新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『かぐや様は告らせたい』第12巻についての3つの論点

かぐや様、新たな次元へ

天才数学者ジョン・ナッシュプリンストン大学に進学する際、彼の指導教官は推薦状にたった一言、「この男は天才である」と書いたそうである。『かぐや様は告らせたい』第12巻の素晴らしさを伝えるのもまた、たった一言で足りるであろう。

赤坂アカは天才である。

かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~』は、連載開始早々に恋愛頭脳戦というコンセプトを乗り越え、ここ数話でついに「相手を先に告白させた方が勝ち」というコンセプトですら乗り越えて、新たな次元へ行こうとしている。

赤坂アカの作り出す圧倒的な物語構成と萌え力が、プライドの高い男女が如何に相手に告白させるかを考えながらマウント取り合い合戦をやってるという当初のコンセプトを軽々と飛び越して、12巻から何巻かにわたって描かれるであろう文化祭編で2人がおそらくは恋人となり、新たな世界を生み出す寸前のところまで到達したのだ。

思えば、歴史に残る名作はみんなそうである。例えば『ドラえもん』。当初の設定では、ダメ人間のび太のせいで困窮を強いられていた未来の野比家が、のび太を立派な人間に更生させるために過去に派遣したロボットというのがドラえもんであった。しかし、今、私たちはそんな設定をほとんど何も意識することなく、何故かロボットがのび太と一緒に生活していて、未来の道具で様々な騒動を巻き起こし、毎年の映画版で大冒険を繰り広げるという世界観を、当たり前のように受け入れて『ドラえもん』を鑑賞している。

歴史に残る傑作というものは、その作品に当初含まれていた意味合いやコンセプトを乗り越えて、作品が新たな次元に到達することで、その地位を不動のものにする。『かぐや様は告らせたい』は、まさに今、歴史的名作となろうとしている。

第12巻118話、白銀会長が必死にバルーンアートを作り上げようと努力している姿を見て、かぐやは「会長の謎がまた一つ解けました」と言って目をキラキラと輝かせる。私は、この瞬間にかぐやが、会長のことが好きなのだという事実を明確に自覚したのだと思う。この瞬間、恥やプライドを捨てて「私は会長の事が好きなんだ」と認めざるを得ない、そういう段階に辿り着いたのだ。その2話後に「私は白銀御行が好き」と言ってるのは、あくまでもその事実を早坂に打ち明けたというだけであって、かぐやの心に決定的な変化をもたらしたのは、あのバルーンアートの出来事だったのだと思う。

そして、ネタバレになるので詳しくは言わないが、12月20日に発売された週刊誌掲載の第122話「かぐや様は告りたい(2)」で、ついに、本当についに、これまで動くことのなかった大きな山が動いたのである。

我々は今、歴史的名作が生まれる瞬間を目撃している。1954年版『ゴジラ』を映画館で見た人が未だにそのことを自慢げに語るように、私たちは50年後、「私はこのラブコメの最高傑作を毎週リアルタイムで見ていたんだ」と若者に自慢する日が来るのだ。

別の視点から描かれる世界

さて、第12巻の何よりの見どころは、やはり、白銀とかぐやのファーストコンタクトを描く第121話「1年生 春」なのではないだろうか。

私は第9巻の記事で、主要メンバーは大まかに2通りに分けられ、「世界をポジティブに捉えているのが白銀や藤原であり、世界に対してネガティブなのが石上やかぐや様だ」と書いた。

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しかし、その見方はあくまでも、かぐやの視点から世界を見た場合にしか通用しないものであることが、第12巻ではっきりとした。かぐやから見た世界は謀略と偽善に満ちており、「この世に良い人なんていない」とすら思っていた。そんな認識を変えてくれた白銀御行は、かぐやにとって、あまりにも真っ直ぐで、実直で、光輝いて見えていた。

ところが、当の白銀の内面は全然違っていた。入学早々に校風に嫌気がさし、やさぐれて、人生の全てを諦めたような、ネガティブ思考全開の御行がそこにはいた。対するかぐやは、自らの危険も顧みずに池に飛び込み、泥だらけになりながら溺れた生徒を助けて見せた。その姿は、御行にとって、あまりにも気高く、綺麗で、この瞬間に御行はかぐやの事を好きになっていた。

この作品は一貫して、今見えている世界だけが全てではないという事実を描き続けている。世界に絶望していた石上が、会長と出会い、体育祭を通して世界の見方を変えていったように、かぐやと白銀御行の物語も、いつもとは違った視点から描かれることで形を変え、違う色で塗り替えられていく。

かぐや様と自己犠牲

そうして描かれた新たな物語でやはり気になるのは、沼に落ちた生徒を助けるために自ら率先して沼に飛び込んだかぐやの「動機」の部分である。かぐやは、新聞社局長の娘を助ければ後々得になるかもしれないから助けたのだと言う。そして、見返りも何もなしに飛び込む者がいるとすれば、きっと相容れることはできないと言う。

しかし、かぐやの言うこの動機は本当に正しいのだろうか。私には、新聞社局長の娘だったからという理由は後付けで、たとえどんな人間が溺れていたとしても、かぐやはその人をとっさに助けたのではないかという気がする。

そもそもかぐやの行為は「自己犠牲」なのか、見返りを期待した「利己的行動」なのか。

カントによれば、ある行動が道徳的かどうかは、その行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす意図で決まるという。大事なのは動機であり、その動機は決まった種類のものでなければならない。重要なのは、何らかの不純な動機のためではなく、そうすることが正しいからという理由で正しい行動をとることだ。
マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳、『これからの「正義」の話をしよう』、早川書房、P146)

カント倫理学の立場からすれば、かぐやの行動は単なる利己的行動に過ぎない。しかし、それを言うならば、人間のあらゆる行動は究極的に利己的行動である。これは、私個人の考え方ではなく、進化生物学から導き出される科学的事実である。

おそらくヒトの祖先は、集団で狩りをし、集団で身を守ることで生き延びてきた。誰かを助けることが、結果的に自分を助けることにもなったから、たとえ自分の生存の確率を下げてでも時には他者を助けるという性質が長年にわたって受け継がれてきた。そのようにして論を進めると、この世の中の自己犠牲的行動の全てが、結局のところは利己的行動なのだと説明できる。

これは、人間の利他性や道徳を貶めるものではない。むしろ、「不純な動機が少しでもあれば、それは自己犠牲じゃない!」みたいな、動機に基づく線引きが無意味であることを物語っている。

白銀はかぐやを見て、「動くべき時に動けるか それが出来る人間は――たとえ泥にまみれてもきれいだ」と憧れを抱くようになる。白銀が見ているのは、かぐやの行動の「動機」ではなく、行動の「結果」なのだ。そして、実はかぐやもまた、白銀と同じなのではないかと思った。かぐやは、白銀会長の他人思いで努力家なところに惚れている。けれど、白銀のそういう行動の裏にあるのは、思春期特有の見栄とプライド、そして、かぐやに嫌われたくないという気持ちではないか。

この二人の生き方は正反対のように見えて、実は似た者どうしなのかもしれない。自分の行動は、その背後にある動機を基準にして見ているから、自己評価がとても低い。一方で、相手の行動は、動機ではなく結果を基準にして見ているから、そこに憧れや敬意や恋愛感情が芽生えてくる

第12巻にして、ようやくこの2人の自己認識と相手への恋愛感情を形づくる「思考の源泉」のようなものが見えてきた。