新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『日常』と原発事故―「原子力ムラというシステム」をひっぱたきたい

シュクダイ…ワスレタ…
ノゾムハ…カントウ…ダイシンサイ…

これは漫画『日常』の登場人物・ゆっこが宿題を忘れた時の絶望感から口にした言葉である。この時勢ではさすがに不謹慎だと思ったのか、アニメでは台詞が「宇宙人の大侵略」に変えられていたらしい。しかし人間の心理を考えた時、この台詞を「不謹慎」の一言で片付けることは出来ない。何かどうしようもない絶望的な状況に陥った時、天変地異による社会のリセットを望む心理に陥るのは、結構普遍的な心理だからだ。『論座 2007年1月号』に載った『「丸山眞男」をひっぱたきたい―31歳フリーター。希望は、戦争。』が良い例だろう。この論文の著者・赤木智弘氏が述べているのは、次のようなことだ。平和な社会では社会的格差が固定化してしまい、弱者(要するにポストバブル世代の若者)がいつまでたっても上に行けない。だからこそ、戦争でも起こって既存のシステムが一旦破壊されれば自分達にもチャンスが巡ってくるのではないか、という偽りの「希望」が生まれるのだ、と。

戦争は悲惨だ。
しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。
もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。

この論文の最後は、丸山眞男(思想家、旧帝大出身のエリート)が第二次大戦中に戦地に送られた際、彼よりもはるかに学歴の低い他の兵士にいじめられたというエピソードが紹介してある。戦争が起これば、論文の表題にあるように、これまで上にいた人々を「ひっぱたく」ことが可能となるのだ。*1 どうしようもない状況におかれた人々が、戦争やカタストロフィーに希望を見出してしまう心理。それを逆手にとって、宿題を忘れたなどという本人以外からすれば「どうでもいい」理由でカタストロフィー(関東大震災)を望んでいるという点が、ゆっこの台詞をギャグとして成り立たせているのだ。

ここで今回の原発事故について考えてみよう。『日常』と原発事故をリンクさせて論じている記事は以前にもあった。*2 ここでは、上記の台詞をふまえた上で、原発のすぐ近くに住んでいる住民について考えてみよう。さて、その原発を管理する電力会社は度々トラブルを起こしており、いつか大事故が起きるのではないかと住民は不安に思っている。彼らが原発のない暮らしを望んでも、世の中の大勢は「電力が足りなくなるから」「原発関連の雇用や補助金で町が潤うから」といった理由を付けて、一向に動こうとしない。もしこんな状況におかれたら、一度どこかの原発で破滅的な大惨事が起きて、国や電力会社や国民が原発の恐怖を知り、原発に依存している現状を変えようと思い直してくれないだろうか、と考えてしまうかもしれない。少なくとも私がそういう立場に置かれたら、そう思ってしまうだろう。ノゾムハ…ゲンパツノ…メルトダウン…

いや、そこまで過激な事は言わなくとも、少なくとも、自分達の置かれている状況を必死に世論に訴えようとしただろう。日本国民が当たり前に「日常」を享受していると思い込んでいる片隅で、実はその日常が破壊されつつあるという事実を、必死になって訴えただろう。それでも、私を含め、多くの日本人はその声を無視してきた。あたかもそれは、日常が破壊されたことを周囲に伝えようとするゆっこのリアクションを無視する作中の登場人物のように。ああ、大震災が起こる前の私達は、ゆっこの言葉に無視を決め込む傍観者だった。ゆっこの望んだ大震災が作品中で起こることはなく、『日常』の世界の日常は保たれた。だが、現実の世界では、大震災は起こった。日常は崩れた。そして、ゆっこが望むとおり、我々は事の重大性に気付いた。

ところが、現実に「ダイシンサイ」が起こっても、「シュクダイ」は完全には無くならなかった。赤木氏の言う「一部の弱者だけが屈辱を味わう平和」は、完全には終わらなかった。「原子力ムラ」というシステムはあまりにも強大で、カタストロフィーをもってしてもそれを壊すことは出来なかった。『原発社会からの離脱―自然エネルギーと共同体自治に向けて』 (講談社現代新書) でも述べられているように、原発というシステムへの過度の依存によって、原発以外の選択肢が見えなくなってしまっている。確かに、原発に代わる新しい発電方法は万能ではない。しかし、原子力も様々な問題や矛盾を抱えていることも事実なのだ。あらゆる問題点(事故の危険性、膨大な費用、大量の放射性廃棄物、など)を「原発が無いとエネルギーが足りないから」の一言で片付け、自然エネルギー等の利点については一切聞く耳を持たない、という人々が少なからず存在している。

我々の日常は壊れた。いや、そんなもの、とっくの昔から壊れていたのかもしれない。それでもなお「日常は壊れていない」と言い張るか、新しい日常の構築に向けて一歩を踏み出すか、我々は重大な選択を迫られている。少なくとも私は「望むは脱原発」「希望は、自然エネルギー。」と言って、原子力ムラというシステムをひっぱたきたい。

*1:もちろん、現実はそう単純なことばかりではないだろう。貧しい家系の出身者が仕方なく兵士になって、危険な戦地に送り込まれる、ということはよくある。

*2:参考:[http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20110405/1302010227:title=日常っぽくて日常じゃない少し日常な『日常』――京都アニメーションと大震災]