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アニメ・マンガ・ライトノベル考察

花子くんが可愛すぎて生きるのがつらい―『地縛少年花子くん』原作ネタバレあり感想

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泣かせたい、この笑顔。

もう可愛すぎるでしょ、花子くん。

普段は飄々としていて助手の八尋寧々ちゃんを苛めて遊んでいるドSな花子くんですが、たまに見せてくる人間味溢れる表情がもう可愛すぎて生きるのがつらい。

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特にこの泣き顔、怯えた表情。もう最高である。

何だろう。心の奥底から花子くんを虐めて泣かせたいという願望が沸々と湧き上がってくる。自分の中からこんなヤバい感情が出てくるなんて、ちょっと怖ろしい。

それもこれも全て花子くんが可愛すぎるのがいけない。緒方恵美さん声の少年という時点で可愛いのは分かってはいたが、まさかここまで破壊力高いとは…。

というわけで、現在12巻まで発売されている原作漫画の方も読んでみた。

地縛少年 花子くん(12) (Gファンタジーコミックス)

地縛少年 花子くん(12) (Gファンタジーコミックス)

これはあくまでも私の個人的な感想なのだが、この作品はいわゆる「中二病的自意識」についての物語なのかもしれないと思った。

自分は特別な存在だ、望めば何処にだって行くことができる、そんなふうにある種の自惚れや全能感に満たされていく時期が思春期というもので、月に憧れる柚木普くん(花子くんの生前の本名)の姿は、まさに思春期に自意識が際限なく拡大していく様を象徴している。

でもその自意識は、小さな生き物を殺して楽しんだり、暴力的なものに憧れたりするといった、思春期特有のヤバい感情と表裏一体のものであって、柚木司くんの存在はこういった暴力的で非倫理的な感情を象徴しているように思う。

そして、まだ理由は原作でも明かされていないけれども、普は司を殺してしまい、それと同時に、月にまで届くほどに肥大化した自意識をも切り捨てたのだろう。そして、普の自意識は学校という狭い空間の中に囚われ、死んだ後も七不思議の一人となって学園に住み続けている。

だとするなら、この物語は最終的に、花子くんの自意識というか魂を学園から解放していく、つまり花子くんの救済を目指すものとなるだろう。物語の結末は原作漫画で、そして、もし可能であればアニメでもしっかりと見届けたい。

『行進子犬に恋文を』は百合漫画版『陸軍幼年学校よもやま物語』である

もう、尊さの塊みたいな作品なので、百合好きの人は絶対に読んでほしい。

行進子犬に恋文を(1) (百合姫コミックス)

行進子犬に恋文を(1) (百合姫コミックス)

  • 作者:玉崎 たま
  • 発売日: 2018/06/18
  • メディア: コミック

突然だが、国が発展する上で必要不可欠なものとは何か。それは、お国のために汗水たらして働く「国民」を養成することである。国民がみんな生まれ育った「おらが村」で畑を耕して一生を終えるだけでは、国は発展しないのである。まず学校を作り、教育を受けた健康な「国民」を大量に作り上げる。そして、彼らを使って産業を興し、強い軍隊を作る。それが良いか悪いかは置いとくとしても、今この世界で先進国とされている国は、一つの例外もなくこのような過程を経て発展してきた。おそらく、明治期の日本のエリート達(岩倉使節団とか)は、西洋の国々を見て回る中で、この近代化の本質をほぼ完璧に理解したのだと思う。だからこそ、その後に日本という国はここまで発展できた。

そういう近代国家の「国民」を養成する施設の最たるものが、陸軍幼年学校である。そこは、生活の全てが管理された空間で、立派な軍人になるために勉学に励むことが最優先の場所。恋愛なんて浮ついたことはご法度。そういう世界である。『行進子犬に恋文を』の舞台はその女子版。そこで描かれる百合。面白くないわけがない。スト魔女、陽炎抜錨、はいふり…。ほんと、ミリタリーと百合は親和性高いなあ。

主人公・犬童忍は陸軍女子幼年学校に入学したばかりの1年生。そこで模範生徒である加賀美藤乃と出会い、強い恋心を抱くようになる。加賀美もまた、犬童の可愛さに惹かれていき、「稚児なんぞに興味はないが他のやつにくれてやる気にもならないな」と言って犬童にキスをする。

百合漫画は誰に感情移入して読むのかが重要だが、本作は多くの人が加賀美に感情移入して読んでいるだろうし、そういうふうに読めるような作品構成になっている。加賀美視点で見ると、とにかく犬童が可愛くて仕方がないのである。ちっこくて、表情豊かで、子犬みたいで。そんな子が自分のことをメッチャ慕ってきて「好きです」と言ってくるのである。もう加賀美からしたら天にも昇るような気持ち。犬童のことが大好きすぎて気が狂いそうになるレベルなのだ。

ところが、自分も相手も、立派な軍人になるという使命がある。ましてや自分は模範生徒として下級生を厳しく指導しなきゃいけない立場。ゆえに、上手く伝えられない自分の気持ち。本当は今すぐにでも抱きしめてあげたいけれど、そうすることができない。この、もどかしさ。ただただ尊い

ところで、本作の下敷きとなった作品が、村上兵衛の『陸軍幼年学校よもやま物語』である。

陸軍幼年学校よもやま物語

陸軍幼年学校よもやま物語

これは、陸軍幼年学校出身の作者が当時のエピソードをつづったノンフィクションなのだが、『行進子犬』に出てくる用語も全てこの本を参考にしているようである。例えば、「模範生徒」については次のように書かれている。

一寝室の定員は十一名。この一名の半端は、三年生で、「模範生徒」という。
模範生徒は読んで字のごとく、下級生と起居をともにして、その日常生活に範を垂れ、いろいろアドヴァイスをする。
むろん助言ばかりではなくて、叱り飛ばしたり、お説教をたれることもある。
ふつうはゴミンと呼ばれていた。
ヨーロッパの護民官あたりから来たものらしい。
村上兵衛『陸軍幼年学校よもやま物語』37ページ)

さて、『行進子犬』で最も重要なキーワードと言える「稚児」。これは一体何なのか。

上級生が、下級生の美少年を、かくべつひいきする。私たちは、誰々は誰々の稚児だ、などと言いあった。
これは男ばかりの集団で、女を知る前の屈折した欲情のかたち、ともいえる。
村上兵衛『陸軍幼年学校よもやま物語』196ページ)

そうなのである。これは漫画の中だけで使われてる用語ではなく、「上級生の寵愛を受けている可愛い下級生」という意味を持つ実際に存在した言葉なのだ。村上は次のようにも書いている。

三年生になってから、私も一年生の美少年に、ひそかに心を燃やしたりした。
しかし、私は、まだ初心で、そういう下級生から敬礼され、じっと見つめられたりすると、こちらの顔が赤くなって行くのが、自分でわかった。
のみならず、眼がうるんで、涙がこぼれそうになる。恥ずかしいので、いわば、積極的にモーションをかけるというようなことは、とうとうできずじまいのまま終わった。
村上兵衛『陸軍幼年学校よもやま物語』198ページ)

また、下級生が上級生から説教を受けている場面では、次のように書かれている。

そこで私は立ちあがって、列に近づき、かねてから目をつけていた“可愛い下級生”を呼び出し、濠端のほうに連れていった。
そうして、有志のお説教が終わるまで、彼と何とはない話を交わした。
それはバカバカしい行事から、その少年を守ってやり、私じしんの淡い“恋情”を満足させるという、一石二鳥のつもりだったが、上気して自分の口がよく動かなかった。
そして、こちらの“恋情”を見破られはしなかったか、とひとりで恥ずかしがっていた。
村上兵衛『陸軍幼年学校よもやま物語』201ページ)

要するに、現実の陸軍幼年学校において、上級生と下級生の間でボーイズラブ的な関係が芽生えることは当たり前にあったことで、『行進子犬』はそれを百合に変換してるだけなのだ。

そういう意味で、『行進子犬に恋文を』という作品は、ノンフィクション的である。もし、こういう学校があったら起こり得たであろう関係性を描いているのだ。

『継母の連れ子が元カノだった』第3巻感想

誤解を恐れずに言えばこの手の作品は奇抜な設定をバーンと掲げて一発ギャグ的に出て消えていくような作品だと思う。にもかかわらず、3巻まで来ても面白さは全く変わらないどころかむしろ増している感すらある。「親の再婚相手の連れ子がなんと元カノだった!なんてことだ!」という最大瞬間風速だけが売りの作品だったら、ここまで面白くはならなかっただろうし、3巻まで発売されることも無かったかもしれない。

タイトルだけを見れば本当に出オチだけの作品みたいに見えるのに、中に書かれていることは実に繊細で、精緻で、心にグッとくる何かがある。それは、大切な関係性がほんの少しの綻びで簡単に崩れていってしまう切なさや悲しみであり、そこから登場人物それぞれが抱え込むことになる後悔や自責の念であり、それでもなお相手と向かい合い新しい関係を築いていこうとする誠実さやいじらしさである。

その中でも第3巻で焦点が当てられていたのが、主人公の友人ポジションで第1巻から登場していた南暁月と川波小暮の関係性である。


世間にあふれている人と人との関係性は、「恋人」とか「友達」といった言葉に当てはめられ、さらにそこには「恋人とはこういうものである」「友達とはこうあるべきだ」という世間一般の認識が付随してくる。そうやってあらゆるものを言葉によって細分化し定義していくのが人間という生き物なのかもしれない。

例えば、イヌとオオカミは生物学的には同じ種であるが、人は野生の森で生きる大型のものをオオカミと呼び、人間に飼われている方をイヌと呼ぶ。その二つを分ける科学的な根拠や整合性は一切存在しない。それはただ単純に、人が生活する上で便宜上必要だったから分けられたというだけに過ぎない。それは「恋人」と「友達」あるいは「幼なじみ」という関係性においても同様である。

子どもの頃の暁月と小暮の関係は、そうした世間一般の定義に縛られない自然なものだったのだと思う。しかし、いつの頃からかその関係性が「幼なじみ」という枠にはめられ、それが「恋人」という関係性に変わっていく中で、世間一般の「恋人とはこうあるべき」という固定概念的なものに絡め取られていった時、二人の関係はあっという間にボロボロに崩れていく。その関係性の回復が第3巻のメインストーリーだった。

一方で、2人とは対照的に、最初から関係性の定義に縛られることなく「我が道を行く」という感じなのが東頭いさな氏である! いやもうヤバいだろコイツ…。彼女にとって、世間一般でいう「恋人」とか「友達」の定義なんてものは一切無関係。水斗にふられようが何しようがおかまいなしに家へ上がり込み、距離感ほぼゼロで水斗とイチャつき出す。本当にもう、いさながヤバいと言うべきか、このキャラを考え出すことのできる作者がヤバいというべきか…。

『すべての人類を破壊する。それらは再生できない。』感想

西部劇はアメリカ人の心の原風景を描き出す。『オトナ帝国の逆襲』は、大人が抱く60年代へのノスタルジーとそこからの決別を描く。『すべての人類を破壊する。それらは再生できない。』は1990年代後半の空気感を描き、見る者に強烈な懐かしさを抱かせる。

トレーディングカードゲームマジック:ザ・ギャザリング』を題材に、1990年代後半に生きる中学生の甘酸っぱい青春を描く本作。もちろん、このカードゲームをやったことのある人も、ない人も楽しめる作品になっている。

2020年現在に30代くらいの世代には間違いなく刺さる強烈なノスタルジー。一体何なんだろう。この作品の何がそこまで私の心を揺さぶるのだろう。

阪神淡路大震災地下鉄サリン事件、長引く不況、連日報道される少年犯罪、そのような中で誰もが未来に対してどこか懐疑的になっていた時代、それでも、日本の人口は2005年までは増え続けており、パソコンや携帯電話が家庭にまで広く普及し始め、まだまだこの国は発展していくんだという期待に満ち溢れていた時代。そこにあるのは、徹底した矛盾。輝かしい21世紀がすぐ目の前に迫っているという希望と、ノストラダムスの大予言に代表されるような漠然とした不安が同居しているような時代だった。

あるいは、インターネットやスマートフォンSNSが普及する前の時代、各個人が必死に情報を掻き集めて能動的に動かなければならなかった時代の雰囲気が、我々に懐かしさを感じさせるのかもしれない。SNSを使えば簡単に同じ趣味を持つ人と語り合える、欲しい情報が自動的に情報が入ってくる、そういう時代を我々は生きている。だが、ほんの20数年前まで、それこそ作中に出てくる喫茶店のような場所に自ら出向いていって直接顔を合わせて交流することが当たり前だった。

そして、そのような90年代末の風景が、もう二度と戻ってこないものだと知っているからこそ、この作品に強烈なノスタルジーを感じるのだろう。

ここで一つ思考実験をしてみたい。

約1000年後、31世紀に生きる人が過去のことを知ろうとした場合、一体どういうことが起きるだろうか。

弥生時代以前のことについては、土の中に埋まっている土器や装飾具、様々な骨などから、なんとか推測することしかできない。

奈良時代から19世紀くらいになると、文学や歴史書が数多く残されていて、そこから人々の生活の様子をある程度知ることが出来るようになる。それでも、当時書かれた文字記録の大半は、長い年月の間に失われてしまう。

19世紀後半になると、音や映像で記録を残すことが可能になる。しかし、初期の写真や映画のフィルムに使われているセルロイドは劣化しやすく、21世紀の現在ですら、すでに大半の記録は失われてしまっている。ましてや31世紀には、この時代の映像記録はほとんど残らないだろう。なかには、デジタル化され半永久的に保存されるものもあるだろうが、それらは全体のごくごく僅かでしかない。

では、本作の舞台である1990年代についてはどうだろう。この時代、VHSが普及し、鮮明なカラー映像を記録として保存できるようになる。しかし、VHSも所詮はアナログの記録媒体でしかないので、映像は再生するたびに擦り切れ、経年劣化によって映像は色褪せていく。この時代の映像記録は、今後100年から200年のうちに、ほとんど全てが破壊される。それらは再生できない。31世紀まで残るのは、デジタル化されたごくごく僅かの記録だけになる。

それらとは対照的に、21世紀以降については、膨大な数の映像記録が31世紀まで生きているだろう。それらは初めからデジタル機器を使って保存されたものであり、再生機器さえ用意できれば、一切劣化することのない鮮やかな映像を1000年後でも見ることができる。31世紀に生きる人々は、その鮮やかな映像記録を見て、人々の息遣いや空気感を、まるで昨日の出来事であるかのように感じることができるだろう。

21世紀後半以降になると、バーチャルリアリティの技術は格段に進歩し、人々の五感に関わる全てのものを未来永劫保存することができるようになる。そんな世界では、過去は常に現在と地続きのものとなり、ノスタルジーという言葉すら無くなるかもしれない。

1990年代末とは、鮮明かつ詳細な当時の空気感が永遠に失われてしまう最後の時代である。

我々は、そのことを無意識に理解しているからこそ、本作に心を揺さぶられるのかもしれない。

『巴里マカロンの謎』感想

巴里マカロンの謎 (創元推理文庫)

巴里マカロンの謎 (創元推理文庫)

さて、〈小市民〉シリーズとして実に11年ぶりの新刊にして、初の短編集である。忘れかけている細かい設定なども思い出しながら読み進めていったが、まあ、何というか、小佐内さんも小鳩君も言動が可愛すぎませんかね?

まず、小市民として平穏な生活を送るためにお互いが困っていたら協力し合うという互恵関係の一環として、放課後に2人でスイーツを食べるために名古屋まで行くという、その行動がすでに回りくどくて可愛い。

そして、何かあるたびに小佐内さんがいちいち可愛いことしてきて、それが小鳩君の視点から語られているのが、これぞまさに〈小市民〉シリーズだという感じである。

では、ここで、小佐内さんの可愛いシーンランキングを見てみよう。

第3位。マンションのオートロックの自動ドアの前で「開けゴマ」とか言ってる小佐内さん。可愛い後輩のピンチを救うためにその子の家を訪れるという場面なのに何やってんのお前?

第2位。小鳩君にマカロンについて意気揚々と解説してくる小佐内さん。「これこそがマカロンです」は流石に爆笑するわ。

そして、第1位。ドヤ顔で決め台詞を言おうとして噛む小佐内さん。その後、何事も無かったかのようにしれっと言い直してるのも最高に萌える。

という感じで小佐内さんだけでも十分可愛いのだが、本書で登場する新キャラ・ゲストキャラもまた実に良い味を出している。

小佐内さんのことを「ゆきちゃん先輩」とか言って慕ってくる古城秋桜ちゃんホント可愛い。というかこの2人が合わさって行動している時の破壊力がハンパない。文化祭でキャンプファイヤーがあるからって、その火でマシュマロを焼こうという思考に至るのはマジでヤバいと思う。

あと、個人的にイチオシなのは『伯林あげぱんの謎』に出てきた真木島さん。先輩との連絡役を買って出ているのにその先輩からメールを無視されて、その事を部の皆に知られたくなくて、支離滅裂な嘘付いて誤魔化そうとしてるのがホンマ萌える。

何というか、米澤氏の作品は本当によく人間の心理を突いていると思う。それはささやかな虚栄心だったり、保身だったり、そういう誰にでもあり得る微妙な心の動きを小説に落とし込むのが、圧倒的に上手い作家なのだ。これは仕方のないことではあるのだが、主人公である2人がある種キャラクター然として描かれているのに対して、1回か2回しか登場しないゲストキャラはこういう人間臭い描写に満ちていて、どの話も実に見ごたえがある出来だった。