新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

最近読んだ本まとめ(2)

君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

人間は中学生くらいになると、学校では教えてもらえないこの社会の構造や生きるために大切な事について、自ら吸収していけるようになる。この世には貧富の格差があるという事、数え切れないほど多くの人々の有機的なつながりによってこの現代社会が成り立っているという事、そして、人生の中のあらゆる出来事は決してやり直すことのできない一期一会のものであるという事。世間では中高生に読んでほしい名著と言われるが、私は日本中にいる教育関係者にこそ是非とも読んでもらいたい。人生にとって一番大切なものは、学校で教わることではなく、学生自らが思考し、日々の生活の中で掴み取っていったものの中にある、という教育の本質が見事に書かれている。そして、真に優れた教育者とは、単に学生にものを教えるだけではなく、本書に出てくる叔父さんのように、学生が自発的に学んでいく過程をサポートできる人なのだと思う。

本書の舞台である第二次大戦直前の学校のあり方について多くの人が誤解している事があると思う。それは、戦前の教育の問題は全て軍国主義的・国粋主義的な教育指針によって個性を抑圧するような教育が横行していた点にあり、それらの反省を踏まえた上で今日の教育があるのだ、という「教育史観」である。しかし、私から言わせれば、日本の教育現場が抱える問題は、戦前も戦後も一貫して全く変わっていない。確かにGHQの指示によって軍国主義的・国粋主義的な教育内容は改められたのかもしれないが、敗戦という大転換点を境にして教育の形がガラリと一転したという見方は間違っていると思う。丸山真男が本著のあとがきで次のように述べている。

日本で「知識」とか「知育」とか呼ばれて来たものは、先進文明国の完成品を輸入して、それを模範として「改良」を加え下におろす、という方式であり、だからこそ「詰めこみ教育」とか「暗記もの」とかいう奇妙な言葉がおなじみになったのでしょう。いまや悪名高い、学習塾からはじまる受験戦争は、「知識」というものについての昔からの、こうした固定観念を前提として、その傾向が教育の平等化によって加熱されたにすぎず、けっして戦後の突発的な現象ではありません。そうして、こういう「知識」――実は個々の情報にすぎないもの――のつめこみと氾濫への反省は、これまたきまって「知育偏重」というステロ化された叫びをよび起し、その是正が「道徳教育の復興」という名で求められるということも、明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。その際、いったい「偏重」されたのは、本当に知育なのか、あるいは「道徳教育」なるものは、――そのイデオロギー的内容をぬきにしても――あの、私達の年配の者が「修身」の授業で経験したように、それ自体が、個々の「徳目」のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配はありません。
(『君たちはどう生きるか』、324~325ページ)

君たちはどう生きるか』が書かれて80年、丸山眞男があとがきを書いて35年以上が経過したが、指摘された問題点は今も全く変わっていない。要するに、日本の教育界というものは右も左も、生徒にとって必要だと思う知識を上から叩きこむことには執心しても、生徒が自ら学び考える機会を与えることは一切考えてこなかったのだ。この国では、どんなに立派な理念を掲げても、それはあっという間に陳腐で無意味な「詰めこみ教育」に成り下がるのだ。例えば、近年散々言われている「大学では社会で役に立つ人材を育てよう」という理念(それに対する賛否は別にしても、日本中の有識者が集まって作り出された立派な理念)は、経営学自己啓発・マネジメントとかいう言葉を表層的になぞるだけの無意味な授業に変わり、挙句の果てには就活で役に立つ自己アピールや面接の練習に成り下がった。日本会議とか自民党とかが愛国心を高めるような教育を推進すべきだと言い続けているが、それも遠くない未来に、歴代の天皇の名前を書かせる暗記テスト(私達の祖父母が戦前に受けたのと同じようなもの)に成り下がるだろう。これは断言してもいい。

君たちはどう生きるか』が多くの人に読み継がれているという事実は、裏を返せば、本著が掲げた理想の教育の姿が未だに実現されてないということなのではないだろうか。

おはよう、愚か者。おやすみ、ボクの世界

電撃小説大賞を受賞した作者のデビュー作『ただ、それだけでよかったんです』に勝るとも劣らない衝撃的な作品。まるで映画『ゴーン・ガール』のように、物語が進むにつれて読者の中で登場人物の印象がガラリと変わるように設計された文体、ミスリードの仕方は天才的技法としか言いようがない。それでいて最後には、人は何かを捨てることで大人になるのだという悲しい現実が突きつけられ、読後には何とも言えない余韻だけが残る。

では、登場人物たちは大人になる中で一体何を捨て去ることになったのだろう。それは、自分は特別な存在だという「有能感」だろうと思う。自分だけがあの人のことを分かってあげられる、自分は皆から必要とされている。そういった有能感がボロボロに崩れ去り、実は自分もこの世界に大勢いる取るに足らない人間の一人なのだと思い知らされるという挫折の中で、人は成長していく。

作者はこれからも長く優れた作品を発表し続けるだろう。その発表の場がライトノベルに留まるかどうかは分からない。桜庭一樹のように、ゆくゆくは一般向けの小説を出して芥川賞直木賞をとるかもしれない。

iPS細胞

iPS細胞 不可能を可能にした細胞 (中公新書)

iPS細胞 不可能を可能にした細胞 (中公新書)

数あるiPS細胞関連の新書の中では、この中公新書が出した解説書が一番読みやすく、押さえていくべきポイントをしっかり押さえていると思う。中でも興味深かったのは、山中伸弥教授がiPS細胞を開発する過程ではなく、その成果を発表するまでの流れが詳しく書かれていたことだ。

マウスのiPS細胞作製に成功した山中は、さっそく論文を投稿しようと考えるが、普通に投稿してしまったら査読中にデータを盗まれてしまう怖れもあった。そこで、米国の学会で成果を報告し、自分のプライオリティを証明した。その際、使用した4つの遺伝子の名前を明かさないなど、技術が盗まれないように細心の注意を払った。その発表をCell誌の編集者が聞いていたおかげで、実に素早く論文を発表することもできた。さらに、ヒトiPS細胞の作製にも成功し論文投稿の準備に入ろうとしていた頃、出張先でどこかのグループもヒトiPS細胞作製に成功しているらしいという噂を聞きつけ、飛行機の中で大急ぎで論文を書き上げたという。

こういう咄嗟の対応力を見ていると、やはり山中氏は良い意味で日本人離れした研究者だと思う。他を圧倒するような知識と技術力を持っているのはもちろんだが、自らの成果を最も効果的に発表するために巧妙な戦略を立て、貪欲にNo.1を狙っていこうとする姿勢を兼ね備えている。まさにノーベル賞を取るべくして取った人物だと言えるだろう。山中氏がたとえ幹細胞研究の道に進んでいなかったとしても、別の道で世界的な偉業を成し遂げただろう。