アニメ版『秋期限定栗きんとん事件』、堂々完結である。小市民シリーズの中でも白眉と言える話を見事にアニメとして再構成していた。
秋期限定は春や夏に比べて非常にシンプルな構造をしていると思う。ストーリーと推理の要点はただ一点、放火現場の法則性にはどういう意味があるのか、に集約される。その謎を巡って、①瓜野の唱える小佐内犯人説とそれが否定されるまで、②小鳩による本当の種明かしと互恵関係の復活、③小佐内が瓜野を嵌めた説の実証、という3つのクライマックスが描かれ、読者・視聴者はそのたびに新たな驚きを得る。
結局この事件の真相は、最初の4か月分については氷谷は特に法則は考えずに放火してたが、瓜野が偶然一致した防災計画を見つけてきて、5か月目以降は瓜野の予想に沿って放火をしていた、ということだった。
これは今日科学の世界で大問題になっているp値ハッキングとも関連した話だと思う。多くの科学者がデータを集める時、p値が0.05未満になれば「有意差がある」と判断してそれを論文に載せている。でもそれは裏を返すと「5%の確率で偶然差があるように見えてるだけの可能性もある」ということでもある。実験を増やせば増やすほど、偶然差があるように見えるデータが出てくる危険性は上がる。そして、本当はただの偶然でしかないのに、そこに何か重大な意味があるかのように誤解して間違った結論に行きついてしまう。
実際瓜野も、犯行現場の法則性を見つけるために防災計画や電話帳や郵便番号帳などあらゆる資料を調べていた。そして、たまたま犯行の順番と一致している資料を見つけてしまい、「犯人は防災計画を見て犯行現場を決めてるに違いない」という間違った結論に至ってしまう。瓜野は膨大な情報に散々踊らされ真実を見誤ったのだ。一方で小鳩は、「これは情報操作で片がつく」と言っていたように、目の前の情報を整理して、さらにはそれを操作することで真犯人を浮かび上がらせた。情報に踊らされた者と情報を巧みに操作できた者、ここに、小市民とそうでない者との残酷な能力差が浮き彫りになっている。
そもそも瓜野は情報の集め方が少し雑だったと思う。金槌をハンマーと言い換えた件もそうだが、原作を見返してみると、園芸部に話聞きに行った時に、直前に里村が言っていた畑の持ち主の名前を瓜野が言い間違えている。小佐内さんも指摘していたが、そうした瓜野の脇の甘さが彼を破滅に追い込んだのだろう。科学研究の世界で瓜野と同じような過ちを犯す研究者は無数に存在しているし、これは瓜野だけでなく人間誰もが陥りがちな落とし穴だと思う。とはいえ、瓜野がだいぶ軽率だったことも事実ではある。
瓜野自身の問題点とそうではない部分とがちょうどいい塩梅に描かれているので、物語の行き着く先にも納得感がある。例えば、もし小佐内さんが最初から瓜野を嵌めようとして全て裏から仕組んでいたとしたら、さすがに瓜野が可哀想すぎると思っただろう。けれども、犯行現場の法則性について間違った推理をして暴走してしまったことは、紛れもなく瓜野自身の落ち度だ。新聞記事が注目されて調子こいてたことも、勝手にキスしようとしたことも、まさに身から出た錆なので、この結末を見ても「まあそうなっちゃうよね…」という納得感がある。
同じことは仲丸さんに対しても言えると思う。たしかに小鳩の仲丸さんへの接し方諸々は酷いとは思うが、仲丸さんは仲丸さんで三股だしなあ、ということで良い具合に視聴者のヘイト感情が分散されていた。ただ、仲丸さんの登場シーンはアニメではだいぶ端折られているので、アニメ版では仲丸さんがまるで小鳩の「異常性」を際立たせるためだけに登場してきたキャラみたいになってしまったのがちょっと残念だった。
原作からの変更点としてついでに述べておくと、ラスト付近の堂島の「さすがに瓜野が気の毒」という台詞だが、原作小説では堂島ではなく、小鳩視点の文章という形で小鳩に言わせている。ここからも分かるように、アニメ版の小鳩は瓜野に対して一切同情してる様子が見えない(もちろん内心ではさすがに気の毒だとは思っていただろうけど)のだが、まあ考えてみればそれが自然だなぁとも思う。作中の瓜野は自分の推理力を過信して調子に乗っていたので、そうした姿が中学時代の小鳩と重なる部分がある。なので、小鳩は瓜野に対してどこか同族嫌悪的なものを感じていたのかもしれないと思う。これに関してはアニメの描写の方がしっくり来るので、良い改変だったと思う。
この作品の最大の特徴は、放火事件をめぐる本筋のストーリーと、小鳩と小佐内さんが自分自身を見つめ直して再び一緒になる過程とが、分かち難く結びついているという点にある。アニメ版小市民シリーズのクオリティを決定づけたのは紛れもなく小佐内さんを演じた羊宮妃那さんの功績だと思うが、私はどうしても、同じく羊宮妃那さんが声を担当した高松燈(BanG Dream! It's MyGO!!!!!)と小佐内ゆきを重ね合わせて考えてしまう。
高松燈は、他人と上手く合わせられない生きづらさを、「人間になりたい」という詩で表現した。小佐内さんも小鳩も、本当は「人間」になりたかったのだ。「小市民」とはその言い換えである。復讐や推理に悦びを見出してしまう自分、能力を発揮することで他の誰かを傷つけてしまう自分、そんな自分を変えたいという切実な願い。しかし、瓜野や仲丸さんと付き合う中で、2人は結局、自分達は普通の人間にはなれないのだと気づいてしまう。
だがそれでも、たとえ小市民にはなれなくても、自分を理解してくれる人がそばにいてくれるだけでいい、という境地に辿り着く。その長い長い道のりが『秋期限定栗きんとん事件』だった。小佐内さんは「10か月もあったのに犯人を絞り込むことができなかった」と言って瓜野をフルボッコにしているが、小鳩と元鞘するだけのために1年近く費やした奴が言えたことかと笑ってしまう。
そもそも人が誰かと一緒にいることに理由など必要ない。難しい理屈など抜きにしてその人と一緒にいると楽しい、ずっと一緒にいたいと思えるのが、本当の友人関係であり恋人である。それなのに小佐内さんと小鳩はというと、「とりあえず」だとか「次善」だとかいう言葉を捏ね繰り回して、再び互恵関係を結ぶ理由を明言しなければ一緒にいることすらできない。そのどうしようもなく不器用な2人の姿が、あまりにもいじらしく、尊い。