新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

神の居ない世界で人はいかにして救われるのか―『Angel Beats!』と「神の不在」「心の救済」について

はじめに

私は以前、「それでも「生きることは素晴らしい」と言う究極の「人生讃歌」―『Angel Beats!』私論」という記事を書いてAngel Beats! のテーマ的なところを考察しました。今日はまた違った観点からこの作品を考察してみたいと思います。さて、Angel Beats!という作品は、あらゆるジャンルのアニメを混ぜ合わせたごった煮的作品である、と強く感じます。作中にはギャグ、音楽、学園、バトル、シリアス、生と死、といったあらゆる描写が含まれているわけですが、個人的なことを言いますと、もう少し表現したいことの的を絞った方がテーマがはっきりして良かったのではないかと思います(このごった煮感が作品の魅力だと言えなくもないですが)。このような雑多な話の中でも、「神の不在」および「神の居ない世界でいかにして心の救済を目指すか」というテーマ性が非常に印象に残ったので、ここで取り上げたいと思います。

死んだ世界戦線と「神の不在」について

まず、物語前半における死んだ世界戦線(以下、SSSと省略)の行動原理について確認しましょう。作中の世界は、生前満足に青春を送れなかった者がやってくる世界であり、そこに来た者達は様々な不幸を経験してきました。自分はなぜこんな目に遭わなければならなかったのか、自分の不幸について納得の行く説明を得たい。そのように考える者にとって、「神」という概念は非常に強力です。自分に振りかかった不幸は全て「神」が原因である、しかも神に最も近い存在である(と彼らが考えた)天使が私達をこの世界から消し去ろうとしている。つまり、神および天使という仮想の敵を作ってそれらに抗うことが、彼らにとって心の平穏を保つために必要だったのです。

しかし、彼らのロジックはゆっくりと崩壊に向かうこととなりました。まず、第3話で岩沢さんが消えたことにより、天使に消されること以外の道が示されました。さらに、天使が装備している武器が、神から与えられたのではなく、自分で作りだした物であることが分かりました。そして決定的だったのが、定期試験を利用したSSSの答案偽装工作に対して、天使が全くの無力だったことでした。これまで神に一番近い位置にいると考えられてきた天使ですら、実は彼らと同じ人間であるのではないか、という疑惑が浮上します。少なくとも、天使と交戦することで神への糸口を見つけよう、という試みは失敗に終わります。ここまでの一連の話は、自分達に不幸をもたらした神の存在を前提に行動していた者が、次第に「神の不在」を認識してゆく過程を見事に表現しています。

「神の不在」というテーマを扱った作品として一番に思い浮かぶのが遠藤周作の小説『沈黙』でしょう。小説中に出てくる昔の日本では、隠れキリシタン達が迫害され、様々な拷問を受けています。主人公である宣教師の男に対しても、幕府の役人が棄教を迫ります。このような絶望的状況においても、神は決して姿を現しません。この沈黙している神とは要するに、救いを求める人々(特にキリシタン)に救いの手を差し伸べる神であるわけですが*1Angel Beats!においてSSSが考える神は異なります。SSSが考える神とは、彼らに不幸をもたらす神です。*2しかし、その神はもう居ません。神が人間に救いをもたらすことも無ければ、逆に人間を不幸にすることもないのです。

種の起源』を書いたチャールズ・ダーウィンは、最愛する娘の死を通して、この世に神は存在しない、「死」というものは単なる自然現象なのだ、と確信したと言われています。しかし、あらゆる不幸を経験してきたSSSメンバーにとって、「神の不在」という世界観を受け入れることは簡単ではありません。一度それを受け入れてしまったら、もう自分の不幸を神のせいにすることは出来ません。ゆりの弟・妹が強盗に襲われたのも、音無が列車事故に巻き込まれて死んだのも、ユイが自由に動けない体になったのも、全ては偶然の巡りあわせ、仕方のないことだったのだ、と納得することができるでしょうか。自分の不幸を誰のせいにも出来ないという苦しみを乗り越え、神の居ない世界で人の心を救済するためにはどうすれば良いのでしょうか。Angel Beats!の後半では、その問題に真正面から向き合うことになります。以下では、直井・ユイ・ゆりの3人がどのように救済されたのか、について考察することにしましょう。

直井と「仮想的有能感」について

神に抗うのではなく、自らが「神」になることで心の平穏を保とうとした者もいました。直井文人です。彼は作中の世界について、独特の解釈を行いました。すなわち、不幸を知っている者こそ神になる権利がある、そしてこの世界は神を選ぶ世界なのだ、というものです。これは、SSS団のような自分の不幸を神のせいにする考え方とは一線を画しています。不幸な人生という無意味に思えるものを、「神になるための条件」として意味のあるものにしようとする試みです。しかし、このような考え方は、自分は神でありその他の人間よりも上の存在なのだ、という仮想のもとでしか心の平穏を保てません。このような考えを仮に「仮想的有能感」と呼ぶことにしましょう(本来この用語は、速水敏彦著『他人を見下す若者たち』に出てくる用語であり、私がここで言っている「仮想的有能感」とは少し意味合いが異なりますが)。

直井の抱く仮想的有能感は、はっきり言って不健全な考えです。他人を見下すことでしか心の平穏を保てないのだとしたら、そのようなロジックはいずれ崩壊し、真の心の救済を得ることなど出来ないでしょう。しかし、彼はこの仮想的有能感に囚われてしまいました。この方法でしか自分の存在や不幸な人生に意味を見出すことが出来なかったからです。これに対して音無が用意した救済の方法とは、直井自身の存在を認めてやるというものでした。兄の代わりとしての直井でもなく、神としての直井でもなく、直井そのものの価値を認め、肯定すること。兄の代わりとして生かされ、それすらも敵わなくなって人生に絶望し、自分が神だと思ってしまうに至った、直井のこれまでの歩み。それを全て認めてもらうことによってようやく、直井の心は仮想的有能感から解き放たれ、救済されたのです。

ユイと「ターミナルケア」について

話はだいぶ変わりますが、昨年12月13日放送の『プロフェッショナル 仕事の流儀』について述べたいと思います。この回では『山谷の街で、命によりそう―ホスピス看護主任・山本美恵』と題して、東京の山谷地区で身寄りのない人のためのホスピス施設「きぼうのいえ」を経営している女性を紹介していました。この施設に入居してくるのは、長年日雇い労働の世界で苦労を重ね、身寄りの無いまま最後を迎えようとしている人達です。このホスピス施設の理念がよく分かる文章を番組のホームページから引用しましょう。

「きぼうのいえ」にやってきた人たちの中には、不満やわがままが多く、病院や在宅医療ではスタッフがお手上げだったという人たちも多い。山本は、そうした人たちに対して、ひたすら不満を出してもらい、出来る限りを受け止めようとする。難しい性格も複雑な過去の裏返しかもしれない。あえて、ワケは問わず、その人らしさだと受け入れる。そうして接していくうちに、穏やかになっていく人も多いという。
入居者たちは過酷な人生を歩んできた個性的な人たちばかり。一律のルールを作るのではなく、その人その人に応じて最善策を考え対応していくことで、一番その人らしい最後の日々を送ることができると考えている。

穏やかな最期を迎えてもらうために、まずはその人と積極的に向き合う。その人の気持ちを理解し、その人らしい最後の日々が送れるよう努力する。なるほど、これは記憶が戻った後の音無や天使ちゃんの理念と似ている気がします。

そもそも一般的なターミナルケア(終末医療)も、音無達の理念と親和性があります。たとえどんな人生を送って来たにせよ、幸福な気持ちになって最期を迎えたい、というのは誰もが願うことでしょう。Angel Beats!の世界は、不幸な人生を歩んできた者たちに、もう一度幸福な気持ちになって死ぬチャンスを与える場なのだ、と解釈することもできます。そして音無達は、皆がそれを達成できるようにサポートをしているわけです。しかし、作中の世界では何故か「生まれ変わり」が在るという設定が浸透していたので、厳密に言えば作中に「死」は存在しないのですが。*3

作中でのユイは、直井のある種ナルシスティックな自意識とは逆に、ずっと自分を卑下して生きてきました。自分では何もできない私が結婚などできるわけがない、自分の人生には何の価値も無かったのだ、と。しかし、日向の「結婚してやんよ!」という言葉を聞き、ようやく人生に価値を見出すことが出来たのです。音無や日向のしようとしたことは、決してユイの過去を改変することではないし、夢をかなえてあげることでもない。日向がどんなにユイを愛していたとしても、ユイがずっと寝たきりのまま一生を終えたという事実は変わらないし、死後の世界で実際に二人が結婚したわけでもない。しかし、人生の最後の最後になって、自分の人生全てをひっくるめて認めて寄り添ってくれる人が現れたとしたら、それだけでもう人は救われるんじゃないでしょうか。たとえどんなに不幸で苦労の多い人生でも、最後に「ああ、私の人生も、悪くはなかったな」と思って死ねるというのは、ある意味究極の救いなのだと思います。

ゆりと「過去との決別」について

さて次は、作中で最も救済困難と思われていたゆりが、どのようにして救われたのかを見ていきましょう。第12話のゆりの独白から分かるように、ゆりはずっと過去の人生に囚われていました。ゆりの人生とはすなわち、妹・弟を強盗に無残に殺されてしまった人生、妹・弟を守ることが出来なかった人生でした。あまりにも不条理で救いの無い人生。でもそれがたった一度のゆりの人生でした。作中では生まれ変わることができるという設定になっていますが、生まれ変わったゆりにはその前の人生の記憶はないので、弟・妹を失った「ゆり」の人生はやはりたった一度きりしかありません。ゆりは、掛け替えのない人生を無残にも奪っていった「神」を最後まで許すことが出来ませんでした。だから、「神」に抗うことが、作中世界におけるゆりの唯一の行動原理でした。

ゆりにとって、この世界から消滅して生まれ変わるということは、過去の人生を受け入れて新しい人生を歩むことと同義でした。しかし、自分達をこんな目に遭わせた神の所業を受け入れて次のステップに進むなんて出来ない。おまけに、生まれ変われば、死んでいった弟・妹達が自分の中から消えてしまう。そんなやり場のない怒りと負い目がゆりを苦しめ、未来へ進むことを妨げていました。

しかし、残酷なことを言うようですが、人の死というものはいずれ乗り越えなければならないものです。大切な人の死を忘れることはもちろん出来ないでしょうが、それでもその死を背負って前に進んで行かなければならない。でも、そのためには何か「きっかけ」が必要です。小説『走れメロス』で、一度は親友を助けることをあきらめたメロスが、泉の水を飲んで体力を回復し再び走り出したように、ゆりにも些細なことでもいいから未来に進みだすための「きっかけ」が必要でした。ゆりにとっての「きっかけ」とは、作中終盤で起こった事件を通じて仲間への愛に気付いたことでした。

ゆりが行った神への抵抗には、結局決着がつきませんでした。もちろん、ゆりが過去の人生を受け入れることも、神を許すこともないでしょう。しかし、神に抗うこと、あるいは自分が神になること以上に、大切なものがあるとゆりは気付くことができました。家族への愛と同じくらい大切な「仲間への愛」に気付き、彼らと一緒に未来に向かって行こうという気持ちが生まれたのです。第5話で「神の不在」を突きつけられてもそれを認めることが出来ず、神への抵抗を続けていたゆり。彼女は第12話にしてようやく過去の負い目から解き放たれ、「神への抵抗」を終えることが出来たのです。

まとめ

ここまで直井・ユイ・ゆりの3人がどのようにして救済されていったのかを、「仮想的有能感」「ターミナルケア」「過去との決別」というキーワードを基にして論じてきました。まさに救済の方法は千差万別、100人いれば100通りの救済がある、ということが分かるでしょう。現実の世界において人の幸福に携わるような仕事(例えば作中で挙げたホスピスをはじめ、教育、福祉、政治、その他あらゆる仕事)でもそれは言えるでしょう。人の出自、人生、主義主張、願いなどは千差万別であるからこそ、その人にあった最良の方法を見つけなければならない。ちょうど、音無や天使ちゃんが一人一人と真正面から接して試行錯誤していたように。

さて、それでは肝心の音無の救済はどうなったのだろう、というわけで最終回を見てみますと・・・

・・・実に救いの無いラストと言わざるを得ません。彼が天使ちゃんと一緒に作中世界に残ろうとしたことについては、彼も人間ですから、私も別に非難するつもりはありません。しかし、音無の最終回での行動が、上で見てきたテーマとそぐわないことは明らかです。作中世界で音無がやってきたことは、皆が幸福な気持ちになって死ぬ(もしくは未来に進む)ためのサポートでした。「いかにして心の救済を目指すか」という問題が提起されている作品で、主人公だけ救済されずに消えてゆくというのは、作品構造上の重大な欠陥です。しかし、落ち着いて考えてみたら、こうなる事は不可避だったようにも思えます。音無は生前の記憶を失った状態で作中世界にやってきており、第9話で記憶が完全に戻って、実は音無はすでに救済されていたということが判明しました。つまり音無自身の救済は第9話(というか死後の世界に来る前)の地点ですでに終わっていたわけです。しかも、天使ちゃんの願い(心臓をくれたドナーに「ありがとう」と言う)も、それほど大それたことではなく、音無がいればすぐに叶うものでした。となると、最終回で話を盛り上げるために、奇をてらって何か一悶着起こしてやろう、とアニメ製作者が考えるのは仕方のないことです。

まあ、ラストの不満点はさておき、最初に提示した「神の居ない世界でいかにして心の救済を目指すか」というテーマに戻りましょう。登場人物達は皆、「神」という概念に苦しめられていた青年達でした。神を恨んだり、神に抗おうとしたり、自分が神になろうとしたり。作中には出てきませんでしたが、神にすがり救いを求めようとした者もいたかもしれません。実際の世界では、神や宗教に救いを求める人も大勢います。しかし、このAngel Beats!という作品では、神による救済ではなく、人間自らが人間を救済する物語を一貫して描いていました。神を恨むのでもなく、神に頼るのでもなく、人間自らが人間を幸せにすることができる。最終回で天使が言っていたように、生きるということは本当に素晴らしいことで、それを実感することこそ、人生における幸福であり心の救済である。そして、その幸福や救済は、神から与えてもらうものではなく、人間自らの手で掴み取ることができる。この人生賛歌、人間賛歌こそが、Angel Beats!における最大のテーマだと思います。

*1:キリスト教について扱った作品なんだから当たり前と言えるでしょう。

*2:このあたりが、信仰心の薄い現代日本らしい設定のように感じます。

*3:個人的には、生まれ変わりの概念を認めることなく、作中世界からの消滅は単に天国へ行くことを意味するのだという設定にしたら、より素晴らしい作品になったのではないかと思います。