新・怖いくらいに青い空

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桜庭一樹私論1―『GOSICK』と「大人になる」ということ

桜庭一樹と「大人になる」ということ

桜庭一樹の小説に出てくる少女たちは、複雑な家庭環境(親の再婚や家庭内暴力など)のもとに生まれ、何も分かっていないのに知ったような口を利く教師や警察官をずっと見てきた。だからこそ、彼女たちには、大人達の醜い部分が手に取るように分かる。当然、大人は反発と嫌悪の対象となる。

海の男は強くてたくましいけど、不景気とか怪我とかうつ病とかで働けなくなると、急にくずになる。島のうちにはところどころ、そういう怪物を飼っているところがある。
(『少女には向かない職業』、創元推理文庫、P53)

そのときのおじさんの顔は、驚くべきことにあのときの……窓枠を乗り越えて入ってこようとしたときの義父と同じ表情を浮かべていた。赤らんだ頬に、暗い視線。それは欲望の色だった。大人のいろんな汚いことの色だった。
(『推定少女』、角川文庫、P195)

少女達の「大人への抵抗」は時に、『少女には向かない職業』の大西葵のように、彼女らを犯罪へと向かわせるが、その犯罪行為はまた新たな苦悩を生み出してしまう。一方で、抵抗できない少女達は、『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』の海野藻屑のように、大人に殺される。大人達を前にして、少女達はあまりにも無力だ。それでもどうにかして「大人への抵抗」を続けた先に、一体何があるのだろう。それは自らも「大人になる」ということに他ならない。あの汚くて醜い大人に、自らも成り果ててしまうという事実。避けられない自らの変化に戸惑う少女達の姿がそこにはある。

あたしは、暴力も喪失も痛みもなにもなかったふりをしてつらっとしてある日大人になるだろう。友達の死を若き日の勲章みたいに居酒屋で飲みながら憐情たっぷりに語るような腐った大人にはなりたくない。胸の中でどうにも整理できない事件をどうにもできないまま大人になる気がする。
(『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』、富士見ミステリー文庫、P203)

ぼくはきっと誰よりもつまらない大人になる。何者でもない。なにもできない。誰よりもだめなものになる。いまがピークで、この後どんどんだめになるんだ。だけど死にたくない。
(『推定少女』、角川文庫、P288)

桜庭一樹は一貫して、少年少女たちの成長を描いてきた。しかしそれは、もちろん身体的な成長のことでもないし、何らかの経験を通して急に「大人になる」という類のものでもない。彼・彼女たちは、大人への反発と嫌悪、大人になりたくないという気持ち、子供の頃の記憶、それらを胸に抱え込みながら少しずつ大人になってゆく。

GOSICK』と「正しい弱さ」

GOSICK』の久城一弥について、次のような興味深い考察がある。

彼は男性GR*1を果たそうとして、挫折を味わった人物だ。厳しい軍人の家庭に生まれ、兄弟と比べられ、母や姉に庇護されて、「男として不適格」という烙印を押された過去を持っている。彼が欧州に留学したのは、ある意味そういった男性GRからの逃避だと言えるだろう。
ところが留学先で、久城はヴィクトリカと出会う。彼女に振り回されながらも、徐々に「彼女を守る立場」に目覚めていく。(中略)日本では女々しいとされた「優しさ」を忘れず、彼はわき目も振らずにヴィクトリカを守ろうとする。
つまり『GOSICK』は、久城一弥が失った男性性を取り戻していく物語なのだ。
(ブログ「デマこいてんじゃねえ!」より引用)

男性ジェンダーロール(軍人になって国や家族を守るという使命)を背負わされるということは、言いかえれば「大人になる」ことの強要だと考えられる。久城は大人になることから逃げ出し留学したが、そこで出会った少女を守るという経験を通じて、やはり少しずつ大人になってゆく。しかし、そこには、上で見てきたような「大人への抵抗」が見え隠れする。それは、ヴィクトリカを利用しようとする大人から彼女を守ろうとしていることからも明らかだろう。この久城一弥に関して、ヴィクトリカは作中で次のように述べている。

わたしはもう一つ、あの男のことで信じていることがある。それは、たとえ自分の命のためであっても、わたしを救うためであっても、あれが、罪のない人間を手にかけることはけしてないだろう、ということだ (中略) それは戦場においては、大人の男たちから“弱さ”と凶弾されるべきもの、後世の歴史家によって“間違った選択”として記録されてしまうものであろう。しかし、君。久城にはそういう、“正しい弱さ”とでもいったものがある。
(『GOSICK6―ゴシック・仮面舞踏会の夜―』、角川文庫、P200)

久城はヴィクトリカを守るという経験を通して大人になってゆく。だがそれは、大人が強要するジェンダーロールを背負うことではない。久城は「正しい弱さ」を持って、大人への抵抗を続ける。「正しい弱さ」とは、利益や見返りを求めない純真な心、つまり「子どもの心」だ。間違っているものに「間違っている」と言うことのできる純粋な心。久城にとっては、たとえどんな理由があったとしても、人を殺すことは悪であるし、少女(ヴィクトリカ)を傷つけ利用することも悪だ。一方で「正しい弱さ」は理想論だと大人に言われ、克服されるべきものとされている。しかし、それは本当に克服されるべきものなのか。それは、現実を前にしてあまりにも無力かもしれない。しかしそれが、堅く閉ざされていたヴィクトリカの心を開いたことも確かだ。書物やお菓子、教師や家族、その他あらゆる「大人」が出来なかったことを、久城ただ一人が出来たのだ。

もちろん、誰もが「正しい弱さ」を持ち続けられるわけではない。子どもの頃に誰もが持っていた「正しい弱さ」を徐々に喪失し、人は「大人」になる。だが、そうではない選択もある。久城はおそらく「正しい弱さ=子どもの心」を持ったまま大人になる。それはもはや「弱さ」ではなく、二人の絆を深める「強さ」なのだ。

*1:この「GR」というのは「ジェンダーロール」、すなわち「男(女)はこうあるべき」という社会の価値観によって決まってくる性役割のこと。