新・怖いくらいに青い空

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世界は不公平だ。それでも頑張る意味はある。―『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』

デジタル大辞泉の解説
こうへい【公平】 すべてのものを同じように扱うこと。判断や処理などが、かたよっていないこと。また、そのさま。

大辞林 第三版の解説
こうへい【公平】 かたよることなく、すべてを同等に扱うこと(さま)。主観を交えないこと(さま)。

精選版 日本国語大辞典の解説
こうへい【公平】 判断や行動が公正でかたよっていないこと。特定の人のえこひいきをしないこと。また、そのさま。くびょう。

公平(コウヘイ)とは - コトバンクより引用。)

本記事の概要

  • ほぼ全ての人は、「努力すれば能力はその分上がっていく」「能力が上がればそれが正しく評価される」という「公平性」が世界に存在しているという信念(公正世界信念)を持っている。『ユーフォ』で描かれる登場人物の苦悩は、自分達が信じている世界の公平性が実は存在していないかもしれない、という不安や絶望から生じるものである。
  • 公正世界信念というものは、強すぎても弱すぎても、人は健全に成長することが出来なくなる。また、努力や才能といった曖昧な概念を比較検証することは不可能に近いので、何が「公平」なのかについて考えていっても答えは出せず、ただ神経をすり減らすだけで終わってしまう可能性が高い。
  • 『ユーフォ』の登場人物は、「努力が報われない」「正当に評価されない」という経験をし、世界は公平ではないという事実を思い知らされて絶望した過去がある。しかし、たとえ世界が公平でなくても、自分の努力は決して無駄ではない、というふうに発想を転換することで、過去のトラウマや絶望を乗り越える、というのが『ユーフォ』の基本構造である。

公正世界信念について

響け!ユーフォニアム』シリーズについて考える上で「公正世界信念」というキーワードは欠かせないものだと思います。だいぶ前置きが長くなりますが、まずはそこから説明した方がいいでしょう。

人は、それが良いものであれ悪いものであれ、何らかの「結果」には必ず「原因」があると考えています。そして、人が受ける幸福や不幸のようなものにも、何らかの整合性のある「原因」があるはずだ、と考えてしまう生き物なのです。

例えば、「この人は若い頃に遊んでばっかりいて真面目に働いてこなかったから、今こうして貧しい生活をしてるんだ」「あの人は若い頃に努力していっぱいお金を稼いだから、今こうして良い家に住んでるんだろう」みたいな感じで、この人がそういう状況にいるのにはそれなりに納得できる理由があるはずだ、と考えてしまう。

これがさらに行き過ぎると、「あの人は前世で悪い事をしたから、この世ではこんな不幸な生活を強いられているんだろう」みたいな話になる。悪い事したら後でばちが当たるぞ! 良い子にしてないとサンタさんはやってこないわよ! アイツはとんでもない奴だから、いつか他人から愛想尽かされて不幸になるだろう! 映画の入場特典でなかよし川バージョンを引き当てられたのは、これまで真面目に働いてきたご褒美に違いない!神様ありがとう!

こういう思考パターンは、普段意識していなくても、私たちの心の中に怖ろしいほど深く根付いている。その最たる例が、努力(才能)と能力・評価の関係性に関する考え方。努力を続けていれば自分の能力は必ず上がっていき、今できないことも将来できるようになる! そして、努力して能力を高めていけば、それは必ず正当に評価されて、今よりも幸せな生活を送ることができるようになる! …というように、努力すれば誰でも「公平に」能力が上がり、能力が上がれば誰もが「公平に」それに見合った評価を受ける、世の中はそういうふうに「公平に」できているんだ! という思考パターンが我々の頭の中に存在しているわけです。

ところが、実際の世界は決して公平ではないという現実がある。上の例で言うならば、「若い頃怠けてたから貧乏」「頑張ったから裕福」なのではなく、ただ単に「持病のせいでまともな職につけず、かつ、そういった人を救済する社会制度も拡充していなかったので、貧乏になってしまった」だけかもしれないし、「特に努力もせずに親から譲り受けた金で裕福な暮らしをしてる」だけかもしれない。そもそも人の人生なんていうものは、生まれた時代や性別、人種、人体的特徴、親の教育方針、自然災害、病気、交通事故など、個人の努力ではどうすることもできないものでガラリと変わってしまう。

現代という時代は、「世界は公平である」という誤解が蔓延りやすい時代なのかもしれない。ほんの数百年前まで、乳幼児死亡率は今と比べ物にならないほど高く、運よく大人になれても結核などの感染症で人は容易く死んでしまう時代だった。ところが、医学の進歩とともに人の寿命は延び、それと同時に産業革命と社会の資本主義化が進んだことで、世界は豊かになった。そうなってくると、自分の人生は自分でコントロールできる、努力次第で何にでもなれる、という気持ちが芽生えるのも無理はない。

しかし実際には、人間は成長するにつれて「世界は依然として不公平である」という事実を思い知らされる。心の中で信じてきた「努力→能力→評価」という関係性=世界の公平性がガラリと崩れ落ち、自分の努力は本当に報われるのだろうかという不安や、どうせ何やっても救われないんだという絶望感に襲われたりする

『ユーフォ』の登場人物もまた、そうした「努力は報われないかもしれない」という不安や絶望の中にいる人として描かれる。例えば、傘木希美。同時期に吹奏楽を初めて同じように努力してきた鎧塚みぞれと傘木希美だが、圧倒的に実力があるのはみぞれの方で、音大に行くことを進められるほど。じゃあ自分は一体何なんだろう? 本人の力ではどうすることもできない無力感に襲われているからこそ、映画『リズと青い鳥』で希美は「みぞれはズルいよ」と言うのである。

例えば、中世古香織。1年生の頃からトランペットで部内No.1の実力者だったけれど、上級生を優先する部の方針もありソロは吹けなかった。3年生になり滝先生が着任すると部の方針は変わったが、今度は高坂麗奈にソロの座を奪われてしまう。彼女もまた、年齢(高校に入学した年度)という、個人ではどうにもならない高い壁に阻まれ、努力が報われなかった人だと言える。

『誓いのフィナーレ』で言うならば、本番直前に顎関節症になり結局3年間で一度もコンクールメンバーになれずに引退した加部友恵も、そういう人物として描かれている。

「努力」の量を測ることの難しさ

ところで、ここまで読んできた方なら容易に想像つくと思いますが、この「公正世界信念」というものが強すぎる、つまり「世界は公平であるに違いない!」と信じ切ってる人は相当ヤバい奴です。こういうタイプの人間は、自分に実力があり周りから評価されているのは、自分が誰よりも努力して腕を磨いてきたからだと信じ切っている。なので、今自分が評価されているのは、もちろん本人の努力もあるのだろうけど、運や周りのサポートがあってのことだという事実を忘れがちになる。また、自分より実力のない者は、単に努力が足りなかったのがいけないんだ、という思いやりに欠けた思考に陥りがちになる。逆に、自分が評価されなかった場合には、焦って「もっと努力しなければ」という方向に思い詰めてしまう。『ユーフォ』シリーズで言えば、麗奈や佐々木梓には、これに近い危うさのようなものがあります。

一方で、この手の信念が全くない人というのも、それはそれでマズいという事も容易に想像できるでしょう。だって、努力したって無駄!仮に実力があったとしてもそれがちゃんと評価されるとは限らんし…みたいな発想になっているので、実際にその人は努力しないだろうし、したがって成長することもできなくなる。滝先生が着任する前の全然やる気がなかった中川夏紀先輩は、このタイプに近いかもね。

ようするに、両極端なのはいかんよ~、という話なのだけれど、『ユーフォ』という作品はそこからさらに一歩進んで、そもそも公平かどうかなんて簡単には決められないよ、という視点が入ってくるのである。

例えば、黄前久美子は努力している、夏紀先輩も同じくらい(もしかしたらそれ以上)努力している。それでも、2年生の時、コンクールメンバーに久美子は選ばれて、夏紀は選ばれない。この世は、同じように努力しても一方は報われ、もう一方は報われない、そういう不公平な世界なのか? そういうふうに捉えることも出来るけど、本当にこの2人の努力量は同じか? 夏紀は高校に入ってからユーフォを始めたけど、久美子は小学生の時からずっとユーフォを演奏している。努力というものを人生のトータルの練習時間で捉えるなら、久美子だけが選ばれるのはやっぱり公平なことなのだという風にも考えられないか?

鈴木美玲と鈴木さつきのエピソードもまた、典型的な公平さにまつわるエピソードです。美玲は短時間で効率良く練習を進めるタイプで、自主練で放課後遅くまで残るようなことはしない。さつきは、先輩と一緒に遅くまで練習しているから、実力は美玲より下だけど先輩から好かれてるし、すごい努力してる良い子って思われがち。それが美玲にとっては凄く面白くない。心に積もり積もった不満がサンフェスの日に一気に爆発し、泣き出してしまう。

努力の量を測る上で時間というものは最も分かりやすい判断基準。だから、さつきの方が努力してると評価されがちだけど、その時間をどう使ったかも大事な要素。作中で滝先生が言っていたように、ただ漫然と演奏しているだけでは駄目で、いかに集中して効率よく練習するかということが重要。だからこそ、さつきの方が先輩から好かれているという事実に、美玲は納得がいかない。

でも、これをさつきの視点から見たらどうなるだろう。「みっちゃんは私や葉月先輩より全然練習してないのに実力があって本当にズルい。おまけに奏ちゃんや久美子先輩と仲良くなって私の悪口言ってるらしいじゃん、ホント最悪マジ何なのアイツ!」 もちろん、さつきが本当にこう思ってるというわけではなく、あくまでもこんな感じに関係がこじれてしまう可能性もあったという話です。

「公平」の反対が「不公平」なのではなく、各々の心の中に、各々が思い描く「公平さ」があるだけなのです。

どっちがより努力してるかなんて誰にも分からない。同じように、「才能」というものも簡単に比較できるものではない。才能とは何かと考えた時、多くの人は、少ない努力で多くの成果を上げられる場合に「あの人は才能がある」という言葉が用いられる、と考えます。しかし、上で見てきたように、その努力という言葉はとても曖昧な概念でした。だとしたら、努力という言葉で表現される才能という言葉もまた、すごく曖昧で漠然とした何かです。希美は「自分は才能がない」と嘆きますが、「それって本当なの?」「そもそも才能って何よ?」という疑問はずっとずっと付きまとってきます。

何が「公平」で、何が「不公平」なのか

【注意】 この先、『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編』のネタバレがあります。見たくないという人は「ネタバレ部分終了」と書かれた場所まで飛ばしてください。

さて、ここまでは、努力・才能というものをどう測るかという話でしたが、先日発売されたばかりの『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編』では、各人の能力をどう評価するか、その評価は本当に公平なのか、という視点が入り、話がどんどん複雑化していることが分かります。

久美子が3年生になり、釜屋すずめが入部してくる。彼女はチューバの初心者ではあったが、どんどん上達して1年生でありながらコンクールメンバーに選ばれる。一方、2年生になった鈴木さつきはすずめより演奏は上手いにも関わらず、何故かメンバーには選ばれない。久美子が滝先生に何故かと問うと、滝先生は「すずめの演奏はもちろん課題も多いけど、彼女はきれいな音を維持したまま音量を出せるという長所がある。彼女の欠点となる部分も、今年の選曲であれば、あまり問題にはならない」というような事を言う。つまりこのエピソードは、綺麗な音を正確に出すことだけが「実力」なのではなく、音量とか、選曲との相性など、様々な要素が複雑に絡み合って「実力」というものが判定されるということを示している。

また、福岡の高校からユーフォニアムの実力者である黒江真由が編入してきて、久美子は強い焦りを覚える。京都府大会のソロパートの座はなんとか久美子が獲得したけれど、部内では「今年転校してきた真由なんかより久美子部長の方がソロを吹くべき!」みたいな空気があることを久美子自身が感じ取ってしまう。自分は実力があったからソロに選ばれたのではなく、そういう部の空気を滝先生が忖度してソロに選ばれたのではないか…。そういう不安が久美子を苦しめていく。

『誓いのフィナーレ』も含め、これまでのエピソードはずっと、滝先生の判断は絶対的に正しいという前提のもとで進んできた。ところが、その顧問の判断ですらも、絶対的な物ではないということが『最終楽章』では描かれていくのです。

『最終楽章』のネタバレ部分終了

こうした事例は、もちろん学校の部活だけに限る話ではない。この社会のありとあらゆる場面で、似たような事例が出てきます。

アテネ五輪前の選考レースで高橋尚子は日本人トップとなったが、オリンピック代表に選ばれたのは別の選考レースで結果を残した他の3選手で、前回大会金メダルという高橋の過去の実績は考慮されなかった。一方、北京オリンピック前の国内大会で谷亮子は破れたが、過去の実績が評価されてオリンピック日本代表に選ばれた。これらの事例に対して公平か不公平か判断することなどできるだろうか。結果から言えば、アテネ五輪女子マラソンでは野口みずきが金メダル、谷は北京で銅メダルだった。結果が良ければ選択が公平だったということになる? もし結果が逆だったら、公平・不公平の判断も逆になる? そんな単純なものではないだろう。

クロスカップリング反応の開発の功績によりリチャード・ヘック根岸英一鈴木章ノーベル化学賞を受賞したが、この分野では彼ら以外にもたくさんの研究者がいて、偉大な業績を残している。ノーベル賞の同時受賞は3人までと決まっているが、何故この3人だったのか。彼らと彼ら以外を分けたものは何だったのだろう(なかには、受賞時にすでに亡くなっていて受賞を逃した人もいたかもしれない)。iPS細胞の論文を山中伸弥と共同で書いた高橋和利は、何故ノーベル賞を貰えなかったのだろう。高橋は山中の助手だったから貰えなかったのか? でも、天野浩は赤﨑勇の助手だったけどちゃんと2人ともノーベル賞を貰っているけど…。選考委員の判断について色んな人が色んな推察をしているけれど、本当の真実を受賞者や候補者が知ることはできない。ノーベル賞の選考過程が公開されるのは、受賞から50年後と決まっているから。

単純な組み合わせの問題を考えれば、不確定要素の数がn個増えると、世界の複雑さは2のn乗倍に膨れ上がります。何かを評価する時の判断基準は一つではない。どちらががより努力してるかなんて簡単には決められない。何をもって「実力」と言うかも、時と場合によって変わる。評価する側が常に正しいなんていうことも有り得ない。これだけ多くのファクターが複雑に絡み合っている中で、何が「公平」で何が「不公平」かなんて、そもそも決めること自体無理じゃね?っていうことです。

そういう状況下で、「あれは公平だ、正しい」「これは不公平だ、間違ってる」と言ってまわることに一体何の意味があるのだろう。もちろん、世界には理不尽で正義に反することも存在していて、それは改善されなければいけない、というのもまた事実。でも、上で述べたようなもっと曖昧なケースで、各個人が好き勝手に公平か不公平かを判断していった先に、一体何が残るというのだろう。そういう状況で公平性に固執するということは結局、人と人との対立を深め、自分の中に負の感情を溜め込んでいってしまうだけではないだろうか。

「頑張るって何ですか?」

では、公平さをめぐる袋小路的状況を打破するには一体どうすれば良いのでしょう。その答えを『誓いのフィナーレ』は見事に描いていると思います。

まず、第一歩目として、自分の心に築かれた公正世界信念がいったんボロボロに崩れ去る経験が必要なのではないでしょうか。これまで自分は努力すれば絶対に成功すると思ってきたけれど、実はそうじゃない。努力して報われる人もいればそうでない人もいる。実力が正しく評価されるとは限らない。世界は、怖ろしいほどに不公平だ…。希美も、香織も、加部ちゃん先輩も、みんなこういった真実を思い知らされ、世界に絶望した人として描かれているのです。『ユーフォ』に出てくる一人ひとりが、過去に同じように絶望を味わったのだと思います。例えば麗奈は、中学時代に自分一人だけが頑張っても全国大会には行けない、という事実を嫌というほど思い知らされています。そして『誓いのフィナーレ』の裏主人公とも言える久石奏も、中学時代に後輩でありながらAメンバーに選ばれ、後で陰口を叩かれたという経験を通して、世界に絶望している人として描かれます。

で、次のステップとして、そもそも公平か不公平かなんて考えだしてもきりがないですよ~、という事実に気付くことが必要だと思います。折しもイチロー選手が引退会見の時、「自分が他人より努力してきたかなんて分からない。あくまでも秤は自分の中にある」という話をしていましたが、まさに、他人と比較するのではなくて、自分が納得できるかどうかの方が大事なんだよ、ということなんですね。自分の方が努力してるのに評価されなくて悲しいと言って美玲が泣き出した時、久美子は彼女を立ち直らせるために巧妙に論点をずらしています。いや~そんなことないよ~、みんな美玲ちゃんのこと大好きだよ~。美玲ちゃんだって、自分から歩み寄っていけば先輩とも仲良くなれるはずだよ~、まずは皆から「みっちゃん」って呼んでもらうようにしようか。…この回答に奏は不満顔でしたが、美玲にとってはこれが最適解。答えの出ない問題を延々考えていた美玲の思考はリセットされ、美玲は次第に周りと打ち解けていきます。

そして、最後のステップとして、努力しても結果が出ないかもしれない、どんなに頑張っても報われないかもしれない、たとえそうだとしても、努力することに意味がある、という風に自分が納得できれば、その人は救われるのではないでしょうか。作中、ふてくされた奏が「結局、実力があるかどうかじゃなくて、皆が納得できるかどうかの方が大事なんでしょ」と久美子に詰め寄っていましたが、奇しくもこの「納得」というのが重要なキーワードです。

では、どうやって人を納得させるかという話になるんですが、これはもう方法は人によってバラバラとしか言いようがありません。最もよく使われるレトリックは、努力すれば報われるかもしれないけれど、努力しなかったら100%報われないですよ、というものですよね。それ以外にも、例えば、自分が努力してやれるだけのことをやりきれば、たとえそれで失敗しても後悔はしない、というのも挙げられます。田中あすかが退部するのを引き止める時、久美子は「後悔するってわかってる選択肢を、自分から選ばないでください」と叫んでいますが、まさに、このレトリックだったというわけです。

そして、奏を救うために久美子が使っているのは、「あなたがかつて置かれていた状況と今の状況は全然違うんですよ」という説得方法なのです。確かに中学時代のあなたは大変辛い思いをしましたよね。ぶっちゃげ私も、あなたの努力が報われるかどうかなんて分かんないし、それは誰にも分かりません。でも、これだけは確実に言えます。あなたがいた中学と北宇治とでは、状況が全く違います。部員の意識も、部の方針も、練習環境も、何から何まで違うのはあなたも分かってますよね。だから、中学時代に努力が報われなかったからといって、それがここでも同じだとは限らないですよね。もしかしたら上手くいく可能性だってあるじゃないですか。ほら、努力してみようって思ってきたでしょ?

これを見事な正論と見なす人もいれば、ただの屁理屈、言葉のあやだと見なす人もいるでしょう。でも、一番大事なことは、この言葉を聞いて奏が納得できるかどうかではないでしょうか。そして、奏が本当にそれで納得できたのであれば、ただ単に「努力すれば報われるから努力する」(公平世界信念の世界)ではない、もっと高いレベルの覚悟と決意をもって頑張ることができるようになります。

「悔しくて死にそうです!」

実は、上で述べたような発想の転換を国家レベル・民族レベルでやってしまったのが、ドイツやイギリスやアメリカだということになります。

カトリック教会が強い権力を持っていた時代、人々は、神の教えに従って正しく生きていれば天国に行ける、と信じていました。だから、教会の言うことは絶対ですよ~、教会に逆らったりしたら駄目よ~、ということで腐敗が進み、それが宗教改革の要因となりました。宗教改革の後、カルヴァン派が生まれ、予定説というものを唱え始めました。その概要は次の通りです。

「は?この世で良い事したら天国に行けるとか、そんな訳ねーじゃん。神様が何を考えてるかなんて俺ら人間ごときに理解できるわけないだろ。誰が天国行って誰が地獄行きかなんて、はじめから決められていて、それを人間の行動で勝手に変えるなんて出来るわけねーだろ」

こうして人々の心の中にある公平世界信念はボロボロに崩れ去り、絶望に打ちひしがれることになります。ここで「努力しても天国行けないんなら、もう努力するのやーめた!」ってなるかと思いきや、実際はそうはならなかった。

「誰が救われるのかはあらかじめ決まっている。ということは、もし俺が救われる側の人間だったなら、神の教えに背くことなく清く正しく生きることができるはずだ。そして、そうやって努力を重ねていけば、神の恩寵によって幸せになれるに違いない!」

こういうふうに発想を180°転換したことによって、真面目に一生懸命働くことを美徳とする社会が生まれます。人々は「自分は神に愛されてるはずだ」と信じて一生懸命働き、資本主義が発達していきます。こういう社会の在り方が正しいかどうかは誰にも判断できない。けれども、この地球上で最初に産業革命を成功させ、今なお経済的に最も豊かで、世界のトップランナーとして君臨している国は、だいたいプロテスタントの国であるというのは純然たる事実です。

人間と他の動物とを分ける最大の特徴は、人間の並外れた未来を予想する能力である、という人がいます。その時その時の快楽や欲求のために行動するだけではなく、時にはそれを我慢して、将来の幸福のために努力することが出来る。それが地球上で人間だけに備わった能力です。

でも、上で述べたような、世界に絶望してもそれでも努力していくという意志は、将来の喜びのために努力するのとは全くレベルの違う高次の努力だと言えます。だって、その努力は報われないかもしれないんですよ。それは生物学的には全く無意味な努力かもしれない。この世の中は公平ではない。世界は怖ろしいほどに不公平だ。それでも人間は、「いや、その努力には意味があるんだ!それで私は納得しているんだ!」と考えることができる。

奏にとって高校での最初のコンクールは、全国大会金賞という目標を達成できずに終わってしまう。そういう意味で言えば、奏の努力は報われなかったということになる。けれども彼女が中学時代のように絶望することはもうない。「悔しくて死にそう」だと叫ぶ奏の瞳には、今なお熱い炎がメラメラと燃えたぎってる。彼女の瞳の中に宿るそれこそが、人間の尊厳などだと私は思う。

物語はさらに進み、久美子が新部長となって『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章』が始まる。けれども、『ユーフォ』シリーズが追いかけてきたテーマは『誓いのフィナーレ』で語り尽してしまったのではないか、とすら感じる。まさに「フィナーレ」という言葉が相応しい、そんな圧倒的な映画だった。