新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『宇宙よりも遠い場所』総評―アウトロー達の「ざまぁみろ」を肯定的に描く爽快感

伝統的な立身出世モデルの崩壊

今思えばこの作品は終始、登場人物が、誰の期待を背負う事もなく、他でもない自分達の夢や願望や目的のためだけにチャレンジしていくという物語だった。南極に天文台を作りたい、南極でしかできない研究がしたい、母親が降り立った地に自分も行ってみたい、自分をバカにした奴らを見返したい。そういった個人的な願望に突き動かされた人達が力を合わせて南極を目指す、という物語だ。第9話の「ざまぁみろ」はそれを実によく象徴している。

日本で昔からよくある成功の物語は、才能あふれる若者が家族や出身校や地元の期待を一身に背負って、広い世界に挑戦しに行って努力と創意工夫で成功を収める、みたいなものだった。しかし思えば今は、この「立身出世して故郷に錦を飾る」的な成功モデルがなかなか成立しない時代になっているのかもしれない。

本当に優れたパイオニア的存在は、没個性的で保守的な日本の小さなコミュニティでは逆に評価されない場合がある。出る杭は打たれるという諺の通り、彼らは学校や地域社会から理解されずに蔑まれたりもする。彼らは、そこで感じたルサンチマンにも似た鬱屈した感情を上手にモチベーションへと変換し、自分の能力を発揮できる場所を求めてもっと広い世界(海外とか)に出ていき、そこでようやく認められる。こういうタイプの偉人は、色々な分野で少なからず存在している。

例えば、野茂英雄近鉄バファローズに入団して4年連続で最多勝を獲得するなど大活躍を見せるも、監督や球団と対立し退団。メジャー行きを宣言するも、当時は多くのマスコミが通用するはずないとバッシングしていた。しかし実際は、ノーヒットノーランを2回達成するなど数々の偉業を成し遂げ、日本人メジャーリーガーのパイオニア的存在となった。

他にも、落合博満や、モハメド・アリや、マルコムXなどが、このタイプに含まれるだろう。ノーベル賞受賞者の中にも少なからずこのタイプの偉人がいる。

負の感情を出発点としてチャレンジするということ

今や、才能ある人は子どもの頃から世界を舞台にして活動するというのが当たり前の時代になっているが、学校や地域や国といったコミュニティのレベルではそういう時代になかなか対応できず、それらの枠組みから外れた人達をバッシングして才能をつぶそうとしてくる。なので、そういう小さなコミュニティに居られなくなったアウトローが、自分から世界に出ていってようやく認められる、というケースはこれからの日本でどんどん増えていくだろう。

そういう時代において、「自分をバカにした連中を見返したい」「ざまぁみろと言ってやりたい」という一見すると不健全な負の感情のようにも解釈できる動機を、むしろ全肯定していったのが『宇宙よりも遠い場所』という作品だったのだと思う。

本作の主要登場人物はみんな、学校でバカにされたり、不登校になっていたり、友達ができなかったりして、この社会に「居場所がない!」という切実な感覚を抱くアウトロー的な人物ばかりで、そういう彼女たちが、心の中から沸々と沸き起こる負の感情を出発点として新しい世界に踏み出す姿を、極めて肯定的に描いていった。そしてその事が、現実にいる才能があってもなかなか世の中から評価されずに苦しんでる人達に、どれだけ勇気を与えただろうか。

「ここじゃない何処かに行きたい」を超えた「何か」

しかし、そうは言っても、帰国して再び南極に行こうと誓い合うキマリ達には、「ざまぁみろ」に代表されるような個人的な夢や願望ではない、それを超えた「何か」が求められるということもまた事実である。先ほど、個人的な負の感情を出発点としてやっていくのも全然有りみたいな話をしたが、実際には「ここじゃない何処かに行きたい」みたいなロマンを追い求めることは極めて難しくなっている。要するに、研究者が個人的に「これがやりたい」と思う事でも、それが同時に「社会や人類のためになる」と認められなければ、スポンサーもつかないし予算も下りないというシビアな時代になっているのだ。

事実、南極観測隊の隊員達は皆、ただ南極に行くことを目的としていたわけではないはずだ。南極の気象・生物・雪・オゾンホール、南極から見える星やオーロラ、それらを研究することが彼らの目的であって、南極に行くのはそのための手段でしかない。そして、彼らの目的がゆくゆくは人類の進歩につながるのだということを、スポンサーとなる企業や国や社会に向けて彼らが絶えず発信し説得してきたからこそ、彼らは南極に行くことが出来、また、行く資格があると認められたのだ。

だとするなら、1度目の旅を終えたキマリ達も、「ざまぁみろ」や「ここじゃない何処かに行きたい」だけでは許されないフェイズに入ったのである。それが成長し、大人になる、ということなのだ。ただ「南極に行きたい」だけではなく、「南極に行って何かを成し遂げたい」へ。大人になり2度目の南極を目指すキマリ達が、その「何か」を見つけてくれることを願って止まない。