新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

皆が幸せになることをあきらめないという選択―『とらドラ!』に見る「幸せ」の有り方

誰一人も犠牲にすることなく、全員が幸せになるような選択は有り得るだろうか。時と場合にもよるが、そのような選択は極めて難しいと言えるだろう。また、他の皆の幸せのために、自らが犠牲になるという選択は許されるのだろうか。そして、誰かの犠牲によって、あるいは自己犠牲精神によって得られた「幸せ」は、本当に「幸せ」と呼べるのだろうか。今回は、ライトノベルとらドラ!』を読み説くことで、このような「犠牲」と「幸せ」について考えてみたい。

とらドラ!中盤における最大の山場と言えるのが第7巻のクリスマスパーティーである。大河は、竜児と実乃梨の幸せのために、自らが犠牲になろとしていた。パーティーの最中、大河が居ないことに気付いた竜児は、たった一人で大河の家へ向かう。この時の竜児の心境を表わす記述を引用しよう。

あの眩いツリーの下で一緒に笑っていられなければ、報われることなんかないではないか。誰のために今夜はこんなに美しい。誰のために、クリスマスは来る。みんなのためではないか。大河も含めた、みんなのためではないか。

この巻では、キーワードとして「リレー」とか「報われる」という言葉がよく出てくる。幸せのリレーによって全員が報われなければならない、というのが竜児の考えである。大河は、自らが大好きなクリスマスに皆に幸せになってもらいたいと願い、パーティーの準備をし、亜美とステージに上がり、実乃梨をパーティーに呼んだ。では、大河自身の幸せは、どうなってしまうのだろう。大河だけが「報われない」などということはあってはならない。全員がこのクリスマスパーティーで報われなければならないのだ。

同じような話は、第10巻でも述べられている。大河は最終的に、竜児との絆と、家族との絆、そのどちらも犠牲にしないという選択をした。竜児のもとを離れるという選択は、竜児との絆よりも家族との絆を重視したという意味ではない。第10巻の中にある印象的な言葉を引用しよう。

分かたれて悲しい――それが、今の自分と大河の関係だ。
でも、心は愛に満たされている。
悲しいけれど大丈夫。

この言葉にあるように、大河と竜児は自らも含め、誰も犠牲にしなかったのだ。大河は家族との絆のために、一旦竜児と離ればなれになるという選択をしたが、竜児とは「愛」によってつながっているから大丈夫、というわけである。

幸せとは誰かの犠牲の上に成り立つものではなく、犠牲を伴う幸せには価値を見出すことが出来ない、という考え方は実現不可能な理想論かもしれない。現実の世界では、皆が幸せになる選択というものが存在しない場合も多い。しかし、それは誰かの犠牲を「仕方がない」として諦めることとは違う。大河や竜児は、皆が幸せになるということを決して諦めなかった。たとえそれが困難でも、誰一人として犠牲にならずに済むよう最善の努力をする、ということにこそ価値があるのではないか。それが、とらドラ!で述べられているテーマの一つだろうと思う。