新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『氏名の誕生』が面白い

尾脇秀和著『氏名の誕生』、想像以上に面白かった。

現代に生きる我々は、自分達の名前は姓(ファミリーネーム)と名(ファーストネーム)がセットになって構成されていて、それが古代からずっと続いてきたものだと考えている。しかし、江戸時代、武士達の名前はだいたい以下のような感じだった。

  • 水野 越前守 源 忠邦
  • 大隈 八太郎 菅原 重信
  • 西郷 吉之助 藤原 隆盛

現代人からしたら「は?」という感じである。このうち、前半2つだけが日常的に使われる名前で、後半2つは正式な書面に押印する時などしか使わないものだった。なんでこんな事になってしまったのか、そして、明治以降どのような変遷があったのか、本著ではこの経緯が丁寧に解説されていく。

まず、ややこしいので名前の要素を4つに分けよう。

  • ①水野 / ②越前守 / ③源 / ④忠邦

本当は③のうしろに朝臣(あそん)などの敬称が入る場合もあるが、ややこしいので省略する。

そもそも平安・鎌倉時代、日本人の名前は③④だけから成っていた。藤原道長紀貫之菅原道真源頼朝とかいう有名な名前も全部このタイプである。その名前の前に、○○守とか、○○大臣、ナントカ納言といった敬称、要するに天皇から与えられた役職名を付けるようになった。日本には昔から、位の高い人物の名前を直接呼ばないようにする習慣があったため、この敬称(②)が、名前のような使われ方をし始める。ところが、例えば同じ藤原姓で同じ役職の人間が複数いては実に紛らわしい。そのため、居住地・任官地などをさらに前に付けて区別するようになった。これが称号と呼ばれるもの(①)であり、我々が一般的に苗字と呼んでいるものの始まりである。

戦国時代になって朝廷の力が衰えると、誰彼構わず「我は○○の守である」などと自称し始めたが、徳川幕府が成立すると「さすがにそれはヤバくね?」ということになり、幕府が武士の名前を一元管理するようになった。大名など位の高いものは「○○守」など、より位の低い武士なら例えば浅野「内匠頭」、吉良「上野介」というように、朝廷が形式的ではあるが役職を与え、それが彼らの名前として機能した。この時代、「名は体を表す」というのが当たり前だった。

そして当時、武士は、幼少期⇒青年期⇒朝廷から許された官職名、というふうに改名を重ねていくのが当たり前だった。だから教科書でよく出て来る水野忠邦も、幼名は於菟五郎と呼ばれ、その後何度か改名があり、老中の頃は越前守だったのである。忠邦という本名が日常生活の中で使われることは基本無い。いや、当時はどっちが本名かという認識すら無かっただろう。この人の名前は「水野 越前守」であり、他に③④がある、みたいな認識だった。ちなみに④のことを名乗(なのり)と言い、これは親などによって付けられるものではなく、占い師の助言などを受けて自分で付ける名前である。つまり、子どもの頃には④は存在しない。当時は、あくまでも成長や出世とともに変化する②が名前だという認識なのである。

一方、官職名を付ける事を許可されない下級武士なども「官職風」の名前を付けた。なので、平安時代には存在しないインチキ官職名が無数に存在していた。そういった風習は庶民にも取り入れられ、~衛門、~助、~兵衛など、語尾に官職風の漢字を入れ、「~」のところに個人の趣味や語呂に合わせて名前を入れるのが当たり前になった。この頃、官職とは関係ないが、生まれた順番を示す太郎・次郎・三郎などの名前も広がり、②の一種とされるようになった。当時の一般庶民からしたら、普段使うのは②だけ。①は知っていても普段はほとんど使わない。③にいたっては全く分からない、④などそもそも設定しない、ということが多かった。

つまり、①②こそが名前の実体であり、③④は何かよくわからない、というのが江戸時代の大半の人々の認識だったのである。

こういう状況で明治維新を向かえると、新政府に担ぎ上げられた公家集団は昔ながらの③④を重視しようとした。ところが、庶民も士族も、①②の組み合わせこそが真の名前だという認識のもとでずっと暮らしてきた。この認識の齟齬によって明治初期に大混乱が発生するのである。体制の変更によって名前を何度も変えさせられた者、江戸時代に付けていた名前を無理やり変えさせられた者などが出てくる。政府としては、国民を管理するために各人の③④を把握しておきたい、けど、「いやそもそも俺、名乗とか知らねーし」みたいな事例が続出する。もうしっちゃかメッチャかの事態。その内容は本著に詳しく書かれている。

そうした中、「もう官職風の名前(②)と名乗(④)を分ける意味なくね?」という声があがる。そして、人の名前として、まず姓として①を使い、下の名前は②か④どっちを使っても良い、というルールになった。大久保利通西郷隆盛伊藤博文などは①④の組み合わせ、板垣退助小村寿太郎などは①②の組み合わせである。そして、一般庶民も苗字の使用が義務付けられ、多くの人は昔から家に伝わる苗字を採用したが、自分の名字が分からない者はこの時新たに苗字を創設した(当然ながら、庶民には④など馴染みの薄いものだったから、多くの国民が①②の組み合わせを選択した)。これが、明治期に起きた名前の一大変革である。

こうしてみると、日本人の名前というあまりにも身近なものに対して、自分がいかに何も知らなかったかがよく分かる。まさに目から鱗の読書体験だった。

『スーパーカブ』が描く田舎の風景

スーパーカブ』、2021年の春アニメの中で一番注目している。

HONDAが監修しているので、カブの画や音が素晴しいのは言うまでもないが、やはり異彩を放っているのは、強烈にリアルな田舎の風景ではないだろうか。

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主人公・小熊ちゃんの暮らす古びた団地
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道だけは大きく立派だけど周りには学校と田畑くらいしかない風景
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駐車場だけやたらと広いコンビニ
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建替えする代わりに取って付けたような耐震補強を施して糊口をしのいでいる校舎

いわゆる『のんのんびより』的な、きれいな川や森がある里山のような風景とは全く違う。けれども、『スーカーカブ』に描かれるこれらの風景こそが、平成・令和において最もリアリティのある田舎の光景ではないだろうか。

本作を一言で言い表すと、主人公である小熊ちゃんが、スーパーカブと出会ったことをきっかけにして自分の世界を広げていく物語である。原付くらいで大げさなと思われるかもしれないが、平成・令和の時代においてその感覚は、少なくとも本作の舞台となっている地域のような「田舎」においては、決して誇張ではないリアルなものとなりつつある。

平成・令和の時代において、自動車やバイクを持たないということは生殺与奪の権を奪われるのと同じくらいのインパクトがある。

平成の30年間で地方の人口は減少し地方自治体の財政は厳しくなった。それによって、かつては各地域を網の目のように結んでいた鉄道や路線バスは次々に廃線となり、自家用車の必要性は増大した。それでも、病気や貧困など様々な理由によって自家用車を持てない人がいる。また、近年は高齢者が加害者となる交通事故が問題視され、健康な人以外は運転をすべきでないという風潮が強まっている。こういう状況の中で、田舎で暮らしながら生活の「足」を奪われる人はこれから益々増えていくだろうと思う。

移動の自由を奪われるということは、ただ単に生活が不便になるというだけでは済まない。それは、人間らしく生きるために必要なあらゆるサービスや機会や恩恵を受けられなくなるということである。狭い範囲でしか生きられない状況下において、人は物理的にだけでなく、精神的にも困窮していく。

第2話、お昼休みに小熊が白米にレトルトの親子丼をかけてレンジでチンしようとするけど、他の生徒にレンジが使われてたので結局そのまま食べるシーン。この1分足らずのシーンで彼女の置かれた状況が実によく分かる。彼女にとって食事とは、ただ空腹を満たすためだけのもの。だから、食材が冷えていても何も気にしない。

そんな彩りのない無味乾燥とした日常は、カブを手にしたことで一変する。遠くのスーパーやホームセンターに買い物に行くという「非日常」は、「日常」に変わった。それは私達大人からしたら本当に些細な事のように思えるけれど、原付免許を取ったばかりの学生からしたら大きな変化。

今まで知らなかった場所に行く喜び、自分の世界が広がる開放感。本作はこの繊細な心の動きを見事にアニメとして描き出してみせる。だが、実はそれは、私たちが子どもの頃に一度は経験した感覚。初めて自転車に乗った時、初めて原付に乗った時に、私たちが経験した気持ちが呼び覚まされる。

『ゆるキャン』アニメ2期

ゆるキャン』セカンドシーズンはとにかく良いところが多すぎた。

まず1期1話とオーバーラップする第1話の美しさ。本作は、ソロキャンプという特別な体験をしつつも、その中でやっていることはカップ麺を食ったり、LINEしたり、読書だったりというありふれた事で、でもそのありふれた事が普段とは全く違って感じられるという「気付き」を、驚くほど繊細に描き出していく。

そして3話の土岐綾乃の圧倒的なインパクト。黒沢ともよさんの怪演が光る。実質この第3話にしか登場してないのに視聴者に残すインパクトがヤバすぎる。もし第3期を原作通りのエピソードで作るのなら、メインは綾乃&シマリンによる大井川吊り橋探索原付不倫旅行がメインなので是非とも3期やってほしい。

その後、なでしこがバイトを始めたり、野クルメンバーが山中湖で凍えそうになってたりと色々ありつつ、なでしこソロキャン回である。原作ファンからは、さくリン不倫旅行回として非常に有名だが、それだけでは終わらせないのがアニメの素晴らしいところ。8話冒頭「うなぎおいし浜松〜」のインパクトが強すぎて元の歌詞を忘れそうになるけど、そこからのラスト「夢は今も巡りて」につなげるのは反則過ぎる。なでしこにとっては静岡こそが故郷、だからこそこの選曲なんだと気づくと、もう美しすぎて涙出てきそうになる。

さすがに8話を超えるものは無いかと思いきや、第9話、リンとお爺ちゃんの2人ツーリング回。そして11話、眠気に襲われて温泉やキャンプ場で前後不覚になる志摩リン。もうこの志摩リン最高なんだけど、あそこまで力が抜けたようになっているの、どう考えてもなでしこが側にいるからよな。これが例えば、大垣と2人でキャンプとかだったら、どんなに眠くてもあんなにはなってないと思われる。そして、なでしこはなでしこで元カノ・斎藤の前でリンとの親密さをアピール。その斉藤も「18になったら車の免許取りたい」って要するに、志摩リンの保護者ポジションは渡さないという宣戦布告ですよね。

という感じで毎回良いところ盛りだくさんだった第2期も、4月1日の放送で最終回。作中世界も、現実の世界も、もうすぐ本格的な春がやってくる。

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というか、どうやったらこんな美しいPVを作れるのだろう。「ここにも春が来る」には色々な意味が込められている。作中ではもう3月で、ずっと冬キャンを題材としてきたこの作品にもいよいよ春がやってくるという意味。山間の雪深い山梨にもようやく春がやってくるという意味。そして、もちろん、我々が生きる現実の世界に訪れる春。そして、コロナ禍という冬が終わり春がやってくるという希望の意味も込められているだろう。

だが現実の世界では、ゆるキャン2期が終わり春がやってくると、すぐにこれがやってくる。

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いやもう楽しみすぎだろ。

世界が塗り替えられる時―『飛び立つ君の背を見上げる』感想

あらゆる物事は見る角度を変えれば全然違った形で見える。ある人が見る世界と、別の人が見る世界は全く異なる。頭では分かっていたことだけど、まさかこれほどとは…。『響け! ユーフォニアム』シリーズで描かれた光輝く青春の日々。でもそれを、中川夏紀の視点から描いた時、世界はこれまでとは全く違う色で塗り替えられていく。

読者が初めて目にした、夏紀を通して見る『ユーフォ』の世界。

それは、怖ろしいほどに灰色だった。

我々が初めて触れることになった夏紀先輩の心は、まるで氷のように冷え切っていた。

これまで私達が小説本編やアニメで見てきた光輝く世界は、夏紀の目にはどこまでも灰色に映っていた。修学旅行の思い出も、友達と遊んだ記憶も、全てがどうでもいいことだと思っていたから、夏紀には小学生時代の記憶がほとんどない。卒業式で泣くような奴の気持ちも理解できないと言う。クラスが一致団結して何か一つのことをやろうという時も、「マジでしょうもない」と言ってそれを遠くから眺めているだけ。勉強や部活や学校行事といったものに価値を見出せない、全てのものを一歩離れた場所から冷めた目で見つめているだけの夏紀がそこにはいた。

夏紀にも「特別な存在になりたい」という気持ちはある。けれども、そのために青春を捧げて努力したりする勇気は無い。何かに一生懸命になった結果失敗して自分が何物でもないちっぽけな存在なのだと思い知らされるのが怖い。かといって、田中あすか先輩のように孤高の存在となって自分のやりたいようにやるような強さも持ち合わせていない。だから、周りに流されるまま、空気を読みながら、ただ何となく日々を過ごすことしかできない。そんな思春期特有の中二病的自意識の中でもがき苦しみながらも、希美や優子やみぞれとの出会いが少しずつ夏紀を変えていく。

そして、全てが終わった後になって夏紀は初めて、吹奏楽部で過ごした日々のかけがえの無さに気づく。卒業式も何もかも終わったその段階になってようやく、この約3年間の思い出が何物にも代えがたい特別なものだったと気づき、夏紀は嗚咽を漏らす。その尊い日々の中で、自分は何をして、何を得て、何になったのだろう。

夏紀にとって、希美や優子やみぞれは光だった。それは、夏紀を暖かく包み込む柔らかな光であると同時に、そばに寄れば身を焼かれてしまうような強烈な光。夏紀は希美のように真っ直ぐに生きたかった。優子のように皆をまとめ上げ一つの夢に向かって突き進んでいきたかった。みぞれのように大空を羽ばたいてみたかった。でも、それは、夏紀がどんなに望んでも手に入れることのできない理想の姿。

それをただ見上げているだけなら夏紀はここまで悩まなかっただろう。だが、高校1年の退部騒動を通して夏紀は、希美を灰色の世界へと引きずり込んだ。その罪悪感が夏紀を苦しめる。そんな夏紀や希美の苦悩に気付かないみぞれの視野の狭さにイラついたりもした。副部長となって部や後輩のために働いたのも、すべて罪滅ぼしのつもり。でも、その姿を見て久美子やみぞれは「夏紀はいい人」だと言う。違うんだ、自分はそんな立派な人間なんかじゃない。大空に飛び立つ勇気もない、何物にもなれず、ただ周りに流されてふらふらしているだけの、身勝手な人間なんだ。そんな自罰的な思いが夏紀を苦しめる。

それでも優子は、夏紀に救われていた。世の中に無数に代わりがいる中で、それでも夏紀を選んだのだと言ってくれた。その一言で、夏紀も救われた。こんなちっぽけで身勝手な自分でも「嫌いじゃない」と思えるようになった。この出来事を通して、夏紀の世界は塗り替わったのだと信じたい。最初は真っ白だったバンド幕が、美しいアントワープブルーに塗り替えられたように。けれども、塗り替わったのは未来ではなく過去だ。走っている最中には灰色でも、その道を後から振り返れば美しく光り輝いている。夏紀にとって世界とはそういうものなのかもしれない。

以上が『飛び立つ君の背を見上げる』そのものの感想になるが、本作の見どころは何と言っても、中川夏紀と吉川優子の関係性、その圧倒的なエモさに他ならない。作者自身がエモさに苦しんだと言っていたのは伊達じゃない。もう最初から最後までエモさの塊のような作品なのである。

というわけで、ここからは、なかよし川の激エモシーン ベスト5を発表しよう。

第5位 夏紀の前でだけ弱音を見せる優子部長

部長としての重圧に押しつぶされそうになっていた優子を夏紀が慰めるシーン。皆の前で気丈に振る舞う優子が、夏紀の前だけで見せる弱さ。読者はただ、学校の校舎の壁になったつもりで息を殺し、じっと2人を見つめることしかできない。

第4位 2人きりで何度もカラオケ屋に行くなかよし川

部活を引退し、受験も終わって、この二人、めっちゃカラオケ行ってる。いつもの4人じゃなくて2人だけでっていうのが最大のポイント。卒業後に行うライブに向けて練習するのもカラオケ屋。もう店員から顔覚えられるくらい通ってる。それだけじゃなく、1年の頃から、夏紀が優子にギター教えるため、月1くらいで通ってたらしい。

どう見てもなかよしカップルのカラオケ屋デートです、本当にありがとうございました。

第3位 自室イルミネーションのシーン

ライブを間近に控え、夏紀の家にお泊りにやってきた優子。会場を飾る用のイルミネーションを身に纏い、薄着のまま眠る優子に、おもむろに近づく夏紀。アニメ1期における大吉山のシーン、リズと青い鳥における大好きのハグシーンを彷彿とさせるクライマックス。後悔や罪悪感に苦しむ夏紀に、優子がはっきりと宣言する。

「いくらでも代わりがいるなかで、うちはアンタを選んでこうやって一緒にいるワケ。代わりがないからじゃなくて、代わりがいくらあってもアンタを選ぶ。一緒に音楽やるのも、こうやって過ごすのも、夏紀と一緒がいいよ。それが悪いこととはうちにはどうしても思えへん」
(289ページ)

これもう、完全に愛の告白じゃねーか! もうさっさと結婚しろよ…。

第2位 架空の優子の彼氏相手にマウントを取る夏紀

もしも優子に彼氏ができたら。ふと、四人でいたときに出た話題を思い出し、夏紀は自分の唇を片手で覆った。
きっと優子の恋人はいいやつだ。優子の人間を見る目は確かだから、育ちのいい爽やかな好青年を連れてくるだろう。夏紀にはちっとも理解できないファッションセンスで、夏紀にはちっともいいと思えない善良さで、優子の隣に当たり前の顔をして並ぶのだ。
休日にバーベキューをしたら準備なんかも一緒に手伝ってくれて、きっと面倒な仕事も愚痴ひとつ言わない。目が合った夏紀に向かって少し照れたように微笑む。「いつも優子がお世話になってます」なんて言われたところを想像して、架空の男に勝手にムカつく。何がお世話になってます、だよ。こっちはお前の何倍も優子のことを知っているのに。
(151ページ)

お前、マジでどんだけ優子への独占欲強いんだよ! ていうか、挙げられてる場面が具体的すぎて怖えよ! これは本当にヤバすぎる描写だ…。というか本作が夏紀視点だから夏紀がヤバいと思うだけで、絶対優子の方も同じような妄想してるだろうけど。

第1位 イマジナリー優子

本作の中でも一番ヤバいパワーワードがこれ。

おそろいのピックを楽器屋で買ったあと、明日の約束を取りつけてから夏紀は帰宅した。自室に飛び込み、ダウンジャケットを脱ぎ捨てて冷えた布団にダイブする。行儀が悪い、と脳の隅でイマジナリー優子が眉をひそめる。そして自分は当然のようにそれを無視する。
(241ページ)

呼吸のリズムが崩れ、夏紀はソファーの上にあったクッションを抱きしめる。涙腺の蛇口が壊れてしまったのか、涙があふれて止まらない。「バスタオルが必要か?」とイマジナリー優子が揶揄する。必要かもしれないなと夏紀はクッションに額を押しつけながら思った。
(269ページ)

イマジナリー優子って何だよ!!! お前の頭の中、どんだけ優子で占められてるんだよ!!! どんだけ優子のこと大好きなんだよ…。もう優子がいないと生きていけない体になってるやん…。

夏紀と優子。この2人の関係性を人間の言葉で説明することは、もう無理なんだと思う。世界に無数にある関係性を、友達とか恋人だとかいう高々数個の雑な言葉で仕分けすることでしかこの世界を理解できない、人間の脆弱な脳では、この関係性を正確に言葉で表現することなど不可能なのだ。

我々は、ただ、なかよし川が添い遂げてくれるのを祈るのみである。

本作に描かれた新たなのぞみぞ、そして、のぞみぞとなかよし川が複雑に絡み合う関係性については、一度読んだだけでは到底理解できないので、今回のところはこれで記事を終わりとしたい。

アニメ版『ラブライブ!』三部作感想

先日ようやくニジガクを観終わったのだが、そう言えばラブライブシリーズの感想をブログで書いてなかったなと思ったのでまとめて書くことにする。

ラブライブ!

アニメ1作目を一言で言い表すなら、生まれながらのカリスマ性を有する高坂穂乃果という少女の、天才であるがゆえの苦悩と成長を描いた、ということになるだろう。すでに他の記事でも指摘されているように(ラブライブの穂乃果ちゃんに学ぶ『マネジメント』 - WebLab.ota)、穂乃果はとにかく他人を動かすのが上手く、特に一芸に秀でているというわけではないものの、他を圧倒する行動力と熱意で皆を牽引していくタイプのリーダーである。しかし、その性格は裏を返せば、無理を重ねて突っ走り、周りが見えなくなってしまうという面もあり、実際にそれによって体調を崩し、メンバーとも対立してしまう。アニメ1期のクライマックスは、そこから穂乃果が立ち直り、成長していくわけだが、それはメンバーの事を気に掛けながら自制心を持って行動できるようになる(=良くも悪くも、小さくまとまって大人になる)、という意味ではない。現実の優れたリーダーというものは、時には周囲に目を配ってその人に合わせた対応をしつつも、時には周りを強引にでも引っ張っていく、という二律背反の性質を持っているわけで、穂乃果もまたそういう意味での真のカリスマ的リーダーへと成長を遂げていくという物語、まさに、リーダーとは何かということを描いた物語だと言える。

で、それが2期になるとそのテーマ性はだいぶ薄れてくる。第2期は最初から終わりまで、3年生の卒業とμ'sの解散というエンディングを意識しながら、13話もの長きにわたって続いたエンドロールのような作品だった。この構造は『けいおん!』の2期とほぼほぼ同じだと思う。特にラスト3話は、μ'sの解散を決意する11話、ラブライブ決勝を描く12話、3年生組の卒業式である13話というように、普通のアニメなら1話で描くクライマックスを3話に分け、それでいて各話がそれぞれ違う味のあるエモーショナルな回になっていたと思う。1期で完全にハマった人なら2期も感動できるだろうが、そうでない人が2期を見ても結構キツイだろう。

推しキャラは西木野真姫ちゃん。ツンデレでプライドが高く、自分を上手く表現できない不器用さ、いじらしさが最高である。台詞が棒読みという人もいるが、アニメの棒読みには「これはあかんやろという棒読み」と「正義の棒読み」がある。正義の棒読みとは、棒読みでも全く気にならない、むしろ棒読みだからこそ味があっていい、という稀有な現象を指すが、真姫はまさにそれだろうと思う。

ラブライブ!サンシャイン!!

本作はいろんな意味で前作と対になっている。舞台は東京から沼津へ。主人公も前作のようなカリスマ性は無く、あくまでもμ'sに憧れてスクールアイドルを始めた普通の女子高生という面が強くなった。そのせいなのか、本作は前作よりも、女どうしの激重巨大感情がクローズアップされていたように思う。2年生組と3年生組+ルビィちゃんの複雑かつ激重な関係性でエモさが前面に出て来る一方、善子とズラ丸はギャグ要員という役割分担になっていたかと思う。

2期になるとようやく大きなテーマのようなものが浮かび上がってくる。これは前作とも一部共通するのだが、最初に描いていた夢や目標が消えた後、どうすれば未来に向かって進んでいけるのか、という問いである。スクールアイドル活動によって、廃校の危機は免れた、あるいは、結局廃校は阻止できなかった、となった時に、それでもモチベーションを維持し、前向きに生きられるかという大きな問い。この問いは、卒業しスクールアイドルを辞めたあとも彼女たちの人生は続いていく、という事実と連動している。そして、これは人が様々なものと向き合う時、例えば、家族、仕事、地域、そういったものと関わる時に避けては通れない普遍性を持った問いでもある。

推しはもちろん渡辺曜ちゃん一択である。自分、普段は明るくてムードメーカー的な子が見せる繊細な巨大激重感情、大好きなんで。皆知っての通り、特に1期の11話は素晴しい。曜ちゃんの複雑で繊細な感情を周り、特に千歌ちゃんもよく理解して優しく接してくれるのがまた最高にエモい。

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

学校の危機を救うためにメンバー全員が一致団結してステージに立った前二作とは様相が全く異なる。同じ同好会に所属しつつも、やりたい事もパフォーマンスの方法も一人ひとり違って別々に活動している様は、ラブライブよりむしろアイマスに近いものがある。巷の噂ではゆうぽむが激重でヤバイと聞いていたが、11話、12話以外では百合的に唸らされる内容は特に無かったかと。そのぶん11話は前評判通りの激重感情爆発回で百合的に極めてエモーショナルだったが、それに加えて、歩夢の感情と共に揺れ動く画面、絡み合う2人の足、重なり合うスマホ、といった百合的様式美への並々ならぬこだわりが感じられ、拍手喝采するしかない名シーンだった。

一方、ストーリー全体に貫かれているのは、2つのものの「対比」に他ならない。皆で協力して一つのステージを作る方式と、皆が別々にやりたい事を表現する方式との対比。自分を抑えて皆のために尽すことと、対立を恐れずに自分のやりたい事をやること。変わっていくものと、ずっと変わらないもの。仲間と孤独。私とあなた。この作品は、一緒に夢を追いかけてくれる仲間やファンの大切さを描くと同時に、自分が本当にやりたい事をやろうとする時、人は孤独なのだということをしっかりと描く。あなたと一緒に頑張る、ではなく、あなたがいるから頑張れる、というような世界。実はこの構造、『ゆるキャン△』や『宇宙よりも遠い場所』などと全く同じなので、これはここ数年のトレンドなのだと思う。

推しキャラは、ここはやはり高咲侑しか居ないだろう。個人的な好みの問題でもあるが、スクールアイドルやってる周りのメンバーに勝るとも劣らず可愛い、というか他を圧倒していると思う。ツインテールの先端だけまるでカビが生えたように緑色になってるのも、他のアニメキャラにはない唯一無二の特徴で素晴らしいと思う。