そいつは手が生え、二本足で立ちあがるようになり、ここでようやく我々がよく知っているゴジラの姿になるのです。ゴジラの変身ということであれば、これまでのゴジラシリーズでもリトルゴジラとかゴジラジュニアとかが登場していたわけですが、今回のゴジラは水生生物から両生類的な姿へ、そして二足歩行のゴジラへと、わずか1日で劇的な「進化」をとげていて、進化学や生物学の常識が全く通用しない「怪物」として描かれています。

ゴジラ出現で右往左往する日本政府

ゴジラの変身シーンだけでも凄いのですが、最も特筆すべきはその見せ方にあります。まず映画の冒頭、東京湾アクアラインのトンネルが壊れて周辺から大量の蒸気みたいなのが噴出してきて、政府が「海底火山の噴火やな」とか言って国民に発表しようとしてる矢先に、主人公の矢口(官房副長官)が「いやネットの動画に変な巨大生物みたいなの映ってるで」と必死に訴えるんだけど、周りは聞く耳持たず結局「ただの噴火ですから安心してください」みたいな発表がされる。その後すぐに奴が川を遡上し出して「ほらやっぱ生物だったやんヤバいヤバい」ってなってるところで、今度は「あれは水生生物っぽい形してるから上陸はしないやろ」っていう御用学者の言葉を真に受けちゃって、環境省の若手女性官僚の「いやこれ上陸も有り得るで」という反論は無視され、「上陸はしませんから安心してください」みたいな記者会見をやりだす。その間にも、ゴジラは進化を続けていて、ついに蒲田に上陸して……。という感じで、政府の対応が後手後手に回っていく様子がこれでもかと映され続ける。

形式ばかりの会議で時間を費やしている間に被害がどんどん拡大して町中大騒ぎになってるのに、政府は「著名な生物学者を官邸に呼んでアイツの正体を確認しよう」なんて悠長なこと言ってて、案の定、呼ばれた生物学者も「分かりませ~ん」となり時間を浪費しただけに終わる。ようやく自衛隊に出動を要請しようということになるんだけど、「この場合って防衛出動は認められないんじゃね?」とか「市街地で自衛隊が武器ぶっ放すのは憲法違反じゃね?」とか「とりあえず住民の避難が終わってから攻撃に移ろう」とか、政治家と役人がああでもないこうでもないと議論を繰り返すばかりで攻撃が全然始まらない。で、ようやく軍用ヘリがゴジラの前にやってきて発射するという段階になるんだけど、ヘリのパイロットがまだ避難してないご老人を発見、その報告が超特急で官邸に上がってきて、総理は「攻撃中止!」と決断する。で、その直後にゴジラが進化して、周りのビルとかがもうメチャクチャに破壊されて、観客も「ああもうメチャクチャだよ!」とうなだれる。

そんな政治家や官僚たちの右往左往っぷりを、ゴジラそのものよりも多くの時間を割いて映しているのが、本作の序盤なのです。これはもう完全に、東日本大震災の時の首相官邸そのものですよね。事実、この事態は「想定外」すぎて法律やマニュアルもないし…なんて言い訳してる政治家も出てきます。

これがハリウッド映画なら、絶対にこういう描き方はしなかったでしょう。ハリソン・フォード演じる大統領が強いリーダーシップをとって国民を導き、メリル・ストリープ演じる参謀役が大統領に的確な情報を与え、デンゼル・ワシントン演じる軍司令官が見事な手腕で現場を動かす。でも、日本には、そんなリーダーは誰一人いないんだ…。本作はまさに、大災害の象徴であるゴジラが出現した時、日本政府はどうなるのか、という問題に対する最もリアルで明確な回答になっているのです。

街を破壊し尽くすゴジラ、そして、絶望

さて、蒲田や品川で大暴れしたゴジラは一旦海に戻り、日本政府が次こそ万全な体制でゴジラを迎え撃とうと準備を開始します。矢口率いるチームがゴジラの解析を行い、自衛隊も準備を進めます。そしてついに、ゴジラが今度は鎌倉に上陸、神奈川を縦断し東京に迫ります。自衛隊は多摩川の河川敷でゴジラを殲滅しようとします。軍用ヘリと戦車とミサイルを大量投入しますが、ゴジラには傷一つ付けることができません。とうとう多摩川を突破され東京に侵入してきたゴジラ。住民の避難が完了していないということで攻撃は一時中断、政府機能も立川の広域防災基地へ向けて移転を開始します。日本政府の対応に痺れを切らした米国は、B-2爆撃機によるゴジラ攻撃を決定。日が暮れた後、東京のど真ん中でゴジラと米軍が対峙します。爆撃機がゴジラに傷を負わせて「お、いいぞ」となった次の瞬間、観客全員が言葉を失うような衝撃的シーンがやってきます。

ゴジラが口から白いガスのようなものを出して、それがドライアイスみたいに街中に広がっていく。やがて、ゴジラの口から真っ赤な炎が噴き出し、白いガスに引火したかのように街が一瞬で炎に包まれます。真っ赤な火炎放射は、やがて黄色い光線となり、その光線に当たったビルや爆撃機は粉々に砕け散る。さらにさらに、背びれの間からも同様の光線が無数に放出され、街も、爆撃機も、閣僚たちが乗ってるヘリコプターも、あらゆるものが砕け散り、炎に包まれていく……。この瞬間、私はただ茫然自失となり「あ…終わった…日本終わった…」とつぶやく事しかできませんでした。

これまでのゴジラというものは、言うなれば「竜巻」のようなもので、通った所だけ局所的に破壊していくものでした。要するに、「悪い子はいねがー」と暴れまくる妖怪を見ながら、人々が「こっちくんな、こっちくんな」と祈ってるのが、それまでのゴジラの襲撃だったわけです。でも、火の海になった東京を悠然と闊歩するゴジラを見て、「運が良ければ助かるかも」という希望的観測は一瞬で消し去ります。それは、日本に襲い掛かった圧倒的な「絶望」に他なりません。

初代『ゴジラ』とオキシジェン・デストロイヤー

エネルギーを使い果たしたゴジラは東京駅付近で休眠状態に入ります。その間にゴジラを抹殺しようということで、国連やアメリカはゴジラに対する核攻撃を強く主張、2週間後に核攻撃を開始すると日本政府に通達します。矢口やカヨコ(米大統領特使)は、唯一の戦争被爆国である日本で再び核を使用することに反対し、別の道を模索します。矢口のチームによるゴジラの解析によって、ゴジラのエネルギー源は体内にある核融合炉であり、それが正常に作動するためには血液の循環が不可欠であるということが判明。そこで、血液凝固剤をゴジラに経口投与しゴジラの活動を停止させようという計画がスタート。さらに、とある科学者が残した解析表をもとにして、ゴジラの細胞膜に作用し血液凝固剤の効果を高める物質も発見されます。こうして、ゴジラに対する人類の反撃が始まるのです。

ゴジラをよく知ってる人なら、ここまでのストーリー展開が完全に、1954年に公開された初代『ゴジラ』と同じである、ということに気付いたでしょう。最初のゴジラ上陸で、日本人がゴジラの恐ろしさを思い知らされる。そして、国を挙げて次の攻撃に備えるためにあらゆる手段を尽くす。でも2回目の上陸で東京は火の海になり、日本の持てる力を全て使い果たしてもゴジラには敵わないことが分かり、人々は絶望感に包まれる。そんな時、一発逆転の「最終手段」が登場、人類はそれに一縷の望みを託してゴジラとの最終決戦に臨む。どうでしょう。まさに『シン・ゴジラ』と初代『ゴジラ』は瓜二つだと思いませんか。

初代の『ゴジラ』においてゴジラと対峙するための「最終手段」となったのは、言うまでもなくオキシジェン・デストロイヤーです。それは、その名の通り、水中の酸素を一瞬で破壊し、その場にいる生物を白骨化させる大量破壊兵器です。オキシジェン・デストロイヤーの使用、それは、人類が核兵器以上の強大な力を手にすることを意味する、まさにパンドラの箱だったのです。しかし開発者の芹沢が、その箱を開けることを許しませんでした。映画を見た方ならご存じの通り芹沢は、オキシジェン・デストロイヤーに関する全ての資料を破棄し、ゴジラとと共に自らも命を絶つことによって、この技術が悪魔の手に渡ることを食い止めたのです。

ラジオの実況が人類の勝利を高らかに喜ぶ傍らで、芹沢の婚約者だったヒロインが泣き崩れる、そんな印象的なシーンで初代『ゴジラ』は幕を閉じます。それは到底、勝利などと呼べるものではない。人類は今こうしている間にも自らの持つ力によって自らを滅ぼしかねない、そんな薄氷の上を歩いているのだという怖ろしい事実が、観客に突きつけているのです。

科学技術観の変化と核抑止論

一方、『シン・ゴジラ』では、2つの道が提示されました。そのうちの一つが、ゴジラに対して核兵器を使用するというものでした。21世紀の現代において、オキシジェン・デストロイヤーや芹沢博士のような人物が登場することは有り得ません。何故ならば、現代において何か新しいものを作り上げようとした時に、たった一人の科学者だけで完結するなんてことはまず有り得ないし、他を圧倒する突出した「天才」という存在も誕生しにくくなっているからです。というか、1954年の時点で、芹沢氏のような科学者像はフィクションの世界にしか存在していなかったんですけどね。

よく考えてみれば核兵器というもの自体が、米国がその当時の最高の科学者・技術者・開発資金・開発環境をそろえて国策として作り出したものですよね。開発に決定的に大きな役割を果たした何人かの科学者はいましたが、原爆は彼らだけで開発されたわけではなく、おそらく何千何万という技術者や政治家が関わっている。そんな大きな流れの中では、科学者個人の倫理観なんて一瞬で吹き飛んでしまうんですね。よしんば誰かが開発を拒否しても、また別の誰かがその代わりに原爆を開発するだけです。

だからこそ、核やその他の大量破壊兵器というものは、一度でも使ってはいけないんですよ。現実の社会に芹沢氏は存在しないので、「今回だけだから」は絶対に通用しない。通常兵器では敵わない強力な怪獣を倒すため、それは、大義名分としてはこの上ないものです。けれどもどんな理由であれ、一度でもそれを使ってしまったら、きっと人類はその甘い味を忘れられなくなる。これからますますその甘い誘惑に抗えなくなって、社会は再び混沌に包まれるでしょう。

日本の技術者魂が生み出した「第3の道」

しかし本作では、オキシジェン・デストロイヤーと核兵器に代わる「第3の道」が用意されました。それは、1人の天才が作り上げた最強兵器ではない。圧倒的なパワーを持つ大量破壊兵器でもありません。ただ、世界中のスパコンを使ってゴジラを解析し、日本中のプラントを総動員して血液凝固剤を作り、それを東京まで運び、作戦決行までに万全の準備を整えるだけ。そこには芹沢博士に相当する人はいません。ただ、各人が自分の置かれた環境で自分のできる事を実行し、それらをチームプレーと創意工夫によって統合していく。地味で根気のいる作業ですが、結局、日本人にはそれしか無いのです。

僕は今回の熊本地震を経験して、その事を本当に実感したのです。地震が発生した直後から、国と県が指揮を取り、消防・警察・自衛隊が被災地に入り、救出作業を進めて行く。わずか数日後には、スーパーにおにぎりや飲料水やパンやお惣菜やその他日用品が山のように並べられる。あっという間に主要な道路や鉄道が復旧し、復興に向けた準備が進行していく。もちろん、全てが完璧に機能しているわけではないし、完全な復興にはまだまだ時間がかかるでしょう。でも、何か緊急事態が発生した時に、まるで人が変わったかのように一致団結して、普段なら考えられないくらいの猛スピードで突き進んで行ける。こんなことのできる国が、日本の他にあといくつあるのでしょう。

本作においてゴジラとは、人類の愚かさによって生み出された核兵器の象徴であると同時に、人類が決して逃れることのできない大災害の象徴でもあるのです。そして、その脅威に対抗するために日本という国が取るべき道は、結局、上で述べたような地道で泥臭い「第3の道」しかないのです。それを可能にするのは、その場にいる一人ひとりの「この国を救いたい」という思い、もっと突き詰めるならば「愛国心」と言っても過言じゃないでしょう。

細かいことは気にしちゃいけないクライマックス

さあ、映画のクライマックス、日本の持てる技術を全てつぎ込んだゴジラ冷温停止作戦、通称・ヤシオリ作戦が始まります。映画を見た方なら分かると思いますが、このシーンの圧倒的熱量を上手く文章にすることは到底できません。でも、あえて言葉で表すなら、まあこんな感じです。

無人新幹線爆弾、ドーン!

無人爆撃機、ドーン!!

高層ビル爆破、ドーン!!!

ゴジラが倒れた! 今だ! 凝固剤注入!

またゴジラが動き出したぞ!

無人在来線爆弾、ドーン!!!!!

よし! とどめだ! 凝固剤注入!

……なんというか、もう何でもありのハチャメチャ状態です。「なんかCGがショボい」「無人在来線爆弾って何だよ」「ゴジラが都合よく血液凝固剤を飲みんでくれるとか有り得ないだろ」「無人在来線爆弾って何だよ」「周囲に瓦礫散乱してるのによくあの車ゴジラに近づけたな」「無人在来線爆弾って何だよ」などなど、色んなツッコミどころが登場してきますけど、

こまけーことはどうでもいいんだよ!

ここは、21世紀に生きる我々がゴジラと対抗する唯一の手段を提示する場面なんだ! 人類を破滅に導く核兵器でもない、1人の天才科学者でもない、他の誰でもない、名もなき日本人全員が、力を合わせて脅威に立ち向かいそれに勝利する! この圧倒的な熱量の前にしたら、数々のツッコミどころの存在なんて小さ……くはないけれど、まあ、心の片隅に追いやってしまえるくらい、すごいシーンだったと思いますよ、うん。

日本は「パンドラの箱」を開けたのか?

こうして東京駅付近で冷温停止状態となったゴジラを見つめて「我々はゴジラと共存していかなければならない」と言う矢口。東京の中心でいつまた暴れ出すかも分からない強大なエネルギーと共存せざるを得なくなった劇中の日本人。その姿を見て、観客は福島第一原発のことを思わずにはいられません。原発推進派だろうが反対派だろうが関係なく、日本人一人ひとりが今後何十年と向き合わなければならない「現実」を叩きつけて、この映画は幕を下ろします。

でも、映画を見終わってしばらくすると、私の中で一つの疑問が湧きあがります。果たして、ヤシオリ作戦は成功だったのだろうか。ヤシオリ作戦は、現代におけるオキシジェン・デストロイヤー(=核兵器に代わる大量破壊兵器)を生み出したのではないだろうか。日本は、結局のところ、ゴジラを制圧することによって「パンドラの箱」を開けてしまったのではないだろうか。

確かに、ヤシオリ作戦で使われている技術一つ一つは、人類を破滅に導くような強力な新技術ではありません。でも、たとえ既存の技術の寄せ集めであっても、それによってゴジラという強大な力を制御することに成功した。これはもう、とてつもない「新技術」と言って間違いはないと思います。

例えば、この技術を応用して、ゴジラの持つ強大なエネルギーを発電に利用しようとしたら、どうなるだろうか。そうすれば、原発を使うよりもはるかに安くて簡単に電気を生み出せるかもしれないけれど、ひとたび大事故が発生すれば日本だけでなく世界全体が滅びてしまう、そんな危なっかしいものに日本や世界が依存せざるを得ない状況が作り出されるのではないだろうか。

例えば、ゴジラの休眠と暴走を自在にコントロールできる技術が出来たら、そして、ゴジラの「進化」ですらコントロール可能になり、小型化したゴジラを自由に移動させることができるようになったとしたら、どうなるだろうか。そうなった時、日本は、核兵器以上に強大な、今度こそ本当に人類を破滅に導くであろう大量破壊兵器を手にすることになる。

もちろん、反核の誓いを破って東京を放射能まみれにするよりも、ヤシオリ作戦による冷温停止の方がはるかに優れた選択だとは思う。けれども、たとえそれが日本のためという純粋な善意の結果であっても、長期的に見ればそれがとてつもない破滅をもたらすという危険性は確実に存在する。原爆の開発者ですら、きっと、最初は「祖国を救いたい」という純粋な気持ちでそれを開発したのだ。

果たして、日本は「パンドラの箱」を開けたのだろうか。その答えがどうなるのかは、今後の日本や世界の対応にかかっている。そして、その問いに答えを出すことができるのは、矢口やその仲間たちではなく、彼らの何十年か後に生まれる次の世代の人達なのだ。